凶器で刺されたのか、そんな錯覚を覚えたが痛みは一向に訪れない。
ただ彼女の頭が僕の胸元に埋まっていただけだった。
両手を背中に回され、強く抱きしめられる。
今度こそ僕はどうしていいか分からなくなった。
この後彼女は何と言うのだろう?
やっぱり私達やり直そうとでも言うつもりなのだろうか?
そう想像して、僕の胸の中に温かい何かが流れ込んでくるような感覚があった。
この感覚を知っている、心が喜んでいる時に生じる反応だ。
この一年間、ひと時も忘れない程恨んだ相手なのに、結局僕には彼女が必要だった。
傍にいてほしかった。
どこにも行ってほしくない。
気持ちの切り替わりが早い事に我ながら失笑する。
「リョウ」
彼女が囁くような声で僕の名前を呼ぶ。
それを聞いた時僕の胸は跳ねた。
「なに?」と僕は次の言葉を促す。
そこで彼女は僕の胸に埋めていた顔を上げこちらを見る。
彼女は笑った。少女の様に屈託のない笑顔で。
愛してやまない、別れた後でも脳裏に映って忘れられなかった、彼女の一番大好きな表情。
「」
彼女は楽し気に僕に何かを話す。
でもそれが何だったのかは全く聞き取れなかった。
直後視界が真っ暗になり、そのまま僕は意識を失った。
落ちていく感覚があった。
真っ暗闇の中、周囲は不気味なほど静かで、自分が今どこにいるのか確認することもできなかった。
手足を動かしているつもりでも実際動かせているのか分からない、今自分が呼吸できているのかも分からない、それくらい全ての感覚を感じさせない場所だった。
両手を広げ、深海の奥へゆっくりと沈んでいっているような、心地の良い空間。
無の世界とでもいうのか、余計な全ての物を無くした場所は寂しさよりも心に平穏をもたらしてくれた。
このまま眠ってしまおう。
目を閉じると変わらず真っ暗で、だからこそ自然に眠りにつくことができた。
そうして僕は、いつも横たわっている自室のソファの上で目覚める。
目を少し開くと太陽の光がカーテンの隙間から差し込んできて、思わず視界を手の平で覆った。
瞼を閉じたままゆっくりと起き上がりソファに座る形になる。
外が眩しい、こんな昼間に起きることができたのはいつぶりのことだろう。
引きこもり生活を続けているとよくあることだと思うが、僕の生活リズムは昼夜が逆転していた。
昼間と夕方は眠り、深夜に目を覚ます。
そこからお酒と煙草を交互に窃取しながらテレビを見るなり本を読むなり好きなことをして時間を潰している。
お腹が空くと箪笥の中に溜め込んだカップラーメンを食べることで手軽に腹を満たすことができた。
そんな典型的なだらしのない生活を続けている弊害で、太陽の光を浴びると僕の体は溶かされていくような感覚を覚えるようになった。
夜行性故に吸血鬼の体に近づいてしまったような、そんな都合のいい解釈で昼間に活動することは避けてきた。
「やっぱり、太陽嫌いだな・・・」
だからといって再び眠りにつく気にはなれなかった。
自分でも驚くほど目が冴え頭の中がすっきりとしていたからだ。
毎日十時間位寝ているのに、ここまで清々しい目覚めは感じたことがなかった。
参った、このまま今日を過ごすと夜には眠くなる。
そうなれば次の日これくらいの時間に再び目覚めてしまうのかもしれない。
むしろ健康的だからそっちのほうがいいのではと他の人は言うのかもしれないが、自分からすれば生活リズムを崩してしまう方が精神的な背徳感を覚えてしまうのだ。
今まで積み上げてきたスタイルを崩し変えてしまうことは自分自身の意思に反してしまうような気がする。
僕にもそんなくだらないこだわりの一つはあるのだ。
そしてなにより、僕は深夜帯じゃないと外に出られない。
理由は単純、人と会いたくないからだ。
深夜のコンビニの店員と数秒接するだけでも寒気を覚えてしまう。
街を歩いていても、知らない人間に見られていると想像するだけで吐き気を感じてしまう、要は人間不信に陥っているのだ。
なるべく人目を避けて細々と生活したい、夜行性になったのはそういう理由が大きいのかもしれない。
はぁ、と深くため息をつき溜まった灰皿の横に置いてある煙草の箱を手に取る。
蓋を開けて煙草を掴む指を伸ばすも中身は一本も入っていなかった。
