彼女の言葉は完全に予想外だった。
恥ずかしいことだが僕自身、秘密は上手いこと隠し通せていると思っていた。僕から切り出すことは皆無だったし、彼女から踏み込んできたのも二日目の夜が最後だった。
僕の説明を信じている証拠だ。これまではそんな風に都合よく解釈してきたが、考えてみればそれは、きっと彼女なりの気遣いだったのだろう。
優くんって生きてますよね。と真っ向から問い詰められれば、場合によっては僕たちの逢瀬が終わりを迎えていたかもしれない。
彼女と過ごしたいがために僕は秘密を抱き、彼女もまた似たような理由で気付いていることを秘密にしていたのではなかろうか――。そこまで考えたところで、僕は思わず自嘲的な笑みを浮かべてしまった。これこそまさしく自惚れ、都合のいい解釈だ。
リビングへと続く廊下を進みながら、僕は彼女へ問い掛ける。
「いつ気付いたの?」
「一ヶ月以上前です。友達と図書館で調べ物をしていましたよね。私あの時、すぐ近くにいたんですよ」
なるほど。……そう言えばあの日、本を本棚にしまう際どこかから何かの視線を感じた。気のせいだと決めて気にしなかったが、あれは彼女だったのか。
「私が昼に何をしてたか、知りませんよね」
「……だって逢いには行けないからね」
「実は色々とうろついてました。慣れた場所なら怖くなかったので」
「……図書館以外でも僕のことも見掛けた?」
「時々。別に恨んでませんよ? 優くんを好きになった時はちょっぴり悩みましたけど」
そう、切なそうに言う。これほど説得力の無いちょっぴりを、僕は生まれて初めて聞いた。
しようと思えば言い訳も出来るだろう。真実を告げるより円滑に事が運ぶから、とか。彼女に余計な悩み事を持たせたくなかったから、とか。嘘も方便、とか。
だが何にせよ、結果としてそれが彼女を苦しめてしまったわけで。
「優くん」
そもそも恋人を騙すとか、本当にどうしてあの時の自分はあんなことを……。
「優くん」
「え?」
名前を呼ばれたことにようやく気付く。
立ち止まれば、彼女はそのまま背後から僕にしがみついてきた。手が僕の二の腕を掴み、顔と、胸の膨らみが優しく押し付けられる。
「その……そこまで気にしないでくださいね?」
しなやかな指に背中をなぞられて、身体がビクリと震えた。
「仮に最初から本当のことを話してくれたとしても、きっと私は優くんを好きになってます。同じくらいか、もしかしたらもっと悩むでしょうけど。それでも同じ相手に恋をする、確信があるんですからね」
囁くように紡がれたそれは、悶えるくらいに純粋な彼女なりの愛情表現。首元に当てられる吐息が、僕へと向ける信頼の大きさを何よりも雄弁に証明していた。罪悪感が溶かされそうになる。
「でも……嫌じゃなかった? 彼氏が嘘を吐いてるんだよ、嫌いになってもおかしくは」
「馬鹿にしないでください。そんなに浅くないです」
明るく、弾むような声。全身の末端まで速やかに染み渡る。
割れそうだ。
「私は重くて、深いですから」
「……僕だって負けてないよ」
「……」
「……ありがとね」
「……どういたしまして」
「……そろそろ中、入ろっか」
促して、僕と彼女はリビングへ足を踏み入れる。
心安らぐ七畳半のスペースは、いつも通りの微妙な散らかり具合を見せていた。大学用のショルダーバッグ一つ、筆記体を練習したルーズリーフが数枚。エアコンのリモコンや携帯電話……日本語が為し得る最大級のお世辞を用いれば、何とか整っていると言えなくもない。少なくとも座る場所はある。
女性をここへ招くのは、どこぞの黒猫を除けば今回が初だった。緊張はしていたが、想像の範囲内。存外に心は落ち着いている。
ほんの二時間前までいた筈の場所なのに、不思議と旅行帰りのような懐かしさがあった。
カーテンの隙間から月光が差し込んで、ベッドで眠る僕の顔を照らす。幾度となく幽体離脱を行ってきたが、自分の顔を見るのだけは未だに慣れない。何というか、本能的に気味が悪くなるのだ。ここに僕がいる、ではこの僕は何なのか、と。
