彼女はクスリと笑って、再び窓の先を見る。
「ごめんね。私、何言ってるんだろう。今の全部忘れて・・・」
「悪くないよ」
畳もうとした彼女の言葉を遮るように僕は言う。
窓から差し込む夕日の光が、太陽が沈んでいくにつれて強くなっているような気がした。
「・・・え?」
「浮気をした奴が一番悪いに決まってる。周囲の人間や環境のせいにして罪から逃げようとすることは、加害者側の勝手な言い分だ」
彼女は僕の言葉に何も言わない。ただ黙ったまま僕を見て、続きを待っていた。
「だから、君と君のお母さんは何も悪くない。浮気をしたそいつが身勝手なだけだよ」
言い切って僕は彼女の方をちらりとみる。
彼女は僕を見つめたまま、頬に涙が一滴伝っていた。
その様子を見て内心慌てる。まずい、踏み込み過ぎたか?
無遠慮に彼女を傷つけるような事を言ってしまったのかもしれない。
言葉というのは難しい。伝える側が発する意味とは裏腹に、受け止める側は自分の心境から近い意味合いから解釈しようとしてしまう。
今僕が言った彼女を肯定するかのような言葉は、彼女のプライベートで都合の悪い部分を踏み荒らすような行為だったのかもしれない。
彼女は袖で流れた涙と目元を拭い、笑い声を漏らす。
「そう言ってもらえると嬉しいな」
目を細めて小さく笑い、綺麗な横髪を耳の上に掛ける。
「この話は、誰にも相談できなくて、一人で抱え込むことしかできなかったから。
だって、もし友達に相談することができてその時私の心が軽くなっても、その後みんな私を腫物に触るみたいになってよそよそしい関係になるかもしれないでしょ?
だから、別に変な意味じゃないんだけど。今日話せた相手が香山君でよかった」
変な意味じゃないと彼女は言ったけれど、つまり僕がこの話を聞いた後に色眼鏡で見られても構わない相手だったのだと間接的に言われたような気がした。
しかし彼女の笑顔は先程よりも明らかに晴れやかになっていたから、嬉しいようで傷つくような、複雑な心境だった。
「香山君の声、初めて聞いた気がする。予想以上に低くてビックリしたけど、聞いていて気持ちが和むような優しい声。香山君の傍に居ると、なんだか落ち着くな」
うっとりとした様子で言う彼女に、僕は緊張感を覚える。
傍に居る、その一言を聞いただけで心の中が騒ぎ心臓が高鳴った。
そんな僕の心境を見透かしたように、彼女は上目遣いに言う。
「ねぇ、香山君?またこうやって二人で話せないかな?もっと香山君の事、知りたいから」
「・・・い、いいよ。もちろん」
そう言い返すのがやっとだった。きっと今僕の顔は真っ赤に染まっているに違いない。
夕日が照らしてくれて助かった、うぶな男子はこういう展開にめっぽう弱い。
「今日は夕日が綺麗だね」
屈託のない笑いを浮かべながら言う彼女。
その姿が今まで見てきたどんな物よりも綺麗に映って、僕は目に焼き付ける様に彼女を見ていた。
結局そのすぐ後に彼女の両親は離婚し、彼女は母親と二人で暮らし続けていた。
僕達は放課後になれば毎日の様にここに来て、夕日が照らし出す街の情景を眺めながら話し込んだ。
彼女に思いを伝えたのもこの場所だった、ちなみにファーストキスも。
僕が思いを振り絞って「木村さんの事が好きです」とストレートに告白すると、彼女は「ありがとう。ずっと待ってたんだよ」と涙目で笑いながら言い、つかさず僕に詰め寄って優しくキスをした。
その時の喜びようといったら今でも忘れられない。
人生の中でも数少ない、大切な願いが叶った瞬間でもあったから。
恋が成就した日を境に僕達は互いの名前で呼び合うようになった。
くすぐったくて気持ちの芯からじんわりと熱くなるような彼女との日々。
そんな毎日が一生続いていくんだって、あの時は疑いようもなく信じていた。
「懐かしいね。もう昔の事みたい」
ユリナは展望台を見渡しながら言う。
初めて彼女と出会った時は十七歳の時だったから、あれからもう五年は経ったのか。
「ほんと早いよな。あっという間だ」
「うん、あっという間」
相変わらず人のいない地元のスポット、潰れず形を留めていることが奇跡のように思えた。
僕は彼女に肩を貸し、いつか並んで座っていたベンチに彼女を座らせる。隣に腰掛けて窓を見ると、あの時と変わらない景色が目の前に広がっていた。
