【改稿版】ハージェント家の天使

「モニカもすっかりハージェント男爵夫人らしくなりました。頼もしいことです。
 屋敷の者たちと打ち解けてきましたし、これなら、今後は屋敷の管理をお任せ出来そうです」

 貴族の妻の役割の一つに、屋敷内の管理というのがある。
 帳簿の管理や子供たちの教育が主だが、その中に使用人やメイドの管理も含まれている。

 使用人やメイドの雇用や仕事の管理は、使用人やメイドの長である家令や執事、メイド長が担当している。
 そんな彼らと共に貴族の妻も、仕事で不在にしがちな夫の代わりに屋敷を管理する。
 夫が仕事で数日間不在にする時や、夫の身に何かあった時は、夫の代わりに妻が使用人たちに指示を出すことになる。

 現在はマキウスが屋敷内の管理をしているが、本来はマキウスの妻であるモニカの仕事であった。
 モニカが病み上がりだったことや、これまでの諸々の事情からマキウスが行っていたが、そろそろモニカが引き継いでもいい頃合いであった。

「そんなことはありません。皆さんが優しいからですよ!」

 モニカが顔を赤く染めながらはにかむと、マキウスは小さく微笑んだ。

「謙遜しないで下さい。その魔法石ですが、姉上から、代わりに引き取りに行って欲しいと、伝言を言付かりました」
「お姉様が? どうしたのでしょうか?」

 ヴィオーラによると、明日の休暇の際に、工房まで取りに行く予定だったが、急な来客があるそうで、出掛けられなくなってしまったらしい。
 そこで、代わりにマキウスに取りに行って欲しいとのことだった。

「夕食後に姉上の使いの者が屋敷にやって来て、加工の代金を預かり、職人がいる工房の場所を聞きました。よければ、一緒に行きませんか?」

 マキウスによると、恥ずかしながら、魔法石の加工に必要な費用を用意出来なかったらしい。
 それを実姉のヴィオーラに相談したところ、大切な弟と義妹《いもうと》の為にと、加工に必要な費用を全額用意してくれたとのことだった。

「私も一緒に行っていいんですか!?」

 モニカが目を輝かせると、マキウスは頷いた。

「当然です。婚姻届を提出しに行った際は、王都の中心部を案内しきれませんでした。
 なので、今回は魔法石を引き取りに行きながら、案内しますよ」
「夫婦になってから、初めてのデートですね! 楽しみです!」

 モニカの言葉に、「そういえば」と、マキウスも気づいたようだった。

「言われてみれば、そうですね。それにしても、随分と喜んでいますね。王都が気に入りましたか?」
「それもありますが、やっぱり子育てをしていると屋敷に籠りがちになってしまうので、だんだん気持ちが沈んでくるんです。気分転換も兼ねて、たまには刺激が欲しくて……」

 モニカが最後に屋敷の敷地内から出たのは、マキウスと婚姻届を提出しに出掛けた時だった。
 屋敷内の庭はたまに散歩をしていたが、屋敷の敷地から外には出ていなかった。
「日々の生活や環境に問題があるわけではないんです。ただ、毎日同じことの繰り返しで、だんだん気が滅入ってきていたんです。
 鬱鬱とした気分になっていたと言えばいいのでしょうか……」

 人は同じことを繰り返すだけの日々だと、ストレスが溜まってきてだんだん気落ちしてしまう。
 最初はストレスフリーの生活を送っていても、やがてその生活の中で不安や心配を抱き、やがて気が滅入ってしまうという話を、御國だった頃に聞いたことがあった。

