【改稿版】ハージェント家の天使

「よく似合っていますよ。モニカ」

 マキウスが手を離すと、モニカはブレスレットをよく見ようと左腕を顔に近づける。

「これは羽根ですか?」
「ええ。天使の羽根をイメージしました」

 魔法石のブレスレットは、鈍く光る銀製のやや太目の円環を土台として、鳥の羽根の様なイラストが彫られていた。
 それぞれの羽根の内側には、魔法石を抑制する呪文が刻まれており、羽根と羽根のイラストの間にはそれぞれくすんだ青色の魔法石がはめられていた。
 一見、散らばっている様に見える魔法石がそれぞれの羽根を繋げる役割を果たしており、羽根を一つの円環状にしていたのだった。

 モニカがじっくりブレスレットを眺めていると、マキウスはブレスレットごと左腕を掴んだ。
 触れた途端に魔法石が光を取り戻していったので、魔力を補充してくれているのがわかった。

「この国では、天使は『尊い者』や『愛おしい者』を意味します。
 私にとって、貴女は天使そのもの」

 マキウスの魔力を吸収した魔法石は、一瞬だけ青色の光を放った。
 光が収まると、魔法石は海の様な青色を取り戻したのだった。

「そんな貴女だからこそ、このデザインはよく似合うと思いました」
「マキウス様……!」

 モニカは頬を赤く染めると、目を輝かせてマキウスを見つめた。
 マキウスもそれに答えてくれるように、優しく見つめ返してきたのだった。
 
 そのまま、二人が見つめ合っていると、「んんんっ!」と、わざとらしい咳払いが聞こえてきた。
 振り返ると、カウンターの内側には革袋を仕舞った店主がいたのだった。

「仲が良いのは構わねぇんだけどよ。悪りぃが、続きは外でやってくれねぇか?」

 店主は顔を赤くして、二人から目を逸らしていた。

「す、すみません……!」
「申し訳ありません……!」

 モニカたちも顔を赤面させて店主から目を逸らすと、店主は「そういや」と、話題を変えたのだった。
 
「そっちの嬢ちゃんが身につけるってことは、嬢ちゃんは、今回ガランツスから来た『花嫁』かい?」
「そ、そうです! あの、店主さんも……?」
「俺はちげぇが、ひいばあちゃんがユマン族人でよ。俺はひいばあちゃんの血が強いんだ」
 店主によると、店主の実家はかつて国で指折りの商家であった。
 店主の曽祖母が国に嫁いでくる前、多数の死傷者が出る大きな事故が起こった。
 どうも、郊外にある魔法を研究する施設で原因不明の爆破事故が起こり、それに研究施設で働く研究員以外にも、近隣住民や通り掛かりの者を始めとする大勢が巻き込まれたとのことだった。
 その際に、店主の実家である商家は店主の曽祖父が中心となって、多額の寄付金や多数の物資を出して、国に貢献した。

 その褒美として、店主の曽祖父はガランツスから来た花嫁を賜わった。それが店主の曽祖母らしい。

「へぇ~。店主さんのひいおじいさんの様な方って、結構いるんですか?」
「そうさなあ……」
「多いと思いますよ」

 モニカと店主の疑問に答えたのは、これまで黙っていたマキウスであった。

「商家に直接賜った例もありますし、下級身分の貴族に嫁いだユマン族との間に生まれた子供が、商家に嫁いだという例もありますね」

 マキウスによると、下級貴族から有力な商家に嫁ぐというのは、珍しい話ではないらしい。

 この国は、下級貴族よりも有力な商家の方が資産を有していることが多い。
 それは、下級貴族が王都の遠方にある小さな領地から細々と収入を得ているのに対し、商家はその時々の情勢に応じて、物価が変動する市場に対応した商売を行っているからと言われている。

