夢の中で、また君に会えるから

「その夢の中では、同じように未来の自分がいたんですか?」
「いや、その時はいなかった。
 小学生の姿になった僕とユリナ、二人だけだったよ。
 二人だけの世界で、日が暮れるまでただ楽しく遊んでいた。
 色々と謎の多い世界だと思ったけど、当時の僕はそんなの気にも留めずにユリナとの遊びに夢中だった。
 でも何よりも不思議だったのが、その夢の内容が今でも昨日の事の様に思い出せるんだ。
 色褪せることなく、とてもただの夢だったとは思えない。
 だから彼女のお墓の前で思い出した時、もしかしたらあれは彼女の最後の願いが叶った瞬間だったのかなって思ったんだ。
 ノートにも書いてあった、夢の中でもいいから彼に会わせてくださいっていう、その願いが」
 まさか、そういうことなのか?
 今僕と彼女は同じ夢を見ていて、夢が覚めれば元の世界の記憶は戻るから再会の形はどうあれ叶ったことになる。
 夢の中で互いの記憶が失われているのは僕が彼女を恨んでいるかもしれないから、余計な感情を失くして再会をすることで楽しく終わりたかった。
 そうすることで互いの関係に終止符を打つ。
 でもユリナ、君は本当にそれでいいのか?
「僕は間に合わなかった。
 どんなに願っても時間を戻すことはできない。
 でも君は違う。
 元の世界に帰れば、まだ彼女は生きている。
 君はまだ、間に合うんだ」
 そこで僕は彼を見る。
 蔓延っていた疑問点が、一つに合致したような感覚があったからだ。
「まさかあなたは、その事を伝えるためにここに来たんですか?」
 彼は微笑みを浮かべ、僕の肩に大きな手をポンと置いた。
「一種の賭けだったけどね。
 奇跡的に君たちと同じ夢の中に入ることができた。
 案外、夢っていうのは時間の概念がないのかもしれないね。
 そこに行きたいと願えば、願いの強さだけその世界に導いてくれる、そんな気がするよ」
 置かれた手の温もりが熱く、彼がどれだけ強く願ったのかが伝わってくるようだった。
 彼は真っ直ぐに僕を見て、その目は僕に多くを託しているように見えた。
「目が覚めて、君が何をするべきなのか。
 今の君なら、もうわかるだろう?」
 心に熱い思いが流れてくるようだった。
 彼の後悔を、僕は無駄にしてはいけないんだ。
 彼は立ち上がり、僕の肩から手を離す。
「僕が伝えたいことは全部伝えた。
 後は君次第だ。任せたぞ」
「・・・はい。必ず」
 自らに誓うように、僕は強く言葉を返した。
 僕達はしばらく互いの視線を交え、彼が笑みを浮かべるまでそれを続けた。
 未来の僕はこんなにかっこよくなるのだと思うと、少し嬉しい気持ちになった。
「よし・・・それじゃ」
 そう言い残して彼は歩き出す。
 木漏れ日に照らされたタイルの道を進み、徐々に背中が遠ざかっていく。
 しばらくその背中を見送っていたが、僕はベンチから立ち上がって彼の元へ駆けていた。
「香山リョウ!」
 僕は彼の名前を叫ぶ。
 彼は足を止め、後ろに振り返り驚いた様子でこちらを見ていた。
 目の前まで来るとスピードを落として立ち止まり、呼吸が落ち着くまで息を荒げた。
「彼女と、会ってみませんか?」
「え?」
 そこから数秒の沈黙があった。
 思いもよらない発言だったのだろう、逡巡としているのが表情や挙動から見て取れた。
「・・・そうだね。最後に一度だけ、会ってみたいな」
 そう言って彼は微笑んだ。
 懐かしそうに、思いを馳せるように、まだ彼の中にいる彼女との決着をつけるためにそれは必要な事の様に思えた。
「じゃあ、行きましょう。
 部屋に置いてけぼりにされて、きっと彼女はまた拗ねているだろうけど」
「ははっ、彼女らしい」
 僕達はそんな彼女の姿を想像して可笑しそうに笑いあった。
 
 病院の坂を二人並んで下っているとき、以前とは世界の色が違うことに気付かされた。
