昔から、透明感があってキラキラと輝くものが好きだった。
 例えばガラス細工、クリスタル、そして宝石みたいなもの。
 ただ、「手に入れたい」とかそういうことではなくて。そこに在るのをじっと眺めているだけでも十分心が満たされる、そんな感覚で大好きだった。
 まるで小さい子供が、色とりどりのケーキが並ぶショーケースを、目を輝かせながらじっと眺めているみたいに。
 だから私が今いるこの店内は、まさに私にとっては理想の空間そのものだった。
硝子(がらす)館 ヴェトロ・フェリーチェ』。それが、このお店の名前。
 ダークチョコレート色のドアを開ければ、そこに広がるのは夢みたいな世界。
 曇り一つなく磨かれた大きな窓ガラスの傍には、細かく表面がカットされたクリスタルガラスのサンキャッチャーがいくつも並び、店内に虹色の小さな水たまりをそこかしこに作っている。私が足を踏み入れると、何色もの配色が映えるステンドガラスのライトスタンドが、まずはドア近くの棚で出迎えてくれた。
「うわあ、綺麗……!」
 店の中は予想よりも広かった。床はまるで高級ホテルのロビーみたいな、シックなワインレッドのふかふか絨毯。高い天井からは、シャンデリアがぶら下がっていた。
 店内にはところ狭しと、ありとあらゆるガラスで出来た雑貨が溢れている。ひっくり返すと幻想的な雪が中でキラキラと瞬くスノードーム、ガラスでできたピーチツリー、煌めく銀のような模様を閉じ込めた水晶玉、はたまたはガラス細工の精巧な地球儀、ガラス細工のバラが蓋に繊細に埋め込まれたオルゴール、クリスタルガラスが内包されている万華鏡など、枚挙にいとまがない。
 まさに私の理想の空間。
 ……なのだけれど、今の私はそれどころではなかった。こんな大好きなものに囲まれているのに。
 でも、それは仕方ない。だって目の前に、予想外の人物がいるからだ。
「あ、蒼井(あおい)くん⁉ なんで?」
 私はあっけにとられて呟く。
 ガラス細工が整然と並べられている店内の一番奥のレジ。そこにしれっと、さっきまで私と高校の教室で一緒に授業を受けていた男子生徒が、静かに本を読みながら鎮座していたのだから。
「なんでって言われても、この店は僕の家の家業だし。僕のほうこそ、聞きたいかな」
 本を閉じながら少年が首を傾げ、目を丸くしている。
 少しだけ色素が薄く、日に透けると茶髪に変化して見える彼の髪が、静かに揺れた。
 無造作に左右に分けられた前髪からは形の良い眉がのぞき、髪の毛と同じく日の光の下ではミルクチョコレート色に見えるぱっちりとした瞳がその下に配置されている。筋の通った鼻梁の下には薄い唇。
 言葉をはばからずに言えば、巷でよくいわれる「イケメン」だ。
 私と彼は、目線を絡ませながら固まった。蒼井くんはひたすらいぶかしげなな眼でこちらをうかがっている。
 まさかこんなことになるなんて、三十分前までの私は予想もしていなかった。
◇◇◇◇◇
 三十分前。
 鎌倉駅前を通り過ぎ、小町通りへと足を踏み入れて私は歩いていた。
 ここ、武家の古都・鎌倉は、海あり山ありの景勝地。鎌倉五山を始めとする寺社が点在する一方、綺麗な街並みが広がり、評判の良い飲食店も集まっている。少し足を延ばせば海にも道はつながっていて、穏やかな海原を眺め、潮の香りを吸い込みに行けるのだ。私も小さい頃、鎌倉の中でも海がすぐ見える方に住んでいたから分かるけれど、本当に海との距離が近い。
 私が今歩いているのは、その鎌倉の中心地。鶴岡八幡宮を中心に、参拝客や観光客でにぎわうエリアだ。細い道には点々と魅力的な店が散らばっている。一歩道を行けば古い洋館や教会がさりげなく佇んでいたりもする、和洋折衷な雰囲気の街並みだ。