 モニカから詳細は聞いたマキウスは、顎に手を当てて、何やら考え込んでいるようだった。
 
「刺激ですか……。それなら」

 マキウスは呟くと、モニカの腰の辺りに腕を回すと、身体を引き寄せた。
 顔を近づけると、モニカの耳朶を甘噛みしたのだった。

「ま、マキウス様!?」
「じっとしていて下さい。顔が近いので、頭に声が響きます」

 眉間に皺を寄せたマキウスは、またモニカの耳朶を甘噛みした。

「ん~!」

 モニカは身を捩って離れようとしたが、マキウスの力はなかなか緩まなかった。
 諦めると、マキウスの気が済むまで、そのままにしておくことにしたのだった。
 
 マキウスとモニカがお互いの気持ちを告白した日から、このようにマキウスからモニカに甘えて、身体を密着させてくる日が増えたような気がした。
 モニカがマキウスの告白を受け入れ、またマキウスもモニカに無限の愛を囁くと宣言した通り、顔を合わせる度にこれまでなかなか見せなかった笑みを浮かべ、ところ構わず甘い言葉を囁き、口説いてくるようになったのだった。

 このマキウスの変わりようには、モニカだけではなく、使用人たちも驚愕していた。
 さすがにマキウスの乳母だったペルラの前では怒られるからか、控え目ではあったが、それでもモニカが照れてしまう様な言葉を囁いてくるのだった。

 それか、モニカから口づけされたのが悔しかったのか、男としてのプライドを傷つけてしまったのだろう。
 特にマキウスはニコラや使用人たちが居ない、二人きりになる夜に、こうして甘えてくることが多かったのだった。
 
「ん……」

 クチュと耳朶を吸われる音が聞こえてきて、心臓が飛び跳ねる。
 腰に回されたマキウスの腕に力が入る。ますます強く抱きしめられて、モニカの心臓が高鳴ったのだった。

 モニカ自身は恥ずかしいが、マキウスの話によると、これまではモニカが元いた世界に想い人がいると思って、ずっと我慢していたらしい。
 つまり、マキウスは随分前からモニカを好いてくれていたことになる。
 今のモニカと出会ってからは、さほど時間は経っていないはずだが、一体、いつからーー?

 耳朶から口を離したマキウスが、今度はうなじに口づけてきた。
 首筋に唇が触れた瞬間、びくりとモニカの身体に衝撃が走ったのだった。

「んっ! あっ……」

 マキウスの柔らかな唇がくすぐったくて、思わず声を上げたのだった。

「くすぐったいですか?」
「くすぐったいです……」

 首筋から口を離したマキウスが耳元で囁いてくる。
 蜂蜜の様な甘いテノールボイスに、耳まで真っ赤になりながら何度も頷く。
 すると、マキウスが漏らした小さな吐息が、モニカの耳元にかかったのだった。

「もっと、貴女の声を聞かせ下さい」
「えっ?」
 ドキリとして、モニカはネグリジェの胸元を押さえる。
 そのまま傍らを振り向くと、鼻先が触れ合うかという距離にマキウスの顔があった。
  マキウスの端麗な顔には悪巧みを思いついたというような、したり顔が浮かんでいたのだった。

「あっ……」

 マキウスの端麗な顔に見惚れて、一瞬だけ胸元を押さえる手を緩めた隙に、マキウスはモニカの両脇の下に手を入れてきた。
 そのまま、両脇に指を這わせたのだった。

「ど、どこを触っているんですか……!? 止めて下さい!」

 いわゆる脇の下をくすぐられている状態に、最初こそ、モニカは止めるように懇願したが、ネグリジェの上から指を這わせるマキウスの手が止まることはなかった。
 やがて、笑いながら目尻に涙を溜めると、身を捩って、ソファーの上に倒れたのだった。

「ほう。モニカはここが苦手なんですね」

 マキウスは目を光らせると、猫の様に仰向けになったモニカをくすぐり続けた。
 ソファーから逃げようとするモニカを、自らの身体で押さえつけると、脇の下に指を這わせたのだった。