彼女が眠っている方の僕に近付く。床に膝を付いて、僕の寝顔を至近距離で眺め始めた。
「優くんが二人いるのはお得な感じがしますね」
「お得?」
「二倍も愛してもらえますから」
「何かヤだな、それ。もう片方の僕に嫉妬しそう」
というか、現在進行形でしている。僕のくせに、生意気にも僕から彼女の視線を掠め取りやがった。万死に値する重罪だ。
などと考えつつも邪魔は出来ず。彼女が寝顔を堪能するのを、僕はすぐ隣から見守っていた。何となく恥ずかしくなってくる。……どうしてそこまで興味があるのだろう? 別に面白いものでもないだろうに。
「僕より僕を見て欲しいんだけど」
「見てますよ」
「分かってて言ってるよね?」
「はて。日本語は難しいですねぇ」
ふざけたように肩を竦めて。けれど僕の請願に応えてか、彼女はこちらへと向き直る。そうして二人一緒に、ベッドを背もたれ代わりに腰を降ろした。
「飲み物でも出せたら良かったんだけど」
「お構いなく。ちなみに何があるんですか?」
「紅茶と緑茶。ほうじ茶。ホットミルク。エトセトラ」
「優くんが好きなのは」
「……紅茶、かな? ジャムとか混ぜると美味しいよ」
言えば、彼女は名残惜しげに微笑む。
「……飲みたかったな、優くんの淹れてくれた紅茶」
たわいない雑談の中にさえ、湿り気がチラホラと混じり込んでいた。
彼女も分かっているのだろう。今日が……どう藻掻いても最後なのだと。
魂が身体へと戻れば、僕には幽霊の姿が見えなくなる。ルリから逃れる手立てもない。この娘から僕は見えるだろうが、それだけだ。片方は届いてるか分からない愛を伝え続け、片方は届かない想いを返し続けるなんてあまりにも辛すぎる。
「……こんな時間もいいね」
「……そうですね」
どちらからともなく手を離し、改めて固く繋ぎ直す。彼女に触れられなくなるまであとどのくらい残っているだろうか。浮かびかけた不吉な運命を、僕は頭を振って追い払った。
彼方がくれた言葉を脳内で思い返す。終わりまでの時間を出来るだけ楽しいものに。その理屈に則って考えれば、今夜、僕が取るべき道はただ一つ。別れを忘れて、ひたすらに今を楽しむことだけだ。
「……ねぇ、色んなこと話そ? もう隠さなくていいからさ、ネタは沢山あるんだ」
可能な限り普段通りに振る舞って。不要な涙は全力で先送りにして。僕はそんな提案を口にする。
彼女は僕の腕に、頬を擦り寄せながら応えた。
「優くんの話、して欲しいです」
「……前にもしなかった?」
「趣味が読書ってことしか聞いてませんよ。ちょっと物足りない」
生唾を飲み込む。
「……オーケー、なら今夜は徹夜だね」
それから僕たちは心ゆくまで生産性の低いやり取りを続けた。
まずは彼女の要望通り僕のこと。幽体離脱の件やルリからの宣告について。その次に少しだけ彼女のことを。
神社で逢う時、僕はずっと自分の生存がバレないように気を遣っていたが、彼女は彼女で慎重に言葉を選んでいたらしい。少々ややこしいが、僕の秘密に気付いているという秘密がもしも気付かれた場合、僕はもう来なくなるのではと怖がっていたそうだ。
お互いの心中を打ち明け合った後、話題の方向はもっぱら僕の日常へと移っていった。
普段はどんなことをしているか。読書以外に好きなことは。一人暮らしってどんな感じなのか。等々。本当に根掘り葉掘り聞き出された。僕自身も、彼女が楽しげに聞いてくれるのが嬉しくて、やがて自分からアレコレと話すようになった。
濃厚な時間。一秒一分一時間ごとに、伝えきれない量の幸せが募る。
――ずっと夜が明けないで欲しい。
声にして出せば涙が止まらなくなりそうだったから、代わりに心中で呟くこの願いは果たして傲慢だろうか。
理屈なんてどうだっていいのだ。二人の時間をどうか少しでも延長してくれたなら、僕は奇跡でも天変地異でも諸手を挙げて歓迎してみせる。だから……!