 身分に縛られ、行動に制約を受ける下級貴族よりも、身分はなく、制約も少ない商家の方が臨機応変に対応できるというのもあるだろう。

 無論、下級貴族同士婚姻を結び、互いの生活を支え合うこともあるが、手広く商売人としての顔を持つ商家と繋がりを持っておけば、領地経営に何かあった時に商家から支援を得られることがある。金銭面的にも、物資的にしても。
 それを当てにして、下級貴族から商家に嫁がせることが多いらしい。

「つまり、安定した収入を得られる下級貴族か、その時々の情勢に応じて収入が変動する商家かってことなんですね……」
「私が下級貴族の立場なら、自分の子供を下級貴族に嫁がせて細々とした生活をさせるより、裕福な暮らしが出来る可能性のある商家に嫁がせます。
 裕福な商家なら、使用人もいて、ある程度富んだ暮らしが出来るので、場合によっては、生家である下級貴族よりも貴族らしい生活を送れます」
「貴族らしい生活」

 モニカの呟きに答えるように、マキウスが頷いてくれる。

「特に貴族は多産が好ましいと言われています。子供が増えれば金がかかり、必要に応じて専属の使用人を付けます。その使用人の人数が増えた分だけ、更に出費が増えるんです」

 跡継ぎの問題を含めて、昔から貴族は多産が好ましいと言われている。
 けれども資産が潤沢な上級貴族ならともかく、細々とした資産が得られない下級貴族は多産な分、生活の維持が難しくなる。
 また下級貴族から侯爵家などの上級貴族に嫁ぐ話も無い訳ではないが、それには上級貴族からの打診が必要であった。その打診も仕事や領地関係を理由にされることが大半であり、それ以外の理由でされることはほとんど無かった。
 嫁いだ先でも貧困に喘ぐ暮らしをして我が子に苦労を掛けさせるくらいなら、裕福な暮らしが出来る商家に嫁がせた方がいい、という考え方もあるのかもしれない。

 そうやって、下級貴族に嫁いだユマン族の子供が、商家に嫁ぎ、更に他家に嫁いだことで、長い年月をかけて、市井にユマン族の血を引く者は広まっていったのだと考えられる。

 我が家は大丈夫なのかとモニカが見つめると、それに気づいたのか「我が家には騎士としての収入の他、姉上からの支援もあるので」と言って、安心させるように笑みを向けられたのだった。

「先程、店から出てきた子供たちの中にも、ユマン族らしき子がいましたね」
「えっ!? そうなんですか?」

 モニカは一瞬しか見えなかったが、身体能力に優れたカーネ族のマキウスには見えたのだろう。
 モニカの言葉に、マキウスだけではなく、店主も頷いたのだった。

「あのクソ餓鬼共も、ユマン族の血が入っているよ。この辺りにはそういった奴が多い……それ故に、苦労をしている者もな」
「苦労……」
「誰しも、ヒトは自分と違う生き物をなかなか認められない。それはカーネ族も、ユマン族も関係ない。
 自分たちには生まれつき持っているカーネ族特有の耳が生えてなく、自分たちが持ってないとされる魔力を持って生まれた者を、すぐに受け入れられる訳がない」

 外からは、子供たちの楽しそうな声が聞こえてきた。先程の子供たちだろうか。
 窓を一瞥した後に、店主は続きを話し始める。

「認められないんだ。ヒトは自分とは違う生き物を受け入れられない。自分の常識とは異なる生き物は認められない生き物なんだ。
 そこに種族は関係ない。全てのヒトがそうなんだ」

 どこか悲しげな顔で、店主はため息をついたのだった。
 加工屋を出ると、二人は王都の散策に戻った。
 歩きながら説明してくれたマキウスによると、広場を中心とした辺りは王都の中でも特に活気のある場所らしい。

「この近くには、文官を目指す者の学校や、大天使様を祀る大聖堂、国の歴史をまとめた公文書館もあります」

 辺りを見渡せば、先程の加工屋の周辺と比べて、眼鏡を掛けて、きっちり身だしなみを整えた生真面目そうな若い男性や、聖書がよく似合いそうな白い髭を生やしたローブ姿の老爺が多い気がした。