「や、やめて、ください……! くすぐったいです……!」
「嫌です。それではここはどうでしょうか?」

 すると、マキウスは脇の下に這わせていた指を、今度はモニカの首元に移動させた。
 喉元を中心に指を当てると、首の後ろに向けてまた指を這わせたのだった。

「そこも……ダメです! くすぐったい……くすぐったいです!」

 くすぐられて息継ぎが出来ず、笑い転げながら息も絶え絶えにマキウスに訴えるが、やはりマキウスの指が止まることはなかったのだった。

 しばらくして、マキウスは首元をくすぐっていた指をようやく離してくれた。
 起き上がったモニカが肩で息をしている間も、マキウスはモニカの腰に腕を回して、抱きしめる力を緩めてくれなかったのだった。

「もう、マキウス様ってば!」

 モニカは目尻に涙を溜めたまま、顔を紅潮させて叫ぶが、マキウスはただ笑っていた。

「ははは。最近の疲れが、癒されました」

 普段の大人びた顔とは違い、年相応な笑みを浮かべたマキウスは、今にも抱腹絶倒しそうな様子であった。
 ようやく、笑いが収まったマキウスは、モニカを抱きしめてきたのだった。

「また、お願いしますね?」
「もう……」

 頬を膨らませたモニカの膨れっ面に、マキウスはまた笑ったのだった。
「明日は出掛けるんですよね? そろそろ休みませんか。私、もう疲れちゃって……」
「休むには、まだ早い気がしますが……」
「今ので充分疲れました」

 モニカはマキウスを無視すると、机に置いていた絵本を手に取った。

「マキウス様。さあ、ベッドに来て下さい。私が読み聞かせをします!」

 先にモニカはベッドに入ると、隣をパシパシと軽く叩いた。
 ベッド脇の明かりを残して、室内の明かりを消したマキウスが渋々隣に入ってくると、モニカは持っていた絵本を開いたのだった。

「読み聞かせをすると言っていましたが、それは?」
「せっかくなので、読み聞かせの練習に付き合って下さい。近い内に、ニコラに絵本を読み聞かせしたいので」

 手元を覗いてくるマキウスに、モニカは絵本を見せた。
 この世界の子供向け絵本は、モニカが元いた世界の童話と似通った内容であった。
 登場人物の名前や舞台となる国の名前こそ違うが、グリム童話やアンデルセン童話とほぼ同じ内容であった。
 さすがに日本昔話は無いようだが、それでもジャータカ物語や千夜一夜物語に似た内容の絵本もあり、これにはモニカも感動したものだった。

「私は子供ではないのですが……」
「それでも、聞いている人がいるのと、いないのとでは、練習の意味が変わってきます。
 それにこう見えて、元の世界では絵本の読み聞かせ講座に参加して、絵本の読み聞かせ方法も習っているんです。講座で習った内容を思い出す為にも、練習相手になって下さい。聞いていて損はさせません」
「随分と勉強熱心だったんですね」
「会社の関係もあって参加したんですけどね。
 元の世界では、子供向け用品や絵本を専門的に取り扱う会社で働いていたので」

 御國だった頃、新卒で入社した会社が、入社後わずか半年で倒産し、その後、子供向け用品や絵本を専門的に取り扱う会社に就職した。
 繁忙期は連日の様に残業があったが、それなりに仕事にやりがいを感じていた。対人関係も程々に上手くいっていたと思う。
 会社にはよく新商品の子供向け用品や、新刊の絵本が見本として届き、時には店頭よりも早く手に取れるのが良かった。

 その取引先の絵本の出版社から、近々、県内にある図書館の児童書担当の図書館員を招いて、絵本の読み聞かせ講座を開催するので、参加してくれないかと申し出があった。
 いわゆる講座のサクラの依頼であったが、以前から絵本の読み聞かせに興味があったモニカは、会社の命令もあり、自ら進んで参加したのだった。

 その時は、いつか結婚して、子供が生まれた時に役立つかもしれないと思って参加しただけだったが、まさか本当に役立つ日が来るとは思わなかった。

 モニカから読み聞かせ講座に関する話を聞いたマキウスは、「そうだったんですね」と納得したようだった。
「それなら、喜んで練習相手になりましょう。
 貴女の小鳥の様な可憐な声を聞きながら眠りにつける贅沢を、ニコラに独り占めされるのは惜しいですから」
「もう……。娘に嫉妬して、恥ずかしいことを言わないで下さい」

