彼女は「そろそろ行こっか」と椅子から立ち上がり、空になったカップにスプーンを入れる。
 同じタイミングで僕のカップも空になっていた。
 もっと聞いてみたいことは山々だったが、またいつかの機会に聞いてみよう。
 この調子だと、またいつでも会えるだろう。
 目線を下から前方に戻すと、すでに彼女は姿を消していて店内を映すガラスの先に彼女はいた。
 追いかける様に歩き出し、僕も店内に戻った。
 ドアの側に設置されたダストボックスにアイスのゴミを捨て、周囲を見渡すと彼女はエスカレーターの袖壁に掛けられた案内板をじっと見つめていた。
 小さく口をパクパク動かし、次に行きたい店が見つかったのかもしれない。
 僕が近づいてくるのに気付くと、彼女は「こっちこっち!」とエスカレーター身を乗り出した。
 手すりを両手で持ってぶら下がり、数秒すると二の腕がプルプル震え始めステップに足を下ろしていた。
 エスカレーターを降り、彼女は両手を後ろで組んだままフロアを歩き進めていく。一定の間隔を開けながら、彼女の背中を追っていく。
 気づけば僕達のいた新館から旧館へ通じる連絡通路を歩いていた。
 ガラスに映る人通りのない大通りと利用されていないビル街は人類の残した残骸のようで寂し気に映った。
 旧館エリアは新館と変わらず小綺麗にされていたが、所々黒ずんだ蛍光灯や昔ながらの老店舗が目立ち時代の差を感じた。
 再びエスカレーターに乗って三階ほど下り、しばらくフロアを歩き進めていくと彼女は立ち止まった。
 目の前にあるのは楽器店で、壁に掛けられたエレキギターや幅広くスペースを設けられたドラムセットなどが置かれていた。
 木目調のクッションフロアが奥まで敷かれており、電球色のダウンライトがクラシックな雰囲気を演出していた。
「リョウ君に一つ嘘ついたかもしれないね」
 下に俯いたままこちらに振り向き、寂し気な口調で彼女は言う。
「私、ここに来たことがあると思う。それがいつの事なのか、はっきりとは分からないけど。この楽器店、なんだか懐かしく感じるんだ」
 その記憶も、明瞭なものではなく感覚的なものなのだろう。
 嘘をついたかもしれないと曖昧な表現をしたのは、彼女の感じた懐かしさがどこからきているものなのか分かっていないからだ。
 彼女の視線の先には電子ピアノがある。
 ゆっくりと近づいていき、目の前まで立つと鍵盤の上にそっと指を下した。