「ねえ、紗代さん。落語をやるのは、本当に怖い?」

 大輔の問いに、紗代は小さく頷く。

「じゃあ、落語はまだ好き?」

 少し迷うように間を置きながら、それでも紗代はもうひとつ確かに頷いた。
 それを見て、大輔は「よかった」と微笑んだ。

「じゃあ、まだ落語を好きでいてくれた紗代さんと、落語ができるようになった明日香に、僕からひとつお願いがある」

「おね……がい……?」

 ようやく口を開いた紗代に、大輔は「そう」と頷く。

「一回だけでいい。紗代さんと明日香、ふたりの落語を僕に披露してくれないか」

 大輔は、万感の思いを込めた声音で、自身の最後の願いを打ち明けた。
 同時に、紗代が瞳を揺らす。そして、力なく首を横に振った。

「無理よ……。だって……私は落語をやるのが怖いんだもの……」

 自分にはできない、と諦めの言葉を重ねようとする紗代。
 しかし、大輔は「大丈夫。今ならね」と確信に満ちた声で、紗代の諦めの言葉を真っ向から否定した。

「だって今は、僕が紗代さんの目の前にいるじゃないか。僕がずっと紗代さんを見守っている。僕がいない恐怖なんか、今はどこにもないんだ」

 大輔の力強い言葉に、紗代の目が見開かれていく。
 紗代が落語をやることに恐怖してしまうのは、大輔がいない現実を受け止められないから。しかし、“本の記憶”の一部とはいえ、今は目の前に大輔がいる。つまり今だけは、紗代が落語を避ける理由がなくなるのだ。

「ずっと夢だったんだ。紗代さんと明日香、ふたりの落語を一番前の特等席から観ることが――。頼むよ、紗代さん。僕の最後の願い、叶えてくれないかな」

 大輔が妻と娘に「この通りだ」と頭を下げる。
 そして父からの願いに、明日香は瞳を輝かせた。なぜならこれは、彼女にとっても夢をひとつ叶えるチャンスだから。しかも、その晴れ舞台を父に見てもらえるという、最高のおまけつき。乗らない手はない。

 だが――。