 モニカが物珍しそうに、王都の街並みを眺めながら大通りを歩いている内に、二人は先程の市場があった通りから、最初に馬車を降りた広場に戻ってきた。
 加工屋や市場があった通りの反対側に騎士団の本拠地である城や王城に続く通りがあり、そこから少し道が逸れたところに学校と公文書館があるらしい。

 王城に向かう通りを歩きながら、右側に伸びる通りをずっと行くと大聖堂があり、更にその先にはガランツスに続く国の出入り口があると教えられたのだった。

「おそらく、この国に来た際にこの辺りを通ったかと思いますが、覚えは……?」
「すみません……。覚えていなくて……」

 今のモニカは当然だが、前のモニカから受け継いだ記憶ーー「モニカ備忘録」を覗いても、ここを通った記憶はなかった。
 やはり「モニカ」にとって、この国に来たことはあまり印象的な出来事では無かったのだろう。

「いえ。いいんです。それなら新鮮な気持ちで見られるでしょう。まずは大聖堂にお連れします」

 マキウスに連れられて、モニカは大聖堂に入った。
 大聖堂は身分に関係なく誰でも出入りができ、定期的に大司祭によるミサも行なっているとのことであった。モニカたちが行った時はミサをやっていないからか、大聖堂の中には数人しかいなかった。

「わぁ、綺麗ですね!」

 高い天井一帯には色とりどりのステンドグラスが飾られていた。
 御國だった頃、大学の授業の一環で礼拝堂に行った時にステンドグラスを見たことがあるが、それよりも範囲が広く、豪華であった。

「このステンドグラスは、この国の歴史を表しているそうです。地上にあったカーネ族の国にユマン族が来るところからずっと……。騎士団の詰め所となっている壁画に描かれている絵はこの大聖堂に飾られているステンドグラスを元にしているそうです」
「そうなんですね!」

 モニカが上を向いてステンドグラスを眺めながら歩いていると、不意に左手を握られた。
 振り返ると、手を握ったのはマキウスだった。

「マキウス様?」
「そうやって、上ばかり見ていたら、誰かにぶつかって危険です」
「あ、そうですよね。すみません……」

 肩を落としたモニカの手をマキウスが引っ張ったので、モニカは顔を上げる。

「なので、ぶつからないように私が手を引きます」
「子供じゃないですから……」
「子供じゃなくて、貴女が大切な女性だから言っているのです」

 恥ずかしいとは思ったが、腕を振り解こうとは思わなかった。
 マキウスが自然とモニカの手に指を絡めてきたからかもしれない。
 口では「危ない」と咎めつつも、それを止めさせないマキウスの優しさが嬉しかった。

「この奥にもステンドグラスが続いているんです。そちらにも行ってみませんか?」
「はい……」

 モニカは赤面した顔をマキウスに見ないように、ステンドグラスを見上げ続けたのだった。
 しばらくして大聖堂の見学を終えると、二人はまた広場に向かって道を歩き出した。大聖堂の中で繋いだ手はそのままだった。

「ところで、貴族の人たちもよくこの辺りに来るんですか?」
「大聖堂や公文書館にも貴族は立ち入りますが、広場はあまり出歩きません。皆、馬車で目的の場所に乗り付けています」
「こんなに賑やかなのに、勿体無いです」
「身分が高い者程、あまり市井と関わりたがらないようです」

 マキウスが肩を竦めると、モニカは「でも」と返した。

「国民の為に持てる力を振るって、手本となることも、貴族としての役割ではないんですか?」

 御國だった頃、「ノブレス・オブリージュ」という言葉を聞いたことがある。
「貴族などの身分の高い者が、模範となるように振る舞うべきだ」という「貴族の義務」という意味で使われている。

