彼女の足はもう動かなかった。
それは夢の中で病室に訪れた時点で薄々気づいてはいたが、実際に目の当たりにすると悲痛な光景だった。
ベッドの隣に置かれた車椅子、それが彼女にとって唯一の移動手段だった。
もう公園でブランコを漕ぐことも、街中のショッピングモールで遊び回ることも、ピアノを弾くことすら一人では困難なものとなっていた。
彼女にとって外の世界は猛獣だらけのジャングルに身一つで飛び込むようなものだ。
誰かが傍にいて助けてあげないと、あっという間に遭難してしまう。
バリアフリーが施されたノンステップバスが停車し、僕は車椅子を押しながら乗り込む。
車椅子の下部にキャスターがあるから平坦な道の移動はスムーズだったが、勾配があるとかなりの負荷がかかり押し負けそうになる。
病院側に外出申請みたいな手続きをしなくてはいけなかったのかな?と乗った後になって思う。
既にバスの扉が閉じられ動き始めたので手遅れだった。
「脱出成功だね」とユリナは悪戯っぽく笑う。
これは戻ってきた時病院側に絞られるなと僕は苦笑いした。
バス内は行きと比べて混雑してなかった。
僕達の他にご年配の方々が数組と同じように車椅子を押す青年がいるだけで、スペースにはかなりの空きがあった。
バスの振動で車椅子が動かないように、両手でハンドルをしっかりと握る。
「そういえばリョウ君、夢の中で私の日記見た?」
ユリナがふと思い出したように言う。
予想外の急な質問に、向けられた視線から思わず逃げてしまう。
「・・・まぁ、見たけど」
「やっぱり!じゃないと元の世界の記憶なんてあの時点で分かるはずないもん」
「ごめん」
「別に謝る必要はないよ。リョウ君に気付いてもらえたらいいなって、色々書いていたから」
そう言って彼女は恥ずかしそうに俯く。
プライバシーの侵害を訴えられればぐうの音も出ないが、あの時は必死だったのだから致し方ない。
「もしかして、部屋の本に挟まっていたり、ゴミ箱に捨てられていたノートの切れ端もそういう事だったの?」
「えっ?そっか、部屋まで見られたんだよね。もうリョウ君・・・」
「だからごめんって」と僕は苦笑いする。
「確かにゴミ箱に捨てていたのは、リョウへの手紙を書いていたつもりだった。でもやっぱり出せなくて、捨てちゃったんだ。本に挟まっていたのは、単純に栞の代わりで使っていただけだよ」
そういうことだったのか。
彼女は病気の事を隠し通すと決めていたから、手紙を書いても出すことはできない。
でも、書かずにはいられなかったのだろう。
「でも・・・見つけてくれてありがと」
彼女は微笑んでいたが、やっぱり恥ずかしそうに見えた。
二つ目のバス停が過ぎ、彼女は病院が遠くへ離れていく度嬉しそうに肩を震わせていた。
「どこに連れて行ってくれるの?」と彼女は楽しげな様子で聞いてくる。
特に警戒した様子もなく、澄んだ瞳で見つめられる。
「着いてからのお楽しみだよ」
「なにそれ?もったいぶるなー」
くすくすと笑い、僕も自然に頬が緩んでしまう。
彼女の子供っぽい一面を見る度、僕はホッとするような心境になった。
それからバス停を通り過ぎていく度に乗車人数も増えていき、周りを気にして僕達はあまり言葉を交わすことはできなくなったがチラチラと彼女は僕の方を確認するように見てきた。
視線が合う度彼女は微笑み、合わせて僕も笑い返していた。
こうしていると、僕達が別れた日のことが嘘のように思えた。
数十分後、バスは停車する。
僕は車椅子を押しキャスターを転がし始めた。
「ねぇ、リョウ。ここって・・・」
彼女は周囲のビルよりも一際高くそびえ立つ建物を見上げながら言う。
外壁は植物のツタや花が上から下へと垂れ下がり、一定の間隔で設置されたルーバースクリーンはホテルの様な高級感を演出していた。
フィックスサッシは晴れ渡る青い空を反射し、その透明さに吸い込まれていくようだった。
「懐かしいな。といっても僕達は夢の中で一度来たけど、あの時は何一つ覚えていなかったから」
彼女は口を噤み、感慨深そうに建物を見続ける。
僕達が再会して最初に訪れるべき場所は、ここ以外に思いつかなかった。
