雪月は颪と牙鋭の話から薄々感づいていたが、最近頻繁に起きていた妖怪たちの怪我の原因はこの為である。実際に動いていたのは颪だが、それは颪本人の意思ではないということも雪月は気づいていた。
「それにお人好しなら颪さんもです。簡単に拘束を解いてくれたこともそうですし、この焚き火も私の為ですよね。」
「……雪月様はお優しいのですね。」
手当てされる気になったのか、颪は後退りするのをやめてその場に座った。改めて出血している場所を見てみると、傷は深くないようだがかなり箇所が多い。雪月は、風呂敷から紙で包んだ薬草を取り出す。
(摘んでおいてよかった。ここ何も生えてないし。)
洞窟の中はもちろん、その周りにあるのは彼岸花だけで止血作用の植物などどこにも見当たらない。
?草の他に持ってきたのは、艾葉と血止草である。艾葉は蓬のことで収斂作用による止血効果がある。血止草はその名の通りだ。葉を水で洗い、揉み潰して外傷部に塗布していく。
「この傷はどうされたのですか?」
「…先程、犬神に計画を感づかれてしまって…」
(犬神って長庚さん⁉︎ 大丈夫かな。)
「逃した…というより見逃してもらえたのか。」
颪は一人そう呟いた。幽世生まれであることに加え、信仰が少なくなっていた長庚は本来の力を出し切れていなかった。かといって颪相手に一方的にやられる訳でもない。だが、なかなか決着のつかない争いをしているより、このことを早く黒蓮に伝えたほうが利口だと判断して逃げたのだ。
黒蓮が気づいて手当てしてくれていることを願いつつ、雪月は颪の手当てを進めていく。しかし、蜘蛛の足の部分に葉を当てた瞬間、枯れてしまった。仕方がないので布で直接圧迫して止血した。
「…一通りの手当ては済みました。他は大丈夫そうですか?」
「はい。ありがとうございます。」
それにしても颪の体は不思議である。今まで見てきた妖怪たちは、耳や尾の生えた姿であることも多く、現に猫又も半人半獣だ。だが上半身だけ人間で、下半身は蜘蛛など、雪月は見たことがなかった。しかし、奇妙な見た目に反して颪は自分に近いというか、人間味が感じられた。
雪月に見つめられて気まずくなったのか、颪はさらしの下で声を発した。
「雪月様はこの様な見目が怖くはないのですか?」
「怖くはないですが、…不思議には思います。」
正直に答えた雪月に颪は苦笑しながら話を続けた。
「私は元人間です。人間だった頃の記憶はほぼ無いですが、武人であったことは覚えています。」
「そうだったんですか?」
雪月は以前黒蓮から、人が鬼になったということを聞いたのを思い出した。しかし人から異形のものになるのは、そう頻繁に起こる事なのだろうか。
「自分は何かから逃げていて、気が付いたら崖の下にいました。足はもう使い物にならなくて…死を覚悟しました。でも諦め切れませんでした。そこに主が現れたのです。それでただ一言、「生きたいか?」と。」
もう声すら出なかった颪は小さく頷いただけだったが、それを見た牙鋭は満足そうに笑ったという。
「そして、無くなりかけの魂を別の魂に結びつけたと言われました。それがこの蜘蛛です。土蜘蛛というらしいのですが、本来は人を喰らう巨大な蜘蛛だそうで。先程葉が枯れたのもその為です。自分自身は喰べたことはありませんが…記憶にあるのは物凄い激痛だったので、おそらく身体をいじられたんだと思います。」
さらっと言って退ける颪だが、その内容は凄いどころでは済まされないものだった。しかし、死ぬことに比べれば苦ではなかったという。
「颪さんにとって牙鋭さんはとても大切な方なのですね。」
「はい。…あなた方に迷惑をかけているのも承知です。でも自分は主を裏切ることなどできません。」
それはここから逃がしてはやれないという暗示だった。
