「ううん。おっかさんは悪くない。大丈夫だよ。きっと何かのきっかけさえあれば、心の整理がつけられるさ」
「ええ、そうね。ありがとう、明日香」
明るい笑顔と前向きな言葉で明日香が紗代を励まし、紗代も娘の励ましに心からの感謝で応える。
――と、その時だ。
「――だったら、そのきっかけを今から掴みに行きませんか?」
唐突にそんな声を掛けられ、明日香と紗代が声のした方を振り向く。
ふたりが振り返った先には、明日香の本を手にした志希が微笑んでいた。その足元では、荒熊さんが任せとけと言わんばかりにサムズアップしている。
「旦那? 姐さん?」
志希からの唐突な提案に、明日香は頭の上に“?”を浮かべて首を傾げる。
どういうことかわからない。明日香の顔にはそう書いてあった。いや、明日香だけでなく紗代も同じ顔をしている。
そんな親子に、志希は手に持っていた本を差し出した。
「口で説明するよりも、実際に体験してもらった方が早いです。おふたりとも、この本に手を置いてください」
志希が促すと、明日香と紗代はわけがわからないといった顔のまま、素直に本に手を置いてくれた。
同時に、志希が足元にいる荒熊さんを見た。
「荒熊さん、お願いします」
「ほいきた。任せといて!」
荒熊さんが志希の体をよじ登り、本を持つ彼女の手の上に、自分の手を重ねる。
その瞬間、志希は源内の時と同様、体の中から何かが荒熊さんの方へ流れ出ていく感覚を抱いた。
そして――世界が光に包まれ始める。
「姐さん、旦那! これは!」
明日香が驚きに声を上げ、紗代が息を呑んだのが気配で伝わってくる。
「大丈夫です! 私と荒熊さんを信じてください!」
だから志希は、ふたりを安心させるようにできる限り優しく、明るく言葉を紡いだ。
「聞きにいきましょう。おふたりが大切に思っている人が、何を思っていたのか――いえ、何を願っていたのかを」
* * *
目が眩むほどの光は、しばらくすると何事もなかったかのように治まっていった。
明日香は、強烈な光の所為でまだシパシパする目をこする。やがて光の残像も消えていき、明日香はホッとしながら目を開いた。
そして――。
「何これ。私、夢でも見ているの……?」
明日香は母の戸惑いに満ちた声を、自身も唖然としたまま聞いた。
明日香たちがいたのは、あらいぐまの店内ではない。もっと広い場所だ。この場所には、見覚えがある。昔、父と一緒に母の落語を観た公民館のホールだ。その真ん中に、明日香は紗代と一緒に立っていた。
すると、ホールの広い空間に声が響く。
「ここは、明日香ちゃんの本に残った記憶の世界です」
声の主は、志希だ。彼女は、荒熊さんと一緒にホールのステージの上にいた。
「本の記憶の世界? 姐さん、それってどういうことなのさ」
「ごめんなさい。細かいことは、企業秘密なのです」
「いや、企業秘密って……」
唇に人差し指を当てて困ったように微笑む志希を、明日香が物言いたげに見つめる。
だが、志希の方はそんな明日香から視線を外し、ホールの後ろの方へ目を向けた。
「それよりも明日香ちゃん、紗代さん――来ましたよ」
「来たって、誰が……」
志希につられ、明日香と紗代も背後を振り返る。
そしてふたりは――再び驚きで目を見開いたまま、体を硬直させた。
「やあ、紗代さん、明日香」
とても……とても懐かしい声が、明日香の鼓膜を優しく震わせる。
その声、その姿。見間違えるはずもない。そこに立っていたのは、死んだはずの明日香の父・大輔であった。
「どうして……。あなた、死んだはずなのに……」
「どうもそうみたいだね。ここにいる僕は“本の記憶”の一部らしいから、死んだ実感ないんだけど……」