 赤面した顔を見られたくなくて、モニカは絵本で顔を隠した。
 隣で横になったマキウスは、ふと思い出したように話し出したのだった。
 
「こうして、暗い部屋で本を読んでもらっていると、子供の頃、ペルラに本を読んでもらったことや、姉上と一緒にベッドで絵本を読んだ日々を思い出します」
「ペルラさんはわかりますが、お姉様と一緒に絵本を読んだことがあるんですか?」
「ええ。私と姉上は、同じ乳母であるペルラに育てられました。まだ父上が生きていた頃は、姉上と共にペルラの元で過ごすことが多かったのです」
 
 マキウスとヴィオーラの母親同士は不仲だったが、姉弟は同じ乳母であるペルラに育てられていた。
 丁度、二人が生まれた時期に、ペルラがアマンテとアガタの姉妹を生んだばかりであり、乳が出ていたことと、ペルラが代々ブーゲンビリア侯爵家に仕える一族の者と結婚したことで、信頼が置けるというのもあったらしい。

 特にマキウスは授乳の時期が終わってからも、身体の弱い母親の体調が優れない時は、よく乳母であるペルラの元で過ごしていた。
 そんなマキウスを心配したヴィオーラも、よくペルラを訪ねる振りをして、マキウスの元に来てくれたのだった。
 
「夜になると、姉上は『眠れない』と言って、私が寝ている部屋にやって来ては、私のベッドに入ってきました。
 私を寝かしつけていたペルラが、別のベッドを用意すると言っても、姉上は聞きませんでした」

 おそらく、ヴィオーラはヴィオーラなりに、マキウスを心配していたのだろう。
 以前、マキウスから聞いた話では、マキウスの母親は身体が弱く、乳母であるペルラも自身の子供たちを育てながらマキウスの世話をしていたとのことだった。
 義弟(おとうと)が寂しく、悲しい思いをしていないか、ヴィオーラなりに気遣っていたのだと思う。

「ペルラがいる時はペルラが、ペルラの手が空いていない時は二人で、本を読んでいました」
「素敵な思い出ですね」
「ええ。大切な思い出です」

 モニカがマキウスの灰色の頭に触れると、マキウスは犬の様にモニカの手に頬を寄せたのだった。
 
「すみません。邪魔をしてしまって。読み聞かせの練習をするんでしたね」
「いえ。じゃあ、今夜は私が読み聞かせするので、次回はマキウス様が読んで下さいね」
「私も読むんですか?」
「はい。もっとニコラと仲良くなりたいのなら、それが一番早いですから」

 物語の内容によっては、女性のモニカではなく、男性のマキウスが読んだ方が、読み聞かせに深みが出ることがある。
 例えば、男性が主人公や語り手となる作品の時や、教訓を伝える物語の時。
 大切なのは、子供が物語に没入できるかどうか。アナウンサー並みの活舌の良さはあまり関係ない。
 マキウスは落ち着いた話し方をしており、声色は低く、発音にも問題はない。
 そんなマキウスが読み聞かせをすれば、きっと説得力のある読み聞かせになるに違いない。
 モニカから話しを聞いたマキウス
は、俄然、ニコラへの読み聞かせにやる気が出てきたようだった。

「ニコラの為なら、私もやりましょう」
「良かったです。じゃあ、読みますよ」

 モニカはマキウスの肩まで掛布を掛けると、絵本を読み始めた。
 
 マキウスはよほど仕事で疲れているのか、元々寝つきがいいのかはわからないが、すぐに寝付くタイプであった。
 今夜もモニカが読み聞かせを始めてすぐに、マキウスは寝息を立て始めたのだった。
 こんなマキウスを微笑ましく思いつつ、モニカは絵本を読み終わると、ベッド脇のサイドテーブルに絵本を置いて明かりを消した。

