当たり前のことだが、眠っていたという自覚は無かった。
 事実、僕の魂は夜の間中ずっと大学構内を徘徊し、今し方ようやく帰宅したばかりなのだ。
 確かに身体から出入りする際、意識が朦朧となることはあったものの、それでさえ極短時間の出来事。感覚的には徹夜明けに近かった。
 ただ、それでも……。
「んっ……ぅ」
 起き上がって思い切りのびをする。疲労も、違和感も無い。あのような形でも、肉体の休息は取ったことになるらしい。布団の柔らかみが心地良い、いつも通りの朝だった。
 カーテンを開け、直後に思わず目を閉じる。真夏の太陽は本日も絶好調だった。最悪だ絶対暑くなる、と内心でぼやきながら、僕は冷房の設定温度を一度下げておいた。
 こんな晴れの日は、是非とも涼しい我が家に引きこもってやり過ごしたいところである。
 だが現実はそうもいかない。大学は昨日で終わったが、今日と明日、二日連続で朝からバイトが入っている。オープンキャンパスの案内係だ。労働は好きじゃないが、時給千円だったので参加した。
「……よし」
 一瞬、あの少女の姿が脳裏によぎったが、頭を振って記憶を追い出す。
 彼女をあそこに残してきてしまったのは気になるが、気にしても仕方のない事だ。帰り道くらいなら一人でも分かるだろう。今夜、会った時に謝っておこう。
 それよりも心配なのは、今夜、無事に幽体離脱が出来るかどうかだ。約束までしておいて、ごめんなさい普通に寝ていましたでは彼女を裏切ることになってしまう。
 昼にでも、時間を見つけて調べておこう。幽体離脱の方法。検索。全知全能のインターネット先生であれば、きっと何かしらの応えを提示してくれるだろう。
 キッチンに向かい、僕は朝食の準備を始める。冷蔵庫を漁った結果、トーストの具材はとろけるチーズとハムに決まった。電子レンジの中で回転する食パンを横目に、ミニトマトを洗い、紅茶も淹れる。スプーン一杯のジャムを溶かすのが最近のマイブームだ。
 好きな曲――カーペンターズの『イエスタデイ・ワンス・モア』を口ずさみながらリビングへと戻る。テレビをつければ、丁度、朝のニュースが流れていた。
 アナウンサーの痛ましい表情。また交通事故が起きたらしい。僕も気を付けないと。
 トーストを齧りながら紅茶を啜れば、主張しすぎない甘みが喉の奥へ抜けていく。ジャムを混ぜるメリットの一つが、これだ。ちなみにもう一つある。お洒落な気分に浸れるのである。
 朝食を済ませた後は、日課となった筋トレを始める。そこまで本格的でもない、本当にささやかなものだが、最近になって段々と筋肉がついてきた。ちょっとだけ嬉しい。
 時間に余裕があることを確かめてから、汗を流すため軽くシャワーを浴びた。
 髪をバスタオルで拭きつつ、僕はクローゼットから着ていく服を引っ張り出す。
 玄関の方から物音が聞こえたのは、その時だった。
「……っ、何」
 咄嗟に身構えた僕の耳に、今度は二回、コツコツと。固い物同士がぶつかり合うような音が届く。
 聞き慣れたリズムに、僕の身体から力が抜けていった。
 これは多分、あれだ。味を覚えてまた来たのだろう。まったくしょうがないやつめ。
 バスタオルを肩にかけ、パンツとズボンだけ履いてから僕は玄関へと向かった。扉を開けるが、誰もいない。やっぱりねと呟いてから視線を下げれば、そこには予想通り、可愛らしいお客さんが背筋を伸ばして座っていた。
「今日辺り。来るんじゃないかとは思ってたよ」