母に問われた父が、困ったように頭を掻きながら笑う。そんな仕草もやっぱり明日香が覚えている父そのものだ。父は自分のことを“本の記憶”の一部と言っていたが、つまり目の前にいる父はこの不思議な場所の一部ということだろうか。
明日香がそんなことを考えていると、歩み寄ってきた父が明日香の頭を撫でた。
「明日香、少し背が伸びたね。それに、ますます紗代さんに似て、美人になって」
「――っ! おとっさん!」
気が付けば、明日香は目の前の父に抱き着いていた。
この父が幽霊でも別の何かでも、そんなのどうでもいい。今、目の前にもう会えないと思っていた父がいる。それだけで、明日香は十分だった。
そんな明日香のことを、大輔もしっかりと抱き留める。
「そこのおふたりのおかげで、事情は大体わかってる。すごいな、明日香。その歳で、もうお客さんたちに落語を披露しているそうじゃないか。おとっさん、驚いたよ」
耳元で褒めてくれる父の声に、明日香はより一層抱きしめる力を強くする。
大輔は、娘に抱き着かれたまま、その後ろに立つ最愛の妻に目を向ける。
「紗代さんには、謝らないとね。ごめん、僕が死んでしまった所為で、苦労を掛けて。あんなに大好きだった落語をできなくさせてしまって」
大輔が謝ると、紗代は目に涙をこぼしながら首を振った。もはや言葉も出ない様子で、手で抑えた口元から嗚咽を漏らしながら、肩を震わせている。
大輔は、「明日香、ちょっとごめん」と娘を離して立ち上がり、泣きじゃくる紗代の肩へ手を置いた。
「ねえ、紗代さん。落語をやるのは、本当に怖い?」
大輔の問いに、紗代は小さく頷く。
「じゃあ、落語はまだ好き?」
少し迷うように間を置きながら、それでも紗代はもうひとつ確かに頷いた。
それを見て、大輔は「よかった」と微笑んだ。
「じゃあ、まだ落語を好きでいてくれた紗代さんと、落語ができるようになった明日香に、僕からひとつお願いがある」
「おね……がい……?」
ようやく口を開いた紗代に、大輔は「そう」と頷く。
「一回だけでいい。紗代さんと明日香、ふたりの落語を僕に披露してくれないか」
大輔は、万感の思いを込めた声音で、自身の最後の願いを打ち明けた。
同時に、紗代が瞳を揺らす。そして、力なく首を横に振った。
「無理よ……。だって……私は落語をやるのが怖いんだもの……」
自分にはできない、と諦めの言葉を重ねようとする紗代。
しかし、大輔は「大丈夫。今ならね」と確信に満ちた声で、紗代の諦めの言葉を真っ向から否定した。
「だって今は、僕が紗代さんの目の前にいるじゃないか。僕がずっと紗代さんを見守っている。僕がいない恐怖なんか、今はどこにもないんだ」
大輔の力強い言葉に、紗代の目が見開かれていく。
紗代が落語をやることに恐怖してしまうのは、大輔がいない現実を受け止められないから。しかし、“本の記憶”の一部とはいえ、今は目の前に大輔がいる。つまり今だけは、紗代が落語を避ける理由がなくなるのだ。
「ずっと夢だったんだ。紗代さんと明日香、ふたりの落語を一番前の特等席から観ることが――。頼むよ、紗代さん。僕の最後の願い、叶えてくれないかな」
大輔が妻と娘に「この通りだ」と頭を下げる。
そして父からの願いに、明日香は瞳を輝かせた。なぜならこれは、彼女にとっても夢をひとつ叶えるチャンスだから。しかも、その晴れ舞台を父に見てもらえるという、最高のおまけつき。乗らない手はない。
だが――。
「やっぱり無理よ。今から高座の準備なんてできないし、それに、道具や着物だってないし……」
完全に乗り気の明日香とは対照的に、紗代はまだ一歩を踏み出す勇気が出ないらしい。あれこれと言い訳を並べて、明日香や大輔から目を逸らす。
