鳴り響くチャイムの音で目が覚めた。
 思考が鮮明になるまで何秒かの時間を要してから、僕は機械的に身体を起こす。目元が濡れていたので手の甲で拭った。時計で現在の時間を確認した後、おぼつかない足取りで玄関へ向かう。
 扉を開ける。来客の正体に見当はついていた。
「……ルリ」
「おはよう。良い朝ではなさそうだね」
 胸の下で腕を組み、長身の女性はぶっきらぼうにそう言った。
 眠れなかったのだろうか、目の下に隈が出来ている。肩の辺りで自ら刈り取った髪は、手入れの気配すらないほどのボサボサっぷり。服こそ流石に着ていたが、シャツもズボンも皺が目立つ。昨夜の疲労がありありと伝わってくるようで……。
「……っ、彼方は?」
「安心して、元気だよ」
 勇敢な親友のことを思い出して気色ばむ僕を、ルリはそっと押し留めた。
「きっと今頃、自宅のベッドでお休み中じゃないかな? 少なくとも大怪我はしてない」
「本当?」
「ボコボコにはしたけどね。彼、本当にしぶとかったからさ。またいつかお見舞いに行ってあげて。あんな友達はそうそういないよ?」
 そう言って、彼女は呆れたように笑った。
 ……嘘はついていない。多分。
 いくら彼方のことが邪魔だったとしても、ルリは簡単にその命を奪ったりはしない……筈だ。僕がそう信じたいだけかもしれないが。念のため今日中に一度、電話で安否を確認しておこう。近いうちにお礼もしないと。
「今更だけど、君って結構しつこいね」
「猫は執念深いのが強み。アタシがここに来た目的も分かるでしょう?」
「……幽体離脱なら、もう二度としないよ」
 する意味もないから。
 応える僕の声は、自分でも驚くくらいに震えて、弱々しかった。ルリとの会話の最中でなければ、僕は膝を付いて泣き崩れていたかもしれない。それくらいに心がギリギリだった。
「あの娘……消えたのね」
「……うん」
「分かってると思うけど、本来キミたちは交わることのない仲なの。二人ともあるべき場所に戻ったんだから、これはハッピーエンドなんだよ」
「……」
 口を閉ざす。ルリの言う通りだと頭では理解していた。それでも辛いものは辛いのだ。
 頷きもせず黙りこくった僕を見て、ルリは複雑そうな表情を浮かべた。
「……ま、青年の好きにしなさいな」
 短く告げて、ルリは踵を返し……名残惜しげに、もう一度こちらを振り返る。一瞬、その頬で何かが朝日を反射してキラリと光ったが、僕が気付いた時には再び顔を背けた後だった。
 ……彼女とは、おそらく二度と会えないだろう。
 根拠は無いが、そんな確信を抱いた。 
「ルリ」
「……何?」
「分かってるからね」
 彼女の身体が固まる。
「君の思いには応えられない。だけど……ちゃんと分かってるから」
 小さく、けれどはっきりとそう告げれば、ルリは背中を向けたまま手を振った。
 にゃおん、と。僕には解読不能な猫語での返事。そのまま彼女は地を蹴って、アパートの廊下から眼下の地面へと跳躍する。
 身を乗り出してみるも、既にそこには何もいない。
 瑠璃色の瞳を持つ黒猫は、そうして僕の前から姿を消した。



 当たり前のことだが、あの娘と別れてからも世界は何一つ不自由なく回っていた。
 十月。長く濃密な夏休みは終わり、大学の講義が始まる。
 曜日ごと決まった時間に目を覚まし、面白かったり退屈だったりする教授たちの話を聞いてレポートを書く、そんな毎日。最初はどうしようもなく単調に思えたけれど、繰り返す内に慣れていった。
 遠ざかる彼女の記憶を惜しむ自分と、健やかな日常に身を委ねる自分。割合は半々ぐらいだろうか。
 気持ちの整理が付くにつれ、心に前を向く余裕が出来てくる。確かに僕は恋人を失った。だがいつまでも悲しんでいる訳にはいかないのだ。
 これからも幸せに生きていくことが、亡き彼女への一番の手向けになる。
 ならば自分はあの娘の分まで、残りの人生を存分にエンジョイするとしよう。


