夢の中で、また君に会えるから

 どこにもいかないでほしい、そんな思いを伝える様に僕は彼女の体を強く抱きしめた。
 どれくらいそうしていたのか分からない、僕はとめどない涙を流し続け時々悲痛な呻き声を無意識に漏らす。
 彼女の頭を撫でる指先の柔らかさと、抱きしめた時に感じるほのかな体温が荒れた心を宥め癒してくれるようで落ち着いていく。
 永遠にこうして抱き合っていたい、彼女の存在を感じ続けていたい、そんな切実な願いが一つも叶わないことは分かり切っているのに、思わずにはいられない。
「愛している」
 ただ、何度もそう伝え続ける。
 その度「私も、愛してる」と彼女は返してくれる。
 互いの気持ちを確認し合う度、心の中を覆った靄が少しずつ消えていくような気がした。
「そういえば、リョウ。夢の中でここに来た時、私に言ってくれた言葉があったよね」
 彼女はふと思い出したように言う。
 夢の中、あれはショッピングモールの帰り道の途中のことだった。
 彼女が突然あらぬ方向に歩き始め、彼女の背中を追いかけて辿り着いた場所がここだった。
 夕日に染まる街を見て、彼女は訳も分からず涙を流していた。
 今思えば、わずかに残った僕達の記憶が当時の思いを呼び起こし、彼女が僕と決別するに至った葛藤や悲しみも連鎖的に反応してしまったのだろう。
「僕、なんて言ったんだっけ?」
「もう!なんで覚えてないのかな!リョウの悪い所だよ」
「ごめん」
 胸元から顔を上げると、頬を膨らませてこちらを見る彼女と目が合った。
 そんな顔をされても、思い出せないのだから仕方がない。
「リョウは、あの時私に“生きてみるしかない”って、そう言ったんだよ。私、その言葉にどれだけ救われたか・・・」
 あぁ、そのことか。
〈この世界ってなんなのかな?私達、巨大な牢獄に閉じ込められちゃったのかな?〉
 そう言った彼女の不安気な表情が思い出される。
 そんな彼女を励ますために、我ながら似合わない言葉を掛けてしまった。
 でもその一言を聞いただけで、彼女は纏わりついた影を吹き飛ばしいつもの元気溌剌な少女へと戻っていった。
「私には、リョウしかいないから」
 彼女は囁くように言う。
 一瞬夢の出来事と重なってその言葉が記憶から来たものなのか、目の前の彼女から発された言葉なのか分からなかった。
 今なら、その言葉の意味が分かる。
 もっともあの時は言葉通り本当に僕しかいなかったけれど、夢を見る前と後では捉える意味合いがかなり変わってくる。
 僕は彼女の上から退き、ベンチから降りる。
 彼女に手を差し出し、ゆっくりと身を起こして彼女はベンチに座る格好に戻った。
 握った手は離さない、彼女は緊張した様子で繋がれた手を見つめている。
「ユリナ」
 そう呼びかけると、彼女は静かに顔を上げて僕を見る。
 笑いを堪えているような、微笑みを隠しきれていない表情で次の言葉を待っていた。
 そういう無邪気な子供っぽいところは、少女の時から変わらない。

「結婚しよう」

「・・・うんっ!」

 きっとこれは、夢じゃないよな?
 あんな夢を見た後だと尚更区別がつきそうになかった。
 でも目の前で屈託なく笑う彼女を見て、どっちでもいいかと僕は思う。
 だって、現実だろうが夢の中だろうが、僕達の心は同じ世界を通して繋がっているのだから。
 そこに彼女がいてくれるなら、それがどんな場所であろうと僕は構わない。
 胸の中で広がる彼女の温もり、耳元からクスクスと聞こえる彼女の笑い声、背中に回された両手が強く締められる感触。
 感じる彼女の全てが、愛おしくて堪らない。
 気づけば夕日は沈んでいて、周囲は街明かりで煌びやかに照らされていた。
 展望台はいくつもの木柱の下から電球色の光が放たれ、神聖な地へと変貌を遂げていた。
 抱き寄せた彼女の体を、僕はさらに強く引き寄せる。
 ずっと孤独なまま生きていくのだと思っていた、誰にも愛されることなく死んでいくのだと諦めていた。
 なのに、君が笑ってくれるだけで、その笑顔を見るだけで、世界の何もかもが変わってしまったんだ。
 全くおかしな話だよ、恋なんて抽象的なもの一番信じられないと思っていたはずなのに、気づけば僕の視界には君しか映っていなかったんだから。
 だから今は、それが哀しくて仕方がないんだ
 ここから始まった美しい日々の事を、僕は一生忘れない。
 だから、ありがとう。
 こんな僕の事を好きになってくれて。
 いつかまた出会うことがあるなら、僕は何度でも、同じ言葉を伝え続けよう。
 君の事を愛している。
 何度でも、何度でも、君にそう伝えるよ。

