ものすごく長い数分間の後。
 地下鉄を降りた僕たちは、福岡城跡公園の外縁部をゆったりと歩いていた。
 元はお城の堀だろう、無数の睡蓮を湛えた池が石垣を取り囲むように遠くまで続く。数ヶ月前に個人的な用事で訪れた時よりも、水面を覆う緑の密度が上がっていた。
 姫路や熊本の城には負けるが、ここも県内ではそこそこの観光地になっている。特に外国人から人気があるようで、看板には日本語の他に、英語とハングル、中国語でそれぞれの訳が記してあった。僕たちには必要ない配慮だが。
「優くん、あそこに何かありますよ。見に行きましょう」
 彼女が前方を指差して、駆け出す。僕はそれを追いかける。
 正直に言って、こうして彼女と夜を歩くのは楽しい。出逢ってすぐの頃こそ義務感に足を動かされていたが、今ではこれが当たり前になってしまった。
 昼間は生者として暮らし、夜になれば死者のふりをしてあちこちを散策する。そんな毎日。非日常が日常になったのは、一体いつからだっただろうか。
「……っと」
 進行方向の青信号が点滅を始めた。
 思わず足が止まりかけたが、急げば渡り切れるだろうと僕は考え直す。彼女も同じ判断をしたようで、僕が車道に突入した時には、既に横断歩道の中間の位置にいた。
 しかし、そこで彼女は唐突に立ち止まる。
 右方から迫るエンジンの駆動音。華奢な身体がそちらを向くのと同時に、強烈な光が彼女を貫いた。
 トラック、一台。赤信号は見えているだろうに減速の気配も無い。
 信号無視。いや、あるいは居眠りでもしているのか。何にせよこのままでは彼女が轢かれてしまう。
 しかし当の本人は目を見開いて、凍り付いたようにそこに立ち尽くすままだった。顔は色を失って、異質さを覚える程に濃厚な恐怖と絶望の表情がそこに浮かんでいる。
 胸の奥から焦燥感が這い上がって来た。
 どうして逃げない。どうして避けない。どうして……。
「――くそっ!」
 判断までは一瞬で。
 気が付けば、僕は勢いよく地面を蹴っていた。
 世界の速度がスローモーションのごとくゆっくりになる。間に合え。たった一つの思いに心が満たされて、僕の全身を突き動かす。
 前のめりになりながら両手を伸ばした。そのまま、彼女を突き飛ばす。
 彼女の身体がトラックの進路上から離脱したのは、本当にギリギリのタイミングだった。
 やった。どうにか助けられた。あとはこのまま僕も……。
「……っ!?」
 しかしそう思った時には、既にトラックの車体が目と鼻の先にまで迫っていた。
 強烈な光で視界が真っ白になる。タイムリミットまでコンマ数秒、僕に何かが出来る筈はなかった。
 幽霊だからすり抜けたりしないかな。そんな甘い考えを砕くように、巨大なハンマーで殴られたような衝撃が僕の全身を突き抜けて。次の瞬間には、僕の身体はゴルフボールみたく盛大に吹き飛ばされていた。
「がっ……ぐ……」
 彼女を救った代償か、それとも単に運が悪いだけか。宙を舞った僕が叩きつけられたそこは、丁度トラックのタイヤが通りそうな位置。そのことを悟った僕の全身から、血の気が一斉に引いていった。
 逃げなきゃ。
「あ、あぁ――」
 しかし時間が少なすぎた。
 僕が身体を動かそうとした直後、タイヤの先端がつま先に触れる。そのまま悲鳴をあげる暇も無く、自分の身体が圧し潰されていく、悪夢のような感触が僕を襲って……。



「う、ああああああ!?」
 意識が戻った時、僕の視界には天井が広がった。
 自分の悲鳴と脈打つ心臓とで、生きているのだと理解する。背中に当たっているのは柔らかなベッドの抱擁。どうやら自室に戻ってきたらしい。
 息を落ち着けると、途端にどっと汗が噴き出してくる。ゾクリとなるような冷や汗だった。
 僕は死んだ。
 正確には、その瞬間を体験した。魂だって色々なものを感じる。痛みと恐怖と苦しみを、この上なくリアルな形で僕は味わったのだ。
 幸いにも戻ってはこれたけど、圧倒的な力で自身が破壊されていく感覚の名残は今なお精神を蝕んでくる。瞼を閉じればあの時の光景が脳内に蘇ってきて、全身の筋肉が一斉に強張った。
「っ、そうだ!」
 彼女は大丈夫か。早く戻らないと。そう思った僕は反射的に起き上がって、しかしそのまま前のめりにベッドから転げ落ちる。
 体中が痛かった。
 火傷の規模を広くした、そんな感じだろうか。足先から頭部に至るまで、あらゆる箇所が熱を帯びてズキズキする。
 喘ぎながら明かりを点けて確認すれば、生々しい、鞭で痛めつけられたかのような赤黒い跡が全身に生じていた。巨大な自動車に轢き潰されたら、ちょうどこうなりそうな形。
 その事実が意味する内容に頭がくらりとなって、僕は近くのテーブルに手をついた。
 時計の針は二時を指している。冷蔵庫から麦茶を取り出して飲んだ。一杯、さらに一杯。少しは冷静になれるかと期待してみたが、喉が潤っただけだった。
 ……思えば、僕はこれまで考えが甘かったのかもしれない。
 幽霊と一緒に過ごしていながら、死というものをどこか他人事のように捉えていた。それが変わった。
 命が尽きる感覚を疑似体験して、僕は否応なしに悟らされた。
 死ぬのは痛くて……そして正面からは向き合いきれないくらい、怖いものだということを。
 洗面所で顔を洗い、僕は鏡を見る。
 酷い表情だった。