 モニカの言葉に、マキウスは目を丸くした。

「確かに、その通りではありますが……。まさか、貴女もそのように考えているとは、意外でした」
「そうですか? 私はこれまで貴族ではなく、一市民だったから、そう思うのかもしれません。貴族じゃなければ、出来ないこともあると思うんです。お手本を示すこともその一つ。貴族が悪意ある行動をしたら、市井に住む人たちも悪意ある行動をしてーーいつしか国が成り立たなくなります」

 御國だった頃、世界史の授業でそんな話を聞いたことがある。
 貴族が私服を肥やし、裕福な暮らしをする一方、市井に住む市民たちに貧しい生活を強いた。
 更には身分を盾に、市民たちに対して不当な扱いをした。
 すると、今度は市民の中でも悪意ある行動をする者や、市民の中でも優劣を決める者が出てきた。そうして徐々に国が崩壊していった。

 やがて、貴族だけが有益となる生活を送り、特権となる制度を作った結果、市民たちの怒りが爆発して、貴族を撲滅する運動が起こることさえある。
 いわゆる、「革命」である。

「国が犯罪で溢れ返り、国が崩壊した例だって、聞いたことがあります。
 そんな国を立て直すのは容易ではないです。その間に、他国に攻められることだって……」

 崩壊した国を立て直している間に、諸外国に攻められて、属国となってもおかしくない。

 そうならない為にも、隙を見せないように、なるべく国は一枚岩でいるべきだろう。
 貴族は貴族にしか出来ない務めを果たして、市井に力を示す。
 市井は市井にしか出来ない務めを果たして、国を磐石なものにする。

 貴族と市井は切っても切り離せない関係なのだと、両者は理解しなければならない。
 両者が平等な関係になれとは言わないが、身分を理由に、貴族が市井を蔑ろにしていい理由などない。

「この国はある意味、閉鎖された国らしいので、その可能性は低いと思いますが、万が一ということもあります。閉鎖されているいうことは、裏を返せば、何かが起こった時、逃げ場がないことも指します。逃げ場がなければ、ただ国と一緒に滅びるしかありません。
 それを回避する為にも、貴族と国民は常にある程度、繋がりを保って、他国を始めとする他の人たちに隙を見せないようにしなくてはならないと思うんです。だって、武器や食料を生産しているのは市民だから。実際に敵と戦ってくれるのは貴族や騎士団の人たちだったとしても……」

 マキウスは立ち止まると、何やら考え込んでいるようだった。

「すみません。ベラベラと余計なことを話してしまって……マキウス様?」

 マキウスが考え込んでいる間も、二人の横を幾人も通り過ぎて行った。
 その中には、カーネ族以外にも、ほんの僅かながらユマン族もいたのだった。

「モニカ。王都の案内を終えたら、貴女を連れて行きたいところがあります」
「連れて行きたいところですか?」
「本来なら、貴女の様な清らかな女性には似つかわしくない場所です」

「それでも」とマキウスは続けた。

「貴女には知って欲しい。私や姉上たちが行っていることを」
「マキウス様やお姉様がやっていることですか?」

 いつになくマキウスの真剣な顔に、モニカは息を呑んだのだった。

「一緒に来てくれますね?」

 有無を言わせないアメシストの様な瞳に、モニカは頷くことしか出来なかったのだった。
 マキウスに連れられたモニカは、広場の通りから外れた薄汚れた通りに入った。どこに連れて行かれるのか不安になったモニカは、恐る恐るマキウスに尋ねる。

