山の向こうで入道雲が膨れ上がっている。
その上端は絵の具を塗ったように真っ白だ。しかし高度が下がるにつれ、雲は次第に灰色へ近付いていく。見えないが、きっとあの下では雨が降っているのだろう。
「儂らが小さかったころは、しょっちゅうおきいしさんとこで遊んどったもんでな」
しゃがれ声の主は農家のお爺さん。おそらくは畑から自宅へと戻るところを、僕たちに見つかってしまった可哀想な被害者第一号である。
あの人は何か知ってそうだ、という直感に基づいて彼方が声をかけ。そのまま持ち前の話術と社交性を駆使して、あっという間に仲良くなってしまった。
僕には逆立ちしても出来ない芸当だ。
「昔はきちんと手入れもされとって綺麗じゃった。祠も朽ちてなくての。お参りする人もそれなりにはいたんじゃよ」
「へぇ、そうなんですか! 俺も一度見てみたかったな」
「もう難しかろうの。何しろ神社を管理しとった家が、ずいぶん前に途絶えてしまっとるからなぁ」
残念そうにため息を吐くと、お爺さんは首にかけていたタオルで汗を拭った。
「憩いの場、だったんですよね。村人全員で管理しよう、みたいにならなかったんです?」
「最初はその話も持ち上がった。だが結局は。みんな誰かがやるやろうと思い続けて、そのままよ。気付けば誰も寄り付かん。何もかも無かったことになってしもうた。そもそも修理の金をどこから出すんかという問題もあったしの」
「……勿体ないような、だけど仕方ないような気がしますね」
僕は相槌を打ちつつ応えた。
お爺さんの話を聞いていると、昔、実家の近くにあった空き地のことを思い出す。幼い僕にとって絶好の遊び場だったそこは、ある時、誰かに買われて老人ホームが建ってしまった。悔しくて泣いたのを今でも覚えている。
もちろん、それとこれとは理由も状況も違うけれど。思い出の場所がなくなってしまうのは、やっぱり何歳になっても悲しいものなのだろう。
「じゃが、こうして若い人に興味を持ってもらえとるのはいいことよ。おきいし様も喜んどるじゃろうて。……レポートと言っとったかの?」
「似て非なるものです」
お爺さんは首を傾げたが、大学の何かだろうと勝手に納得してくれたようだった。
そうしてそれなりに会話を重ねたところで、遂に彼方が「そういえば」と本題を切り出した。
ここからは頼れる友人に任せよう。
「夜の三橋神社では死者に会える。そんな噂を耳にしたんですけど、お爺さん心当たりとかってありますか?」
隣でその様子を見守りながら、僕は頬を垂れてくる汗を服の袖で拭う。……何だかやけに暑い。アスファルトの上だからだろうか。
「何じゃいそりゃ。儂ゃあ初耳ぞ」
「いえ、俺もあまり詳しくないんですが。何でも、もう生きてない筈の人間を見たやつがいるらしく」
道路からの照り返しがあるせいで、日傘がそこまで役にたたない。
熱と光に体力がじりじりと削られていく。いつのまにか、息が荒くなっていた。
「幽霊とはまた違うんか」
「どうでしょう。俺も人づてに聞いたことなので、何とも」
「ま、おおかた見間違いじゃろう。そんなもんいる訳なかとよ」
汗がこめかみから瞼へと流れてくる。そして目に入って、しみた。痛い。反射的に手で擦ろうとして……僕は、自分の身体が異常に重たく感じることに気付いた。
「じゃけど言い伝えなら、儂にも一つ覚えとることがあるぞ」
「っ! 聞かせてください、是非」
「同世代のもんなら誰でも知っとることじゃ。とある分野に関して、おきいし様には強力なご利益があってな――」
暑い。
苦しい。
気持ち悪い。
呼吸の乱れが、いつまでたっても収まってくれない。熱が体内で渦を巻き、もの凄い力で内側から圧迫しているような気分がした。
これは……不味い。
「……優? 優!?」