すると、大輔が舞台にいる志希たちの方へ目を向けた。
「――だそうです! お願いします、小日向さん、荒熊さん!」
「任せてください!」
「バッチリです! 抜かりはありません!」
志希と荒熊さんの自信満々な声に、明日香と紗代がどういうことかと振り返る。
舞台の上には、いつの間に用意したのか高座がすでにセットされていた。その脇には、着物を吊るしたハンガーラックが置かれ、しかも志希は大事そうに扇子を手にしている。
用意した言い訳という名の外堀がすべて埋められており、紗代は唖然としている。
大輔は、そんな紗代の肩に、再び手を置いた。
「さあ、あとは紗代さんの気持ち次第。もちろん、無理は言わないけどね」
「私は……」
外堀を埋められてもまだ決心がつかないのか、逡巡する紗代。
そんな紗代の手が、小さなふたつの手によって引っ張られた。
「やろうよ、おっかさん!」
「明日香……」
「ずっと夢だったんだ。おっかさんと一緒に落語会をすることが。しかも、おとっさんが観ている前でなんて、夢みたい! やろう、おっかさん!」
弾んだ声で、明日香は紗代へ訴えかける。
久しぶりに見る娘のはしゃいだ姿に、紗代の表情がスッと変わる。そこには、もう怯えも諦めもない。紗代の中で何かが切り替わったのが表情から伝わってくる。
心を落ち着けるように深呼吸をした紗代は、大輔の目を真正面から見つめた。
「……わかった、見せてあげるわ。私の――『明日ノ家桜花』の落語を」
* * *
紗代と明日香が準備のために控室へ消えて十五分。
志希たちがステージの前に並んで座って待っていると、先に姿を現したのは明日香だった。着物は明日香の分も用意しておいたが、明日香はいつものパーカーとハーフパンツ姿だ。おそらく、慣れない着物で臨むよりも普段着の方がよいパフォーマンスを発揮できると判断したのだろう。
生まれて初めて高座に上がった明日香は、その感動を噛み締めるように満ち足りた表情で一度目を閉じた。
そして、気合の入った勝気な笑みを浮かべて目を開く。志希たちに一礼をした明日香は、スッと息を吸い込んだ。
「ようこそのお運び様で、厚くお礼申します。真崎明日香、初めて上がったこの高座に恥じぬよう、一生懸命一席申し上げさせていただきます」
いつも通り、物怖じしない表情と緊張を見せない語り口調で、明日香が磨いてきた落語を披露していく。
演目はもちろん、明日香の十八番である『時そば』だ。
軽妙な語り口で蕎麦屋のあれやこれやを褒め称え、蕎麦を啜る音も絶好調である。
そんな明日香の表情は、あらいぐまで演じる時よりも三割増しで輝いているように、志希には見えた。
「明日香ちゃん、いつもよりイキイキしてますね」
「お父さんにとって明日香ちゃんの落語を観るのが夢だったように、明日香ちゃんもお父さんに落語を観てもらいたいと思っていただろうからね。あんなに楽しげな明日香ちゃんを見られて、僕もうれしいよ」
明日香の邪魔にならないよう、志希が小声で話し掛けると、荒熊さんはミニサイズの前脚を組んで、実の父親の隣で父親面をしながら満足げに頷いた。
そうこうしている間に、テンションマックスで突き進んだ明日香の『時そば』がクライマックスを迎える。
「一、二、三、四、五、六、七、八……今何時でい。――へい、四つでい。――五、六、七……。――あらあら、余計に払ってしまいました。人間、悪いことは考えるもんじゃないですね」
オチを付けた明日香が、姿勢を正す。
「おあとがよろしいようで」
そして、明日香は口座から下りる時の定番文句を言って、ゆっくりと頭を下げた。
