元の世界にいた頃を思い出そうとすると、真っ先に思いつくのはアパートの自室でどうしようもない位の引き籠り生活をしていたことだ。
 以前は中小企業の会社に勤め、その前はごく普通の学生生活を送っていたことも思い出せる。
 生まれてから就職するまでの間は可もなく不可もない人生を送っていたはずだ。
 しかし何故そこから引き籠りをするまでに陥ってしまったかを思い出そうとすると、記憶に靄がかかったように何一つ思い出すことができないのだ。
 ここで一つの仮説が浮かび上がる。
 このほぼ無人の世界に迷い込む際、記憶の一部が欠落してしまうということだ。元の世界で得た記憶の全てはここには持ち込めない。
 データを他の端末に移設する際、バックアップを取っていなかったデータが引き継ぎできないのと同様の事がこの世界でも起きているのではないかと感じたのだ。
 何の裏付けもないあくまで個人的な予想に過ぎないが、実際僕の記憶が鮮明でないことは確かだ。だからこそ彼女のことを知りたいと思った。
 彼女がどこまで覚えていて忘れているのか。
 その線引きの様なものを知りたいと思った。
「何で、そんなこと聞くの・・・?」
 机に突っ伏したまま彼女は答える。
 どれだけ勢いよく一気食いしたのか知らないが、頭を抱えてしんどそうだ。
「ほら、僕達は今こうして遊んでるけど、お互いの事はまだ全然知らないだろ?元の世界での記憶を共有できれば、自己紹介みたいになるかなって」
 変な意味だと捉えられないよう朗らかに言うよう努める。
「話したくないなら別にいいんだけど」とも付け加えた。
 おしゃべりな彼女が自分から話そうとしない辺り、あえて自分の過去を隠している可能性があるからだ。
 彼女は身を起こし、寝起きの様に冴えない表情でこちらを見る。
「記憶も何も・・・ほとんど覚えてないんだもん。何話したらいいかわかんないよ」
 頭を掻きながら空を仰ぎ、彼女は思い出すように努めているように見えた。
「私にはお母さんがいて・・・お父さんと兄弟はいなかったと思う。学校には通っていて、でも勉強が嫌いだったからほんとは行きたくなかった。あと、ピアノが弾けたかな」
「ピアノ?」
「うん。勉強が苦手って言ったけど、音楽だけは得意だったんだよ?その中でもピアノは、小さい頃からやっていたから」
「へぇー・・・すごいね」
 意外だと思った。
 彼女の様に活発な子は大抵体育が得意だと一番に言ってきそうなものだが。
「意外だと思ったでしょ?」
 悪戯っぽく彼女は笑いかけてくる。
 思わずうなずきそうになった首を咄嗟の所で止める。無理もないだろう。
今までの彼女を見た後に、ピアノの椅子にじっと座り鍵盤を指先で優雅に弾いていく姿を想像できるものか。
 レッスン中終始うずうずしてじっとしていられず、最終的に脱走する姿の方が性に合っているように思える。