「おやすみなさい。マキウス様」

 すやすやと寝息を立てるマキウスに、モニカはそっと微笑んだ。
 マキウスの隣で横になると、そのまま目を瞑ったのだった。
 翌日、モニカたちは馬車に揺られて、王都の中心部にやってきた。

 今回はマキウスからの希望で、華美ではない、なるべく質素な服装を着て欲しいとのことで、ティカ曰く、庶民が着るような、いつも以上にシンプルなデザインの薄紫色のドレスと、踵の低い紫色の靴を用意したとのことだった。
 更に絹の様な金の髪を頭の上で一つにまとめてもらい、庶民風の化粧まで施してもらった。

 モニカには貴族と庶民の服装や化粧の違いがわからなかったが、これなら庶民によくいる若奥様にしか見えないと、全て用意してくれたティカからお墨付きをもらったのだった。

 また装飾品の類も身につけないで欲しいとのことだったので、先日買ってもらったペリドットのネックレスは、外から見えないように服の下に忍ばせ、それ以外の装飾品は何も身につけなかった。

「着きましたよ。モニカ」

 御者の手で馬車の扉が開けられると、マキウスはさっと降り立ち、モニカに手を貸してくれた。
 今日のマキウスはモニカと同じ様に質素な装いであった。白いシャツも、黒いズボンも、いつもと同じ格好ながら、生地が違うのか、あまり高級感を感じなかった。
 また、屋敷から乗って来た馬車もいつもとは違い、高級感のある装飾はなく、下町に住む住民や、貴族街から使いで来た使用人が乗るような街の乗合馬車とよく似た外装であった。

「ありがとうございます」

 すっかり慣れたマキウスのエスコートにモニカは手を預けると、馬車から降りたのだった。

「ここが、王都の中心部ですか?」
「ええ。主に市場側になります」

 二人が降り立ったのは、繁華街と呼ぶに等しい市場の中心部にある石畳みの広場だった。
 モニカとよく似た格好をした女性を始め、ニコラくらいの子供を連れた母子や、仕事の途中と思しき郵便配達の青年などが行き交っていたのであった。
 馬車の中でマキウスがしてくれた説明によると、地図上では、市場は大天使像と騎士団の本拠地である城の間にあるらしい。
 モニカたちが住んでいる貴族街は騎士団の本拠地側にあるとのことだった。
 屋敷から騎士団の本拠地である城が見えるのも、城近くに住んでいるからという理由らしい。

「少し歩きますが、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ちゃんと歩きやすい靴を履いてきました」

 モニカは履いていた踵の低い靴をマキウスに見せる。この踵の低い靴もマキウスが指定してきたものだ。
 今日は前回の騎士団の本拠地である城に行った時より歩くので、靴擦れや歩き疲れない靴を履いてきて欲しいとのことだった。
 それを聞いたティカが用意してくれたのが、この靴であった。
 モニカが示した靴を見たマキウスは満足そうに頷いたのだった。

「その靴なら、大丈夫そうですね。歩き疲れたら言って下さい」
「はい!」

 マキウスが伸ばした腕を、モニカは掴んだ。
 さすがに腕を組んで歩くのはまだ照れ臭いが、それはマキウスも同じ様で、マキウスの腕を掴んで、モニカが身体を寄せた時に、びくりと身体を揺らした様だった。
 それを小さく笑うと、マキウスはバツが悪い様に目を逸らしたのだった。

 そうして、モニカはマキウスと連れ立って、市場の中に入っていたのだった。
 市場の中は、茶色と白色の石造りの建物が連なっていた。
 建物の中で営業している店もあれば、建物の前に露店を出している店もあり、例えるならヨーロッパの街並みのようであった。
 見上げると、建物の二階以上の窓辺に植物を飾っている家や、洗濯物と思しきタオルを干している家もあったのだった。