しかし現実は非情だった。僕たちが会話をする隣で、時計の針はもの凄いスピードで進んでいく。
そして……。
「……外、明るくなってきましたね」
タイムリミットが、いよいよ目の前にまで近付いていた。
恥ずかしいことだが僕自身、秘密は上手いこと隠し通せていると思っていた。僕から切り出すことは皆無だったし、彼女から踏み込んできたのも二日目の夜が最後だった。
僕の説明を信じている証拠だ。これまではそんな風に都合よく解釈してきたが、考えてみればそれは、きっと彼女なりの気遣いだったのだろう。
優くんって生きてますよね。と真っ向から問い詰められれば、場合によっては僕たちの逢瀬が終わりを迎えていたかもしれない。
彼女と過ごしたいがために僕は秘密を抱き、彼女もまた似たような理由で気付いていることを秘密にしていたのではなかろうか――。そこまで考えたところで、僕は思わず自嘲的な笑みを浮かべてしまった。これこそまさしく自惚れ、都合のいい解釈だ。
リビングへと続く廊下を進みながら、僕は彼女へ問い掛ける。
「いつ気付いたの?」
「一ヶ月以上前です。友達と図書館で調べ物をしていましたよね。私あの時、すぐ近くにいたんですよ」
なるほど。……そう言えばあの日、本を本棚にしまう際どこかから何かの視線を感じた。気のせいだと決めて気にしなかったが、あれは彼女だったのか。
「私が昼に何をしてたか、知りませんよね」
「……だって逢いには行けないからね」
「実は色々とうろついてました。慣れた場所なら怖くなかったので」
「……図書館以外でも僕のことも見掛けた?」
「時々。別に恨んでませんよ? 優くんを好きになった時はちょっぴり悩みましたけど」
そう、切なそうに言う。これほど説得力の無いちょっぴりを、僕は生まれて初めて聞いた。
しようと思えば言い訳も出来るだろう。真実を告げるより円滑に事が運ぶから、とか。彼女に余計な悩み事を持たせたくなかったから、とか。嘘も方便、とか。
だが何にせよ、結果としてそれが彼女を苦しめてしまったわけで。
「優くん」
そもそも恋人を騙すとか、本当にどうしてあの時の自分はあんなことを……。
「優くん」
「え?」
名前を呼ばれたことにようやく気付く。
立ち止まれば、彼女はそのまま背後から僕にしがみついてきた。手が僕の二の腕を掴み、顔と、胸の膨らみが優しく押し付けられる。
「その……そこまで気にしないでくださいね?」
しなやかな指に背中をなぞられて、身体がビクリと震えた。
「仮に最初から本当のことを話してくれたとしても、きっと私は優くんを好きになってます。同じくらいか、もしかしたらもっと悩むでしょうけど。それでも同じ相手に恋をする、確信があるんですからね」
囁くように紡がれたそれは、悶えるくらいに純粋な彼女なりの愛情表現。首元に当てられる吐息が、僕へと向ける信頼の大きさを何よりも雄弁に証明していた。罪悪感が溶かされそうになる。
「でも……嫌じゃなかった? 彼氏が嘘を吐いてるんだよ、嫌いになってもおかしくは」
「馬鹿にしないでください。そんなに浅くないです」
明るく、弾むような声。全身の末端まで速やかに染み渡る。
割れそうだ。
「私は重くて、深いですから」
「……僕だって負けてないよ」
「……」
「……ありがとね」
「……どういたしまして」
「……そろそろ中、入ろっか」
促して、僕と彼女はリビングへ足を踏み入れる。
心安らぐ七畳半のスペースは、いつも通りの微妙な散らかり具合を見せていた。大学用のショルダーバッグ一つ、筆記体を練習したルーズリーフが数枚。エアコンのリモコンや携帯電話……日本語が為し得る最大級のお世辞を用いれば、何とか整っていると言えなくもない。少なくとも座る場所はある。
女性をここへ招くのは、どこぞの黒猫を除けば今回が初だった。緊張はしていたが、想像の範囲内。存外に心は落ち着いている。
ほんの二時間前までいた筈の場所なのに、不思議と旅行帰りのような懐かしさがあった。
カーテンの隙間から月光が差し込んで、ベッドで眠る僕の顔を照らす。幾度となく幽体離脱を行ってきたが、自分の顔を見るのだけは未だに慣れない。何というか、本能的に気味が悪くなるのだ。ここに僕がいる、ではこの僕は何なのか、と。