 中でも、鎌倉駅東口の鳥居から鶴岡八幡宮までまっすぐに続いている小町通りは、鎌倉の有名な観光土産通りとしても知られている道だ。
「うう、美味しそうな匂いがする」
 そして、食べ歩きのできるものを売っている店が多い道でもある。
 パリパリ生地にレモンの酸味とシュガーのざくざくした歯触りがたまらないレモンシュガークレープが有名な、生地を主役にした珍しいクレープ屋さん。
 苦さが抑えられるぎりぎりまで抹茶を贅沢に練りこんだ、濃厚な抹茶ソフトを売っている店に、焦がしバターの匂いがほんのり漂ってくるスイーツの店。
 食べ歩きができる店はもちろん、和柄の和傘やかんざしの専門店、ポップでかわいらしいデザインの文具が売っている雑貨店、何種類もの手ぬぐいが店頭にずらりと並べられた人気の手ぬぐい専門店と、人気店がずらりとひしめき合うこの通りは常に人が絶えない。
 普段人通りが多いところは苦手な私も、この道は好きでよく通る。
 ここを通り抜けた先にそびえ立つ鶴岡八幡宮の鳥居をくぐりぬけ、別世界に入り込んだようになるあの感覚も好きだし、そして何より、この道を歩く人たちは本当に幸せに満ち溢れている気がするからだ。
 それにここで買えるスイーツは女子にも人気で、仕事で疲れて帰ってくるお母さんのためによく立ち寄って買っていた。
 今日も食べ歩きを楽しんでいる人たちを眺めつつ、私は先を急ぐ。
 この先を抜けると鶴岡八幡宮の鳥居だ。周りを圧倒するスケールの鳥居の前を通り過ぎ、私はさらにその奥の通りへと歩いていく。
 さっきまでとは打って変わって静かな通りを、鎌倉を横断する滑川の方角へ歩いて五分ほど。
 見覚えのある、小さな洋館が見えてくる。薄茶色のレンガ壁に、緩やかに斜めの線を描くレンガ色の屋根。ステンドグラスを嵌めこんだアンティーク調のどっしりとしたドアの目の前に、私は立ち尽くした。
 『硝子館 ヴェトロ・フェリーチェ』。レンガの外壁に埋め込まれた銀色のプレートに、洒落た黒色の斜体文字で、そう店名が刻まれている。
「今日はついに、入ってみようかな」
 私はそのドアを見上げながら、ごくりと唾を飲み込んだ。なんだか落ち着かなくて、高校の制服から着替えてきたばかりの春物のグレーのニットワンピースの袖をぐっと握り、周りをそろりと見回してみる。
 大丈夫、周りには人通りがない。
 前々からこの個人的に気になるお店を見つけて気になっていたものの、何となく敷居が高そうなアンティーク調のドアに気が引けて。
 今日こそはと気合を入れて、この前バイトのお金で買った五千円の新品のワンピースを下ろしてきたのだ。五千円は、高校二年生にとっては立派に高い。使い捨てコンタクト一ヶ月分と同じくらいの値段だ。
「うん、この後も買い物しなきゃだし。迷ってないで早く入る!」
 自分に言い聞かせながら、ダークチョコレート色のアンティーク調のドアを思い切って開ける。
「うわあ、綺麗……!」
 思わず小さく声を漏らし、きらきらとしたガラス細工の虹色の光の中に、私はしばし佇んだ。
「……あれ?」
 店の奥で声がして、私は顔を上げる。
 見たことのある男の子が、びっくりした顔でカウンターの中からまっすぐにこちらを見つめていた。
「あ、蒼井くん⁉ なんで?」
 なんで彼がここに。私は混乱する頭で意味もなく店内を見回す。
 この綺麗な店内と、学年の女子の中にも根強いファンがいる蒼井くんの取り合わせはあまりにもよすぎる。
「なんでって言われても、この店は僕の家の家業だし。僕のほうこそ、聞きたいかな」
