何をしようにも力が入らない、空虚で無意味な日々を蛇足に生きるしかない。
雨を体全身で浴び、最初こそ苦痛だったものの次第に感覚が失われ寒さを感じなくなる。
数分後にはぬるま湯のシャワーを浴びているように心地いいとすら思えるようになった。
狭い住宅街の路地を歩き続け、もう少しで曲がり角に差し掛かる。
外灯の光は浮いた水たまりに反射され、どこか神秘的な輝きを放っていた。それらを踏み歩いて前に進んでいく。
引きこもりの生活を始めてもう少しで一年が経とうしている。
高校を卒業して入った会社を四年で辞め、わずかに貯めていた貯金を食いつぶしながら今日まで生きながらえてきた。
それももう少しで底をつく。
働かなくてはいけないのに、どうしても行動に移すことができないのだ。
人が怖い。
人間不信故に足が竦んでしまい、次の一歩を踏み出すまでに至れない。
そう陥ってしまったのは、唯一信じていた人に裏切られたからだ。
あの絶望感は今でも忘れられない。
君は僕の人生の全てだった、それが前触れもなく唐突に終わりを告げたのだ。
当時は全て上手くいっているように思えた、でもそれは違った。
結局僕の思い過ごしで、君にとっては大切でも何でもなかったんだ。
そう思った後は簡単だった、世界の全てが牙を剥いたように、心をズタズタに切り裂き廃れていった。
要は堕落していったのだ、心の支えを無くした人間なんて風に吹かれたビニール袋の様で無抵抗に飛ばされていってしまう。
君さえいてくれれば、いや、君と出会わなければ、僕はこうして落ちぶれることはなかったのかもしれない。
僕がこんな酷い有様になってしまった根本的な原因は、全て君にあるんだ。
「大嫌いだよ」
そう吐き捨て路地の角を曲がる。そこで僕は立ち止まった。
下に俯きながら歩いていると、外灯に照らされ伸びた人影が僕の足元に映ったのだ。
こんな深夜に、僕以外に出歩いている奴がいるのか。
どんな奴なのかが気になって、僕は視線を地面から前方へと向けていく。
その人物を確認した時、僕は呆然と立ち尽くした。
女性だった。
僕と同じように土砂降りの中傘も差さずに路地を歩き、長い黒髪は水分を含んで頬に張り付いていた。
長い前髪の隙間から覗くぱっちりとした目は真っ直ぐに僕を捉え、全体的に細い体躯は片手で軽く押せば無抵抗に地面に倒れていってしまいそうな程華奢だった。
白いセーターに赤色のフレアスカート、この寒さで上着の一枚も羽織っていない。
紛う事ない美しい女性。
しかし僕が驚いている理由はそこではない。
その女性が、僕のよく知っていた人物だったからだ。
互いに無言で対峙し、降る雨は勢いをさらに増していった。
言葉に詰まる僕がようやく発せた一言は「・・・えっ?」だった。
彼女に聞きたいことは山程あった。
でも実際、前触れもなしに突然目の当たりにすると何と言っていいのか分からなくなる。
噂をすれば影とでもいうのか、あれほど憎んだ相手が目の前に現れたのに対し、怒りが沸いてくるどころかむしろ嬉しいとさえ思ってしまう自分がいる。
結局のところ、僕はまだ彼女の事を愛しているのかもしれない。
彼女は無表情のまま真っ直ぐに僕を見据えてくる。
どうするべきなのか思考を巡らせていると、彼女は右足を一歩前に踏み出してきた。
一歩、更に一歩、立ち尽くす僕にゆっくりと近づいてきて気づけば目の前まで接近されていた。
殺されるかもしれない、そんな危機感を覚えた。
殺意を感じたわけでも特別凶器を手に持っているわけでもなかったが、得体の知れない恐怖は最悪の発想まで想像させてしまう。
しかしあの時僕を捨てたのは君だ。
あれから僕がどれだけ落ちぶれていったのか君は知らないだろうが、どちらかというと僕の方が君を恨んでいるし、殺す立場は僕にあるように思えるものだが。
近距離で彼女と目が合う。
まるで生気を一切感じさせない虚ろな目は、何を考えているのか全く分からなかった。
「なぁ・・・ユっ」
久しぶりに呼びかけた彼女の名前を言い終える前に、胸元に衝撃があった。
凶器で刺されたのか、そんな錯覚を覚えたが痛みは一向に訪れない。
ただ彼女の頭が僕の胸元に埋まっていただけだった。
両手を背中に回され、強く抱きしめられる。
今度こそ僕はどうしていいか分からなくなった。
この後彼女は何と言うのだろう?