 黒くて艶やかな毛並み。対して瞳はブルーに輝く。三角形の耳が二つ、僕の声に応えるようにこちらを向いていた。尻尾が作る曲線美は、雨傘の持ち手に形が似ている。
「おはよう、ルリ」
 挨拶の返事はニャアの一鳴き。僕が右手を近付けると、目の前の黒猫は確認するかのようにその匂いを嗅いでから、頭を擦り付けてきた。
 甘えるような仕草に、思わず口元が緩んでしまう。
 この子は二か月前に出逢った野良猫。名前は目の色からとって、ルリと呼んでいる。雨に打たれ、ずぶ濡れになって道端で衰弱しているところを僕が見つけたのだ。これはいかんと自宅に連れ帰り、シャワーを浴びさせ、人肌に温めた牛乳を提供し。アレコレと世話を焼いた結果、翌朝にはすっかり元気になっていた。
 しかしやっぱり外が恋しかったのか、大学へ行こうと僕が玄関の扉を開けた隙に脱走。鬼ごっこで猫に勝てるはずもなく、一瞬で見失う。かと思えば翌々日の朝、何食わぬ顔で餌をねだりにやって来た。以来、数日おきに我が家を訪問してくれるのである。
 ちなみに、女の子だ。つまるところ僕は齢二十にして、楊貴妃も霞む絶世の美女とシャワーを浴び、食卓を囲み、触れ合い、そして一夜を共にしてしまったことになる。
 各方面から熱烈な嫉妬の声を頂きそうだが、事実なので仕方ない。
「元気そうだねー。今日はなに食べたい?」
 にゃーにゃー。
「ホットミルク? そうかそうかー。もちろんいいとも。今から作るからちょーっとそこで待ってるんだよ。よしお利口さん」
 自慢ではないが、猫よりも猫なで声を出せているように思う。誰もいないからこそ出来る芸当だ。他人には絶対に聞かせられない。聞かれたら死ぬだろう。
 一旦、扉を閉めて、冷蔵庫から牛乳を取り出す。平らな器に注ぎ、レンジで三十秒。念のため、指で温度を確かめる。出来上がったそれを、僕は慎重にお姫様のもとへ運んだ。
 待ってましたとでも言いたげに、ルリの頭が皿へと伸びる。嬉しそうに目を細め、赤い舌でチロチロと牛乳を掬い飲む。
 とてつもなく可愛かった。
「君って野良猫にしては綺麗だよね。毛並みもそうだし、何より汚れてない」
 にゃー。
「いつもどこから来てるのかな。どこかにご主人様でもいるの?」
 にゃんにゃー。
「へぇ、そうなんだね」
 言っておくが、僕は猫の言葉を知らない。では如何様にして会話を進めているのか? それ以上の追求は控えた方が賢明だ。誰も幸せにならないだろうから。
 僕はその場に体育座りをし、ルリの食事風景を観察する。雫を散らしたりもせず、お上品なものだった。
 ふと思い立って、背中を撫でてみる。ルリは驚いたように顔を上げ、それから、お返しとばかりに僕の手の甲を舐めた。
「くすぐったいよ」
 微笑みながらの抗議を、はたして理解しているのかしていないのか。ルリは悠々と食事を再開する。
 風の噂に聞いた話だが、人間とは猫の下僕であるらしい。プライドの問題は一先ず置いておくとして、なるほどこうしてみると、肉球に屈服して過ごす日々もあながち悪いものではない気がしてくる。少なくとも会社員よりは幸せになれるだろう。
 例えばこのキュートな鳴き声。上司の怒鳴り声より百万倍は価値がある。月とスッポンだ。
「あー、働きたくない」
 ずっとこのままがいい。そんな僕の一人言に、ルリが再び顔を上げた。
気ままに生きているのだろう、社会的ストレスとは無縁そうなつぶらな瞳。僕みたいに将来を憂うことも、きっと無いに違いない。
少しだけそれが羨ましかった。猫は猫で、色々と大変なのだろうけど。
「ねえルリ。猫専属の執事って、いたりしない?」
 にゃ。
「いないよねぇ」