月の綺麗な夜だった。
 長い長い葛藤の末。ようやく覚悟を決めた僕は、いつも通り魂だけの姿になって、彼女の待つ三橋神社へと歩を進めていく。
 世界はいつもより静かで、県道を通る車も心なしか数が少ない。草むらから響く虫たちの鳴き声が、僕の心にささやかな安らぎを与えていた。
 昔から暗いのが苦手だった。けれど今は違う。清涼な闇を心地良いと感じられるのは、もしかすると彼女に出逢ったからだろうか。
 そんなことを思っていると、不意に何かが目の前を横切る。
 驚いて目線を向ければ、それは見覚えのある一匹の黒猫だった。尾を揺らしながら僕の足下へ近寄り、ブルーの瞳で興味深げに見つめてくる。
「……ルリ?」
 応えるように、にゃんと鳴いた。
 どうやら彼女には……僕が見えているらしい。そう言えば以前、動物は“そっち方面”の勧も鋭いと彼方から聞かされたことがある。
 僕の足首にルリが頭を擦り付けようとして、すり抜けた。もう一度試すが、もちろん結果は同じ。僕がその様子を見守っていると、ルリは自分の行動に意味が無いことを理解したのか、不思議そうな顔をして座り込んだ。
「ごめんね、今度また構ってあげるから」
 僕が言えば、また鳴き声が返ってくる。会話をしているようだった。
「応援してて」
 麗しき孤高のお姫様に別れを告げ、僕は歩みを再開する。
 惣菜屋の前を横切って、緩やかなカーブを曲がった。道の脇に竹林が現れれば神社はもう目と鼻の先だ。
 鳥居から祠まで短くも真っ直ぐに伸びる参道は、二人だけの世界へ続く唯一の出入り口。
 石段を登った先、苔むした岩にゆったりと腰掛けて、彼女は僕を待っていた。
 僕を見つけるやいなや、本来は桜色であろう唇が緩やかな三日月を形作る。
 豊かな黒髪が風になびいて、胸の膨らみの上へかかった。艶やかな指先でそれを掻き上げてから、彼女は嬉しそうに手を振る。そしてそのまま立ち上がり、僕の方へと駆け足で近付いてきた。
「こんばんは」
「こんばんは。今日はどこに行きましょうか」
「どこにしようか? 時間の許す限り、どこへでも」
 たったこれだけの会話なのに、僕はもう笑顔になっていた。楽しい、と心から思う。幸せに実体があるとしたら、きっとこれがそうだ。
 取り敢えず座って話そっか。岩を指差し、僕はいつかの彼女みたいなことを言う。
 彼女も了承し、二人並んで腰を降ろした。あの日はただ難儀でしかなかった岩の狭さが、今では彼女に寄り添って座るための言い訳になっていた。
「はみ出してませんか?」
「問題無い。そっちは?」
「二割くらい宙に浮いてます」
「……」
「……詰めてもいいですか」
「……どうぞ」
 肩と肩がくっつく。
 覚悟は決めたものの、いざ告白するとなると簡単には切り出せなかった。
 やっぱり言わないでおこうか。そんな感情が浮かびかけたが、頭を振って追い払う。
 胸の痛みには無視をする。失敗したらお別れ、成功しても高確率でお別れ。けれどその事実を許容してしまえるくらいに、僕は彼女のことが好きだった。
 成仏し、孤独から抜け出して、楽になって欲しかった。
 迷って悩んで動かない。優柔不断ないつもの自分は……今日でもうおしまいにしよう。
 身体を反らせ、ふと、頭上の天空を仰ぐ。雲も無く、無駄な明かりに邪魔されず見るそれは、彼女の瞳と色がよく似ていた。巨大なキャンパスに金箔の粉をまき散らしたみたいだった。
「……星が綺麗だ」
「本当に」
「……」
「あれが彦星ですかね?」
「そしたら織り姫はあっちだね」
 普段なら緊張で舌も回らなくなりそうなのに、今夜ばかりはどういう訳か、この夜のように心が落ち着いていた。
 人の感情は強要しえない。
 けれど出来るなら、彼女も僕と同じ想いであって欲しい。そんな願いを、来るかも分からぬ流れ星に予約する。
 僕たちの周囲を沈黙が満たす。星の瞬きに合わせて、僕は何度かまばたきを繰り返した。
 大丈夫、言える筈だ。
「……ねぇ」
「はい」
「えっと、あのさ」
「はい」
 ぎゅっと目を閉じる。
「……好きだよ」
「……はい」
「……」
「……私も好きですよ」
「やった」
 思わずそんな声が漏れた。
「やった、って何です。やった、って」
「だって嬉しかったんだもん。君が頷いてくれて」
「っ! なる、ほど……」
 そうして押し黙ったかと思えば、次の瞬間には肩の力を抜いて「そっか」と微笑む。
「好き、だったんですね。私のこと」
「うん。大好きだよ」
 すると彼女は顔を手で覆って、転がっていきそうな勢いで身体を丸めた。
「何、どうしたの」
「……ちょっと待っててください」
「えっ」
「話しかけないでくださいっ……! 優くんの声を聞くと、もう、ドキドキが収まらなくなりそうなんです。お願いですから待ってて……!」
 懇願するような声色に心臓がドキリとなり、恥ずかしげな仕草に本能的な欲求が煽られる。
 そしてそれを皮切りに、心のダムを突き破った恋情が全身へと染み渡り始め。耐えきれなくなった僕は両の拳に力を込めて、遅れてやって来た高揚を押さえ込もうとした。
 好きだと言えた。
 好きだと言ってもらえた。
 はじけそうな程に胸が高鳴って、熱を帯びた頭は夜風でも冷やしきれない。
 嬉しい。嬉しい。嬉しい……!