「分かっています。牙鋭さんが戻ってきたら話をしてみます。」
「本当に雪月様は優しくてお強い。見習いたいものです。」
「見習いたいだなんてそんな…」
面映ゆい思いをどうにかするべく、雪月は話を変えることにした。
「…そういえば、牙鋭さんはこの地に何か思い入れあるのでしょうか。」
単純に黒蓮のことが気に食わないのなら、黒蓮の影響が及ばない場所へ行くなどして物理的に距離をとればよい話だ。
「牙鋭様は現世生まれなので、幽世よりこちらのほうが慣れているとおっしゃっていましたし、なんだかんだいって生まれ育ったこの地がお好きなんだと思います。」
「颪さんは牙鋭さんとよく話されるのですか?」
「そうですね。妖怪のことも、神のことも、この地のことも。酒を片手に昔話を聞かせてくれます。自分は人間だった頃の記憶が曖昧なので、こちらから話すことはありませんが…。」
颪のその答えに、雪月は意外だと思った。牙鋭があまり何かを語るようには見えなかったからだ。
(私に何かできることはないのかな…。)
いきなり誘拐されたが、考え方を変えれば牙鋭と接触できたということである。おそらく黒蓮は自分を見つけ出してくれる。だが雪月はそれで終わりにしたくなかった。このままでは黒蓮と牙鋭の関係は悪くなるばかりだ。暴力的にではない解決方法はないかと考えていると、颪は静かに口を開いた。
「他者を愛することができるのは人間だけなのでしょうか…。」
そう独り言のように呟いた後、颪は懇願するように雪月を見つめた。
「我が主は寂しがりやです。寂しがりやで己の欲に忠実で…とても悲しいお方です。自分は側でお仕えすることしかできません。だから雪月様。どうか、どうか、我が主を救ってやってください…!」
話せば何か変わるかもしれないなんて、綺麗事だと承知している。それでも諦めることができないのは雪月が人間だからだろうか。
「……はい!」
月は完全に厚い雲に覆われ、今にも雨が降り出しそうである。
「なんだか雲行きが怪しくなってきましたね。」
雪月は洞窟から外を眺めた。月は雲に隠れ、風も強くなってきている。
「そうですね…。」
颪は何か思うところがあるのか、黙ったまま空を睨みつけていた。
「そういえば牙鋭さんはどこに向かったのですか?」
「頃合いを見計らってこちらから仕掛けるつもりだったので、黒蓮様の動向を探りに行っています。しかし遅いですね。一度戻って来るとおっしゃっていたのですが…。」
包み隠さず計画を教えてくれることにも驚いたが、声からは牙鋭を心配していることがわかる。
「何かあったんでしょうか…。」
「わかりません。ですが、もしかしたら鉢合わせたのかもしれません。」
雪月はこの場から動けないので、黒蓮が来てくれるのを信じて待つしかないが、一番厄介なのは二人が自分の知らないところで争ってしまうことだ。怪我どころでは済まないかもしれない。
颪にお願いして、二人を探しに行くことも考えたが、下手に動くとすれ違いになってしまうかもしれない。そして何より颪に申し訳なくなってしまう。
「牙鋭さんは具体的にどうするつもりだったのですか?」
「本来なら襲撃した上で、雪月様のことを持ち掛けるおつもりです。しかし鉢合わせているとすると…」
「どうなるかわからない、と…。」
「牙鋭様はとてもお強いです。おそらくこの辺りのどの方よりも。ですが鬼神である黒蓮様の力と比べたらわかりません。そのあたりは自分も存じ上げないので…。」
不測の事態になりつつあることに、二人して落ち着かなくなってきた頃、雲に覆われた空が一瞬明るくなった。数秒としないうちに大地を轟かすような雷鳴が聞こえた。
「かなり近いですね。」
「何か嫌な予感がします。」
「同感ですね。」
洞窟から外に顔を覗かせると、少し離れたところのみやたら雲が厚く、雨が降っている。雷もそこでだけ起こっているようだ。