「マキウス様、ここは?」
「モニカ、私から離れないで下さい」

 さっきまでの柔らかな声音と違い、どこか真剣な声にモニカは身を強張らせる。そんなモニカの緊張が伝わったのか繋いだモニカの手を、マキウスは強く握ってくれたのだった。

「……昨夜の時点では、ここに連れて行こうか悩んでいました。この辺りは特に治安が悪いので」

 マキウスはモニカを見ることなく、前の見つめたまま続けた。
 どことなく緊張感まで漂ってくるようで、それがモニカにまで伝染するようであった。

「けれども、先程の貴方の言葉で決心がつきました」

 先程、モニカが言った「貴族の役割」や国に関する話のことだろう。

「貴女ならきっと理解してくれる。私や姉上を始めとする、一部の王族や貴族、騎士たちが取り組んでいる活動に」
「それは一体……?」

 モニカがマキウスを見上げると、マキウスは「すぐにわかります」と告げた。

「さあ、この通りの先です」

 生ゴミの様な酷い臭いがしてきた。思わず鼻を押さえていると、マキウスは続けたのだった。

「ここが、王都の裏側です」

 通りを抜けると、そこには埃っぽい澱んだ空気が漂う、薄汚れた場所だった。
 石壁が崩れた建物が並び、ゴミが放置され異臭がしていた。
 あちこちに汚れた格好の人々が虚ろな顔をして、座っていたのだった。

「マキウス様、ここは……?」
「貧民街です」

 二人の側を汚れた格好をした子供たちが走って行った。
 子供たちにぶつかりそうになり、慌ててマキウスにしがみついたのだった。

「気をつけて下さい。彼らにとって、私たちは格好の獲物です」
「もしかして、あまり派手な格好はしないで欲しいと言っていたのは……」

 モニカに手を貸しながらマキウスが頷いた。ここでのモニカたちは外から宝を運んでくる存在なのだろう。宝さえ手に入れられれば、モニカたちの命はどうでもいい。文字通りの身ぐるみを剥がされるかもしれない。

「先程、加工屋から出てきた子供たちも、おそらく貧民街の子供たちです」

 マキウスはモニカを連れて、貧民街の中を歩いた。
 真っ直ぐ進むと、石造りの橋があった。
 その下は汚いドブ川となっており、その中には子供たちが汚れるのも構わずに、何かを探しているのか服のまま入っていた。
 モニカの視線の先に気づいたのか、マキウスが説明してくれた。

「彼らは流れ着いたゴミの中から、売れそうな貴金属を探しているんです。この川は貴族街からも流れてくる汚水が合流して出来た川なので」
「汚水ですか……そんな中に、あの子たちは入っているんですか……」
「稀に魔法石の欠片も流れてくるようで、そういった物は加工屋で高く買って貰えることがあるらしいです。さっきの子供たちは、それを売りに来たのでしょう」

 想像を絶する光景に、モニカは言葉を失った。
 まるで、御國だった頃にテレビや教科書で見たストリートチルドレンのようだと思った。
 彼らは生きる為に、何が流れてきたのかわからない汚水に入り、ゴミを漁っている。
 平和で豊かな世界で生まれ育ったモニカには、想像もしていなかった光景が目の前に広がっていた。
(マキウス様に連れて来られなければ、決して知ることなかった。私、今でも充分、贅沢な暮らしをしていたんだ)

 傍らのマキウスを見上げる。マキウスはこの場所を知っていた。モニカが使用人たちに囲まれて、飢えることない生活を送っている間も、常に清潔な身体を保ち、綺麗なドレスを着ている間も、騎士であり貴族でもある彼はこの場所を考えていたのかもしれない。
 ドブ川でゴミを漁る子供たちや貧民街の者たちのことを……。

(何も知らなかった。貴族がいて、平民がいる身分社会の国なら、こんな場所があって、最下層で苦労している人たちだっているはずなのに……)

 少し考えればわかるはずだった。
 ヒエラルキーの中にいる最下層の人たちのことを。
 富める者がいるなら、その反対に貧しい者たちが存在することを。

(全く知らない人がこの光景を見たら、きっとショックで倒れちゃう。自分が知らない、認めたくない光景が目の前に広がっているから……)

 もしかして、とモニカは気がつく。
 孤児だったという「モニカ」は、この光景を知っていたかもしれない。
 レコウユスも同じかはわからないが、それでもヒエラルキーの最下層に住む人々がいることは知っていただろう。