 今までにない感情だった。
 二十年の人生において、胸躍る出来事はそれなりに多かった。けれどどの瞬間を取り出してみても、これには敵わない。勝負にすらならないだろう。
 彼女と両想いになれて、僕はこの上なく幸せだった。
 ただし――。
「顔を上げて」
 浮かれてばかりもいられない。
 僕の想いが届いた……それすなわち、彼女の未練が叶ったということでもある。予想が正しければ、彼女はまもなく成仏してしまうのだ。
「ねぇ、お願い。もっと君を見せてよ」
 応えて、彼女が身体を起こした。
 薄々勘付いてはいたのだろう、自分はもうすぐ消えると。瞳の端に涙が滲んでいる。彼女の晴れやかな表情がせめてもの救いだった。
 余計な説明は必要なかった。どちらからともなく手と手を重ねて、指と指とを絡め合わせる。いわゆる恋人繋ぎ。カップルの特権。
「……可愛い」
「……カッコいい」
 悲しいけど、泣かない。何故ならこれは喜ぶべきことだからだ。別れを嘆いても意味は無い。最後は笑顔で送り出す、予めそう決めていた。
 深呼吸。情けない言葉は奥深くに閉じ込めて、僕は彼女を見つめつつその時を待つ。
 しかし。
「……あれ?」
 いつまで経っても、何も起きなかった。僕と彼女は揃って首を傾げる。
「変だな、てっきり」
「成仏していくものかと。どういう訳なんでしょう?」
「君がまだ満足していないのか、あるいは未練が違ったか。それとも……」
「う、嘘じゃありませんからね! 私は優くんのこと、好きですから! 本当ですから!」
「オーケーオーケー。目を見ればそれは分かるよ」
 必死になって主張する彼女を、僕は苦笑いしながら宥める。
 想定外の事態だった。
 彼女も僕を好いてくれている。ならば、僕が想いを告げることで彼女の未練も満たされる筈。だが実際はそうならなかった。
「自分でも分からないんですよ。私って思ってるより欲深いのかも」
「もしくは君自身でも気付いていない、別の願い事があるとか」
「……どっちでしょうか」
「僕に訊かれてもな」
 答えられる訳がない。人の心は読めないし、どれだけ想像を巡らせてみたところで、結局彼女の自己申告しか判断の材料は無いのだ。
「今後の課題にしようか」
 何だか拍子抜け感が否めなかった。永遠の別れまで覚悟して来たのに、普通に成功して終わってしまった。悩み尽くしたあの時間は一体何だったのだと、思わずため息が漏れた。
 ……ただまあ、それはそれとして。 
「これで、まだしばらくは一緒にいれるね」
「……いいんですか?」
「だって、君が好きだもの」
「でも、優くん、本当に……?」
「二度は言わない」
 彼方の言葉が脳内に蘇ってくる。曰く、万物には等しく終わりがある、と。
 確かにその通りだ。どんなものも時の流れには勝てない。永遠を誓った夫婦も最後には死によって引き裂かれるように、僕と彼女だっていつかは別れの夜を迎える。
 だが今日じゃない。
「約束するよ。君が成仏する日まで、僕は一緒にいる。いさせて欲しいんだ」
 どういう縁か偶然か、僕たちの仲はまだ続く。
 続けることが出来るのだ。
「もしかして……重たかったりする?」
 おそるおそる問い掛ければ、彼女は迷わず首を横に振った。そのまま身体を僕の方に向けると、両手を膝の上に乗せ頭を下げる。
 見惚れるくらい、綺麗な動作だった。
「ふつつか者ですが、よろしくお願いします」
 幾分か気の早い返事に、つい吹き出してしまう。
 大切な人との大切な時間が途絶えずに済んだことを、僕は無邪気にも喜んでいた。