ピアノの音が聞こえる。きっとどこかで、フランソワが弾いているのだろう。
 昼下がりの薄曇りの、朦朧とした意識に、ピアノが心地いい。たどたどしくて、仔猫の歩みのように気まぐれな旋律が、雲と共に風に流されていく。開け放たれた窓から、蒼穹の切れ目に向けて運ばれていく音を、わたしは確かに見た。

 書きかけの手紙の上に突っ伏して、わたしは仔猫の姿を夢想する。白くて小さくて、柔らかいその生き物を想いながら、音を眺めた。
 どのくらい、そうしていたのだろうか。気づけば仔猫はどこかへ行ってしまっていた。ぼーっと項垂れたカーテンを見ていると、再びピアノの音色が聞こえ始めた。
 さっきとは打って変わって、音色はしっかりとした足取りで踊り出す。仔猫を導くように、あやすように奏でられるそれは、随分と久しぶりに聴くのに、誰のものなのかはっきりと分かった。

 お母様のピアノだ。

 わたしは、なんだかいても立ってもいられなくなって、もうすっかりインクの乾いた手紙を置いて、部屋から抜け出した。

 お屋敷には、ピアノが3台ある。ダンスホールと、テラスと、お母様の部屋だ。お母様が演奏しているということは、恐らく部屋の方だろう。階段を昇り、長い廊下を歩く。突き当たりのドアの隙間から音が溢れ出して、柔らかい絨毯の上を跳ねた。
 ドアをノックすると、ピアノの音がハタと止んだ。
 はーい。と返事をして出てきたのは、フランソワだった。お姉様、わたくしお母様とピアノを弾いていたのよ。と、どこか自慢げに胸を張る彼女に招き入れられて、お母様の部屋に入った。
 フランソワにせがまれるまま、お母様と一緒に、鍵盤と向き合う。2人で連弾するなんて、昔ピアノを教わって以来だ。
 なにを弾こうか。とお母様の方を向いて、昔よりも目線が近くなっていることに気づく。合わせるから、好きに弾きなさい。とお許しをもらって、わたしは鍵盤に指を置く。わたしの旋律に、お母様の音が寄り添う。
 少し離れたところにいるフランソワが、リズムに合わせて爪先を揺らしている。
 しばらく演奏を続けていると、あっ、とフランソワが声を上げた。彼女が指差す方を見ると、窓辺にあるガラスの器の水面に、スッと薄紫色の旋律が浮かんだ。それは、ビー玉くらいの大きさで、なめらかな楕円形をしている。さっき部屋で見た音の形だった。
 いい演奏ができると、旋律は形を取るのよ。ピアノを教わった時に言われたことを思い出す。
 冗談だと思っていたお母様の言葉が本当だったことに驚いて、演奏をやめた。器に近づいて、水面に浮かぶ音に触れる。表面は柔らかいが、柔らかさの奥に確かな硬さを感じた。
 隣にいたフランソワが、水面の旋律を、パッと口に入れた。それを見て、わたしも浮かんでいるそれを、そっと口に入れた。ひんやりとしているのに、ほんのりとあたたかくて、木の甘い香りがする。甘味はほとんどなく、銀のスプーンで食事をしたときのように、うっすらと金属の後味がある。
 シャーロットも、ようやく旋律を形にできるようになったのね。そう言って微笑む母は、わたしの旋律を、愛おしそうに手のひらで包んだ。

 それからしばらくすると、お母様がまた体調を崩してしまったので、わたしとフランソワは、部屋から退散することにした。お母様大丈夫かしら、と呟く彼女と手を繋いで、長い廊下を引き返す。
 大丈夫よ、だってお母様は、不思議なことならなんでも知ってるんだから。ピアノの音が形になることだって知ってたんだから。きっと良くなるわよ。

 そう何度も言い聞かせながら、わたし達は手を繋いで歩いていく。廊下を過ぎて階段を降りても、わたしは何度も何度も言い聞かせた。きっと、必ず良くなるわ。だってお母様だもの。