それから色々と試してみた結果、どうやら僕は幽体離脱をしてしまったらしいことが分かった。
そんな非現実的な、と切って捨てたいところだが、納得のいく説明はそれしか思い付かない。目の前に広がる自室の風景は、幻覚にしてはリアル過ぎる。そして夢にしては緻密過ぎるのだ。
例えば本棚の中身。そこに並ぶタイトルは、記憶にあるそれと一致している。背表紙の一字一字さえくっきりと見て取れた。
夢なら、大抵ここでガタが出る。ぼやけて読めなくなったり、意味不明な文字列に変化したり。少なくとも現段階で、そのような変化はなかった。
「……これからどうしよう」
呆然と一人言を言う。
最初こそ驚き怯えたものの、冷静になるまで時間はかからなかった。
床に座って、半透明になった己の手を眺めてみる。向こう側が透けて見えるというのは、とんでもなく奇妙な感じがした。
ちなみに衣服は、着ている感覚が無いだけでちゃんと身に纏っていた。元々は就寝時と同じ寝間着だったが、これはどうなっているのかとあれこれ弄くり回し、最終的に自分の中にあるイメージと一致することが分かった。そんな訳で、今は普段通りの私服に変わっている。
顔を傾ければ、カーテンの隙間、夜空の彼方に綺麗な満月が浮かんでいるのが見えた。
立ち上がって外の様子を窺う。誰もいない道を、街灯が律儀に照らしていた。その先に広がるのは漆黒の地平。田畑の中に電柱は立てられないから、そこだけ暗闇になってしまうという訳だ。遙か遠くに見える駅前の明かりと合わさって、あちらとこちらの間に海峡が横たわっているような錯覚を覚えた。まるで別世界だ。
「外、出てみようかな」
ふと、そんなことを思い付く。
脳内で再生されるのは、オカルト好きなとある友人の話。曰く、彼も以前に幽体離脱のような経験をしたそうで、その時は気付いたら元に戻っていたという。
そこから考えるに、僕が何かせずとも魂は自ずから身体へと帰るだろう。これからささやかな夜の探検に出掛けたところで、さしたる問題は起きない筈だ。
もちろん恐怖もあったが、好奇心の方が強かった。この身で何が出来るだろうか。どこまで行けるだろうか。
僕は玄関へ向かった。ドアノブを掴もうと伸ばした手がすり抜ける。もしやと思ってそのまま前に進めば、何の抵抗もなく身体が扉を突き抜けた。
考えてみれば当然のことだ。僕は今……幽霊と同じなのだから。
「……ふふ」
何だかワクワクしてきた。
アパートの階段を降り、エントランスから道路へ。そこで、バイト帰りらしき青年とすれ違った。ぶつかりそうになって咄嗟に脇へ飛び退いたが、相手は構わず進んでいく。僕の姿は見えていないようだった。
大学を取り敢えずの目的地に決め、僕は夜の道を歩く。
時間が時間だからか、ほとんどの家は電気が消えていた。さっきの若者以外に人を見掛けることもなく、世界が電源を切ったみたいに静まり返っている。都会では味わえないだろう静謐さだ。
ここで新たな発見があった。コンビニの明かりは、夜闇の中でとんでもなく目立つ。砂漠のオアシスがごとく、遠くからでも簡単に見つけてしまえるのだ。
せっかくなので立ち寄ってみる。驚いたことに、自動ドアのセンサーは僕を探知した。
誰もいない筈なのに一人でに開いた自動ドアを見て、店員が恐怖の表情を浮かべていた。どうやら怖がらせてしまったらしい。ごめんよ名も知らぬ店員さん、と心の中で謝っておく。
ホームセンターの角を曲がって県道に出た。社会一般の認識から言えば、この辺りは田舎だ。左手には田んぼ、右手には鬱蒼と茂る竹林。幾重にも重なった虫たちの声が、心地よい音楽になって僕の鼓膜を揺らしていた。
実は、この竹林の中には神社があって、道からでもその赤い祠を拝むことが出来る。