「入ろうか」
僕は車椅子を押し人波に合わせて玄関庇の方へと向かっていく。
スロープが設けられ、バリアフリーはしっかりと完備されていたので移動に不便を感じる事は無かった。
エレベーターに乗り、展望台のある最上階のボタンを押す。
ガラス張りで街の景色が一望できる仕様になっており、彼女と二人でそれを眺めていた。
段々と街はオレンジ色に染っていき、太陽が沈みかけている事に気付いた。
一日の終わりは早い、時間が流れている何よりの証拠だった。
エレベーターが開くと、以前訪れた時と同様木の廻り階段が続いていた。
どうしようかと辺りを見渡した時、車椅子のマークが貼られたエレベーターが別の場所にあることに気付いた。
前回僕達は上にある展望台ばかりに気を取られ見落としていたようだった。
そのエレベーターに乗り上階へ上がると、いとも簡単に展望台に辿り着くことができた。以前の労力は何だったのかと思わずにはいられなかったが、気づかなかった僕達が悪い。
展望台には他の人はおらず、わざわざ殺風景な街並を眺めたいとここまで足を運ぶ人がいないのだろう。
床に敷かれた芝生の上を進み、奥にある天井高のサッシの前で止まった。
エレベーターの中で見た時よりも街全体が広く映し出され、夕日の照らす場所が街の明暗をくっきりと作り出していた。
「ここから見る景色、変わらないね」
僕の言葉に、彼女は反応しない。
ただ黙ってガラスが映す情景に目を向けていた。
数秒の沈黙があり、彼女は僕の裾を小さく握る。肩を小さく震わせ、時々鼻を啜る音が聞こえてきた。
「・・・私達がここで出会ったこと、覚えてる?」
僕は展望台の天井を見上げ、両目を静かに閉じる。
「あぁ・・・覚えてるよ」
あれは高校二年生の夏休み明けの事だった。
僕は放課後になると、週に二、三回この展望台を訪れていた。
別にこの場所が特別好きだったからというわけじゃない、ただ単純に暇だったからだ。
特定の友達はいたけど毎日遊ぶわけじゃないし、部活にも所属していないから家まですぐに帰ることになるのだが、帰ってもすることはないから時間を持て余す。
時間潰しの為にこの展望台に通っていた、ここなら人は少ないから誰かに目撃される心配もあまりない。
いても同じく暇そうなご老人方や仕事をサボっているサラリーマンくらいだ。
ただ、ある日を境にこの展望台は僕にとって特別な意味を持つことになった。
僕はいつもと同じように、芝生の上に置かれた木のベンチに座って街の景色をボーと眺めていた。
目を閉じて眠ったり起きたりを繰り返していると、隣に誰かが座った音が聞こえて無意識にそちらに顔を向けた。
そこで互いの目が合い、僕はその人物を見て心臓が跳ね上がる様な感覚を覚えた。
「・・・香山君?」
そう呼ばれ、僕は何と言っていいのか分からず言葉に詰まる。
表情を硬直させたまま小さく肯くことしかできなかった。
「やっぱり香山君だ!奇遇だね!どうしたの、こんなところで?」
彼女は驚いた様子で声を上げ、何かおかしかったのか笑い出す。
それは僕のセリフだよ、と心の中で呟く。
木村ユリナ、二年生でクラスが一緒になり僕の席から斜め前に座っている。今まで話した事は一度もないし、こうして目が合っていることすら初めての事かもしれない。
彼女は可愛くて、明るくて、当然クラスの人気者だ。
それに対して僕は人との接触を極力避けており、二、三人の友達といるとき以外は口を開くことすらなかった。
クラスの中で太陽の様に輝く彼女と、影の中にひっそりと潜んでいるような僕。立ち位置は正反対といってもいいだろう。
そんな彼女が、僕の名前を知っているなんて、何かの間違いじゃないかと思わずにはいられなかった。
何も言わず黙り込んでいる僕を見て不思議に思ったのか、彼女は僕の顔の前に手の平を向けて左右に振る。
「おーい?起きてるー?」
近くで見るとやっぱり可愛いな、爽やかな少女を体現化したような容姿に僕は思わず見とれてしまう。
「・・・起きてるよ」
「ほんとかなー?香山君っていつも眠たそうな顔してるよね。ちゃんと寝ないとダメなんだよ」
「うん・・・」と返し僕は恥ずかしくなって視線を逸らす。