 けれどもここにいるモニカは、孤児だった「モニカ」ではない。異なる世界から来た「モニカ」であり、その「モニカ」がこの光景を知っているとは限らないから。

 それもあって、マキウスはここに連れて来たくなかったのだろうか。
 治安が悪く、知らない世界を前に、モニカがショックを受けると分かっていた。モニカから言わない限り、気を遣って黙っているつもりだったのだろう。
 橋の上に来るとマキウスは立ち止まって、川下の子供たちを見つめたのだった。

「強き者がいれば弱き者がいるように、富める者がいれば貧しい者がいます」

 マキウスはひび割れ、汚れている橋の袂に触れた。
 モニカも白手袋の指先でそっと触れてみると、真っ白だった指先はすぐに黒くなってしまった。

「そんな貧しい者たちが生活出来るようにするのも、我々貴族の役目です。ですが、全ての貴族がそうではないことも事実です」

 マキウスは橋の袂に触れていた手を、手が白くなるくらい強く握りしめていた。

「そんな環境を改善しようと、今の国王の代から、貧民街の支援を始めることになり、そこに一部の王族や貴族、騎士が貧民街の支援に名乗り出ました。私や姉上も同じです」

 マキウスやヴィオーラを始めとする国王に賛同している者たちは、貧民街を改革しようとしていた。
 住みやすい環境にする為に、貧民街の清掃に乗り出し、飢える者たちに食料支援をして、孤児に衣食住と学ぶ機会を与え、職のない者に仕事の斡旋をした。
 騎士団の巡回を強化する形で、犯罪を減らそうとしていた。
「けれども、全ての貴族が我々に賛同している訳ではありません。当然、反対する者もいます」

 新しいことをするということは、その分、反対して、反発する者も多い。
 それはどこの世界でも同じなのだろう。

「中には我々の邪魔をする者もいます。それもあって、まだまだ支援が完璧とは言えません」

 風が吹いて、川下からゴミと汚物が混ざった不快な臭いがしてきた。
 息を吸うことさえ憚られる中でも、マキウスは話し続ける。

「私だけが害されるだけなら構いません。けれども、このことが原因で、もしかしたら私の大切な者たちが傷つけられるかもしれません」

 マキウスはモニカを見つめた。
 
「私はそれを恐れています。私は貴女とニコラを守ると誓っていますが、私の手が届かないところで、二人が傷つけられたらと思うと……。怖いです」

 マキウスは事あるごとに、モニカとニコラを「守る」と言っていた。
 もしかしたら、この貧民街の支援が関係していたのかもしれない。
 
「大切なモノが増えるということは、守ることが難しくなる、という意味でもあるのですね。私はようやく気づくことが出来ました」

 ニコラが生まれて、モニカを愛して、いつの間にかマキウスの周りには「大切なモノ」が増えたのだろう。
 守る対象が増えれば、その分だけ守るのは難しくなるから。
 
「マキウス様……」
「貴女に相談もせずに、この活動をしていたことは謝ります。
 貴女がこれからもこの活動を認めてくれるなら、私はこれからも続けていくつもりです。でも、認めてくれないなら……」
「続けて下さい!」

 モニカは即答していた。
 これにはマキウスも意外だったのか、アメシストの様な目で瞬きを繰り返していた。

「マキウス様がされていることは、何も間違っていません。貴族や騎士以前に、ヒトとして当たり前のことをしています」

 モニカが俯くと、目線を地面に落とす。

「私、知らなかった。身分社会なら、こんな場所があってもおかしくないことを……。煌びやかな場所があれば、暗い場所があってもおかしくないのに……。
『モニカ』なら、この場所を知っていたかもしれないのに……。私が『モニカ』じゃないから……」
「それは違います。貴女は先程、確かに言いました。『貴族じゃなければ、出来ないこともある』と。あれは富んだ者たちの裏側に、貧しい者たちがいることを知らなければ、出て来ない言葉です」