 オレンジ色の光が続く道路の先を照らし、並んで植えられた植栽の影が長く伸びていた。
 後ろを振り向くと、滲むような夕日の光芒とした光が僕の視界を埋め尽くす。
 この世界で初めて、太陽が動き始めたのだ。
「もう、長くはないのかもしれないな」
 それが夢の終わりの事を指すのか、彼女の生命について意味しているのか。
 どちらにしても彼の言う通り、もう長くはないのだ。

 アパートに着いた時にはもう辺りは真っ暗だった。
 街灯の光をあてに帰路を歩き、四戸一のアパートは僕の部屋だけ光が漏れていた。
「ただいま」と言いながら玄関ドアを開くと「遅い!」とまず罵声が飛んできた。
 玄関先でユリナが仁王立ちで塞がり、僕を責める様に見ていた。
 頬を膨らませ、鼻の穴を大きく膨らませていた。
 分かりやすい、想像通りの展開だった。
「もう真っ暗だよ!やっぱりリョウ君は不良さんだね!」
「ま、まあ落ち着けって。紹介したい人がいるんだ」
 両手で彼女を制しながら後ろにいる人物にアイコンタクトを取る。
 そんな僕達を見て彼は苦笑いしながらこちらへ近づいてくる。
 ドア枠からチラッと顔を覗かせるとユリナの口が小さく開かれる。
 えっ誰?と言わんばかりの表情だ。
「この人は、僕の父さん。さっきたまたま会って、話が盛り上がって遅くなっちゃったんだ。ほら、ここって僕達以外の人っていなかっただろ?だからビックリしちゃって」
 そう紹介すると彼は会釈をして小さく微笑みを浮かべる。
「こんばんは。突然ごめんね。リョウが迷惑かけてるね」
 彼女はさらに驚いているようだった。
 僕達しかいないと思っていた世界で他の人がいて、さらに僕の父と名乗る人物がいきなりやってきたのだ。
 さすがの彼女も言葉を失ったのだろう。
 未来の僕は自分の父親だという設定を、帰路で口裏を合わせておいたのだ。
 恐らく違和感はないだろう。
 彼が三十二歳で十歳くらいの子供がいるなら二十一、二の時期に子供を作ったということになるが、元の世界の僕を思うと正直想像できない状況だ。
「お、お父さん!?嘘!?」
 彼女は大袈裟に狼狽し、両手で髪を整える動作をしていた。
 まるで親に秘密にしていた同棲がばれてしまったような気まずい心境になってしまう。
「・・・初めまして。木村ユリナです」
 両手を後ろに組んでもじもじしながら彼女は言う。
 そんな彼女を見て彼は可笑しそうに笑う。
 嬉しそうで悲しそうな、懐かしさを含んだような笑い方だった。
「初めまして。ユリナちゃん、可愛い名前だね」
「あ、ありがとうございます」
 彼は目を細めて彼女を見つめる。彼にとっては約十年ぶりの再会になるのだ。きっと複雑な心境に違いない。
 彼は片手を彼女に向けて差し出し、握手を求める格好を取った。
 彼女はその手の平を見て、一瞬迷ったように僕の方を向く。
 僕が笑いかけると、彼女はフレアスカートに右手を擦りつけ汗を拭き取る動作をする。
 恐る恐る手を伸ばし、彼の手をキュッと握った。
 彼は満足したように首を何度も縦に振ると、「ありがとう」と言って笑った。
 それを合図に自然と繋がれた手は離れる。
「リョウは、一見不愛想で素直じゃないけど、いつだって君の事を大切に思い続けている。君は一人じゃない。どうかそれを、忘れないでほしい」
 彼らの視線が空中で交差する。
 きっと彼女は、その言葉の意味を後から知ることになるだろう。
 どうか覚えていてほしかった、間に合わなかった未来の僕を、届かなかった君への思いを。
「それじゃ、二人共。お幸せにな」
 彼は僕達に背を向け、再び歩き出そうとしていた。
 その時彼女は裸足のまま土間に飛び出し声を上げた。
「あ、あの!よかったら、中に入っていきませんか?夕飯作ったから、一緒に。散らかった部屋ですけど」
「いや、それ君が言うの」