やっぱり私達やり直そうとでも言うつもりなのだろうか?
そう想像して、僕の胸の中に温かい何かが流れ込んでくるような感覚があった。
この感覚を知っている、心が喜んでいる時に生じる反応だ。
この一年間、ひと時も忘れない程恨んだ相手なのに、結局僕には彼女が必要だった。
傍にいてほしかった。
どこにも行ってほしくない。
気持ちの切り替わりが早い事に我ながら失笑する。
「リョウ」
彼女が囁くような声で僕の名前を呼ぶ。
それを聞いた時僕の胸は跳ねた。
「なに?」と僕は次の言葉を促す。
そこで彼女は僕の胸に埋めていた顔を上げこちらを見る。
彼女は笑った。少女の様に屈託のない笑顔で。
愛してやまない、別れた後でも脳裏に映って忘れられなかった、彼女の一番大好きな表情。
「」
彼女は楽し気に僕に何かを話す。
でもそれが何だったのかは全く聞き取れなかった。
直後視界が真っ暗になり、そのまま僕は意識を失った。
落ちていく感覚があった。
真っ暗闇の中、周囲は不気味なほど静かで、自分が今どこにいるのか確認することもできなかった。
手足を動かしているつもりでも実際動かせているのか分からない、今自分が呼吸できているのかも分からない、それくらい全ての感覚を感じさせない場所だった。
両手を広げ、深海の奥へゆっくりと沈んでいっているような、心地の良い空間。
無の世界とでもいうのか、余計な全ての物を無くした場所は寂しさよりも心に平穏をもたらしてくれた。
このまま眠ってしまおう。
目を閉じると変わらず真っ暗で、だからこそ自然に眠りにつくことができた。
そうして僕は、いつも横たわっている自室のソファの上で目覚める。
目を少し開くと太陽の光がカーテンの隙間から差し込んできて、思わず視界を手の平で覆った。
瞼を閉じたままゆっくりと起き上がりソファに座る形になる。
外が眩しい、こんな昼間に起きることができたのはいつぶりのことだろう。
引きこもり生活を続けているとよくあることだと思うが、僕の生活リズムは昼夜が逆転していた。
昼間と夕方は眠り、深夜に目を覚ます。
そこからお酒と煙草を交互に窃取しながらテレビを見るなり本を読むなり好きなことをして時間を潰している。
お腹が空くと箪笥の中に溜め込んだカップラーメンを食べることで手軽に腹を満たすことができた。
そんな典型的なだらしのない生活を続けている弊害で、太陽の光を浴びると僕の体は溶かされていくような感覚を覚えるようになった。
夜行性故に吸血鬼の体に近づいてしまったような、そんな都合のいい解釈で昼間に活動することは避けてきた。
「やっぱり、太陽嫌いだな・・・」
だからといって再び眠りにつく気にはなれなかった。
自分でも驚くほど目が冴え頭の中がすっきりとしていたからだ。
毎日十時間位寝ているのに、ここまで清々しい目覚めは感じたことがなかった。
参った、このまま今日を過ごすと夜には眠くなる。
そうなれば次の日これくらいの時間に再び目覚めてしまうのかもしれない。
むしろ健康的だからそっちのほうがいいのではと他の人は言うのかもしれないが、自分からすれば生活リズムを崩してしまう方が精神的な背徳感を覚えてしまうのだ。
今まで積み上げてきたスタイルを崩し変えてしまうことは自分自身の意思に反してしまうような気がする。
僕にもそんなくだらないこだわりの一つはあるのだ。
そしてなにより、僕は深夜帯じゃないと外に出られない。
理由は単純、人と会いたくないからだ。
深夜のコンビニの店員と数秒接するだけでも寒気を覚えてしまう。
街を歩いていても、知らない人間に見られていると想像するだけで吐き気を感じてしまう、要は人間不信に陥っているのだ。
なるべく人目を避けて細々と生活したい、夜行性になったのはそういう理由が大きいのかもしれない。
はぁ、と深くため息をつき溜まった灰皿の横に置いてある煙草の箱を手に取る。
蓋を開けて煙草を掴む指を伸ばすも中身は一本も入っていなかった。
おいおい、勘弁してくれよ。
ほんとに無くなっているじゃないか。
周囲を見渡すもどれも空箱でこの部屋には煙草の一本も残されていなかった。
買い足しに行かなくてはいけない、でも昼の世界に身を投げるのは今の僕には自殺行為に等しい。
しかし煙草を我慢するのもまた、自殺行為だ。
僕にとっては数少ない生きがいの一つなのだから。
買いに行こうか、そう考えが過ぎるも閉め切ったカーテンの先にある光の世界を想像すると身が竦む。
どうしようか、散々迷った結果外に出ることを決めた。
やはり中毒症状には勝てない。
コンビニまで歩いて五分、日傘でもあればいいのだがそんな高貴なものは生憎持ち合わせていない。
ソファから重い腰を持ち上げようとしたその時だった。
足元に柔らかな布を踏んだ感触があった。
絨毯など敷いていない剥き出しのクッションフロアにはありえない肌触りだ。
そこで初めて足元を見る。
もっと早く気付くべきだったのかもしれない。
寝起きでボケていなければ煙草が残っていない事よりも先にこっちの方で驚いていただろう。
僕の足は、今自分が履いているスウェットパンツを踏んでいたのだ。
足全体を生地が覆い、明らかに丈があっていなかった。
一回り大きなサイズを着ていたのか?