朦朧とした意識で、危機感を抱いた時には既に遅かった。
世界が傾く。そのまま彼方に助けを求める暇もなく、脳の電源を切ったように、視界があっという間に白く染まって……。
※
ひやりとする何かが首元に当てられる感触で、僕は我に返った。
瞼を開ければ風に揺れる枝葉と、心配そうにこちらを覗き込む彼方の顔が見える。その手に持っている缶ジュースこそ、冷たさの正体だったようだ。
背中に固い感触がある。どうやら今、僕はベンチに寝かされているらしい。まだ重たさの残る頭で、僕は己の身に起きた事態を考え始めた。多分あれは……。
「熱中症だろうな。いきなり倒れてきたから驚いたぜまったく」
苦笑いしながらそう言った彼方は、ジュースの缶を僕のおでこへと乗せた。熱の引いていく感覚が心地良い。少しだけ思考がクリアになる。バランスを崩して倒れかけたそれを、僕は手を伸ばして捕まえた。……もうしばらく、このままでいようかな。
「あの爺さんにあったらお礼言っとけよ。ここまで優を運ぶの手伝ってくれたし、そのドリンクも奢ってくれたんだ。名前を訊いとこうと思ったんだが、名乗るほどの者じゃないってそそくさと去って行っちまった」
「……僕、どのくらいこうしてたの?」
「そこまで長くないぞ。救急車を呼ぼうか迷ってたところだ」
「……大丈夫。もう、良くなったから」
身体を起こそうとした僕を、彼方が肩に手を当てて抑え付ける。
「だぁーめだ! 無理すんな! 何も気にしなくていいからもうちょっとだけそうやって休んでろ」
「彼氏面しないで」
「あん? 減らず口を叩く気力はあるんだな?」
「生憎、舌ばかり達者に育ってね」
などと言い返しつつもその実、火照った僕の身体は大人しく忠告に甘えることを望んでいた。
友人の手に促されるようにして、再びベンチへと横たわる。それから何度か、深呼吸を繰り返した。自分で言うのも何だが、日傘まで差しておいて夏に負けるなんて、男としてちょっと情けない気がする。
「こんな風になったの、小学校以来だ」
「夜更かしでもしたのか?」
「……いや、ちゃんと寝たよ?」
身体は。思わず余計な一言まで添えそうになったが、すんでのところで飲み下す。
実際、幽体離脱をしても肉体の休息は取れているので、睡眠の質としては何ら問題無いのだ。だから今回の熱中症は……おそらく、他に原因があるのだろう。思い当たる節はそれなりに多い。最近、冷房漬けの毎日を送っていたり。日中、あまり外に出なかったり。今朝、ろくにご飯を食べなかったり……。
「あまり心配させんな」
「気を付けます」
「頼むぜ? 死人に会える噂を追ってて死人が出ましたなんて、洒落にならないからな」
僕にとっては笑えない冗談だった。
死という言葉から、例の少女の存在を連想してしまって、僕の頬が自然と引き攣る。
……ここ数日、しょっちゅうだ。例えば心が落ち込んだ時とか、今みたいに弱っている時とか。ふとした拍子に些細な事で、彼女のことを意識してしまう。そして何とも言えない虚無感か、隠し事をする罪悪感に襲われる。彼女と過ごすのがなまじっか苦痛でないせいで、余計に息苦しさが募っていく。
迷うのだ。
自分の決断が信じられない。これでいいのかと自問自答を繰り返し、しかし結局答えは出ない。
「……ねぇ、あのさ」
「何だ?」
誰でもいい、打ち明ければ楽になると頭では分かっている。だけどやっぱり無理だった。
秘密を抱え込むのは辛いが、打ち明けるのは怖い。たとえ相手が彼方のような、信頼している人であっても。ふざけずに、真剣に受け止めてくれる可能性の方が高くても。
「……ごめん、何でもない」
僕は、寸前で二の足を踏む。
彼方に動揺を悟られたくなくて、僕は強く目を閉じるとその上から更に腕を被せた。
「……僕は生きてるよ」