志希は拍手喝采だ。隣では荒熊さんがなぜか感涙に溺れながら小さな手を叩き、そのさらに隣では大輔が同じく涙で瞳を輝かせながら大きな拍手をしていた。このふたり、意外と気が合うかもしれない。
三人から万雷の拍手をもらった明日香は、顔を上げてにっこりと笑う。志希の隣で、父親とアライグマが胸を押さえて倒れた。明日香の笑顔に撃ち抜かれたらしい。それを見て、今度は明日香の方が声を上げて笑う。何ともグダグダな感じだが、まあそれも一興だろう。
明日香は座布団をひっくり返し、今度こそ高座から下りて、舞台袖にはけていく。
そして、入れ替わるように今度は着物姿の紗代が舞台に姿を現した。
「すごい……。きれい……」
着物姿の紗代に、志希が感嘆の吐息を漏らす。着物を身に纏い、髪を結い上げた紗代は、正に和服美人だ。思わず見惚れてしまった。
紗代は丁寧な所作で高座に上がり、座布団に座る。そして、ステージの下にいる大輔の方を見た。
「何を観たい?」
「そうだな……。それじゃあ、『寿限無』で」
問われた大輔は、少しだけ考える仕草を見せた後、演目を指定した。
「それでいいの?」
「一番好きな演目だからね。大学の落研に入り立ての頃、君と一緒に練習した思い出の演目」
大輔が言うと、紗代は頬を赤く染め、小さく「ばか」と呟いた。
『寿限無』は、おそらく数ある落語の演目の中でも、最も知られたもののひとつだろう。子供が長生きできるようにと縁起のいい長い名前を付けた結果、その名前が災いして川で溺れたその子を助けられなかった、といった噺だ。ただ、子供が死んでしまうというのを嫌って、名前が長くてこさえたコブが引っ込んでしまう、などのバリエーションも存在する。
基本的に前座噺であるが、落語家の基礎訓練としても利用される。大輔の話から推理するに、おそらく紗代と大輔も大学の落研で最初にこの演目を基礎訓練として練習し、そこで仲を深めたのだろう。
「まあいいわ。じゃあ、それでいきましょうか」
気を取り直した紗代が、コホンと咳払いをする。そして、ふう、と深く深呼吸をし、前を向いた。
「それでは、一席お付き合いください。さて……名は体を現すとも言いますが、名前というのは誰にとっても大切なもの。最近はキラキラネームなんて言葉が世間を賑わせたりもしますが、親にとっては子供に素敵な名前を付けてあげたいと思うものでございます」
まずは小手調べといった感じで、紗代が枕に入っていく。
そして本題へと移っていくに従って、凛とした和服美人から一転して、紗代は様々な表情・声音を見せながら、淀みなく言葉を紡いでいく。
「何ぃ!? 寿限無、寿限無、五劫の摺り切れ、海砂利水魚の水行末、雲行末、風来末、食う寝る所に住む所、薮ら柑子のぶら柑子、パイポパイポ、パイポのシューリンガン、シューリンガンのグーリンダイ、グーリンダイのポンポコピーのポンポコナの長久命の長助がまだ寝てるって? よぉし、俺が起こしてやろうじゃねえか。やい! 寿限無、寿限無、五劫の摺り切れ、海砂利水魚の水行末――」
素っ頓狂な声を上げながら、紗代が大きな仕草で腕まくりをする。
紗代の気難しい顔と儚げな顔しか知らない志希は、先程からずっと目を見張りっぱなしだ。
「どう、姐さん。びっくりした?」
不意に斜め後ろから声を掛けられ、志希が驚き眼のまま振り返る。そこには、いつの間にこっちへ来たのか、高座の上の紗代をうれしそうに見つめる明日香がいた。
「あたしが滑稽噺をやっているのは、おっかさんの影響なんだよ。おっかさんみたいに人を驚かせて、笑わせたい。だからあたしは、滑稽噺を練習したんだ!」
そう言って、明日香は誇らしげに胸を張った。
「――あんまり名前が長いから、夏休みになっちゃった……」
そうこうしているうちに、紗代が寿限無を演じ終えた。