いや、今まで使用していてそう感じることはなかった。
不思議に思い、自分の体周りを確認するように見渡すとおかしな点ばかりが見つかる。
手首は袖から出ているもののその先はぶかぶかでスリーブの長さに余りがあった。
リブは足首の辺りにきており、ズボンは立ち上がるとずり落ちてしまいそうな程ぶかぶかだ。
手の平を広げまじまじと見ると子供の手の様に小さくぎこちない形をしていた。
そう考えて混乱する。
まさか、そんなはずはない。
立ち上がると、案の定ズボンとパンツが腰から落ちるがお構いなしに脱衣所へと向かった。
洗面台に置かれた鏡を見ると僕の顔がかろうじて覗くような形になり、視線を下にやると洗面ボウルの上端がすぐそこに映った。
自身の幼い顔立ちを見て一瞬他人が映り込んでしまったような錯覚を覚える。
ぱっちりとした大きな瞳、小粒の様に可愛らしい形をした小さな鼻、ピンク色で潤いのある唇。
不自然なほどの色白さと前髪が隠れるくらいの長髪は健在だが、それらを除けば僕の要素はほとんど感じられなかった。
その似た目から小学生くらいだろうか?
当時の姿に戻ったとして僕はこんなに可愛らしい似た目をしていたのかとしっくりこなかった。
でもよく目を凝らしてみれば、確かにそれは僕自身だ。
十数年後の姿は酷く落ちぶれた容姿になっているけれど、間違いない。
どうやら僕は、小学生の姿に戻ってしまったらしい。
何故こんな姿になってしまったのか、どんなに想像しても混乱を深めるだけだった。
悪い夢でも見ているのだろうか?
しかし夢とは思えない程僕の意識はこの世界に存在していた。
夢なら、決定的な何かが現実と比べ欠けているものだ。
それは僕の感覚的なものに過ぎないけど、生きているという実感が夢の中では確かに不足しているのだ。
「現実・・・なのか?」
そう呟く僕の声も高音で透き通っているものに変わっていた。
次第に鏡に映る違う自分の姿に恐怖を覚え、逃げる様にリビングに戻った。
そして僕は外の路地を歩いていた。
あれだけ太陽を嫌っていた男があっさりと外出している辺りおかしく思うだろうが、この状況でじっとしていられる程僕の肝は据わっていない。
当初はコンビニを目指していたが、すぐに取りやめた。
この姿でお酒と煙草をレジに持っていっても売ってくれるわけがない。
似た目は小学生で、それも上下のスウェットはぶかぶかで裾を引きずりながら歩く有様だ。
靴はサイズが合わないので、仕方なくサンダルをつっかけている。
警察に連絡され保護される未来が容易に想像できた。
その時この状況をどう説明すればいいのだろう。
考えるだけでも途方に暮れそうだ。
結局僕が向かった先は近所にある洋服屋だった。
先ずはぎこちないこの格好をなんとかしよう。
ただでさえ人目が苦手なのに、視線を引くような服装は恥ずかしくて仕方がなかった。
子供用の服を適当に数点選んで購入することができれば一つの問題は解消できる。
レジに向かうまでは不審がられるだろうが、大丈夫。
すっと入って即座に購入し着替えることができればこっちのものだと委縮する気持ちに言い聞かせた。
もう少しで住宅街の路地を抜け県道が見える。
すぐにある横断歩道を渡れば洋服屋は見えてくる。
横断歩道を渡る際、車に乗っている人達から送られる冷ややかな視線を想像した。
渡る途中、恥ずかしさにやられ道路の真ん中で吐いてしまうのではないかと思うほど痛々しい光景だった。
視線恐怖症の僕からすればやりかねない結末だ。
道路が近づいてくるたび身震いした。
逃げたい、やっぱり外に出るんじゃなかった。
そんな僕の気持ちとは裏腹に足は自然に一歩一歩踏み出していく。
家を囲うブロック塀を抜け歩道に出た時だった。
「・・・え?」
そこには誰もいなかった。
歩道を行き交う人達も、視界を遮るように走る車も、建物を縫うように通ったモノレールも。
人の動きを感じさせてくれるもの全てがこの場に通っていなかったのだ。