おいおい、勘弁してくれよ。
ほんとに無くなっているじゃないか。
周囲を見渡すもどれも空箱でこの部屋には煙草の一本も残されていなかった。
買い足しに行かなくてはいけない、でも昼の世界に身を投げるのは今の僕には自殺行為に等しい。
しかし煙草を我慢するのもまた、自殺行為だ。
僕にとっては数少ない生きがいの一つなのだから。
買いに行こうか、そう考えが過ぎるも閉め切ったカーテンの先にある光の世界を想像すると身が竦む。
どうしようか、散々迷った結果外に出ることを決めた。
やはり中毒症状には勝てない。
コンビニまで歩いて五分、日傘でもあればいいのだがそんな高貴なものは生憎持ち合わせていない。
ソファから重い腰を持ち上げようとしたその時だった。
足元に柔らかな布を踏んだ感触があった。
絨毯など敷いていない剥き出しのクッションフロアにはありえない肌触りだ。
そこで初めて足元を見る。
もっと早く気付くべきだったのかもしれない。
寝起きでボケていなければ煙草が残っていない事よりも先にこっちの方で驚いていただろう。
僕の足は、今自分が履いているスウェットパンツを踏んでいたのだ。
足全体を生地が覆い、明らかに丈があっていなかった。
一回り大きなサイズを着ていたのか?
いや、今まで使用していてそう感じることはなかった。
不思議に思い、自分の体周りを確認するように見渡すとおかしな点ばかりが見つかる。
手首は袖から出ているもののその先はぶかぶかでスリーブの長さに余りがあった。
リブは足首の辺りにきており、ズボンは立ち上がるとずり落ちてしまいそうな程ぶかぶかだ。
手の平を広げまじまじと見ると子供の手の様に小さくぎこちない形をしていた。
そう考えて混乱する。
まさか、そんなはずはない。
立ち上がると、案の定ズボンとパンツが腰から落ちるがお構いなしに脱衣所へと向かった。
洗面台に置かれた鏡を見ると僕の顔がかろうじて覗くような形になり、視線を下にやると洗面ボウルの上端がすぐそこに映った。
自身の幼い顔立ちを見て一瞬他人が映り込んでしまったような錯覚を覚える。
ぱっちりとした大きな瞳、小粒の様に可愛らしい形をした小さな鼻、ピンク色で潤いのある唇。
不自然なほどの色白さと前髪が隠れるくらいの長髪は健在だが、それらを除けば僕の要素はほとんど感じられなかった。
その似た目から小学生くらいだろうか?
当時の姿に戻ったとして僕はこんなに可愛らしい似た目をしていたのかとしっくりこなかった。
でもよく目を凝らしてみれば、確かにそれは僕自身だ。
十数年後の姿は酷く落ちぶれた容姿になっているけれど、間違いない。
どうやら僕は、小学生の姿に戻ってしまったらしい。
何故こんな姿になってしまったのか、どんなに想像しても混乱を深めるだけだった。
悪い夢でも見ているのだろうか?
しかし夢とは思えない程僕の意識はこの世界に存在していた。
夢なら、決定的な何かが現実と比べ欠けているものだ。
それは僕の感覚的なものに過ぎないけど、生きているという実感が夢の中では確かに不足しているのだ。
「現実・・・なのか?」
そう呟く僕の声も高音で透き通っているものに変わっていた。
次第に鏡に映る違う自分の姿に恐怖を覚え、逃げる様にリビングに戻った。
そして僕は外の路地を歩いていた。
あれだけ太陽を嫌っていた男があっさりと外出している辺りおかしく思うだろうが、この状況でじっとしていられる程僕の肝は据わっていない。
当初はコンビニを目指していたが、すぐに取りやめた。
この姿でお酒と煙草をレジに持っていっても売ってくれるわけがない。
似た目は小学生で、それも上下のスウェットはぶかぶかで裾を引きずりながら歩く有様だ。
靴はサイズが合わないので、仕方なくサンダルをつっかけている。
警察に連絡され保護される未来が容易に想像できた。
その時この状況をどう説明すればいいのだろう。
考えるだけでも途方に暮れそうだ。
結局僕が向かった先は近所にある洋服屋だった。
先ずはぎこちないこの格好をなんとかしよう。
ただでさえ人目が苦手なのに、視線を引くような服装は恥ずかしくて仕方がなかった。
子供用の服を適当に数点選んで購入することができれば一つの問題は解消できる。