「あっ!また君って!子ども扱いした!」
「今のは・・・ごめん」
「むむ、リョウ君・・・!」
 僕達がまた言い争っていると、彼の笑い声が後ろから聞こえた。
 振り向くと、彼は腹を抱えながら笑い姿勢を前のめりにしていた。
 目からは涙が一滴、二滴と零れ頬を伝っていた。
 それが笑いから生まれたものなのか、別の意味を含んだ涙なのか、分からなかった。
「せっかくだけど、大丈夫だよ。ありがとう」
 そう言って彼は僕に視線を移し、数秒間互いに黙り視線を交わした。
「・・・頼んだぞ」
 掠れた声で呟くように言い、彼は今度こそ歩き出した。
 暗闇の中に姿が隠れ、どこにいるのかもう分からなくなった。
 もう彼と会うことはない、出会うとすれば十年後に僕自身が彼の年齢に追いついた時身を持って再会できるだろう。
「お父さん、なんで泣いてたのかな?」
 横にいる彼女の言葉に、やっぱり泣いていたのだと気付く。
 どうしようもない方向に進もうとしていた僕の人生を、彼は後悔の念を晴らすために会いに来てくれた。

〈君が何をするべきなのか。今の君なら、もう分かるだろう?〉
 
 彼の言葉が蘇る。
 感謝してもしきれない、胸の奥から温かいものが込み上げてくる。
 彼の人生を、後悔を、僕に託してくれた思いを、絶対無駄にはしない。
「・・・ありがとう」
 僕は彼の消えていった暗闇に向かって、そう呟いた。

 ローテーブルには彼女の作った温かな料理が並べられていた。
 茶碗に盛られた白いご飯とお味噌汁からは湯気がモクモクと上がっていた。
 白く平べったい皿にはボール状のコロッケと瑞々しいレタスとトマトが乗せられ、色合いが考えられた華やかな食卓になっていた。
 腰を下ろそうとした時「まずは手洗いうがいだよ」と彼女に注意され洗面所に引っ張られていった。
 手を洗っている間も、彼女は腕を組んで僕を見張っていた。
 まるでお母さんの様で、ユリナは小さな頃からこんなにしっかりとした子だったんだなと今更ながら感心を覚える。
 はっきりした物言いと、家庭的な料理、僕の部屋をせっせと掃除してくれた几帳面な性格。
 きっと元の世界の彼女は、素敵な女性だったんだろうな。
 そして僕は彼女に敷かれてあれこれ文句を言われていたに違いない。
 想像すればするほど、それは微笑ましい光景だった。
 手洗いうがいを済ませ彼女の許しを得ると僕はようやく腰を落ち着けられる。
 彼女も向かい側に座ると、僕達は示し合わせたように合掌する。「いただきます」と互いに言うと彼女は嬉しそうに笑みを浮かべた。
 僕が食事に手を付けている間、彼女は僕の反応を楽しむようにニヤニヤしながら眺めていた。
 コロッケを一口齧って中にカボチャが入っている事に驚くと、狙い通りと言わんばかりに彼女はクスリと笑った。
 こんな芸当もできるのか、コロッケとご飯を口に含んで飲み込むと美味な味が口いっぱいに広がった。
「凄くおいしいよ。ユリナは料理が上手だね」
 率直な感想を述べると彼女は片手を首に当て照れたように身を捩った。
「えへへ、おかわりはまだあるからね」
 キッチンワークスペースに置かれたプレートにはコロッケがあと五個程残っていた。
「張り切って作り過ぎちゃって、明日のご飯にしてもいいかもね」
「・・・そうだね」
 恐らく明日は来ない、目覚めれば元の世界に戻っている事だろう。
 互いに少年少女の姿でいられる瞬間は、もう残りわずかだ。
「そういえば、ユリナは僕より早くこの世界にいたんだっけ?」
「え?そうだけど。それがどうかしたの?」
 彼女はお味噌汁を啜りながら答える。
 僕の感想に満足したのか、ようやく自分の作った料理に手を付け始めていたところだった。
 部屋に戻って彼女と話している内に、ある話題に触れない事に僕は違和感を覚えていた。
 何故彼女は、世界に夜が訪れたことに疑問を覚えないのだろう?