「活気がありますね!」
「ええ。私が子供の頃に、祖父母と共に育った地方や屋敷周辺を思い出します」
「地方の屋敷というのは、マキウス様のお母様の?」

 市場の中は絶え間なく人が行き交い、先ほどからモニカたちの左右も大勢の老若男女が通り過ぎて行った。
 あまりにも人手が多いので、マキウスの腕を掴んでいなければ逸れてしまいそうだった。
 今も、近くの店から幼い子供の手を引いた親子連れが出てきた。それにぶつからないように二人が避けるとマキウスは頷いた。

「活気もですが、生活様式もでしょうか。自分の力や、自分の意思の元に生活をする姿が、地方での生活や騎士団での見習いだった頃を思い出します」

 母親を亡くしたマキウスが帰された母親の生家であるハージェント男爵家は、貴族というより平民に生活様式や考え方が近かったらしい。
 使用人はいるが、自分に関する最低限のことは、自分でやるというのが、ハージェント家のやり方だった。
 実際に、ブーゲンビリア侯爵家に嫁いできたばかりのマキウスの母親は、使用人の力をほとんど借りず、ほぼ自分で身の周りのことをやっていたらしい。
 男爵家に来たばかりの頃は、ブーゲンビリア侯爵家と生活が違い、戸惑うことも多かったが、自分でやる分、侯爵家より自由させてもらえるからか、マキウスはすぐに馴染んだらしい。
 近くの町や村に出掛けては、野山を駆け回った。学校に通い始めると、身分に関係なく町村の子供たちと共に机を並べて勉強もした。
 喧嘩もしたが、その分、楽しい思い出もたくさん出来た。

 地方の騎士団に入団した頃、特に見習い騎士の時は、自分以外の先輩騎士たちの雑事も、全て引き受けなければならなかった。
 詰め所の掃除、武具の手入れ、野営時の炊事、時には洗濯や入浴の用意も、見習い騎士の仕事だった。
 それらの雑事を嫌がって、騎士団を辞める貴族出身の見習い騎士も多い。
 一方のマキウスは、男爵家でやっていたこともあり、雑事を苦もなくこなしたとのことだった。

「こう見えて、侯爵家に住んでいた頃は、よく姉上に『軟弱』や『弱虫』と言われていました。今の様に騎士として逞しくなれたのも、ひとえに祖父母の教育と地方での生活のおかげでしょうね」
「ええ……。なんだか意外です……」
「恥ずかしながら、子供の頃は今よりとても弱く、姉上に守られてばかりでした。
 そんな私を見て、よく父上は『男ならもっと堂々としなさい』と苦言を呈されていたものです。あの頃は、父上にそう言われるのが嫌でしたが、今ならわかる気がします。
 父上は大切な者を守る為にも、私自身が強くならなければならないと教えてくれたんです。母上や姉上、そして大切な妻と娘を守れるのは、男である私しかいないと」

 その時を思い返しているのだろうか。マキウスは遠いところを見ているようであった。
「そんなこともないと思いますが……でも、そんなマキウス様を守ってくれる人がいませんよね。そんなマキウス様は私が貴方を守ります」
「貴女は私に守られていればいいんです。可憐な貴女を守るのは、夫である私の役目。貴女に辛い役目はさせません」
「は、はあ……。ありがとうございます」

 モニカの返事に満足そうな顔をすると、マキウスは店と店の間にある細い路地に入って行った。
 大通りから外れるからか、この路地はさほど人の通りがなく、数人の子供たちが遊び、その横で女性たちが井戸端会議らしき談笑をしているだけであった。

「路地は歩き辛くなかったですか」
「ええ。人通りが多くて少しだけ……」

 久々の人混みにすっかり疲れてしまった。
 建物の壁を背にして息を整えるモニカを気遣う様に、マキウスは笑みを浮かべた。

「市場を通らない道もありましたが、貴女にはこの賑わいを知って欲しかったんです。
 それと、刺激を欲している貴女の為になればと思ったので」
「覚えていてくれたんですね……! ありがとうございます。嬉しいです」
「何か欲しいものがあれば、帰り掛けに買いましょう。勿論、人混みに抵抗があれば、無理に買い物をする必要もありません」
「ありがとうございます。私は大丈夫なので、時間があれば、是非買い物したいです」