心臓が急激に高鳴り、体中を巡る血液が熱くなるような感覚を覚えた。
女子への免疫が皆無の僕にとって、この状況で緊張するなというのはかなり無理のある話だ。
「香山君、ここで何しているの?」
彼女は質問を続ける。
何をしているも何も、何もしていないのだから返しようがない。
「何もしていないよ。ただボーとしているだけ。家に帰っても暇だから、時々ここにきて時間を潰しているんだ」
「・・・帰りたくない理由でもあるの?」
「それも特にはないけど、部屋にずっといてもなんだか寂しくて。まだこうして景色を眺めていた方が少しはマシというか」
「そっか。確かに、部屋の中でなにもしないのは寂しいかもね」
「うん」
そこで一旦会話は終わった。
沈んでいく夕日を見ながら、互いに言葉を発する事もなく無音の時間がゆっくりと流れる。
ここで彼女が何も話さなければ、僕達の関係はこの場限りで終わっていたのかもしれない。
「香山君、私ね。家に帰りたくないんだ」
そう言った彼女の言葉は呟くように小さく、教室で聞く抑揚のある声は失われていた。
思わず僕は彼女の方を見ると、彼女は変わらず大きな窓の先にある景色に目を向けていた。
「・・・何かあったの?」
「うん・・・つい一週間前の話なんだけどね。お父さんが、帰って来なくなったんだ。前から遅い時間に帰ってきて、私と顔を合わせることもなかったんだけど、遂に帰って来なくなっちゃった」
「それは、つまり」
「浮気してるんだよ。お父さん」
流れるように言われた言葉に僕は唖然とする。
この頃の僕は浮気なんてメリットのない行為を本当にする人がいるなんて信じられなかったから、最初は何かの冗談かと思った。
でも彼女の怒りと悲しみが入り混じったような表情を見て、とても嘘をついているようには思えなかった。
僕の知らない大人の世界は、欲望に塗れたどうしようもなく愚かなものなのかもしれない。
「そんな帰らないお父さんの為に、お母さんは毎晩ご飯を作って、ギリギリまで自分はお風呂にも入らずダイニングのテーブルに座って帰りを待ち続けている。
心配になって声を掛けても、お母さんはただ笑っていつかきっと帰ってくるからって平気そうに私に言うんだ。
でも私は、机に突っ伏したまま声を押し殺して泣いているお母さんの姿をたまたま見てしまった時があって、それからお母さんの姿を見る度胸が苦しくなった。
きっともうお父さんは帰って来ない、いい関係に戻れる見込みはないことに本当は気づいているはずなのに、騙すように信じ込んで今も待ち続けている」
彼女は僕の方へゆっくりと顔を向ける。
目には今にも零れ落ちそうな涙が溜まり、スカートの裾を両手で握り締めていた。
「どうしてお父さんは、こんなに酷いことをするのかな?私達、何か悪い事でもしたのかな?私、もうどうすればいいか分かんないよ・・・」
そう言って僕を見つめる彼女に対して、僕は何と言葉を返していいか分からなかった。
そうなんだと言えば突き放すような意味合いになりかねないし、分かるよと軽はずみな同調をすれば怒りを煽るかもしれないし、僕から言う励ましの言葉は中身を伴わない。
目の前で今にも泣きそうな少女に対して、抱える悲しみを少しでも拭ってあげられる最適な言葉なんて、どれだけ考えても出てきそうになかった。
彼女はクスリと笑って、再び窓の先を見る。
「ごめんね。私、何言ってるんだろう。今の全部忘れて・・・」
「悪くないよ」
畳もうとした彼女の言葉を遮るように僕は言う。
窓から差し込む夕日の光が、太陽が沈んでいくにつれて強くなっているような気がした。
「・・・え?」
「浮気をした奴が一番悪いに決まってる。周囲の人間や環境のせいにして罪から逃げようとすることは、加害者側の勝手な言い分だ」
彼女は僕の言葉に何も言わない。ただ黙ったまま僕を見て、続きを待っていた。
「だから、君と君のお母さんは何も悪くない。浮気をしたそいつが身勝手なだけだよ」
言い切って僕は彼女の方をちらりとみる。
彼女は僕を見つめたまま、頬に涙が一滴伝っていた。
その様子を見て内心慌てる。まずい、踏み込み過ぎたか?