 モニカは顔を上げると、橋の袂で握りしめたままのマキウスの手を両手で包んだ。

「でもこれからは、私もマキウス様やお姉様の活動を応援したいです。いえ、協力したいです!」
「モニカ……」
「私に出来ることがあれば教えて下さい。私も大切なマキウス様のお役に立ちたいです!」

 マキウスは口をぽかんと開けていたが、やがて笑ったのだった。
 
「そうですね。何かあれば、妻を頼るとしましょう」
「はい! 私ももっと夫に頼られたいです!」

 二人が顔を見合わせて笑い合っていると、モニカの後ろから、複数の足音が聞こえてきたのだった。
「あれ~? マキウスじゃん!」
「ほんとだあ!」

 モニカが後ろを振り返ると、そこには先程まで川下に居た子供たちがいた。
 十歳ぐらいまでの年齢がバラバラの真っ黒な顔をした子供たちが、首を傾げていたのだった。

「きょうはキシダンのふくじゃないんだ?」

 子供たちの中で、一番歳上と思しき男の子が首を傾げる。

「ええ。今日はお休みなんです」
「じゃあ、きょうはおやつはないんだ……」

 その男の子と手を繋いでいた五、六歳くらいの女の子は肩を落としたのだった。

「そんなことはありませんよ。はい、みなさんで分けて、仲良く召し上がって下さい」

 マキウスは懐から干し果物や砂糖漬けの花びらが入った革袋ーーここに来る前にマキウスが市場で買っていた、を女の子に渡したのだった。
 女の子は頬を赤く染めて目を丸くし、周りの子供達は、女の子の掌の革袋を見つめたのだった。

「いいの? もらっても」
「ええ。構いません。その代わりに喧嘩しないで分け合って下さいね」
「ありがとう! マキウス!」

 マキウスは子供たちの汚れた頭を順繰りに撫でていた。
 マキウスが子供が好きな理由は、もしかしたらここにあるのかもしれないと、モニカはこっそり微笑んだのだった。

 そんなマキウスを微笑ましい気持ちで見守っていると、モニカに気づいた七、八歳くらいの男の子が指差してきた。

「なあなあ、マキウス。そのおねえさんは?」
「もしかして、マキウスのおんな?」

 別の男の子が訊ねると、子供たちは口々に騒ぎ出した。
 それを面白く思ったのか、マキウスがモニカの腰に手を回すと、抱き寄せてきたのだった。

「彼女は私の女ではありません。私の妻です。そうですよね、モニカ?」
「は、はい。そうですね!」

 マキウスに答えるようにモニカは頷くと、子供たちと目線を合わせるようにしゃがんだ。
 なるべく子供を怖がらせないようにという考えからだったが、そんなモニカが意外だったのだろう。
 子供たちはおっかなびっくり見つめ返してきたのだった。

「初めまして。マキウス様の妻のモニカです」

 モニカは微笑むと、子供たちは「わぁ」と声を上げた。

「かわいいおねえさんだ!」
「う、うん。そうだね……」

 七、八歳くらいの女の子は目を丸くすると、恥ずかしそうに一番歳上の男の子の後ろに隠れてしまった。
 モニカは女の子に近づくと、微笑んだ。

「私ともお友達になってくれるかな?」
「え、でも……」

 怯えるように見つめてくる女の子に対して、ニコラに話しかける時の様に、優しく、穏やかに声を掛ける。

「お友達になって欲しいんだけど……。ダメかな……?」
「……いいの? わたしたちと?」
「勿論!」

 モニカが満面の笑みを向けると、女の子の周りにいた子供たちは、「やったー!」とモニカを囲んだ。
 男の子の後ろに隠れていた女の子も、笑いながらモニカの側に寄って来てくれたのだった。