彼女が眠っている方の僕に近付く。床に膝を付いて、僕の寝顔を至近距離で眺め始めた。
「優くんが二人いるのはお得な感じがしますね」
「お得?」
「二倍も愛してもらえますから」
「何かヤだな、それ。もう片方の僕に嫉妬しそう」
というか、現在進行形でしている。僕のくせに、生意気にも僕から彼女の視線を掠め取りやがった。万死に値する重罪だ。
などと考えつつも邪魔は出来ず。彼女が寝顔を堪能するのを、僕はすぐ隣から見守っていた。何となく恥ずかしくなってくる。……どうしてそこまで興味があるのだろう? 別に面白いものでもないだろうに。
「僕より僕を見て欲しいんだけど」
「見てますよ」
「分かってて言ってるよね?」
「はて。日本語は難しいですねぇ」
ふざけたように肩を竦めて。けれど僕の請願に応えてか、彼女はこちらへと向き直る。そうして二人一緒に、ベッドを背もたれ代わりに腰を降ろした。
「飲み物でも出せたら良かったんだけど」
「お構いなく。ちなみに何があるんですか?」
「紅茶と緑茶。ほうじ茶。ホットミルク。エトセトラ」
「優くんが好きなのは」
「……紅茶、かな? ジャムとか混ぜると美味しいよ」
言えば、彼女は名残惜しげに微笑む。
「……飲みたかったな、優くんの淹れてくれた紅茶」
たわいない雑談の中にさえ、湿り気がチラホラと混じり込んでいた。
彼女も分かっているのだろう。今日が……どう藻掻いても最後なのだと。
魂が身体へと戻れば、僕には幽霊の姿が見えなくなる。ルリから逃れる手立てもない。この娘から僕は見えるだろうが、それだけだ。片方は届いてるか分からない愛を伝え続け、片方は届かない想いを返し続けるなんてあまりにも辛すぎる。
「……こんな時間もいいね」
「……そうですね」
どちらからともなく手を離し、改めて固く繋ぎ直す。彼女に触れられなくなるまであとどのくらい残っているだろうか。浮かびかけた不吉な運命を、僕は頭を振って追い払った。
彼方がくれた言葉を脳内で思い返す。終わりまでの時間を出来るだけ楽しいものに。その理屈に則って考えれば、今夜、僕が取るべき道はただ一つ。別れを忘れて、ひたすらに今を楽しむことだけだ。
「……ねぇ、色んなこと話そ? もう隠さなくていいからさ、ネタは沢山あるんだ」
可能な限り普段通りに振る舞って。不要な涙は全力で先送りにして。僕はそんな提案を口にする。
彼女は僕の腕に、頬を擦り寄せながら応えた。
「優くんの話、して欲しいです」
「……前にもしなかった?」
「趣味が読書ってことしか聞いてませんよ。ちょっと物足りない」
生唾を飲み込む。
「……オーケー、なら今夜は徹夜だね」
それから僕たちは心ゆくまで生産性の低いやり取りを続けた。
まずは彼女の要望通り僕のこと。幽体離脱の件やルリからの宣告について。その次に少しだけ彼女のことを。
神社で逢う時、僕はずっと自分の生存がバレないように気を遣っていたが、彼女は彼女で慎重に言葉を選んでいたらしい。少々ややこしいが、僕の秘密に気付いているという秘密がもしも気付かれた場合、僕はもう来なくなるのではと怖がっていたそうだ。
お互いの心中を打ち明け合った後、話題の方向はもっぱら僕の日常へと移っていった。
普段はどんなことをしているか。読書以外に好きなことは。一人暮らしってどんな感じなのか。等々。本当に根掘り葉掘り聞き出された。僕自身も、彼女が楽しげに聞いてくれるのが嬉しくて、やがて自分からアレコレと話すようになった。
濃厚な時間。一秒一分一時間ごとに、伝えきれない量の幸せが募る。
――ずっと夜が明けないで欲しい。
声にして出せば涙が止まらなくなりそうだったから、代わりに心中で呟くこの願いは果たして傲慢だろうか。
理屈なんてどうだっていいのだ。二人の時間をどうか少しでも延長してくれたなら、僕は奇跡でも天変地異でも諸手を挙げて歓迎してみせる。だから……!
しかし現実は非情だった。僕たちが会話をする隣で、時計の針はもの凄いスピードで進んでいく。
そして……。
「……外、明るくなってきましたね」
タイムリミットが、いよいよ目の前にまで近付いていた。