世界から人が消え、自分一人がこの場に取り残されてしまったような、そんな感覚を覚えた。
先ずは驚きが訪れ、少しすると心の底から込み上げてくる高揚感を覚えた。
いつかの映画でこんな世界に行ってみたいという願望が今目の前で実現したような気がしたのだ。
小さな夢が叶った、そんな子供じみた考えはそんなわけがないだろうという言葉一つですぐに冷めた。
きっとたまたま人が歩道を歩いていなくて、車も走っていなくて、モノレールも走る時間帯とずれていただけだ。
様々な偶然が重なった結果このような状況が生まれたのだ。
本当にこの世界から人が消えればどれだけ平穏だろうと正直思うが、そんな都合のいい状況が起きるはずもない。
世界は僕なんかの願望を叶えてくれるほど生易しい場所じゃない。
「でも、ラッキーだな」
幸い懸念していた人目を避けて県道を超えることができそうだ。
歩道の縁石に立ち左右を見渡し、今がチャンスだと僕はズボンを両手で抱えながらダッシュで車道を横断した。
衣服屋に来ても人はいなかった。
客も、店員も、誰一人として。
店に入る前は閉まっているものかと思ったが、窓から映る店内は明るく、入り口に近づくと当たり前の様に両開きの自動ドアは開いた。
一応営業はしているのだろう、そう思い子供服が寄せ集められたコーナーへと向かう。
そこでサイズが合いそうな黒いシャツにジーパン、下着類などを適当に籠に詰めレジに行くもやはり店員は出てこなかった。
どんなに待っても来る気配もない。
周囲を見渡すも僕以外の客は見当たらなかった。
そこで考えていた仮説に真実味が帯びていく。
やはり、人が消えたのだ。
今この世界には僕一人しかいない。
県道に出た辺りから、いや、自室で目覚めた時から全てがおかしかった。
似た目は小学生に戻り、外に出れば誰一人として他の人とすれ違うこともなかった。
幸い街のライフラインだけが生き残っているらしく、現に今真上の照明は明るく点灯し、スピーカーからはお洒落な洋楽が店全体に響き渡っている。
何故こうなってしまったのかはもちろん分からない。
情報が無い今知る由もないし考えるだけ無駄だ。
どうしようもないが、この状況を受け入れざるを得ないと思った。
抵抗しようにもその矛先をどこに向ければいいのか分からないのだから。
これら全てに落としどころをつけようというなら、この状況全てが僕の見ている妄想か、夢の類だということだ。
いや、実際の所そうなのだろう。
でないと説明がつかない点があまりにも多すぎる。
まるで現実の様にリアルで見分けがつかないが、案外夢を見ているときはこんな感じなのかもしれない。
夢から覚めた時、実際その夢で自分が何をしていたのか、何を思ったのかを鮮明に思い出すことはできないのだから。
人は見た夢の九十パーセントを五分以内に忘れると誰かがテレビで言っていた言葉をふと思い出す。
「そうか、夢か」
そう思うと今この異常な状況下が楽観的なものへと認識が変わっていった。
結局はただの夢なのだ。
少々SF染みた類の、頭の中で広がる妄想の一つに過ぎない。
体が小さくなった点は不便極まりないが、僕の毛嫌いする他人はいない、街のライフラインは使い放題、今のお店に並ぶ商品を堂々と盗んでも誰にも咎められない。
まさにやりたい放題、一種の楽園の様に思えた。
こうなった以上、ここからは欲望のあるがまま好き放題やらせてもらおう。
僕は籠に入った服のタグをレジに置かれたハサミで切り落としていき、その場でスウェットを脱ぎ捨て新しい服に着替えた。
大きさは適当に選んだ割にピッタリで、束縛から解放されたように手足が自由に軽々と動かせるようになった。
残りの服が入った籠を持ち僕はお店を後にした。
脱いだスウェットはお店に捨ててきた。
どんなに罪を重ねようとも目覚めた時には無かったことになる。
だから気に病む必要性は全くなかった。
どうせこの瞬間も、夢の一幕に過ぎないのだから。