名前は三橋神社。とは言っても、小ぶりで手入れもされていないため、寂れて半ば枝葉に呑み込まれかけているのだが。
木々の影から鳥居が顔を覗かせた。月光の下で、それは記憶にあるよりも一回り大きく、不気味に映って見える。
意を決して、僕は神社の敷地内に足を踏み入れてみた。
近付くと、祠の荒れっぷりが手に取るように分かる。屋根の瓦は欠け、木材の部分には苔が生え。歴史に埋もれる一歩手前だった。
そう言えば、この神社にはとある噂があった気がする。前にオカルト好きの友人が教えてくれたのだ。何だったっけ。……忘れた。また会った時に訊いておこう。
一応、礼儀として頭を下げてから、僕は戻ろうと後ろを向く。
「……っ!?」
そして直後に息を飲む。
僕のすぐ近く、手を伸ばせば届きそうな位置に……一人の少女が立っていたのだ。
可憐な姿だった。
道ですれ違ったら思わず二度見をしてしまいそうな程に。
まず目を引くのは肩まで垂れる黒髪。絹糸のように艶やかで、柔らかそうな質感をしている。肌は綺麗でみずみずしく、身長は僕より少し低め。年齢は僕と近そうだ。
完全に僕の主観だが、こんな娘が大学にいたら男たちはさぞ大騒ぎするだろう。
夏には似合わぬスカートとロングカーディガンが、彼女の動きに合わせて小さくたなびいている。
木の葉の隙間を縫って降り注ぐ月光は、スポットライトのように彼女を照らし、そしてその下の地面へと達する。目の前の光景に僕は違和感を覚え……すぐに、その正体に行き当たった。
向こう側の景色が、透けている。
それが意味することを認識した僕の首筋に、ぞわりと悪寒が走った。
僕の動揺を嗅ぎ取ったか、少女は大股で僕の方に接近してくる。
恐怖で身体が動かない。もしかして僕を襲う気なんじゃ。嫌な予感が脳裏によぎる。だが僕の予想に反し、彼女は人一人分の間を置いて立ち止まった。
そして。
「……?」
手を持ち上げて、僕の目の前でヒラヒラと振ってみせた。
反応に困った僕が何もせずに様子を窺っていると、彼女は不思議そうに首をかしげてから、手の振る向きを左右から上下に変える。そしてさらに一歩、僕の方に詰め寄ってきた。
宝石のような瞳が至近距離から覗き込んでくる。そこには敵意も、悪意も感じられない。可愛い女性に迫られる緊張と、訳が分からないという混乱で、僕は目を白黒させた。
……いや、待てよ。
もしかするとこの人は、自分の姿が僕から見えていることに気付いていないだけなのでは……?
「……こんばんは?」
「ひぃぁ!」
「うわっ!?」
彼女の悲鳴にビクリとなった。心臓に悪い。
「す、すいません! いきなり声を掛けられて、びっくりしちゃって」
少女は慌てて僕から距離を取ると、気まずそうな表情でそう言った。
鈴の鳴るような綺麗な声。僕の中にあった警戒心が、少しだけ解けていく。
「違うかなって思ったけど、やっぱり見えてたんですね」
「……うん。君みたいなのを見るの、初めてだったから。驚いてただけ」
「それを言うなら、私が見える人に会うのも初めてです。他の人はどれだけ呼んでも応えてくれなかったのに」
少女が不服そうに言う。だろうね。少女の姿を見つつ、僕は内心でそう思った。
「一般人には難しいんじゃない? だってほら、君ってさ」
きっと彼女も理解している筈だ。だけどそれでも、肝心の部分は口にするのが憚られて、代わりに僕は彼女の身体を指差す。彼女は両手を天に透かしながら、諦め気味にその肩を落とした。
「やっぱり、分かっちゃいますよね」
足下に散らばっていた落ち葉が、数枚、不意の夜風に煽られて舞い上がる。彼女の方に飛ばされていったそれは、何の物理的抵抗を示すことも無く、彼女をすり抜けて鳥居の彼方へと消えた。
うっすらと彼女が微笑む。見ている側の心が痛くなるくらい、哀しげに。
