それから一週間、僕はひたすらに悩み続けていた。
 胸の奥に何かが詰まっている。この想いを打ち明ければ楽になるだろうか。何度も何度もそう思うが、どうしても勝負に出れずにいた。
 一番の原因は彼女の未練だった。
 好きな誰かから愛されること。仮に僕の告白が成功した場合、それは未練の成就を意味することになる。彼女は成仏して消えるだろう。
 もちろんそれ自体はいいことだ。だがその後に襲ってくる喪失感のことを考えるとどうしても躊躇ってしまう。
 好きな人と会えなくなるのは、悲しい。多分、僕が想像している以上に。
 成功しても失敗しても苦しい。ならばいっそ、素知らぬふりしてこのままの関係を維持し続ければ。彼女と過ごせる時間も長くなるのでは、と。どうしても考えてしまうのだ。
 しかしそうなれば、成仏を手伝うという彼女との約束を裏切ることになる。利己的な自分が果てしなく嫌になって、思考が渦を巻いて降下していく。


 最終的に僕は匙を投げた。これは……一人で考えてても決められない。
 彼方に電話をかけて、そっちに行ってもよいかと伝える。突然の訪問勧告に驚いていたが、酒を買っていくと告げれば二つ返事で了承してくれた。これは必要経費。素面のままでは相談出来そうにない。
 玄関を開けると、ルリがいた。いつものようにお行儀良く座っている。
「ごめんね、余裕が無いんだ」
 食料を与えられないことに謝罪すれば、理解しているのかいないのか。ルリはにゃんと一声鳴いた後、途端に僕から興味を失ったようになって毛繕いを始めた。能天気なものだ。
 チューハイを二缶コンビニで調達し、彼方の家の扉を叩く。僕と同じく、彼もまたアパートで一人暮らしだ。しかも角部屋。何気に良いところに住んでいる。
 鍵の回る音がして、彼方が中から扉を開けた。「よう」「やあ」端的なやり取りを交わした後、僕は室内へ招き入れられた。
「散らかってるけどまあ許せ」
 突然の来訪にも関わらず、彼方にその理由を問い詰める気は無いらしい。何かあることは気付いているだろうに。きっと僕が話すのを待つつもりなのだろう。
 その心遣いがありがたかった。



 途中でつまみを買い足しながら、およそ一時間後。
「微妙に書くことが足らなくて困ってるんだ。調査に進展もない。どうすればいいと思う?」
「……いや? 知らない」
「何か捻りだしてくれ」
「それを考えるのが彼方の役目じゃなくて?」
「ぬぅ……ならば実地見聞再びといくか。今度また、夜中の神社に行ってみるとしよう」
「はぁ」
「優も一緒にどうだ?」
「……遠慮しとく」
「なぜ」
「君と違って僕は夜行性じゃないんだ」
 雑談の内容は飲み始めからめまぐるしく移り変わり続け、今は彼方の作るオカルト冊子がネタに上げられていた。
 何でもこの間の調査で大した情報が得られず、このままではページ数が心許ないことになってしまうらしい。なるほどそれは一大事だ。しかし僕に出来る事は無い。だから彼方、頑張れ。
「今どのくらい書いたの?」
「写真込み六ページ」
「わぉ」
「猫の手だって借りたいんだけどな」
「生憎だけど、僕の両手は酒とつまみで塞がっているんだよ。腹の虫が何か食わせろってうるさいの、ごめんね」
「ホーリーシット! 虫の好かない話だぜ」
 互いに遠慮の無い会話と笑い声が、僕の心から一時的に苦悩を取り払っていた。
 窓の外はまだ明るい。昼間から酒盛りをしたのは考えてみれば初めてかもしれない。
 いつにも増して酔いの回りが早かった。疲れているからだろうか。僕自身、その自覚はある。
 幽霊の少女と出逢って以降、僕の毎日は間違いなく楽しいものになった。しかし一方で、彼女とどう向き合うべきかを延々と悩み続けていたのもまた事実だ。多分、自分でも思っている以上に、僕は疲労を溜め込んでいるのだろう。
 ……あぁ、そうだ。
 忘れかけていた要件を思い出す。僕が今日ここに来たのは酒を飲むためじゃない。頼れる親友に相談をするためだった。
「……ねぇ、ちょっと話があるんだけどさ」
 そっと、アルコールの缶を置く。声から真剣な話題であることを感じ取ったのか、彼方も僕に倣って飲酒の手を止めた。察しの良い友人に感謝だ。
「仮に。今、彼方に好きな人がいたとするね。その子とは既に仲良しで、一緒の時間もそれなりに多い」
「素敵だな」
「うん。だけど……そう遠くない内に、もう会えなくなることが分かってもいるんだ。こちらからは絶対に行けない、電話だって出来ないような遠くへ行ってしまうの」
 声が震える。極力平静を装っていても、動揺を完全には押さえ込めなかった。
「彼方なら……どうする? 好きだってその子に伝える? それとも……」
 何も言わずにいる?
 最後の部分は、何故だか心が口に出すことを拒んだ。
 目を伏せて考えて、僕はその理由に思い至る。
 告白するかどうかじゃない、僕は告白したいのだ。答えなんて既に出ていた。何もかも曖昧なままで終わらせるより、この想いが一方通行でないことを確かめたい。それが僕の本心だ。
 ここに来たのはその行動が正しいかどうか分からなくて、自分以外の誰かから背中を押して貰いたかっただけ。道なき道の中を、前へと進む勇気が欲しかっただけだった。
「……難しいな、それは。正しい答えなんて無いし、どっちにしたって苦しくなるのは変わらない」
「そうだね。……あくまで仮の話だけど」
「俺個人の意見でもいいか?」
 もちろん。
 頷いて、僕は彼方に続きを促す。
「これは俺の信念でもあるんだが、万物には等しく最後があると思ってる。どんな幸せも永遠ではない。だから俺は、終わりまでの時間を出来るだけ楽しいものにするのが最善だと信じてるぜ」
「それは……どんな時でも?」
「どんな時でも、どんな場合でもだ」
 きっぱりと言い切るその姿に、僕の中で絡まっていた何かがスルリと解けた。
 終わりまでを出来るだけ楽しく。彼方の言葉を脳内で反復する。長らく胸の奥にこびりついていた重荷が、音を立てて落ちていくような気がした。
 そよ風に心を洗われたような感情で、僕の口元は自然と弧を描く。
「彼方らしいや」
「答えになってたか?」
「大丈夫、ありがとね」
「いいってことよ」
 そして朗らかに笑った。
 こんな時、こいつには絶対に敵わないなと思い知らされる。度胸がある、とでも言えばいいだろうか。今みたく、人に自信を持たせるのが上手いのだ。
「“何とかなるさ”。お前の口癖だろ」
「……いや、仮の話だからね?」
「おっとそうだったな。忘れてた忘れてた」
 訳知り顔に首を振る様子を見ていると、彼方は全て分かっているんだろうなという気持ちになってくる。流石に詳細までは知らないだろうが、僕が悩んでいることは勘付かれていてもおかしくない。  
 というか、考えてみれば雑な嘘だった。何だ仮の話って。もうちょっとマシな言い方があるだろうに、まったく数分前の僕ときたら。
 ……まあ、別にいいか。勇気は貰えた。十分過ぎるくらいに。あとは、僕が一歩を踏み出すだけだ。
「……助かったよ」
 僕自身にも聞き取れないほど小さな声で呟いたのは、目の前の友人へと送る感謝の気持ち。
 そして来たるべき夜に向けた、僕なりのささやかな決意表明だった。