 蒼井くんがパタンと手元の本を閉じ、立ち上がる。彼も私同様、制服ではなく私服姿だった。
 ネイビーのシンプルなYシャツを、第一ボタンを開けてさらりと着こなし、細身の黒いズボンが彼の足の長さを際立たせている。
 彼はそのまま不思議そうに首をひねった。
 私たちはお互いを戸惑って見遣りながら、その場に固まる。
 かくして、私と『彼』は出会ったのだった。

桐生(きりゅう)さん、どうやってここに来たの?」
 蒼井くんが口を開いて、私はゆっくりと瞬きをする。まさかこの男の子が、私の名前を認識してくれていたとは。
 私と彼は面と向かって話したことが多分ないはず。今は五月初め、私たちが高校二年生になって同じクラスになって、一か月あまり。私はといえば、クラスの女子はあらかた把握したものの、男子とはまだあまり絡みがない。
「にゃあ」
 蒼井くんの質問に答えようとしている私の横で、何かが鳴き声を上げ、とてとてと駆け寄ってくる。
「わ、かわいい!」
 曇りのない深いブルーの色の瞳でこちらをまっすぐ見つめながら、毛並みの良い黒猫がじっとこちらを見上げている。私は思わずしゃがみ込んで、その猫を見つめた。
「蒼井くんの猫?」
「そう。ティレニアって名前」
 ゆっくりこちらに向かって歩きながら、蒼井くんが教えてくれる。
 ティレニアって確か、イタリアの海の名前だっけ。猫は大人しく、まん丸な目でこちらを見返してくる。
「綺麗な名前。それに、目も宝石みたいに綺麗……」
 黒猫の深いブルーの目は、つやつやと輝く宝石みたいに透き通っている。その言葉に、蒼井くんが「……ふむ」と呟き、黒猫は前足をきちんとそろえてしっぽをゆらゆらさせながらそんな彼を見上げた。
「ありがとう。そう言ってもらえると、ティレニアも喜ぶ」
 よっ、と言いながら蒼井君はティレニアを抱き上げた。黒猫は私の顔に焦点を当てたまま、じっとその腕にうずくまった。
「ところで、まださっきの質問に答えてもらってないんだけど。どうやってここに来たの?」
 蒼井くんと猫、二対の目がじっとこちらを窺っている。そうだった、と私は慌てて道順を思い返しながら、口を開いた。
「えっと、小町通りぶらぶらして鶴岡八幡宮の前通り抜けてきた」
「……なるほど?」
 蒼井くんの首が横に三十度ほど傾いた。そしてティレニアがもぞもぞと体勢を変え、彼が着ているネイビーのワイシャツの左胸のあたりについている『あるもの』が私の目に映る。
「なに? 僕に何かついてる?」
 私の視線に気づいたのか、蒼井くんが不思議そうに聞いてくる。
「その左胸のブローチの石、綺麗だなって思って」
 私は素直に答えた。彼の左胸の辺りには、少し大きめの艶めいた石で出来たシンプルなブローチが留まっていたのだ。彼の着ている服がもともとネイビーだし、ちょっと距離があるから色は判別しづらいけれど、石は深い緑色のようにも見える。
「何が見える? どんな色?」
 さっきまでの態度とは打って変わって真剣な表情で、蒼井くんから矢継ぎ早に質問が飛んでくる。その勢いに私はたじろいで思わず後ずさり、口ごもった。
「何が見えるって……ブローチじゃないの? 深い緑みたいな色、に見えるっちゃ見えるんだけど、でも」
「でも?」
「色がはっきりとはよく分からないかも。これって何色?」
 確信が持てなくて、私の答えは鈍る。彼のブローチの石は深い緑のような青のような色に見えるけれど、色が深すぎて何となく説明のしづらい色をしていた。
「……やっぱり、そうか」
 私の言葉に蒼井くんががっくりとうなだれる。その拍子に少し緩んだその腕からするりとティレニアが地面に着地し、その場に行儀よく座り込んで彼を見上げた。まるで心配しているかのようなそぶりで。