まるで五年前に時間が巻き戻ったような、青春時代の爪痕がここには残っていた。
「こうしていると、リョウに告白された日の事を思いだすなー。あの時のリョウ、座ってから視線は合わせてくれないし、周りをキョロキョロして挙動が安定していなかったし、もしかして私告白されるのかなってドキドキして待ってた。今思えば、お互い初々しくて可愛かったね」
彼女は懐かしそうに目を細めて笑う。
あの時は気づかなかったけれど、五年前はもっと純粋で真っ直ぐな奴だったと最近になってひしひしと感じる。
例の告白も、時々夜に思い出して悶絶しそうになる位清純で痛々しい。
ちゃんと青春していたんだなって、過ぎた後に思う。
太陽がビルの後ろに隠れ見えなくなり、世界から光が徐々に失われていく。
薄暗くて静寂に満たされた、二人しかいない展望台のベンチで自然と身を寄せ合い最後の光を見届けようとしていた。
彼女の手の平が、僕の手に乗せられた。
細くて、冷たくて、わずかな力でキュッと握られる。
「ごめんなさい」
僕の目を真っ直ぐに見て、彼女は不安気な様子で言う。
何について謝られているのか、おおよその検討はついていた。
「病気の事何も言わないで、リョウを突き放すように振ってしまって、あなたが今ボロボロになっているのも、全部私のせいなんだよね」
僕は彼女の目に映る自分の格好や有様を客観的に想像する。
何か月も洗濯されていないシワや汚れの付着した服装、一切の手入れが施されていないぼさぼさに伸びた髪や無精髭、デキモノが至る所にできた油まみれの肌。
放浪者一歩手前の風貌だ。
それくらいダメ人間の具合が仕上がっていた。
「私、あなたに酷いことを言って目の前から逃げた。本当は違うのに、愛していたのに、あなたに余計な心配させたくなくて、他の誰かと幸せになってくれたらって思って、だから・・・」
「ユリナ」
自分を責め続ける彼女を呼び掛けると、彼女は口を噤んで僕を見る。
僕は小さく笑い、彼女の手の平を優しく握り返す。
「君以外の誰かと、僕は幸せになれないよ」
その時一筋の光が展望台を照らした。
ビルの隙間から、わずかに残った夕日の光が最後の力を振り絞ってこちらを照らしてくれている。
見えづらかった彼女の表情がはっきりと映し出される。
彼女は今、泣いていた。
「本当の事を言えば、病気の事は教えて欲しかったし、相談してほしかった。もっと僕を信じてほしかった。
僕は君の事が他のどんなものよりも一番大切だから、君の代わりになる幸せをこれから見つけるなんてそんな・・・」
彼女と別れたあの日から、脳裏にはいつだって彼女の華やかな笑顔が映っていた。
僕にとっての幸せなんて、それくらいだったから。
どうしてあんなに彼女の傍に居て、異変の一つにも気づくことができなかったのだろう。
どうして彼女は、本当の事を僕に打ち明けてくれなかったのだろう。
僕には君しかいない、そう正直に伝えることができたなら、何かが変わっていたのだろうか?
目頭が熱くなり今にも泣き崩れそうになる。
気づけば彼女の肩を両手で掴み、ベンチの上で押し倒していた。
「そんな割り切った生き方・・・できるわけがないだろ!だって好きだから!愛しているから!最後の瞬間まで君と生きたいと思うのは当然だろ!」
彼女の胸に額をつけてそう叫ぶ。
僕自身でも聞いたことのない雄叫びにも似た声が室内に反響する。
彼女の服は濡れていた、それが僕の涙によって生まれたものだと後から気づいたが、構わず僕は泣き続ける。
「なんで死ぬんだよ・・・僕を置いていかないでくれよ!どうせいなくなるって分かってたら、こんなに好きになんてならなかったのに・・・」
嘘だ。どうせ好きになっていた。
君と出会えなかった人生なんて、一体何の価値があるというのだ。
僕の人生は空っぽだった。
虚しい日々の詰め合わせに過ぎなかった。
でも君が隣に居てくれただけで、世界の景色は見違えるほど色鮮やかで華やかなものになった。
僕の人生は、君がいることで初めて輝きを放ち始めたんだ。
君こそが、僕の人生なんだ。
「ごめんね」
彼女は涙声になりながら、僕の頭を優しく撫でてくれる。
どこにもいかないでほしい、そんな思いを伝える様に僕は彼女の体を強く抱きしめた。
どれくらいそうしていたのか分からない、僕はとめどない涙を流し続け時々悲痛な呻き声を無意識に漏らす。
