最高に清々しい朝だった。
 身体は妙に重たかったが、心は軽く、そしてどこまでも晴れ渡っていた。
 身体の隅々にまで行き渡った幸福感が、僕の心に羽根を生やしたみたいだった。今なら空だって飛べそうな気がする。ホップ・ステップ・フライング、なんちゃって。気分はまさしく有頂天。雲を突き抜けて宇宙にまで到達している。ちなみに現在は火星の辺りだ。太陽系離脱まであと数時間の見通しである。
「ふんふんふーん、ふふふんふんふーん」
 今世紀最大の上機嫌で僕は鼻歌を口ずさんでいた。そのままゴロゴロとベッドの上で転がり。布団を抱き締めたり足をバタつかせたりし。更には目を閉じた状態で、昨夜のやり取りを思い返して口元をニヤけさせるなどした。
 傍から見れば、さぞ気色悪かったことだろう。
 浮き立つ心が僕を限りなく寛容にしていた。不安や悩みが綺麗さっぱり消え去って、代わりに謎の奉仕精神が湧き上がってくる。ボランティア上等。無賃労働だって引き受けてみせよう。それだけでなく、この憎むべきしぶとい残暑でさえ、ポカポカな春の陽気と同じに思えてしまうのだから幸せとは本当に不思議なものだ。
「恋人、か」
 試しに呟いてみると、実感が一回り増した気がした。
「恋人かぁ……!」
 実にいい響きだった。
 昨夜はあれからどこにも出掛けず、神社の敷地内で彼女との時間を楽しんだ。
 簡単に言えば、イチャイチャしたのだ。
 両想いになれた喜びと、元から存在する深夜テンションの魔法が合わさって、僕たちの舌は驚くほど饒舌になった。手を繋いだり抱き締めたり。人前では恥ずかし過ぎて口に出来ないような言葉もたくさん囁きあった。……それ以上の進展は、流石に無かったけれど。あの状況でも奥手のままなあたり、やっぱり僕は僕なのだと感じる。
 幸せに任せて作った朝食はいつもより豪華になった。ご飯、みそ汁、ベーコン付きの目玉焼き。ハムとレタスで即席のサラダまで作ったが、流石に食べきれなかったので昼飯に回す。
 食後の紅茶にはカナダ産の蜂蜜をたっぷりと溶かし入れた。甘みと渋みが混ざったような、独特の風味をじっくりと堪能しながら、僕は相棒のノートパソコンを手元に引き寄せる。
 忘れぬ内に、調べたいことがあるのだ。
 ブラウザを起動。『福岡県 交通事故』でひとまず検索をかける。
 探しているのは彼女に関する情報。言い換えるならばその死因だ。
 確定ではないが彼女の証言から考えるに、彼女は事故によって命を奪われた可能性が高い。ならば県警のホームページやウェブ上のニュースサイトで、その事故のこと取り上げられていてもおかしくはない筈だ。
 見付かるかは分からない。たとえ目当ての物に辿り着いても、このご時世、十中八九個人情報は伏せられているだろう。
 けれどそれでもいい。少しでも……僕は情報が欲しかった。贅沢は言わない。何か、彼女に関して新しいことが分かれば……。
「っ、これ――」
 十といくつかのハズレくじを越えて、ついにアタリを引き抜いた。
 それは福岡市で起きた交通事故に関する記事。日付はおよそ三ヶ月前だ。信号無視のトラックが歩行者を轢き、二名が死亡、他数名が重傷。被害者の中には学生もいた。そう書いてある。
 ヘリから撮ったのだろう、痛ましい現場の俯瞰写真が、僕の脳裏にある一つの記憶を呼び起こした。
 僕は……これを知っている。
 第一報は夜の地方ニュースだった。自分と同じ九鳥の学生が巻き込まれたと聞いて驚いた。友人同士の間でも一時話題になり、大学が交通安全についてうるさく言うようになったのもこれが切っ掛けだ。
 淡々と記された事故の概略を読みながら、僕は何とも言えない無力感に包まれていた。