「ごめん、はっきり答えられなくて」
 こちらが申し訳なくなってくるほどの落ち込みぶりに、私は慌てて彼に声をかける。
「いや、うん、そうじゃないんだけど」
 何が「そうじゃない」なんだろうか。疑問に思う私を前に歯切れ悪く答えながら、蒼井くんは何かを考え込んでいるようだった。
 しばし流れる沈黙。
 ふいに蒼井くんはぱっと顔を上げ、思いついたように尋ねてきた。
「桐生さんはさ、この店内の商品欲しい? どれも貴重で価値のあるものばっかりなんだけど」
「え?」
 唐突な質問に、私は戸惑って店内を見回す。
 昼間の明るい光に照らされた店内は、そこかしこに小さい虹をいくつも放つガラス細工に溢れていて。特に女子なら誰でも足を止めて思わず眺めてしまうような、綺麗なものばかりだ。
「これなんか、中に宝石入ってるんだけど。例えば誕生日プレゼントとか何かの記念品に、これあげるって言われたら、欲しい?」
 蒼井くんが店内を颯爽と歩き、クリスタルガラスを内包した万華鏡を手に取る。彼が器用にその万華鏡のパーツを分解すると、模様を形作る水晶体の中から煌めきを放つ石がいくつも転がり出てきた。
「この中に入ってるやつ、実はクリスタルカットのガラスだけじゃなくてさ。他にもルビー、サファイア、エメラルドとか色々入ってるんだけど」
 どう? と、天使のような笑顔で尋ねてくる蒼井くん。私は戸惑いつつも答えを返すべく、彼の手のひらの上で光る宝石たちを見つめた。
 正直なところ、欲しくないと言えば嘘になる。眺めているだけで十分だなんて思っていた私でさえつい手にとってしまいたくなる、それくらい魅惑的な輝きをその宝石たちは持っていた。
「うーん……すっごく素敵だし確かに欲しいけど、いらない、かな……」
 目の前で誘うようにきらきらと光を放つ宝石たちから目を引きはがし、私は答えた。
「欲しいけどいらない? 矛盾してるね。どうして?」
 蒼井くんが肩をすくめながら私に質問返しをする。
「『人からプレゼントとかとして貰うなら』ってさっき言ってたけど、私はそれに見合うようなモノ、返せないもん。貰ったら貰いっぱなしって気持ち悪いし、ちょっと重いかも」
 ガラス細工や宝石たちは本当に見事で、時間が許すならばずっとここにいて眺めていたい、それくらい魅力的だけれど。
 プレゼントとして貰うにしても、それを受け取るに値する何かを私ができるわけではなく、しかもそれをくれた人に何かを返せるとも思えない。貰っても申し訳なくなりそうだ。
「なるほどね」
 蒼井くんは考え込みながら、彼の足元にちょこんと座っているティレニアの方を見ている。黒猫もじっと蒼井くんを見つめ――ややあってティレニアがひと声、「にゃあ」と鳴くと、蒼井くんがまたこちらに視線を戻した。
「うん、よし」
「ん?」
 謎にうんうん頷くクラスメイトに、私は聞き返す。何が『よし』?
「桐生さん、ここでバイトやらない? ちょうど探してただろ」
「……んん?」
 唐突な展開に、私は思わず首をひねった。
「私、バイト探してるなんて話したっけ?」
 そう、私は彼と面と向かって話したことがない。
「休み時間によくバイト情報誌見てるだろ。部活も入ってないみたいだし、すぐ帰るし」
 私は目を見開いた。そんな私を見て、蒼井くんが朗らかに笑った。
「その反応、当たりみたいだね」
「お、おっしゃる通りで……」
 ちょっとびっくりした。今のところスーパーのレジ打ちのアルバイトに入っているけれど、何かもっと条件がいいところがあるなら儲けものだと思って、確かにサイトやらフリーペーパーやらを片っ端から見ているところだったから。