レジに向かうまでは不審がられるだろうが、大丈夫。
すっと入って即座に購入し着替えることができればこっちのものだと委縮する気持ちに言い聞かせた。
もう少しで住宅街の路地を抜け県道が見える。
すぐにある横断歩道を渡れば洋服屋は見えてくる。
横断歩道を渡る際、車に乗っている人達から送られる冷ややかな視線を想像した。
渡る途中、恥ずかしさにやられ道路の真ん中で吐いてしまうのではないかと思うほど痛々しい光景だった。
視線恐怖症の僕からすればやりかねない結末だ。
道路が近づいてくるたび身震いした。
逃げたい、やっぱり外に出るんじゃなかった。
そんな僕の気持ちとは裏腹に足は自然に一歩一歩踏み出していく。
家を囲うブロック塀を抜け歩道に出た時だった。
「・・・え?」
そこには誰もいなかった。
歩道を行き交う人達も、視界を遮るように走る車も、建物を縫うように通ったモノレールも。
人の動きを感じさせてくれるもの全てがこの場に通っていなかったのだ。
世界から人が消え、自分一人がこの場に取り残されてしまったような、そんな感覚を覚えた。
先ずは驚きが訪れ、少しすると心の底から込み上げてくる高揚感を覚えた。
いつかの映画でこんな世界に行ってみたいという願望が今目の前で実現したような気がしたのだ。
小さな夢が叶った、そんな子供じみた考えはそんなわけがないだろうという言葉一つですぐに冷めた。
きっとたまたま人が歩道を歩いていなくて、車も走っていなくて、モノレールも走る時間帯とずれていただけだ。
様々な偶然が重なった結果このような状況が生まれたのだ。
本当にこの世界から人が消えればどれだけ平穏だろうと正直思うが、そんな都合のいい状況が起きるはずもない。
世界は僕なんかの願望を叶えてくれるほど生易しい場所じゃない。
「でも、ラッキーだな」
幸い懸念していた人目を避けて県道を超えることができそうだ。
歩道の縁石に立ち左右を見渡し、今がチャンスだと僕はズボンを両手で抱えながらダッシュで車道を横断した。
衣服屋に来ても人はいなかった。
客も、店員も、誰一人として。
店に入る前は閉まっているものかと思ったが、窓から映る店内は明るく、入り口に近づくと当たり前の様に両開きの自動ドアは開いた。
一応営業はしているのだろう、そう思い子供服が寄せ集められたコーナーへと向かう。
そこでサイズが合いそうな黒いシャツにジーパン、下着類などを適当に籠に詰めレジに行くもやはり店員は出てこなかった。
どんなに待っても来る気配もない。
周囲を見渡すも僕以外の客は見当たらなかった。
そこで考えていた仮説に真実味が帯びていく。
やはり、人が消えたのだ。
今この世界には僕一人しかいない。
県道に出た辺りから、いや、自室で目覚めた時から全てがおかしかった。
似た目は小学生に戻り、外に出れば誰一人として他の人とすれ違うこともなかった。
幸い街のライフラインだけが生き残っているらしく、現に今真上の照明は明るく点灯し、スピーカーからはお洒落な洋楽が店全体に響き渡っている。
何故こうなってしまったのかはもちろん分からない。
情報が無い今知る由もないし考えるだけ無駄だ。
どうしようもないが、この状況を受け入れざるを得ないと思った。
抵抗しようにもその矛先をどこに向ければいいのか分からないのだから。
これら全てに落としどころをつけようというなら、この状況全てが僕の見ている妄想か、夢の類だということだ。
いや、実際の所そうなのだろう。
でないと説明がつかない点があまりにも多すぎる。
まるで現実の様にリアルで見分けがつかないが、案外夢を見ているときはこんな感じなのかもしれない。
夢から覚めた時、実際その夢で自分が何をしていたのか、何を思ったのかを鮮明に思い出すことはできないのだから。
人は見た夢の九十パーセントを五分以内に忘れると誰かがテレビで言っていた言葉をふと思い出す。
「そうか、夢か」
そう思うと今この異常な状況下が楽観的なものへと認識が変わっていった。
結局はただの夢なのだ。
少々SF染みた類の、頭の中で広がる妄想の一つに過ぎない。
体が小さくなった点は不便極まりないが、僕の毛嫌いする他人はいない、街のライフラインは使い放題、今のお店に並ぶ商品を堂々と盗んでも誰にも咎められない。