「…明らかに自然現象ではありませんね。自分は確認して来るので雪月様はここにいてください。」
「…わかりました。」
颪は蜘蛛の八本の足を器用に使い、素早く去って行った。
*
黒蓮は獣の姿で山の中を走り抜けていた。次第に動植物の数が減ってきているので、牙鋭が近くにいることは分かるが、肝心の雪月の居場所がわからない。牙鋭は住処を転々とするので居場所を把握しにくいのだ。
「何処だ、雪月…!」
すると、何処からか銀髪の男――牙鋭がひらりと姿を現した。
「よう、黒蓮。」
「…牙鋭。」
黒蓮は強い眼差しを向けたまま、人形になった。
「お~すげぇ怖い顔。」
「雪月を何処へやった。」
「縛って隠してある。見張りもいるから自力で逃げ出すのは無理だろうな。」
「何が目的だ?」
「いつも言ってるだろ。人間を喰べて何が悪い。」
「無駄な殺生をするなと言ってるんだ。それに雪月は関係ないだろう。」
「オレは利用できるものは全て利用する。あの人間を返して欲しければオレの邪魔をするのはやめろ。」
二人の頭上では、雷雲が渦を巻き始めている。
「そんな要求に俺が応じるとでも?」
「応じないなら、どうなるかくらい分かるよなぁ?」
悪辣な要求に黒蓮は眉間の皺を深くする。
「牙鋭、前にも言ったはずだ。次このようなことがあれば容赦しないと。」
「別にオレはここでやってもいいんだぜ。」
凄みのある声で牙鋭はそう言うと、瞳の赤を一層強く光らせニヤリと笑った。一気に殺気を漂わせ始める。
「ここでお前を堕とせばいい話だからな。」
「…そうか。お前はそれを選ぶんだな。」
黒蓮は一度悲しそうに目を伏せた。そして再び牙鋭を睨んだ双眸は、もう漆黒ではなかった。
*
(李花さん起きないな。)
雪月は李花の瘤に当てていた布がぬるくなっていたので、再び水で冷やしていた。
外では相変わらず雷が鳴っており、雨の音が次第に近くなっている。これからどうしようなどと考えていると、切迫した様子の颪が帰ってきた。全身びしょ濡れである。
「颪さん⁉︎ 大丈夫ですか?」
「あなたはここに隠れていてください。」
「どういうことですか? 何があったんです?」
「最悪の状況になっています。」
「え…」
それは二人が争っているということだろう。すると近づいてきていた雷雨が、ついに雪月たちのいる洞窟を覆い始めた。
「もう少し奥へ。ここにいると危険です。」
「ですが二人は…。」
「…こうなったらどうしようもありません。」
「そんな…」
どうにかする方法はないのかと外を見た瞬間、何かがもの凄い勢いで吹っ飛ばされていくのが見えた。それは暗闇を射抜くほどに光る赤い双眸に、血塗られたような角が生えた鬼、牙鋭だった。牙鋭は崩れた体勢を立て直し、再び物凄い速さで移動する。驚いて声も出ない雪月だったが、それよりも驚いたのは牙鋭が向かった先だった。
稲光に照らされた黒蓮の姿は、もう人のものではなかった。
額からは髪色と同じ黒漆の角が二本生え、右目は唐紅、左目は金色に輝いており、朱唇から覗く牙まで鋭く目立っている。鬼神本来の姿に戻った黒蓮のその瞳が捉えているのは、牙鋭だけだった。
「神だからって偉ぶりやがって。自分だけ勝手に偉いと思ってるこの小心者が!」
「自分一人の力などたかが知れている。まして自分だけが偉いなどと思っていない。」
「ハッ。何を言う。優越感にも劣等感にも踊らされたことのないようなお前が、分かったような口を利くな!」
激闘と舌戦を繰り返しているが、どう見ても黒蓮の方が優勢だった。牙鋭は身体中から血を滴らせながらも、黒蓮への攻撃を止めようとしない。牙鋭の瞬発力は凄まじく雪月には目で追うことも困難だが、黒蓮からしたら大したことではないのだろう。
(早く止めないと…!)