 彼女の性格を考えると、「リョウ君夜だよ!夜が来たよ!」とまず一番にはしゃぐイメージがあるのだが。
「いや、だって夜になったんだよ?今まで太陽がずっと出ていてこのまま沈まないんじゃないかってくらい昼が長かったから、僕びっくりしちゃって。ユリナは驚かないのかなって」
「驚くって・・・あ、そっか!リョウ君夜を見たの初めてだよね!」
 僕は肯く。
 彼女は合点しているようだが、僕は何が何やら分からない。
「この世界のお昼はね、とっても長いんだよ。でもいつか夜が来て、眠るとまたお昼になってる。お昼の時間が長い分、眠る時間もきっと長いんだろうね」
 筋が通っているようでおかしな理屈を彼女は言う。
 つまり、この世界の夜を彼女は何度も経験しているということだろう。
 しかしどうだろう、もし今この瞬間が元の世界の僕と彼女が互いに見ている夢の中だとしたら、彼女はずっと夢の中にいて僕がその中に誘い込まれたということだろうか?
 もしかして彼女は、元の世界の病室で昏睡状態に陥っているのか?だとしたら目が覚めて病室に行っても、彼女はまだ夢の中にいるのかもしれない。
 そうなると僕達の再会は果たせない、それは現状況で最悪の想像だった。
「どうしたの?ボーとして」
「・・・え?いや、なんでもないよ。そうなんだ。昼が長いんだね。知らなかったな」
 上手く表情が取り繕えず、乾いた笑いが出る。
 夢が覚めてどんな現実が待ち受けているのか、心の中にある雲行きが怪しくなってきた。
「でも、怖いな」
 彼女の呟くような声が聞こえ、僕は顔を上げ彼女を見る。
 下に俯き、わずかに覗く表情には陰りが差していた。
「夜になる度、新しい明日がようやく来るんだって、ワクワクしてた。でもリョウ君が来て、怖くなった。
 ずっと一人で遊んでいたから、誰かとゲームをしたり、街に行って出歩いたり、食事を一緒にするなんて、なかったから。すごく楽しかった・・・。
 でももし起きてリョウ君がいなくなっていたら、私は泣くと思う。
 今まで一人でいて寂しいなんて思わなかったけど、きっと寂しくなるんだと思う。
 誰かといることがこんなに楽しかったなんて知らなかったから・・・」
 彼女はまばたきを何回も繰り返し、目からは今にも落ちそうな涙が輝き揺れていた。
 俯いた顔はこちらに向けられ、真っ直ぐに見つめられる。
「・・・ねぇリョウ君、どこにも行かないよね?ずっと私の傍にいてくれるよね?」
 震えた声を聞いて、僕は体の内に衝撃を感じる。
 何と返せばいいのだろう、きっと僕はいなくなる。
 もうこの世界で彼女の傍にはいられない。僕が隣に居るべき彼女は、別の世界にいるのだから。
 懇願するように彼女は唇を噛み、涙が一滴頬を伝った。
 ここで現実を伝えてしまえば間違いなく彼女を悲しませる、いや、きっと壊れてしまう。
 また一滴、一滴と涙がぽろぽろと零れていく。
 心中で激しく葛藤し、僕は覚悟を決める。仕方がない事なんだ・・・。
「・・・僕は、君の傍にはいられない。だからもう、お別れなんだ」
 視線を逸らさず、真っ直ぐに見て伝える。
 彼女の目からはダムに亀裂がはいったように次々と透明な涙が落ちていった。
 力の籠っていない手の平で僕の手を握り、ほのかな温もりは彼女の気持ちが流れ込んでくるようだった。
 どこにもいかないで・・・と。