夏休み中に読破しよう。
 そう決意して借りたシェイクスピアの『ソネット』は、一ヶ月後の今になっても遅々として読み進められていなかった。
 前回あの本を開いたのは、はたしていつのことだっただろう。記憶が曖昧だが、栞の位置はまだ半分にも達していなかった気がする。
 長期休暇の貸し出し期限は、後期の開始時まで自動的に延長されるようになっている。しかし全盛期には二ヶ月という長さを誇っていた頼みの夏休みも、今では残り二週間と風前の灯火だ。
 このままではまずい。早く読まねば……。
 そんなことを考えていると、知らぬ間に表情が険しくなっていたようだ。躊躇いつつ、彼女が服の裾を引っ張ってくる。
「……どうかしたんですか?」
「いや、ちょっと物思いをね」
「話なら聞けますが」
「そんなに深刻じゃないから、大丈夫」
 首を振って誤魔化した。所詮は一個人の読書事情だ。相談する程の事でもないし、話せば秘密がバレてしまう。
 細かな車両の振動が、座席を通して身体へと伝わってくる。終電より一つ前の電車に、いつも通りの無賃乗車を決め込んだ僕たちは、目指す駅まで十分ちょっとの旅を楽しんでいた。
 車体の傾きに連動し、つり革が一斉に揺れ動く。他の乗客はと言うと、くたびれたサラリーマンが一人いるだけで、鞄を抱えたまま船を漕いでいる。不気味さを覚えるくらいに静かだった。
「……君は『ソネット』を読んだことある?」
 試しに、そう訊いてみた。
「名前を聞いたことなら。何でしたっけ、有名な一節がありましたよね。たしか……」
「“君を夏の一日と比べてみようか”かな?」
「それです! 思い出しました、“君の方がずっと美しくて、穏やかだ”」
「最初と最後しか覚えてないんだよね。“人の世がある限り、この詩もまた残る”」
「“そして君を永遠の中で生かし続けるだろう”……相手が誰かは知りませんけど、こんな綺麗な詩を詠まれるなんて絶対に幸せ者ですよね」
 けしからん。心なしかうっとりとした様子でそう言って、彼女は目を細めた。
 電車がゆっくりと減速し、やがて一つ目の駅に停車する。今日の目的地はここではない。新たな客もいないのに、開閉する扉が虚しく見えた。
「ロマンチックなのが好きなんだ?」
「大好きです。憧れてます。物語みたいに詩的な言葉で、お洒落に愛を囁かれてみたいです。実際にはそんなのほとんど有り得ないって分かるんですけど、それでも」
 そこで、彼女は大きく息を吐いた。
「……バカみたい。こんなこと言ってると、夢を棄てきれない惨めな女みたいですよね」
 自虐なのか冗談なのか、いまいち判別がつかない。そんな声。どう返そうかと僕が悩んでいると、彼女は膝の上に手を乗せて、十本の指を絡め始める。
「私みたいな女、優くんは嫌いですか?」
 また、車両が揺れた。
「……いや? 別にいいんじゃない?」
 前を向いたまま応える。反対側の窓に、隣り合って座る僕たちの姿がぼんやりと映っていた。
「現実に辟易して過ごすより、普通にその方が幸せでしょ。僕は、夢と現実は共存出来ると思うし。そもそもどんな夢を抱いたって、誰にも迷惑はかけないよ」
 ……などといい感じに言ってみたが、あまり深くは考えていない。現実的になりすぎるのもどうなのか、ただそれだけの話だ。
 夢は心の原動力だ。お金にはならない。だけど無いよりはあった方が、人は前向きになれると思う。たとえそれがどんなものであっても。
「まぁ、夢に溺れ続けるのは人としてどうかと思うけどさ。ああだったらいいな、こうなったらいいなって、遠くを見るのもたまには必要だと思うんだ。詩的に愛を囁かれてみたい? 何が悪いの。素晴らしい願いじゃないか」
 あえて強気に言ってみた。半分くらいは、この前僕のことを肯定してくれたお礼のつもりで。
