「香山君、私ね。家に帰りたくないんだ」
 そう言った彼女の言葉は呟くように小さく、教室で聞く抑揚のある声は失われていた。
 思わず僕は彼女の方を見ると、彼女は変わらず大きな窓の先にある景色に目を向けていた。
「・・・何かあったの?」
「うん・・・つい一週間前の話なんだけどね。お父さんが、帰って来なくなったんだ。前から遅い時間に帰ってきて、私と顔を合わせることもなかったんだけど、遂に帰って来なくなっちゃった」
「それは、つまり」
「浮気してるんだよ。お父さん」
 流れるように言われた言葉に僕は唖然とする。
 この頃の僕は浮気なんてメリットのない行為を本当にする人がいるなんて信じられなかったから、最初は何かの冗談かと思った。
 でも彼女の怒りと悲しみが入り混じったような表情を見て、とても嘘をついているようには思えなかった。
 僕の知らない大人の世界は、欲望に塗れたどうしようもなく愚かなものなのかもしれない。
「そんな帰らないお父さんの為に、お母さんは毎晩ご飯を作って、ギリギリまで自分はお風呂にも入らずダイニングのテーブルに座って帰りを待ち続けている。
 心配になって声を掛けても、お母さんはただ笑っていつかきっと帰ってくるからって平気そうに私に言うんだ。
 でも私は、机に突っ伏したまま声を押し殺して泣いているお母さんの姿をたまたま見てしまった時があって、それからお母さんの姿を見る度胸が苦しくなった。
 きっともうお父さんは帰って来ない、いい関係に戻れる見込みはないことに本当は気づいているはずなのに、騙すように信じ込んで今も待ち続けている」
 彼女は僕の方へゆっくりと顔を向ける。
 目には今にも零れ落ちそうな涙が溜まり、スカートの裾を両手で握り締めていた。
「どうしてお父さんは、こんなに酷いことをするのかな?私達、何か悪い事でもしたのかな?私、もうどうすればいいか分かんないよ・・・」
 そう言って僕を見つめる彼女に対して、僕は何と言葉を返していいか分からなかった。
 そうなんだと言えば突き放すような意味合いになりかねないし、分かるよと軽はずみな同調をすれば怒りを煽るかもしれないし、僕から言う励ましの言葉は中身を伴わない。
 目の前で今にも泣きそうな少女に対して、抱える悲しみを少しでも拭ってあげられる最適な言葉なんて、どれだけ考えても出てきそうになかった。