「そうです。実は私、もう死んでるみたいなんです」
そんな非現実的な、と切って捨てたいところだが、納得のいく説明はそれしか思い付かない。目の前に広がる自室の風景は、幻覚にしてはリアル過ぎる。そして夢にしては緻密過ぎるのだ。
例えば本棚の中身。そこに並ぶタイトルは、記憶にあるそれと一致している。背表紙の一字一字さえくっきりと見て取れた。
夢なら、大抵ここでガタが出る。ぼやけて読めなくなったり、意味不明な文字列に変化したり。少なくとも現段階で、そのような変化はなかった。
「……これからどうしよう」
呆然と一人言を言う。
最初こそ驚き怯えたものの、冷静になるまで時間はかからなかった。
床に座って、半透明になった己の手を眺めてみる。向こう側が透けて見えるというのは、とんでもなく奇妙な感じがした。
ちなみに衣服は、着ている感覚が無いだけでちゃんと身に纏っていた。元々は就寝時と同じ寝間着だったが、これはどうなっているのかとあれこれ弄くり回し、最終的に自分の中にあるイメージと一致することが分かった。そんな訳で、今は普段通りの私服に変わっている。
顔を傾ければ、カーテンの隙間、夜空の彼方に綺麗な満月が浮かんでいるのが見えた。
立ち上がって外の様子を窺う。誰もいない道を、街灯が律儀に照らしていた。その先に広がるのは漆黒の地平。田畑の中に電柱は立てられないから、そこだけ暗闇になってしまうという訳だ。遙か遠くに見える駅前の明かりと合わさって、あちらとこちらの間に海峡が横たわっているような錯覚を覚えた。まるで別世界だ。
「外、出てみようかな」
ふと、そんなことを思い付く。
脳内で再生されるのは、オカルト好きなとある友人の話。曰く、彼も以前に幽体離脱のような経験をしたそうで、その時は気付いたら元に戻っていたという。
そこから考えるに、僕が何かせずとも魂は自ずから身体へと帰るだろう。これからささやかな夜の探検に出掛けたところで、さしたる問題は起きない筈だ。
もちろん恐怖もあったが、好奇心の方が強かった。この身で何が出来るだろうか。どこまで行けるだろうか。
僕は玄関へ向かった。ドアノブを掴もうと伸ばした手がすり抜ける。もしやと思ってそのまま前に進めば、何の抵抗もなく身体が扉を突き抜けた。
考えてみれば当然のことだ。僕は今……幽霊と同じなのだから。
「……ふふ」
何だかワクワクしてきた。
アパートの階段を降り、エントランスから道路へ。そこで、バイト帰りらしき青年とすれ違った。ぶつかりそうになって咄嗟に脇へ飛び退いたが、相手は構わず進んでいく。僕の姿は見えていないようだった。
大学を取り敢えずの目的地に決め、僕は夜の道を歩く。
時間が時間だからか、ほとんどの家は電気が消えていた。さっきの若者以外に人を見掛けることもなく、世界が電源を切ったみたいに静まり返っている。都会では味わえないだろう静謐さだ。
ここで新たな発見があった。コンビニの明かりは、夜闇の中でとんでもなく目立つ。砂漠のオアシスがごとく、遠くからでも簡単に見つけてしまえるのだ。
せっかくなので立ち寄ってみる。驚いたことに、自動ドアのセンサーは僕を探知した。
誰もいない筈なのに一人でに開いた自動ドアを見て、店員が恐怖の表情を浮かべていた。どうやら怖がらせてしまったらしい。ごめんよ名も知らぬ店員さん、と心の中で謝っておく。
ホームセンターの角を曲がって県道に出た。社会一般の認識から言えば、この辺りは田舎だ。左手には田んぼ、右手には鬱蒼と茂る竹林。幾重にも重なった虫たちの声が、心地よい音楽になって僕の鼓膜を揺らしていた。
実は、この竹林の中には神社があって、道からでもその赤い祠を拝むことが出来る。
名前は三橋神社。とは言っても、小ぶりで手入れもされていないため、寂れて半ば枝葉に呑み込まれかけているのだが。