「いや、当たり前だろ?」
その上端は絵の具を塗ったように真っ白だ。しかし高度が下がるにつれ、雲は次第に灰色へ近付いていく。見えないが、きっとあの下では雨が降っているのだろう。
「儂らが小さかったころは、しょっちゅうおきいしさんとこで遊んどったもんでな」
しゃがれ声の主は農家のお爺さん。おそらくは畑から自宅へと戻るところを、僕たちに見つかってしまった可哀想な被害者第一号である。
あの人は何か知ってそうだ、という直感に基づいて彼方が声をかけ。そのまま持ち前の話術と社交性を駆使して、あっという間に仲良くなってしまった。
僕には逆立ちしても出来ない芸当だ。
「昔はきちんと手入れもされとって綺麗じゃった。祠も朽ちてなくての。お参りする人もそれなりにはいたんじゃよ」
「へぇ、そうなんですか! 俺も一度見てみたかったな」
「もう難しかろうの。何しろ神社を管理しとった家が、ずいぶん前に途絶えてしまっとるからなぁ」
残念そうにため息を吐くと、お爺さんは首にかけていたタオルで汗を拭った。
「憩いの場、だったんですよね。村人全員で管理しよう、みたいにならなかったんです?」
「最初はその話も持ち上がった。だが結局は。みんな誰かがやるやろうと思い続けて、そのままよ。気付けば誰も寄り付かん。何もかも無かったことになってしもうた。そもそも修理の金をどこから出すんかという問題もあったしの」
「……勿体ないような、だけど仕方ないような気がしますね」
僕は相槌を打ちつつ応えた。
お爺さんの話を聞いていると、昔、実家の近くにあった空き地のことを思い出す。幼い僕にとって絶好の遊び場だったそこは、ある時、誰かに買われて老人ホームが建ってしまった。悔しくて泣いたのを今でも覚えている。
もちろん、それとこれとは理由も状況も違うけれど。思い出の場所がなくなってしまうのは、やっぱり何歳になっても悲しいものなのだろう。
「じゃが、こうして若い人に興味を持ってもらえとるのはいいことよ。おきいし様も喜んどるじゃろうて。……レポートと言っとったかの?」
「似て非なるものです」
お爺さんは首を傾げたが、大学の何かだろうと勝手に納得してくれたようだった。
そうしてそれなりに会話を重ねたところで、遂に彼方が「そういえば」と本題を切り出した。
ここからは頼れる友人に任せよう。
「夜の三橋神社では死者に会える。そんな噂を耳にしたんですけど、お爺さん心当たりとかってありますか?」
隣でその様子を見守りながら、僕は頬を垂れてくる汗を服の袖で拭う。……何だかやけに暑い。アスファルトの上だからだろうか。
「何じゃいそりゃ。儂ゃあ初耳ぞ」
「いえ、俺もあまり詳しくないんですが。何でも、もう生きてない筈の人間を見たやつがいるらしく」
道路からの照り返しがあるせいで、日傘がそこまで役にたたない。
熱と光に体力がじりじりと削られていく。いつのまにか、息が荒くなっていた。
「幽霊とはまた違うんか」
「どうでしょう。俺も人づてに聞いたことなので、何とも」
「ま、おおかた見間違いじゃろう。そんなもんいる訳なかとよ」
汗がこめかみから瞼へと流れてくる。そして目に入って、しみた。痛い。反射的に手で擦ろうとして……僕は、自分の身体が異常に重たく感じることに気付いた。
「じゃけど言い伝えなら、儂にも一つ覚えとることがあるぞ」
「っ! 聞かせてください、是非」
「同世代のもんなら誰でも知っとることじゃ。とある分野に関して、おきいし様には強力なご利益があってな――」
暑い。
苦しい。
気持ち悪い。
呼吸の乱れが、いつまでたっても収まってくれない。熱が体内で渦を巻き、もの凄い力で内側から圧迫しているような気分がした。
これは……不味い。
「……優? 優!?」
朦朧とした意識で、危機感を抱いた時には既に遅かった。