 最初の日曜日、彼方の家へ洋梨を持ってお見舞いに行った。
 事前に電話で無事は確かめていたので、心を砕くような心配は無い。感謝と申し訳なさの方が強かった。何しろ彼方は僕とあの娘のために、文字通り身を呈して時間を稼いでくれたのだ。控えめに言って頭が上がらない。
「よう、待ってたぜ」
 数日ぶりに会った我が友人は、左の頬に大きなガーゼを貼っていた。本人曰く、ルリのキックによって出来た傷らしい。……ありがとう、本当にありがとう。
 ちなみにそれ以外にも色々とされたそうだが、ルリの証言通り重大な怪我はしなかったという。その言葉を聞いた時、僕はものすごく安堵した。隠してるだけで実は骨でも折られていたらどうしようかと、何気に不安だったのである。
 最後の夜にあったことをおおまかに報告してから、僕たちは洋梨を肴に雑談を楽しむことにした。
 しかし五分で食い尽くしたので、コンビニにて菓子を買い足し延長戦。
 一袋目がまもなく空になるかという頃、彼方がふと思い出したように言った。
「そう言えば、この前あの爺さんに出会ったんだけどな?」
 熱中症で取材を中断させてしまった、いつぞやの農家さんのことだ。
「前に聞けなかった三橋神社のご利益、教えてくださいって頼んだら快くオーケーしてくれたんだ。……何だったと思う?」
「金運?」
「ノー。正解は……」
 コップの麦茶を一息に呷ってから彼方は短く言った。

 縁結び、と。



「……何これ?」
 ある日の講義終わり。教室から出ようとした僕は、机の下に何かを見つけてその場にしゃがみ込む。
 手に取ってみればそれはボールペンだった。木製で高級そうな一品。きっと、隣の人が落としていったのだろう。
 今なら急げば追い付けるかな。
 逡巡の後、僕はペンを手に取って立ち上がる。持ち主は学部の同期生で、顔と名前くらいなら覚えている相手だ。ついさっき退出したばかりの筈。離れすぎなければ見失うまい。まあ、無理だった場合は学務にでも届けておけばいいだろう。
 幸いにも、その人の背中はすぐに分かった。駆け足で近付き、僕は小さく肩を叩く。
「あの、ちょっと」
 先を行く青年は立ち止まると、そのまま怪訝そうな顔でこちらを振り向いた。そこにボールペンを差し出す。
「これ君のじゃない? 忘れてたよ」
 彼は驚いたように目を見開いて、両手でそれを受け取った。
「ありがとう。……うわ、ホントだいつの間に。全然分かんなかった」
「危ないね。結構いいやつでしょそれ」
「好きな子からの贈り物。すごく助かったよ」
「それは何より」
「にしてもよく気付いたね?」
「机の下で泣いていたからね」
 僕の返事に青年が固まる。
 この雰囲気は……何度も体験してきたアレだ。目の前の同級生が次に何を言うか、僕には何となく予想が付いてしまった。
「……前から思ってたけど、早乙女くんってちょっと変わってる?」
 どこか遠慮の混じった問い掛け。それに、僕は一切動じなかった。
 誤魔化さない。苦笑して、適当に場を取りなすことしか出来なかった僕はもういない。
 好きな人が認めてくれた。僕はこのままでいい、僕らしく振る舞っていい。そう、彼女が教えてくれた。
 だからこそ、僕は自信を持って言える。
「そうだよ」
 唇の端を持ち上げる。これまでなら、それは苦笑い。
 けれど今日からは……微笑みだ。
「これが僕の個性だからね」
 すると青年は破顔して、悪意も侮蔑もまったく感じられない表情で「最高」と呟いた。
「それ、今度真似しよっと」