 恥ずかしくて口には出来ないけれど、あの日彼女がくれた言葉で僕は本当に勇気付けられた。君はそのままでいいんだよと、優しく背中を押されたような気がしたのだ。
 それと同じように。もしも彼女が悩んでいるなら、僕は傍に居て応援してあげたい。迷惑だったら引き下がるけど。
「夢だって語り尽くせば政治家、書き殴れば小説家になれるんだからさ。普通に持ち続けていいと思う」
 君に、この気持ちは届いているだろうか。少しでも表情が和らげばいい。
そんなことを考えていると、自然に舌が回っていく。
「それにね? これは個人的なことなんだけど。どちらかというと僕は、何事も現実的に考える人より、ちょっぴり夢見がちな女性の方が……」

 好きかなって。

「はひっ!?」
 瞬間、しゃっくりのような声が上がる。
 その主は紛れもなく彼女だった。目は見開かれ、口はあまり見ない形に歪んだまま固まっている。
 どうしたのだろう? 突然首元に氷を当てられたような驚き具合に僕はしばらくポカンとなって……数秒後、ようやく事態を理解した僕の顔が、照れと恥ずかしさで真っ赤に染まった。
 やらかしたという思いで心は一杯になり、堪えきれずに彼女から視線を逸らす。
 好きって言った。
 好きって言ってしまったっ……!
 いや待て、取り敢えず落ち着こう。分かっている。僕の言葉に他意は無い。本当に無い。彼女だってそのことは十分に理解している筈だ。
 だけど何というか。
 ちょっと言い方が変だったというか。
 場合によっては何かしらの誤解を招きかねない表現だったというか。
 つまりその、何というかとっても……!
「……違うからね」
「は、はい。大丈夫です分かります」
「今の言葉に深い意味とかは無くて、要するにその、単にそのままのあれだから。裏なんて無いから。もしかするとあるように聞こえるかもしれないけど、それは言葉の綾だから」
「言葉の綾、実に恐ろしい相手です」
「本当だよ。どうしてこんなものがあるんだろうね。あはは」
 演技力の欠片も無いような作り笑いだったが、直す余裕なんてどこにも無い。それくらいに動揺していた。
 頼む、電車よ早く目的地に着いてくれ。そうすれば話題を変えられるんだ。まだか。あと三駅。長すぎる。これでは話にならない!
 ……ふと、隣で息を吸う音がする。僕が意識だけをそちらに向けた時、彼女は優しい声で「でも」と囁いた。
「仮に言葉の綾だったとしても、私は嬉しかったですからね」
「……分かった」
「ありがとうございます、優くん」
「どういたしまして」
 彼女が身体を寄せてくる。ほんの少しだけ。けれど元からそれなりに近かったせいで、今では肩と肩とが触れ合う直前のような状態だ。
 お世辞にも、心に優しい距離ではなかった。
 全身から汗が出てきた。しなくてもいい緊張をして、僕はうんともすんとも言えずに、反対側の窓に映る自分たち二人を眺めていた。
 そうしていたら案の定、電車が不意にガタンと揺れて。
「ご、ごめんなさいっ!」
「だ、大丈夫!」
 ぶつかり合う。そして互いに、飛び退いた。
「痛くなかったですか」
「痛くない。全然。むしろ逆に元気になった。だから気にしないで」
 僕は何を言っているんだろう。
 口がまるで言うことを聞かない。なぜ? それは多分、僕の頭が機能していないからだ。冷静さなんて、今の僕にはこれっぽちも残っちゃいない。
 勇気を出して彼女を見れば、彼女もまた僕のことを見つめていて。宝石のような瞳の奥に、彼女は小さな電灯の煌めきを抱く。互いの視線が絡んで伸びて、彼女以外の人間の痕跡を、僕の思考から綺麗さっぱり消し去っていった。
 地下鉄は、まだ目的地に着かない。