「やれやれ。これは妬いてしまいますね」

 マキウスが苦笑していると、「誰か~!」と男の声が聞こえてきた。

「どうしましたか?」
「あっ! マキウス様!」

 モニカたちの後ろから走ってきた若い男は、マキウスの姿に気づくと走り寄ってきた。
 薄汚れた格好をした若い男は、マキウスの前で立ち止まると、肩で息をしたのだった。

「あっちで、この男たちが揉めていて……。多分、一人は強盗だと思うんですが……。それで……」

 マキウスは男が指差した方を確認すると、顔を引き締めた。

「私が行きます。貴方は広場に出て、巡回中の騎士か、いなければ騎士団に連絡をするように店の者に伝えて下さい」
「はい!」

 それだけ言うと、男はモニカたちの横を通って走り去って行った。

「モニカは子供たちとここに居て下さい」

 それだけ言うと、マキウスは男がやって来た方に走って行ったのだった。

「マキウス様、大丈夫かな……」
「しんぱい?」
「え、ええ……」

 マキウスが去って行った方を見つめていると、モニカの手やドレスの裾を引っ張ってきたのだった。

「おねえさん。ぼくたちもいこう」
「うん。あたしもきになる!」
「でも、ここで待つように言われたし……」
「いいから! マキウスがしんぱいなんだろう! はやくいこう」

 子供たちに囲まれたモニカは子供たちに背中を押されるようにして、マキウスの後を追いかけたのだった。
 モニカが子供たちと共にやってくると、そこには怪我をした貧民街の住民を庇うように、マキウスが立っていた。
 マキウスが向き合っているのが強盗だろう。
 頭からカーネ族特有の耳が出ている以外は、全身が黒色の布に包まれていたのだった。
 
「へっ! 素手で俺たちに敵うのか?」

 強盗は一人だが、手にはナイフを構えていた。
 一方のマキウスは素手であった。
 今日は仕事が休みなのもあって、帯剣していなかったのだった。

「貴方たちなど素手で充分です」
「はっ!? オレを舐めているのか!?」

 強盗はマキウスに向かって行った。
 マキウスは男の攻撃を難なく避けながら、怪我をしている住民に向かって叫んだ。

「今の内に、早く逃げなさい!」
「けど……」
「早く!」

 マキウスの叫び声に、近くにいた他の住民が怪我をした住民を連れて行った。
 その間に、マキウスは強盗の腹を蹴り飛ばす。
 そのまま強盗は吹っ飛んでいき、壁に叩きつけられた。
 呻いている強盗に近づいてナイフを奪うと、マキウスは睨みつけた。

「まだ、続けますか?」
「クッ……」

 いつにないマキウスの怒気を感じて、モニカが息を飲んでいると、同じくマキウスたちを見守っていた住民たちが「騎士団が来たぞ!」と声を張り上げた。
 モニカが視線を移すと、無数の足音を立てながら騎士団の制服を来た数人が走って来たのだった。

「しまった!」

 その姿を見た強盗は、慌てて走り去って行こうとした。

(良かった……)

 モニカが安心したのも束の間だった。
 強盗は懐にまだナイフを隠して持っていたようだった。
 怒り任せにナイフを振りかぶると、「クソが!」と言って、ナイフを投げてきた。
 投擲された先には、モニカを連れて来た子供たちがいたのだった。

「危ない!」
「モニカ!?」

 モニカが子供たちの元まで走って行き、彼らを庇ったのと、マキウスが叫んだのがほぼ同時だった。
 マキウスがモニカに向かって走って来るが、到底、間に合いそうになかった。

(刺さる!)

 モニカが衝撃を覚悟して、目を閉じた時だった。
 向かってくるはずだったナイフは、何か硬い物に当たって、音を立てて落下したのだった。
 
(えっ……?)

 モニカが恐る恐る目を開けると、目の前に金色の布が広がっていた。
 それが布ではなく、モニカたちを庇うように立っている者の長い髪だと気づいた時、相手は振り返ったのだった。