まさにやりたい放題、一種の楽園の様に思えた。
こうなった以上、ここからは欲望のあるがまま好き放題やらせてもらおう。
僕は籠に入った服のタグをレジに置かれたハサミで切り落としていき、その場でスウェットを脱ぎ捨て新しい服に着替えた。
大きさは適当に選んだ割にピッタリで、束縛から解放されたように手足が自由に軽々と動かせるようになった。
残りの服が入った籠を持ち僕はお店を後にした。
脱いだスウェットはお店に捨ててきた。
どんなに罪を重ねようとも目覚めた時には無かったことになる。
だから気に病む必要性は全くなかった。
どうせこの瞬間も、夢の一幕に過ぎないのだから。
当初の目的通り僕はコンビニに向かう。
足取りは足枷が外れたように軽くなり、ルンルン拍子で店内へ入っていった。
籠を取りお酒と煙草といった快楽中枢を刺激するものばかりを選んでいく。
発泡酒なんて論外、ビールにハイボールと日本酒を好き放題手に取っていき、レジの後ろにある煙草類をお店の箒で叩き落していきフロアに落ちたおこぼれを夢中でかき集めた。
籠に入るだけ詰め込み、後は生ハムやチーズなどお酒似合いそうなつまみを適当に選んで入れると籠はあっという間に満杯になった。
これだけあれば夢で過ごす間はまず不足しないだろう。
店内を散々荒らした挙句僕は右手にコンビニの籠、左手に先程の服屋で取ってきた服を詰めたビニール袋を持ちお店を出た。
やっていることは強盗と大差ない。
しかし罪悪感は微塵も湧いてこなかった。
誰にも消費される当てのない製品をもらっただけ。
賞味期限が切れ破棄寸前の食品を譲り受けたようなものだ。
悪びれる必要性はないしむしろ感謝してほしい位だ。
歩道を緊張感無く進んでいき口笛を吹く余裕さえあった。
ここまで周囲を気にせず堂々と外を歩けたのはいつぶりだろう。
今の僕に怖いものなんて一つもなかった。
世界を支配したといっても過言ではない。
外部要因の大本、即ち人がいなくなってくれたことで僕に映る世界はクリアなものへと変貌していた。
安心安全に包まれた空間、自分と言う自我が真の意味で生きられる場所。
ずっと嫌いと思っていたけど、ただ一つの問題を解決することで世界がここまで楽しい場所になるなんて知らなかったな。
部屋に引き籠っていた時は影の生活を続ける弊害で太陽を浴びると溶かされるような感覚を覚えると考えていたけど、今思えば外に出たくない自分自身への言い訳に過ぎなかったわけだ。
現に今、太陽を体全体に浴びているけどむしろ清々しい気持ちになれた。
結局世界は綺麗で、それを汚しているのは人間で、歪めている根本を絶つことでありのままの情景を知ることができる。
それを感じるのも僕という一人の人間だからそこは何とも言えないけど。
多勢の有象無象がいなければ法も秩序も存在しないし、社会と言う歪んだ形の見えない怪物を作り出すこともなかった。
人が増え過ぎたんだよ、元の世界は。
帰路を進んであと二百メートル程でアパートに着く時だった。
僕の袋と籠を抱えた両手はプルプルと震え始め、足も一歩踏み出す度脹脛が腫れるような痛みが走るようになった。
歩きっぱなしでさすがに疲れた。
体の消耗も小学生並みに戻っているようだ。
少し歩いた先に公園が見えた。
塗装が剥がれかかっている遊具がここからでも確認できる。
本来帰る方向とは違うが、休憩がてら寄り道することにした。
一歩一歩ゆっくりとした足取りで公園へと近づいていく。
囲われたフェンスが目の前まできたとき、キーキーと錆びれた金属音が公園内に鳴り響いていた。
音の正体をここからでは特定できなかった。
施錠されていない金網フェンスが風に煽られ音を立てているのだろうかと想像を巡らせたが、この時僕の思考回路はまともではなかった。
公園内で聞こえてきたのだ、誰かいるのかと考えるのが普通だっただろう。
しかし僕の脳内にはこの世界には自分以外誰もいないという自らが立てた前提条件がある。
その前提を揺るがせたくないという思いが自然に働いたのかもしれない。
入口に立ち公園内を見渡すと、僕は音の正体に気付いて呆気にとられる。
僕の他にもう一人、この世界に存在していたからだ。