八月十七日。
 九鳥大学の東、湾に面した夜の砂浜に彼女を連れて行く。
 僕は極めてインドアな人間なので、夏であっても、大勢の友人達と連れ添って海水浴に興じたりはしない。しようとも思わない。そんな訳でここは、距離こそ近いが初めて訪れる場所だった。
 林道を抜けて海岸に着くやいなや、彼女は軽やかな足取りで波打ち際まで降りていった。
 本人曰く「海派なんです」。寄せては引いてくさざ波の音を聞くと、不思議と心が安らぐらしい。
 情報面での収穫こそ無かったものの。解放感に満ちた表情で砂の上を歩く彼女の姿は、無邪気さを帯びていて可愛らしい。言い方は悪いが、とても絵になりそうな感じがした。
 水面に指を這わせてみれば、濡れはしないが冷たさは感じる。
 珍しく先行する彼女の背を追っていたら、不意に彼女は腕を後ろで組み、片足を軸にして振り返った。
「ゲームをしましょう、優くん」
「ゲーム?」
「ギリギリまで波に近付いた方が勝ち、触れてしまったら負けです」
「よかろう、受けて立つ」
 しかし無残にも三連敗した。


 八月二十二日。
 徒歩で行けそうな場所を網羅し尽くしたため、電車を使って遠出することにした。
 自転車もバスも使えないので、気持ち早足で駅まで急ぎ。ひとつまみの罪悪感と、たっぷりの背徳感に口元を歪めながら改札をすり抜け。僕たちは終電にタダ乗りを敢行する。発車時刻にはギリギリ間に合った。
 もちろん、自分たちの行動を正当化することは忘れなかった。なるほど確かに、我々は適正な運賃を支払っていない。しかしだ。今回の場合、幽霊の利用を想定しなかった鉄道会社に問題があるのではないか。
以上のような暴論を彼女にも伝えてみた。
「価格は六文より安くして欲しいですね」
 その返事がこれである。
 博多で降りた僕たちは、賑わいの消えぬ眠らない街を散策して回った。
 生前の彼女もここには何度か来たことがあるらしい。要所要所で立ち止まり、首を傾げ。時には「あっ」と声を漏らし。しかしどれも、彼女の核心に迫るような類の記憶ではなかった。
 ただ、彼女が気になった場所の特徴から推測するに、彼女はどうやら落ち着いた佇まいのカフェが好みだったらしい。僕と趣味が合うね。そんな話で盛り上がった。
 夜明けまでに神社へと戻るのは不可能だったので、博多駅の屋上で朝を迎える。実はここには展望台があって、福岡の街から遠く博多湾までを一望出来る。
「……綺麗ですね」
 風が吹き、彼女が前髪を掻き上げた。
 薄闇の下、目を細めて終わりつつある夜景を見下ろす、その横顔は妙に凜々しくて。普段とは違う雰囲気に思わずドギマギしてしまったのは……僕だけの秘密だ。


 九月一日。
 早く寝ればそれだけ彼女と長く過ごせる。そんな至極あたりまえのことにようやく気付いた。
 別にこれは、彼女と一緒にいたいとかそういうのじゃない。多くの時間を確保すればそれだけ沢山の場所を回れる、ただそれだけだ。
 迷惑ではないだろうか。少しだけ不安になりながら神社に足を運べば、彼女はまず驚き、それから笑顔になって駆け寄ってくる。
 喜びを全力で表現したような仕草に、僕は内心でホッとしてしまった。
 それと同時に、悟ってしまう。
 彼女と夜を歩くこの日々に、楽しさを感じている自分がいることに。