おそらく、黒蓮が終わらそうとすればこの争いは一瞬で決着がつく。それくらい二人の力の差は歴然としていた。
しかしここから雪月が声を発したとしても雷雨でかき消されるだろう。さらしや布を包んだ風呂敷を持って洞窟の外に出ようとした雪月を、訳が分からないといった様子の颪が引き留めた。
「あなたが間に入ってどうするのですか⁉︎」
「でも早く止めないと…牙鋭さんも危ないのですよ!」
「何があっても手を出すなと言われています。」
「そんなことを言ってる場合ですか⁉︎」
「自分は牙鋭様に忠誠を誓った身です。命に背くなど…」
「では今までの行動は、命に背いていないのですか?」
「それは…」
颪は言葉を続けることができなかった。だがそれは気持ちの問題だけではない。颪は一種の呪いをかけられており、命に背くことができないのだ。しかし今、己の中で矛盾が起こっている。
「だから私が行きます。私は牙鋭さんに仕えているわけではないので。」
「駄目だ。危険すぎます。行かせられません。」
颪は雪月を掴んだ腕を離そうとしない。
(確かに、何の力もない私じゃどうにもならないかもしれないけど…。ここで何もしないほうが私は絶対後悔する。)
「やはり颪さんもお優しいですね。でも大丈夫ですよ。それに、私は私の大切なヒトを信じていますから。」
「……では自分も一緒に行きます。救って欲しいとは言いましたが、あなたに危険に身を投じて欲しいわけではないので。」
刹那の葛藤の末、颪は掴んでいた雪月の手を離した。
「自分に掴まっていてください。限界まで近付きます。」
そう言うと颪は雪月を抱き抱えた。雪月は言われた通りに、颪にしがみつく。雪月が掴まったのを確認した颪は、足に力を込め物凄い速さで雷雨の中を走りながら跳躍を繰り返し、一気に二人のもとへ向かった。
雪月が、人間が持つ最大の武器は「覚悟」なのかもしれない。
雪月は体験したことのない速さと浮遊感に叫び出しそうなのを堪えつつ、前を見据えた。黒蓮と牙鋭の周りには風の壁ができており、二人の位置を捉えるのがやっとだった。しかしまだ距離がある。
「強行突破します!」
「はい!」
颪は雪月を抱えたまま、風の壁に体当たりする。
「っ…!」
「大丈夫ですか?」
「ちょっとかすり傷が増えただけです。」
雪月は無傷だが、颪は雪月を庇ったため風とともに飛んでいた枝や石で切れてしまったらしい。しかし風の壁は越えることができた。
「ごめんなさい。私のせいで…」
「気にしないでください。それより、これ以上は安易に近づけません。」
黒蓮の周りには更に強い風が渦巻いており、細く雷電が生じているのも見える。しかし二人の状況はもっと絶望的だった。黒蓮はこちらに気づいておらず、なんとか立っている牙鋭に無表情で近づいている。
(どうしよう。黒蓮様は終わらせる気だ…。)
颪は悔しそうに二人を見つめている。自分が牙鋭を救出しようにも、速さで劣ると自覚しているのだろう。
「颪さん、私が黒蓮様の元へ行きます。」
「…信じますよ。」
颪はもう雪月を止めることはしなかった。雪月は礼を言って黒蓮のもとへ走り出す。
「黒蓮様!」
「…雪月?」
黒蓮は牙鋭に向けていた視線をゆっくりとこちらへと向けた。鋭い眼光に思わず足が竦みそうになる雪月だったが、構わず前に進む。痛いほど強かった風が少し和らいだ気がした。
「おやめください、黒蓮様。他者を救いたいとおっしゃっていたではありませんか!」
「…。」
「それは私も同じです。ですがこのままでは、誰も、あなたも救われません。」
だが黒蓮は視線を逸らし、思い悩んでいる。牙鋭をこのまま見逃したくないのだろう。それは何より自分のためであるとわかっているからこそ、雪月は申し訳なく感じた。
黒蓮の周りに渦巻く風と雷電はかなり弱くなってきている。雪月は更に黒蓮に近づいた。それでも鋭い風が頬を掠める。バチバチと電気が身体中を走るのを無視して雪月は足に力を込めた。
「っ雪月…⁉︎」
黒蓮は目を見開いて何か言おうとしたが、突進する勢いで抱きついてきた雪月に押し倒された。
「私は黒蓮様が誰かを傷つけるところなど見たくありません! 他者を救う。それは簡単なことではないですが、大切で、素晴らしいことです。そう教えてくれたのは黒蓮様ではないですか!」
涙ながらにそう訴えた雪月を黒蓮は呆然と見つめ返した後、「すまなかった。」と言葉を漏らした。そして目を伏せると、煙と共にシュウ…と音をたてて鋭い牙と角が小さくなり、やがて人間の姿になった。
「自分の手で救えるものは、自分が肩入れしたものだけだ。簡単なことなのに考えられていなかった。」
黒蓮は雪月の存在を確かめるように強く抱きしめる。
「俺は雪月がいないとわかったとき、全てを失ったような気がした。だが、お前が止めてくれていなかったら、本当に全てを失うところだった。ありがとう。」
黒蓮の表情は見えないが、声は震えている。
「でも、私は黒蓮様が来てくれるって信じてました。私の方こそありがとうございます。」