木々の影から鳥居が顔を覗かせた。月光の下で、それは記憶にあるよりも一回り大きく、不気味に映って見える。
意を決して、僕は神社の敷地内に足を踏み入れてみた。
近付くと、祠の荒れっぷりが手に取るように分かる。屋根の瓦は欠け、木材の部分には苔が生え。歴史に埋もれる一歩手前だった。
そう言えば、この神社にはとある噂があった気がする。前にオカルト好きの友人が教えてくれたのだ。何だったっけ。……忘れた。また会った時に訊いておこう。
一応、礼儀として頭を下げてから、僕は戻ろうと後ろを向く。
「……っ!?」
そして直後に息を飲む。
僕のすぐ近く、手を伸ばせば届きそうな位置に……一人の少女が立っていたのだ。
可憐な姿だった。
道ですれ違ったら思わず二度見をしてしまいそうな程に。
まず目を引くのは肩まで垂れる黒髪。絹糸のように艶やかで、柔らかそうな質感をしている。肌は綺麗でみずみずしく、身長は僕より少し低め。年齢は僕と近そうだ。
完全に僕の主観だが、こんな娘が大学にいたら男たちはさぞ大騒ぎするだろう。
夏には似合わぬスカートとロングカーディガンが、彼女の動きに合わせて小さくたなびいている。
木の葉の隙間を縫って降り注ぐ月光は、スポットライトのように彼女を照らし、そしてその下の地面へと達する。目の前の光景に僕は違和感を覚え……すぐに、その正体に行き当たった。
向こう側の景色が、透けている。
それが意味することを認識した僕の首筋に、ぞわりと悪寒が走った。
僕の動揺を嗅ぎ取ったか、少女は大股で僕の方に接近してくる。
恐怖で身体が動かない。もしかして僕を襲う気なんじゃ。嫌な予感が脳裏によぎる。だが僕の予想に反し、彼女は人一人分の間を置いて立ち止まった。
そして。
「……?」
手を持ち上げて、僕の目の前でヒラヒラと振ってみせた。
反応に困った僕が何もせずに様子を窺っていると、彼女は不思議そうに首をかしげてから、手の振る向きを左右から上下に変える。そしてさらに一歩、僕の方に詰め寄ってきた。
宝石のような瞳が至近距離から覗き込んでくる。そこには敵意も、悪意も感じられない。可愛い女性に迫られる緊張と、訳が分からないという混乱で、僕は目を白黒させた。
……いや、待てよ。
もしかするとこの人は、自分の姿が僕から見えていることに気付いていないだけなのでは……?
「……こんばんは?」
「ひぃぁ!」
「うわっ!?」
彼女の悲鳴にビクリとなった。心臓に悪い。
「す、すいません! いきなり声を掛けられて、びっくりしちゃって」
少女は慌てて僕から距離を取ると、気まずそうな表情でそう言った。
鈴の鳴るような綺麗な声。僕の中にあった警戒心が、少しだけ解けていく。
「違うかなって思ったけど、やっぱり見えてたんですね」
「……うん。君みたいなのを見るの、初めてだったから。驚いてただけ」
「それを言うなら、私が見える人に会うのも初めてです。他の人はどれだけ呼んでも応えてくれなかったのに」
少女が不服そうに言う。だろうね。少女の姿を見つつ、僕は内心でそう思った。
「一般人には難しいんじゃない? だってほら、君ってさ」
きっと彼女も理解している筈だ。だけどそれでも、肝心の部分は口にするのが憚られて、代わりに僕は彼女の身体を指差す。彼女は両手を天に透かしながら、諦め気味にその肩を落とした。
「やっぱり、分かっちゃいますよね」
足下に散らばっていた落ち葉が、数枚、不意の夜風に煽られて舞い上がる。彼女の方に飛ばされていったそれは、何の物理的抵抗を示すことも無く、彼女をすり抜けて鳥居の彼方へと消えた。
うっすらと彼女が微笑む。見ている側の心が痛くなるくらい、哀しげに。
「そうです。実は私、もう死んでるみたいなんです」