 九月上旬。
 夏の暑さは盛りを過ぎて、日中に外を歩くのもだいぶ楽になってきた。
 しかしやっぱり暑いものは暑い。強烈な西日に僕は呻き声を漏らす。最悪なことに、今日は日傘を忘れてしまったのだ。服が黒いせいで、余計に熱を吸って苦しい。
 いつもの惣菜屋に辿り着いた僕は、迷わずガラス戸を引き開けて中に入る。そして一つ、大きく息をついた。ここは涼しくて快適だ。
「久しいね、青年。おおよそ二週間ぶりかな」
 見慣れた黒髪が空調にはためく。微笑みと共に僕を出迎えたお姉さんは、ガラス棚の上に肘を着いてその首を傾げてみせた。
「随分と疲れてるみたいね」
「バイト終わりなんだ。しかも単発の肉体労働。もう自炊する気力が残ってなくて」
「納得。表情がくすんでるもん」
 お姉さんが僕を指差す。そんなにひどい顔をしているのか僕は。たしかに体力を使った自覚はあるが……。まあいい、帰ったらゆっくりしよう。
 タイミングが良かったらしい。僕が夕食を選んでいる横で、空のトレイが引っ込んだかと思えば。狐色の唐揚げと共に再登場した。
 香ばしい匂いに鼻孔をくすぐられる。しかし悲しいかな、あまり食欲は湧いてこない。遅めの夏バテか、最近はいつもそうだ。今夜もあっさりしたもので済ませよう。
「迷ってる迷ってるぅ」
 店内に僕以外の客がいないからだろう。ゴム手袋を外し、水道で丁寧に手を洗った後、お姉さんはレジの横を回り込んでこちら側にやって来た。そのまま僕の方に近付いて来るのを、僕は腕を上げて制する。
「あんまり寄らないで」
「……どうして?」
「今の僕、絶対に汗臭いから」
「ああね。お姉さんは気にせんよ?」
「だけどマナーってものがある」
「マナー! たしかにそうかも。青年ってば紳士的だねぇ」
 お姉さんがニヤニヤしながら言った。
 彼女のことは放って置いて、僕はガラス棚からパック詰めされた惣菜のコーナーへと視線を向ける。
 こっちの方が胃袋に優しそうだ。豚の角煮。レバニラ炒め。きんぴらごぼうにシーザーサラダまで。おそらく業者から仕入れているのだろうが、それにしても種類が豊富である。
「――おや、お客さんがもう一匹」
 ふと、お姉さんに肩を叩かれる。
 ビクリとなりつつ振り向けば、彼女は細長い指を入り口の方に向けていた。その延長線上を辿り、僕はようやくその存在に気が付く。
 茶色の猫が店の前に座って、催促するように前足で戸を叩いていた。
 思わず、口元が緩む。
「可愛い」
「時々おこぼれを貰いに来るの。味をしめちゃって」
たしなめるような言葉、しかし口調は穏やかだった。
「猫、好きなんだ?」
「好きだよー。小さい頃から色々と縁があったし。猫のことなら何だって分かっちゃうよ。例えばあの子……本日はビーフよりフィッシュの気分だ」
 お姉さんは奥から小魚の切り身を持ってくると、猫の目の前に置く。それから僕にウインクを送った。
「裏のオバサンには秘密ね?」
 店長さんのことだろう。
「気にしないよ。僕だって似たようなことしてるし」
「あら、キミのとこにも来てるんだ?」
「別の子がね。三ヶ月くらい前、道端でずぶ濡れになってたのを拾ったんだ。翌朝には逃げられたけど、ちょくちょく会いに来てくれる」
「へぇ」
「野良にしては綺麗な黒猫でね。僕はルリって呼んでる。目の色がブルーなんだよ。手を出すと頭を擦り付けてきてさ。甘えてくるのが本当にもうめちゃくちゃ可愛い」
「……へぇ」
お姉さんは目を細めた後、「嬉しいな」と独白するように呟く。
「どうして?」
「……キミとあたしと、似たもの同士みたいだから?」
「ちょっとよく分かんないんだけど」
 お姉さんはそれには応えず、カウンターの内側に戻って作業を再開した。片手にプラスチックのトレー、もう片方にはトングを持ってカチカチと打ち鳴らす。威嚇をしているようだ。早く選べということか。
 少し迷って、僕はお姉さんに注文を伝える。予定通り油っこいものは控え、ポテトサラダとレバニラ炒めに決めた。
 袋詰めをしながら、お姉さんがふと口を開く。
「きっと、その黒猫はキミのことが好きなんだろうね」
 多分それはない。僕は苦笑いを浮かべた。
「体の良い餌場扱いされてるだけじゃない?」
「そうかなぁ。猫から甘えてくるってよっぽどだよ」
「媚を売ったら食料が出て来るって、きっと分かってるんだよ」
 代金と料理を交換。次いで、お釣りを受け取る。レシートは不要だと告げれば、お姉さんは指に挟んだそれをゴミ箱へと放った。
「青年は夢がないねぇ」
「最近、夢を見ないから」
「そういう意味じゃないんだけど」
 いつのまにか窓の外が暗くなっていた。灰色の雲が空を覆うように広がっている。やがて惣菜屋のガラス窓にも、ポツリポツリと水滴が当たり始めた。
 折りたたみ傘は……忘れたんだった。舌打ちをする僕の後ろで、「雨は嫌い」と、憂鬱そうに嘆くお姉さんの声が聞こえた。