風圧で浮かび上がった黒髪が、ベールのごとく肩の周りに垂れ下がる。
 鬱陶しげに首を振って、彼女はそれを背中へと追いやった。ブルーの瞳は不思議な光を伴って僕を捉え、逆らいがたい重圧で僕の足をその場に釘付けにする。
「え、え?」
 突然の出来事に戸惑う少女。ルリはその様子を一瞥してから、興味は無いとばかりに僕の方へ向き直った。
 生い茂る草を生足が踏みしめ、カサリカサリと音を立てた。猫だからだろう、裸でいることを恥ずかしがるような素振りは一切ない。僕は僕で、彼女の裸体に動揺するだけの余裕など端から残っていなかった。
 ルリはそのまま僕と少女とを繋ぐ線上に割り込み、胸の下で腕を組むと共にその首を傾げた。
「半分くらいは信じてた。信じたかったんだけどな」
「……悪かったね、期待に添えなくて」
「このままだとキミがどうなってしまうか、あたしはちゃんと伝えた筈だけど?」
「リスクは分かってる。その上で僕はここに来た」
 どんな未来も承知の上だ。きっぱりとそう告げれば、一瞬ルリは無表情になって、それからすぐに目を細めた。呆れたような、哀しげな笑み。触れれば即座に割れてしまいそうだった。
「キミはそっちを選ぶんだね。キミ自身よりキミの好きな人を」
「ああ」
「いつかは別れなくちゃならない。既に終わりの見えてる恋だよ、本当にいいの? キミの人生はまだ長い。素敵な女性にだって、これからたくさん出逢う筈」
「……ルリもしつこいな」
「は?」
 端整な顔に影がよぎる。
「これは僕とその娘のことだ。君じゃない。君は関係無い。僕らがどうなった所で、君に迷惑はかからないだろ? なのにどうしてここまで――」
「好きだからだよ」
「……へ?」
 一瞬、意味が理解出来なかった。
 今……彼女はなんて言った?
「嘘、まさか気付いてなかったの? あれだけ必死にアピールしてきたのに、全然?」
 信じられない。鈴の鳴るような声に心を掻き乱される。
 大股で詰め寄って来たルリが、僕の両肩を万力のような力で掴んだ。動けなくなった僕の鎖骨付近へ、彼女は自身が猫だった時みたく、目を閉じて頬を擦り寄せてくる。
 何度もされた、甘える仕草。けれど今夜のそれは、込められた情念が桁違いに重かった。
「好きなの。キミのことが好き。初めて出逢った雨の日からずっと、今でもキミに恋してる。縄張り争いに負けてずぶ濡れになってたあたしに、ただ一人手を差し出してくれたのがキミだったから」
「っ……でも、君は猫じゃ」
「関係無いよ。魂が恋をしたんだからね」
 僕がルリを振りほどこうとした矢先、彼女は自ずから僕を解放する。
 飛び退ってルリから距離を取れば、彼女の指先は儚げに空を掻いた。行き場を失った両手がしばらく宙を彷徨った後で、結局投げやりに垂れ下がる。
「……これで分かった?」
 わざとらしく肩を竦めて、言った。
「あたしはキミが好き。だからキミを止める。理由には十分だと思うけど」
「…………」
 とろけるような愛の言葉を、僕は沈黙で以て拒絶する。
 ルリは素敵な女性だ。
 性格が明るい。優しくて、ユーモアもある。料理だって上手だ。人と猫という種族の差を除けば、普通に仲良くなれそうだしそうしたいとも思う。そんな相手から好意を寄せられているのは、率直に言って嬉しかった。
 だけどそれでも……無理なものは無理だった。
 遅すぎる。ルリの好意を知る、その遥か前に、僕は幽霊の少女と出逢ってしまった。短くも濃厚な時を過ごし、記憶を探しつつも同時にそれ以上の思い出を造って。トントン拍子に心まで奪われた。
 ずっと一緒にいたいって、初めて思えたのが彼女だったのだ。
 僕はルリの後ろへと目を向ける。明らかに一人だけ事態を理解出来ていない様子の少女は、胸元で不安げに手を組み合わせて、先ほどまで僕とルリのやり取りを聞いていた。雲間の月光がその身を突き抜けて、仄白く、彼女を夜の中から浮かび上がらせる。
 儚げに揺らぐトルマリンの瞳。
 そこで、僕は固く拳を握り締めた。
「優、くん」
「そこにいて。……大丈夫、何とかするから」
 もう迷わない。
 もう悩まない。
 そんなことに時間を使うより、僕はただ、少しでも長く彼女の傍にいる。後でどうなろうが構わない。彼女を一人にはしない。確認するように、昨夜の覚悟を胸の中で復唱した。
 僕への好意を無下にしようとも、絶対に君の言うことは聞かない。表情だけでそう伝えれば、ルリの顔に明らかな苛立ちが滲む。
「一途だね」
「いいことじゃないか」
「自分が死ぬことになっても?」
「僕は死なない。彼女の成仏を見届けたら幽体離脱だって止める。だから……」
「駄目。昼間にも言ったでしょ、キミはもうボロボロなんだって。いつ限界が来るか分からないんだよ? 流石に看過出来ないな」
 その警告に抗うため、頑張って、僕は慣れない不敵な笑みを浮かべた。半分はあの娘を安心させるために。もう半分は僕自身を鼓舞するために。
「だから、ね? 今日はもう家に帰って」
「……君がそうしたら? ほら、早く服を取りに行きなよ。公然わいせつで捕まるよ」
「……ふぅん。ああ、そう。分かったわ、よく分かった」
 吐き捨てるようにルリが言った。
 もしかしたらこのまま諦めてくれないだろうか。頭の片隅にあった甘い考えは、その声のトーンで完璧に打ち砕かれる。避けられない争いの予感に、僕の身体が恐怖と緊張で強張った。
「優しいって損な性格だよね。他人を暖めることは出来ても、自分はなかなか報われない。酷い皮肉じゃない? ね、青年?」
「……どういう意味だよ」
 答える代わりに、ルリは背に回していた髪を束にして掴んだ。
 かぎ爪、一振り。うなじの辺りからバッサリと切り落とされる。数秒前まで自身の一部だったそれを、彼女はまるで、何か目障りな物を扱うような手つきで脇へと投げ捨てた。
 サッパリした。とでも言いたげに首を振る。ルリの顔からはいつのまにか表情が消え、悲壮な光だけが目の奥でチラついていた。
 ――次の瞬間。ルリの足がこちらに向けて地を蹴る。僕は咄嗟に身構えて応じようとしたが、それよりも彼女に懐へ入り込まれる方が早かった。
 避ける間もなく、鳩尾に拳が命中する。
「――がはっ!?」
 後方に吹き飛ばされた僕は腹を押さえて地面に転がった。殴られた痛みで涙が滲み、胃の底から這い上がって来た不快感で盛大に嘔吐く。
 草を踏みしめる音がすぐそこまで近付いてきていた。