朝日から少しでも遠ざかりたくて、僕は彼女を部屋の奥へと引っ張る。抗えない運命に向けた、僕なりのせめてもの抵抗だった。
 そっと、彼女の肩に手を回す。清流のようなその髪を手櫛で梳かしながら、僕は何度目かも分からぬ愛の台詞を口にした。
「しつこいようだけどさ。好きだよ」
 すると彼女は困ったような笑みを浮かべた。
「……駄目ですよ。死人なんかにうつつを抜かしちゃ。生きてるなら、生きてる人を好きになるのが普通じゃないですか」
「僕って変人だから」
「だとしても同じです。私のために死ぬより、私のために生きていて欲しいです。その方がずっと嬉しいので」
「……そうだね」
 震える身体を抱き寄せる。耳元に口を近付けて。
「それでも、僕は君のことが好き」
「……っ!」
「忘れない。君が僕のことを忘れても、僕は君を覚えてる。だから……」
 安心して。
 そう囁けば。彼女は一瞬、グッと全身に力を込めた後で、崩れるように両目から涙を流し始める。
 こんな状況にピッタリな、慰めの言葉を僕は知らなかった。彼女の心情だって推し量ることしか出来ない。途方もない無力感に苛まれて、胸の奥がキツく締め付けられた。
 一生に一度、誰かに心から恋をする時があるとすれば、きっとこれがそうだ。
 ありもしない温もりを味わうかのように、抱き締める腕へ力を込めた。彼女もまた、泣きながらそれに応えてくる。
 一つ一つの仕草が堪らなく愛しく、そして堪らなく切なく思えた。
「……優くん」
 すすり上げる声で僕の名前が紡がれる。下を向けば、宝石のような瞳と視線が交わった。
「……何?」
「どこがいいんですか、こんなめんどくさい女」
 何もかも。そう答えかけて言い淀む。
 僕は彼女の全てが好きだ。これはもはや言うまでもない。しかしそのことを過たず伝えるためには、たかだか数文字の平仮名じゃあまりにも貧相な気がしたのだ。
「……君を、夏の毎日と比べてみようか」
 しばらく悩んだ末に選び取ったのは、僕らしく回りくどい、シェイクスピアのオマージュという選択肢。唄うように続けていく。
「君の方が可憐で、優しい。思慮深くて真っ直ぐ。穏やかで意外と快活で、思いやりだってある。そして……過ぎ去るのも早い」
「優くん、それ」
「憧れてるって、前に言ってたから。お気に召したかい?」
 いつぞやの夜を思い出しながら僕は首を傾げる。
 彼女にもその意味は伝わったらしく、収まりつつあった涙が途端に勢いを増した。
「ありがとう、ございます……!」
 再び僕の胸元に顔を埋め、途切れ途切れになりながら彼女は返事をしようとする。けれど、それ以上の言葉を口にする余裕はもう無かったらしい。背中をさすってあげれば、嗚咽が一層激しくなった。
「お礼を言うのは僕の方だよ」
「……」
「こんな僕を好きになってくれて……ありがとね」
「……はい」
「ありがとう」
「……こちらこそ」
 会話は自然とそこで途絶えた。
 互いの存在を魂に焼き付けたくて、僕たちはそれからしばらくの間、身じろぎもせずにじっとしていた。数十秒か、数分か。いずれにせよ長くはない。
 もうすぐこの娘を失うと思うと目の端に熱いものが滲んでくる。僕は歯を食い縛って何とか堪えた。その行いにどんな意味があるのかも深く考えずに。
 やがて段々と、恋人の様子が落ち着いていく。身体を起こした彼女は「あぁ」という長いため息の後に、絞り出したような声で言った。
「もっと、生きていたかったな……!」
 その時、僕は思わず息を飲んだ。
 彼女自身も異変に気付いたのだろう。僕から距離を取って立ち上がると、彼女は困惑半分、恐怖半分といった表情で我が身を見下ろす。その身体は……ついさっきまでと比べて、確かに薄くなっていた。
「え……なんで、どうして」
 僕が慌てて腰を上げる間も、彼女の姿はすさまじい早さで、刻一刻と透明感を増していく。唐突に前倒しされた別れの予感。僕は咄嗟に恋人の手を取った。
 これは、もしかしたら……。
「未練が叶った、ってことじゃない?」
 タイムリミットが迫る、本当にギリギリの時になって。
 現状そうとしか考えられなかった。昨夜は充たされなかった彼女の心が、この一夜のおかげで満足出来た、と。
 僕の一言で全て納得したらしい。彼女の動揺が少しずつ鎮まっていく。力強く目元を擦って、表情から憂いを拭い去った。彼女が再び僕の方を見た時、そこに浮かんでいたのは花のような笑顔。
 嘘みたいな奇跡に感謝しつつ、僕もまた微笑みを以てそれに応える。
 さよならは悲しかった。
 けれど同時に嬉しくもあった。彼女を一人にするという重荷が、これで完全に取り払われたのだから。
 どちらからともなく、僕たちは身体を引き寄せ合う。
 背中に手を回して。視線と視線を根元から絡め合ってから、ゆっくりと瞼を降ろす。そして……。
「……あ」
 動作が数秒でも早ければ、僕らの唇はそのまま重なっていたと思う。
 けれど神様からのサービスはそこまでだった。次の瞬間、腕の中からフッと質感が消え。二つの身体は互いに干渉出来ぬまま、すり抜けあってその位置を入れ替える。
 あぁ……時間切れだ。
「ねぇ、優くん」
 囁かれて泣きそうになった。こんな素敵な声で名前を呼ばれる瞬間は、僕の人生で二度と訪れることはないだろう。
 平静を装えているか、自分でも分からなかった。
「幸せになってくださいね」
「……もう幸せだよ」
「なら今以上に」
「……努力する」
「約束の方がいいな。……なんちゃって」
 細められた瞳の端、満杯に湛えられた大粒の涙に、朝日の先端が溶け込んで煌めく。
 夜を集めて作った泉に、天使が星屑を散らしたみたいだった。
「優くんのこと、ずっと覚えてますから」
「記憶力に自信が?」
「忘れた分だけ、容量は余っているんです」
 末端から胴体へ、彼女の消失は止まることなく進んでいく。
 視界が水を通したようにぼやけているのは、きっと僕自身も消えかけているせいだ。そうに違いない。泣いてなんかいない。何故かって、本来これは喜ぶべきことだからだ。
 叫びそうになりながら、最後はいつもの僕たちみたく。
 この世で誰よりも大切な人へ、僕は笑って手を振った。

「――さよなら」
「さようなら」
 
 直後、空気に溶けるようにして、彼女の身体が完全に消え去った。
 辺りに水を打ったような静けさが舞い戻ってくる。
 瞬き、数回。僕は膝を付き、力なく腕を前に伸ばした。
 指先は虚しく空を掻くばかりで、愛しい人には届かない。
 押し寄せる喪失感で胸が一杯になって、張り裂けそうな程に痛くなる。
 もう、彼女が一人になることはない。
 心をズタボロに磨り減らし、大切な人を失った僕にとって、それは唯一の救いだった。
 それからすぐに僕の番がやって来た。
 心地良い酩酊感と共に、視界が白色に染まり始める。薄れゆく意識の中で、僕は無意識の内に想い人を呼ぼうと口を開いて。
「……ああ、そっか」
 舌が空回った。


 ……君の名前、知らないんだっけ。