世界が傾く。そのまま彼方に助けを求める暇もなく、脳の電源を切ったように、視界があっという間に白く染まって……。
※
ひやりとする何かが首元に当てられる感触で、僕は我に返った。
瞼を開ければ風に揺れる枝葉と、心配そうにこちらを覗き込む彼方の顔が見える。その手に持っている缶ジュースこそ、冷たさの正体だったようだ。
背中に固い感触がある。どうやら今、僕はベンチに寝かされているらしい。まだ重たさの残る頭で、僕は己の身に起きた事態を考え始めた。多分あれは……。
「熱中症だろうな。いきなり倒れてきたから驚いたぜまったく」
苦笑いしながらそう言った彼方は、ジュースの缶を僕のおでこへと乗せた。熱の引いていく感覚が心地良い。少しだけ思考がクリアになる。バランスを崩して倒れかけたそれを、僕は手を伸ばして捕まえた。……もうしばらく、このままでいようかな。
「あの爺さんにあったらお礼言っとけよ。ここまで優を運ぶの手伝ってくれたし、そのドリンクも奢ってくれたんだ。名前を訊いとこうと思ったんだが、名乗るほどの者じゃないってそそくさと去って行っちまった」
「……僕、どのくらいこうしてたの?」
「そこまで長くないぞ。救急車を呼ぼうか迷ってたところだ」
「……大丈夫。もう、良くなったから」
身体を起こそうとした僕を、彼方が肩に手を当てて抑え付ける。
「だぁーめだ! 無理すんな! 何も気にしなくていいからもうちょっとだけそうやって休んでろ」
「彼氏面しないで」
「あん? 減らず口を叩く気力はあるんだな?」
「生憎、舌ばかり達者に育ってね」
などと言い返しつつもその実、火照った僕の身体は大人しく忠告に甘えることを望んでいた。
友人の手に促されるようにして、再びベンチへと横たわる。それから何度か、深呼吸を繰り返した。自分で言うのも何だが、日傘まで差しておいて夏に負けるなんて、男としてちょっと情けない気がする。
「こんな風になったの、小学校以来だ」
「夜更かしでもしたのか?」
「……いや、ちゃんと寝たよ?」
身体は。思わず余計な一言まで添えそうになったが、すんでのところで飲み下す。
実際、幽体離脱をしても肉体の休息は取れているので、睡眠の質としては何ら問題無いのだ。だから今回の熱中症は……おそらく、他に原因があるのだろう。思い当たる節はそれなりに多い。最近、冷房漬けの毎日を送っていたり。日中、あまり外に出なかったり。今朝、ろくにご飯を食べなかったり……。
「あまり心配させんな」
「気を付けます」
「頼むぜ? 死人に会える噂を追ってて死人が出ましたなんて、洒落にならないからな」
僕にとっては笑えない冗談だった。
死という言葉から、例の少女の存在を連想してしまって、僕の頬が自然と引き攣る。
……ここ数日、しょっちゅうだ。例えば心が落ち込んだ時とか、今みたいに弱っている時とか。ふとした拍子に些細な事で、彼女のことを意識してしまう。そして何とも言えない虚無感か、隠し事をする罪悪感に襲われる。彼女と過ごすのがなまじっか苦痛でないせいで、余計に息苦しさが募っていく。
迷うのだ。
自分の決断が信じられない。これでいいのかと自問自答を繰り返し、しかし結局答えは出ない。
「……ねぇ、あのさ」
「何だ?」
誰でもいい、打ち明ければ楽になると頭では分かっている。だけどやっぱり無理だった。
秘密を抱え込むのは辛いが、打ち明けるのは怖い。たとえ相手が彼方のような、信頼している人であっても。ふざけずに、真剣に受け止めてくれる可能性の方が高くても。
「……ごめん、何でもない」
僕は、寸前で二の足を踏む。
彼方に動揺を悟られたくなくて、僕は強く目を閉じるとその上から更に腕を被せた。
「……僕は生きてるよ」
「いや、当たり前だろ?」