 それから僕は毎日の様に彼女の病室に通った。
 引戸を三回ノックすると「はーい!」という元気な返事が聞こえる。
 中に入れば彼女は笑顔で迎え入れてくれて、壁に掛けられたパイプ椅子を設置して彼女の隣に座る。
 持ってきた文庫本や雑誌、DVDの入った袋を渡せば大袈裟なリアクションを取って喜んでくれた。
 暇つぶしの道具として、自室にあったゲーム機を持ってきたこともある。
 夢の中で遊んだ、例のレースゲームだ。
 僕が一人暮らしを始めたての頃、夜二人でやっていたことを思い出す。あの時も、僕は容赦なく彼女をボコボコにしていたな。
 病室にあるテレビに接続して二人で遊ぶ。「手加減してよね?」と彼女は言うが当然できるはずもなく僕は連勝し続けた。
 その度に彼女は「もうっ!」と僕の肩を楽し気にバシバシと叩いてきた。
 面会時間ギリギリまで、他愛もない話をしたり、一緒にテレビやDVDを見たり、車椅子に彼女を乗せて外を散歩したりした。
 夜になれば、僕は短い時間ながらアルバイトに出かける。
 正直気は乗らないが、また彼女に“あなたが今ボロボロになっているのは私のせいなんだよね?”と思わせないように、社会復帰への第一歩を踏み出すことにしたのだ。
 実を言えば、あの言葉は結構応えるものがあった・・・。
 彼女と会話をしている途中、僕はふと気になっていたことを思い出し聞いてみる。
「そういえば、僕があの夢を見た前夜、ユリナと出会ったんだよ」
 そう言うと、彼女は驚いた様に目を見開いた。
「えっ・・・リョウも?」
 反応から察するに、あの日彼女も僕と出会っていたらしい。
 しかしそうなるとおかしい話になる。
 彼女の足は、もう使えない。歩くどころか立ち上がることさえままならないのだ。
 雨の路地で再会した彼女は、確かに地に足を着け僕の方へ向かって抱き着いてきたはずだ。
「私、神様に願ったことがあるんだ。夢の中でもいいから、リョウと会わせてって」
 夢の中の病室で見た、彼女の日記を思い出す。
 その願いがきっかけで、例の夢は引き起こされた。
「あと、この足が動くなら今すぐあなたの元へ走っていきたいみたいな、そんなことも願ったかな」
 両手で顔を覆って恥ずかしそうに身を捩っている。
 ということは、あれは現実ではなく既に夢の中だったのだろうか?
「びっくりしたなー。気づけば土砂降りの中傘も差さずに路地に立っていて、目の前には髪や髭を異常に伸ばしたリョウがいるんだもん。
 両足を自由に動かすことができたから、そのままリョウの元まで突っ込んでいった。
 自分がリョウを振ったくせに、そんなことも忘れて胸の中で甘えていた・・・ごめんね」
「いいんだ。僕も、あの時は嬉しかったから」
 そう言って微笑むと、彼女もクスリと笑ってくれた。
「あと、ユリナ。あの時最後何かを口にしていたよね?あの後すぐに意識を失ったから、聞き取れなくて」
「うん・・・あれはね」
 彼女は横髪を片耳に掛け、目を細めて言う。

「会いたかった。そう言ったんだよ」

 窓から生温かい風が、桜の花びらを乗せて吹き込んでくる。
 桜の花はしばらく宙をゆっくりと漂い、リノリウムの床にポトリと落ちる。
 彼女がいなくなってしまうことさえ、全て夢だったらいいのに。
 心地よさそうに笑う彼女を見て、そう思わずにはいられなかった。