 そっと微笑んだマキウスを見ていると、モニカの胸が小さく跳ねた。
 いつになく、マキウスが弾んだような顔をしているのは気のせいだろうか。
 そんな夫の楽しそうな顔を見ていたら、疲れが消えていくようであった。

「人通りが多くて大変ですが、この辺りは男爵家の屋敷があった街やその周辺と似ているんです。空気もよく似ていて、貴族街より落ち着きます」

 地方に住んでいた頃を懐古しているのか、遠い顔をして大通りを眺めるマキウスの袖を掴む。
 それに気づいたマキウスは、「モニカ?」と不思議そうな顔したのだった。

「そんなマキウス様が、どんなところで育ったのか気になります。いつか連れて行って下さいね」
「ええ。必ず」

 マキウスは笑みを浮かべると、大きく頷いたのだった。
 そうして、マキウスに連れられて、通りから外れた薄暗い路地を進むと、やがて一軒の家の前で立ち止まる。

「ここが魔法石の加工を依頼した店です」
「へぇ~。見た目は普通のお家みたいですね」

 店は赤茶色のレンガらしき造りの小振りの家であった。
 マキウスがドアノブを掴もうと手を伸ばしたのとほぼ同時に、内側から扉が開いた。
 モニカが目を丸くして驚いていると、中からは複数の小さな影が飛び出してきたのだった。
 
「じゃあな! じじい!」
「バイバ~イ! おじいさん!」

 中から出てきたのは、十にもならないような数人の小さな男の子たちだった。
 誰もが薄汚い格好をしており、靴を履いていない子供もいた。
 そんな子供たちにモニカが戸惑っていると、マキウスに腕を引かれて道を譲ったのだった。

「かってにしんでんじゃないぞ~!」
「おまえもはやくこいよ! おいていくぞ!」

 そうして、彼らはモニカたちに脇目もふらず、そのまま市場とは反対側に走り去って行ったのだった。

「みんな、まってよ~!」

 すると、他の男の子たちから遅れて、慌てながら店の中から出てきた男の子がいた。
 慌てていたからか、よく前を見ていなかった男の子は、モニカを庇うように扉近くにいたマキウスにぶつかってしまった。
 その衝撃で、男の子は尻餅をついたのだった。

「いたたたた……」
「大丈夫ですか?」

 すかさず、マキウスは片膝をつくと、男の子の身体を助け起こす。
 男の子は鼻を押さえながら、恐る恐るマキウスを見上げたのだった。

「だいじょうぶです……」
「次からは、よく前を見て下さい」
「ごめんなさい」

 男の子はマキウスに頭を下げると、そのまま去って行ったのだった。
 子供たちが走り去っていく姿を見ていたモニカだったが、小さく笑い声を上げてしまった。

「どうしましたか?」

 怪訝そうな顔をするマキウスに、「だって」と笑いながら話し出す。

「マキウス様って、子供に優しいですよね」
「そうですか?」
「はい! 今の子もちゃんと助け起こしましたし、子供がお好きなんですか?」

 以前、二人で婚姻届を提出しに行った日。
 マキウスはニコラをあやしながら、モニカを部屋に迎えに来ていた。
 今でこそよく笑ってくれるようになったが、その時のマキウスは滅多に見られない満面の笑みを浮かべていたのだった。

 その後、アマンテに聞いたところによると、マキウスはモニカが不在時ーーアマンテがニコラの面倒を見ている時に限って、たまにニコラに会いに来ては、抱き上げたり、笑わせたり、話しかけたりしているらしい。

 どうしてモニカがいる時には来ないのかと、アマンテがマキウスに聞いたところ、マキウス曰く、「モニカが見ている前では、恥ずかしいので」と顔を赤面させていたらしい。
 
 モニカの言葉にマキウスは考え込んでいた様子だったが、やがて「そうかもしれません」と肯定したのだった。