 朝靄のごとくぼんやりしたものだった彼女の死が、初めて形を持って目の前に現れた気がした。
 変えようのない、既に起きてしまった悲劇に僕は歯を食い縛る。
 理不尽だ。
 ああして会話が出来るのに。動いて、喋って、笑顔だって浮かべてくれるのに。僕らの心はこんなにも近いのに、やっぱり僕たちは隔てられているのだ。
 しかし一方でこの事故が無ければ、彼女と僕が出逢うことも無かった訳で。
「……何なんだよ、もう」
 ため息が漏れる。そこで、僕はパソコンの電源を落とした。
 僕はよく、色んなことを悩む。だけどこれは悩んでも仕方のないことだ。
 気分転換に散歩でもしようか。そう思った僕が立ち上がった直後、玄関のインターホンが高らかに鳴り響く。
 来客だ。誰だろう? 連絡も無しに家へ押しかけてくるやつなど、僕の友人にはいない。宅配便の類も特に頼んでいない筈だが。
 訝しみながら玄関へ向かう。不審者だったらすぐに閉められるよう身構えながら、僕は慎重に扉を開けていき……。
「……え?」
 直後に身体が固まる。
 目に飛び込んできたのはあまりにも予想外の相手。一瞬、自分の目がおかしくなったかとまで思った。
「おはよう。あるいはグッドモーニングかな」
「どうして、君がここに……」
「驚いてるね。まぁ、それも仕方ないか」
 鈴の鳴るような声でそう言って。彼女――惣菜屋のお姉さんは、フワリと柔らかな微笑みを浮かべてみせる。
「ちょっと突然だったかなって自分でも思うし」
 白のシャツとデニムのハーフパンツは、初めて目にする彼女の私服姿。理解が追いつかずにいる僕から、彼女は手早くドアの主導権を奪い取る。そしてそのまま、有無を言わせぬ勢いで全開にした。
「ちょ、ちょっと! いきなり何を――」
 不意の奇行に僕は面食らう。咄嗟に取り返そうとしたが、胸に手を当てられただけで僕の動きは完全に押さえ込まれてしまった。細身の姿からは想像も付かないような力強さに、僕はもの凄く動揺した。
 何だ、これ――?
「まあ落ち着いて。大丈夫。後できちんと説明するから、取り敢えずここは開けといてくれるかな? 閉め出されたくはないからね」
 僕が渋々引き下がれば、お姉さんは満足げに「よし」と呟いた。
 寝間着姿で浴びるには幾分か冷たすぎる風が、彼女の黒髪を盛大に吹き上げていく。その時、僕はハッと息を飲んだ。彼女の表情はいつも通り穏やかで……けれどそれでいて、どこか悲哀を帯びているように見えたのだ。
「良い朝だね、青年」
「……何のつもり。そもそもどうやって僕の家を見つけたの? 君には教えてない筈だけど」
「簡単だよ。だって知ってるもん」
「っ、そんな訳無い!」
「だけどこうして、あたしはここにいるでしょ?」
 その一言で困惑が警戒に変わった。僕は手を伸ばし、ドアノブを彼女から奪い返す。
 お姉さんとはこれまでに何度も顔を合わせてきた。色々なことを話して、親しい顔見知りくらいの関係にはなった。だがいきなり家まで押しかけてこられれば、誰だって恐怖を覚える。知らぬ間に家を特定されていれば、尚更だ。
 両足に力を込めて、僕は強引に扉を引き寄せようとした。
「待って! 閉めないで。誓うから。キミに危害を加えたりはしない。あたしは警告をしにきたの」
「……警告?」
 気になる単語に動きを止める。
「そう。その様子だと、多分気付いてはいないのかな」
 お姉さんは眉をひそめた。一拍置いて、続ける。
「キミ、このままだと死んじゃうんだよ」
 長い睫の向こう側で、二つの瞳が陽光を反射して煌めいている。
 その色は……深いブルーだった。