無遠慮に彼女を傷つけるような事を言ってしまったのかもしれない。
言葉というのは難しい。伝える側が発する意味とは裏腹に、受け止める側は自分の心境から近い意味合いから解釈しようとしてしまう。
今僕が言った彼女を肯定するかのような言葉は、彼女のプライベートで都合の悪い部分を踏み荒らすような行為だったのかもしれない。
彼女は袖で流れた涙と目元を拭い、笑い声を漏らす。
「そう言ってもらえると嬉しいな」
目を細めて小さく笑い、綺麗な横髪を耳の上に掛ける。
「この話は、誰にも相談できなくて、一人で抱え込むことしかできなかったから。
だって、もし友達に相談することができてその時私の心が軽くなっても、その後みんな私を腫物に触るみたいになってよそよそしい関係になるかもしれないでしょ?
だから、別に変な意味じゃないんだけど。今日話せた相手が香山君でよかった」
変な意味じゃないと彼女は言ったけれど、つまり僕がこの話を聞いた後に色眼鏡で見られても構わない相手だったのだと間接的に言われたような気がした。
しかし彼女の笑顔は先程よりも明らかに晴れやかになっていたから、嬉しいようで傷つくような、複雑な心境だった。
「香山君の声、初めて聞いた気がする。予想以上に低くてビックリしたけど、聞いていて気持ちが和むような優しい声。香山君の傍に居ると、なんだか落ち着くな」
うっとりとした様子で言う彼女に、僕は緊張感を覚える。
傍に居る、その一言を聞いただけで心の中が騒ぎ心臓が高鳴った。
そんな僕の心境を見透かしたように、彼女は上目遣いに言う。
「ねぇ、香山君?またこうやって二人で話せないかな?もっと香山君の事、知りたいから」
「・・・い、いいよ。もちろん」
そう言い返すのがやっとだった。きっと今僕の顔は真っ赤に染まっているに違いない。
夕日が照らしてくれて助かった、うぶな男子はこういう展開にめっぽう弱い。
「今日は夕日が綺麗だね」
屈託のない笑いを浮かべながら言う彼女。
その姿が今まで見てきたどんな物よりも綺麗に映って、僕は目に焼き付ける様に彼女を見ていた。
結局そのすぐ後に彼女の両親は離婚し、彼女は母親と二人で暮らし続けていた。
僕達は放課後になれば毎日の様にここに来て、夕日が照らし出す街の情景を眺めながら話し込んだ。
彼女に思いを伝えたのもこの場所だった、ちなみにファーストキスも。
僕が思いを振り絞って「木村さんの事が好きです」とストレートに告白すると、彼女は「ありがとう。ずっと待ってたんだよ」と涙目で笑いながら言い、つかさず僕に詰め寄って優しくキスをした。
その時の喜びようといったら今でも忘れられない。
人生の中でも数少ない、大切な願いが叶った瞬間でもあったから。
恋が成就した日を境に僕達は互いの名前で呼び合うようになった。
くすぐったくて気持ちの芯からじんわりと熱くなるような彼女との日々。
そんな毎日が一生続いていくんだって、あの時は疑いようもなく信じていた。