彼女の頭を撫でる指先の柔らかさと、抱きしめた時に感じるほのかな体温が荒れた心を宥め癒してくれるようで落ち着いていく。
永遠にこうして抱き合っていたい、彼女の存在を感じ続けていたい、そんな切実な願いが一つも叶わないことは分かり切っているのに、思わずにはいられない。
「愛している」
ただ、何度もそう伝え続ける。
その度「私も、愛してる」と彼女は返してくれる。
互いの気持ちを確認し合う度、心の中を覆った靄が少しずつ消えていくような気がした。
「そういえば、リョウ。夢の中でここに来た時、私に言ってくれた言葉があったよね」
彼女はふと思い出したように言う。
夢の中、あれはショッピングモールの帰り道の途中のことだった。
彼女が突然あらぬ方向に歩き始め、彼女の背中を追いかけて辿り着いた場所がここだった。
夕日に染まる街を見て、彼女は訳も分からず涙を流していた。
今思えば、わずかに残った僕達の記憶が当時の思いを呼び起こし、彼女が僕と決別するに至った葛藤や悲しみも連鎖的に反応してしまったのだろう。
「僕、なんて言ったんだっけ?」
「もう!なんで覚えてないのかな!リョウの悪い所だよ」
「ごめん」
胸元から顔を上げると、頬を膨らませてこちらを見る彼女と目が合った。
そんな顔をされても、思い出せないのだから仕方がない。
「リョウは、あの時私に“生きてみるしかない”って、そう言ったんだよ。私、その言葉にどれだけ救われたか・・・」
あぁ、そのことか。
〈この世界ってなんなのかな?私達、巨大な牢獄に閉じ込められちゃったのかな?〉
そう言った彼女の不安気な表情が思い出される。
そんな彼女を励ますために、我ながら似合わない言葉を掛けてしまった。
でもその一言を聞いただけで、彼女は纏わりついた影を吹き飛ばしいつもの元気溌剌な少女へと戻っていった。
「私には、リョウしかいないから」
彼女は囁くように言う。
一瞬夢の出来事と重なってその言葉が記憶から来たものなのか、目の前の彼女から発された言葉なのか分からなかった。
今なら、その言葉の意味が分かる。
もっともあの時は言葉通り本当に僕しかいなかったけれど、夢を見る前と後では捉える意味合いがかなり変わってくる。
僕は彼女の上から退き、ベンチから降りる。
彼女に手を差し出し、ゆっくりと身を起こして彼女はベンチに座る格好に戻った。
握った手は離さない、彼女は緊張した様子で繋がれた手を見つめている。
「ユリナ」
そう呼びかけると、彼女は静かに顔を上げて僕を見る。
笑いを堪えているような、微笑みを隠しきれていない表情で次の言葉を待っていた。
そういう無邪気な子供っぽいところは、少女の時から変わらない。
「結婚しよう」
「・・・うんっ!」
きっとこれは、夢じゃないよな?
あんな夢を見た後だと尚更区別がつきそうになかった。
でも目の前で屈託なく笑う彼女を見て、どっちでもいいかと僕は思う。
だって、現実だろうが夢の中だろうが、僕達の心は同じ世界を通して繋がっているのだから。
そこに彼女がいてくれるなら、それがどんな場所であろうと僕は構わない。
胸の中で広がる彼女の温もり、耳元からクスクスと聞こえる彼女の笑い声、背中に回された両手が強く締められる感触。
感じる彼女の全てが、愛おしくて堪らない。
気づけば夕日は沈んでいて、周囲は街明かりで煌びやかに照らされていた。
展望台はいくつもの木柱の下から電球色の光が放たれ、神聖な地へと変貌を遂げていた。
抱き寄せた彼女の体を、僕はさらに強く引き寄せる。
ずっと孤独なまま生きていくのだと思っていた、誰にも愛されることなく死んでいくのだと諦めていた。
なのに、君が笑ってくれるだけで、その笑顔を見るだけで、世界の何もかもが変わってしまったんだ。
全くおかしな話だよ、恋なんて抽象的なもの一番信じられないと思っていたはずなのに、気づけば僕の視界には君しか映っていなかったんだから。
だから今は、それが哀しくて仕方がないんだ
ここから始まった美しい日々の事を、僕は一生忘れない。
だから、ありがとう。
こんな僕の事を好きになってくれて。
いつかまた出会うことがあるなら、僕は何度でも、同じ言葉を伝え続けよう。
君の事を愛している。
何度でも、何度でも、君にそう伝えるよ。