 それから二年後、僕はこの街から出ていった。

 仕事から帰り玄関のポスト受けを見ると一通の封筒が入っていた。
 香山リョウ様と書かれた宛名を確認し、封を切ると中身は同窓会の案内状だった。
 また来たか、と心の中でうんざりとする。
 これを見て懐かしいなという心持にはなれないし、彼らと再会し語る様な思い出もなければ卒業後の動向が気になるという事もない。
 案内状の入った封筒をローテーブルの机の上に放り投げ、彼女の残した日記帳の上に被さる形になる。
 彼女が持っていてほしいと、僕に託してくれたのだ。
 僕はスーツから上下スウェットの寝巻に着替えて直ぐに寝床に着く。
 新しいアパートに引っ越してから八年は経とうとしているが、清潔感が保たれた部屋の中で充実した睡眠を得ることができた。
 お酒と煙草をきっぱりとやめたことが大きな転換になったのだろう。
 明日は休日だから昼まで寝てやろう、そう思っていたのだが、朝になれば携帯電話のけたたましい着信音に叩き起こされ、その計画は呆気なく失敗に終わった。
 同窓会、絶対来いよな!もう顔も思い出すことのできない元同級生からの電話だった。
 めんどくさい、興味が無いから行きたくない、当然その旨を伝える度胸が僕にはあるはずもなく誰もが仕方がないと納得するような理由を持ち合わせていない僕は渋々同窓会に参加することになった。

 数週間後、僕は生まれ故郷に帰る。
 一年に数回は実家に顔を出し、決まった記念日には彼女の元へ行くのでそう久しぶりな事ではなかった。
 実家に少ない荷物を置き、元の自室で一旦腰を落ち着ける。
 腕時計で時間を確認すると、集合の十九時まではまだまだ時間が余っていた。
 彼女に、会いに行くか。
 近所の花屋で買った白いカーネーションを一束持って、もう片方の手には水が汲まれたバケツとひしゃくを持っている。
 並べられた多くの墓石の間を潜り抜けるように進んでいき、急勾配の坂道を転げ落ちないよう気を付けながら登っていく。
 途中右に曲がり、コンクリートから砂利になった道を歩き、少しすると立ち止まる。
 木村家之墓、墓石に彫られた文字を確認して目の前に立つ。
「ただいま」
 そう笑って挨拶する。
 当然返事など返ってくるはずもないが、僕はしばらく待ってみた。
 花立に先程買った白いカーネーションを活け、ひしゃくで水を汲んで注いであげる。
 棹石や灯篭にも水を上からゆっくりと流し、付着した汚れを洗い流してあげた。
「最近、温かくなったよなー。真昼はもう上着なんて暑くて着ていられないよ」
 水滴のついた墓石は陽の光を反射して輝く。
 時折吹く春の風が、僕達の間に流れていった。
 君がいなくなってから、八年の月日が流れた。
 僕達の過ごした日々よりも長い時間が経ち、日を追うごとに君の存在が離れてしまうようだった。
「僕、三十二歳になったんだぜ。もうとっくにおっさんだよ。時間なんて、流れてほしくないのにな」
 地面にしゃがんで、胸ポケットから線香入れを取り出して中の一本を手に取り火を点ける。
 振るって火を消すと白い煙が宙を漂って、慎重な手つきで線香を立てる。
 両手を合わせ、目を閉じると彼女の笑顔が呼び起こされた。
 子供の様に無邪気にはしゃいで、僕に抱き着いてくる彼女。
 その温もりや感触を今でも鮮明に覚えている。
 今ここに君がいてくれたなら、どんなに幸せだったんだろう。
「・・・それじゃ、行くね」
 僕は立ちあがり、バケツとひしゃくを持って立ち去ろうとする。
 一歩足を踏み出した瞬間、僕はすぐ歩を止めて振り返る。
「違うな。また、いつか。夢の中で」
 風が、再び吹く。
 ほんのりと温かみを帯びた風が、肌を優しく撫でる様に過ぎ去っていく。
 うん!と答える彼女の声が、どこからか聞こえてきたような気がした。
 僕は空を仰いで小さく笑う。
「ユリナ、今でも僕は、君の事を愛しているよ」
 そう告げて、僕は再び歩き始めた。

〈私も、愛してる〉
 また、彼女の声が聞こえた。