「志希ちゃんに、いいことを教えてあげよう。神様というのは、基本的に身勝手なのです。救いを求められても気分が乗らなければ手を貸さないし――求められてなくても、助けたい子を放っておくことはできないんだ」
我が儘だからね、と荒熊さんはにっこり笑った。
「だから僕は、志希ちゃんが大人しく『助けてください!』って言うまで付きまとうよ。アライグマの執念は、しつこいぞ~」
冗談めかした口調と何か触手みたいにうにょうにょした仕草で、荒熊さんは言う。しかし、動きはアホっぽくても、その目に茶化した様子は一切ない。そこにあるのは、純粋に志希を心配する優しさだけだ。
志希は、そんな荒熊さんから視線を逸らすように俯く。
「さっきも言ったよね。僕は、志希ちゃんに幸せになってほしいって。今、君の心に何が巣食っているのか、僕にはわからない。でも、その巣食ったものが、いずれ志希ちゃんを壊しちゃうのだけはわかる。僕は、そんなことには――」
「……いけないのですか?」
不意に志希が、荒熊さんの言葉を遮る。荒熊さんが観上げた志希の顔は、初めて見る皮肉げな笑みで歪んでいた。
「壊れてしまってはいけないのですか? 許されないことをしたら、罰を受けなきゃいけない。それで私が壊れるのだとしたら、それは起こるべくして起こった結果です。むしろ、受け入れるべきじゃないのですか?」
「志希ちゃん……」
「お母さんが死んでから、ずっと思っていました。いっそのこと、私なんて壊れてしまえばいいのにって……。お母さんが死ぬまでに謝れなかった私は、それくらいしないといけないんじゃないかって……」
先日と同じだ。荒熊さんの言葉で、志希の中にある負の感情の蓋が外れた。それも、前回より盛大な外れ方だ。心に溜め込んできたものを、志希は涙と一緒にすべて外へと押し出す。
そして、そんな志希を前にした荒熊さんは……ニヤリと笑っていた。なぜなら、これが荒熊さんの狙いだから。
荒熊さんも志希が助けを拒絶することはわかっていた。では、どうすればいいか。そんなのは簡単だ。決壊寸前の心に刺激を与え、拒絶の理由も何もかも吐き出させてしまえばいい。
「もうダメなんです。私は、明日香ちゃんとは違う。もうお母さんにすべてを話して、謝ることもできない。全部全部、私の所為。私が、明日香ちゃんみたいに勇気を持てなかったから、全部手遅れになって……。もう、私にはどうしようもなくて……。もうどうしたらいいかわからなくて……。ずっと、苦しくて……」
そうすれば、最後に必ず残るはずだから。パンドラの箱から絶望が飛び出した後、最後に希望が残っていたように。志希の心の箱にも、強がりや自虐心、罪悪感によって追いやられていた真の願いが……。
「――荒熊さん、助けてください……」
「もちろん。君の願い、確かに聞き届けたよ」
荒熊さんは、泣きじゃくり床にへたり込んだ志希に、強く、そして優しく笑い掛けた。
荒熊さんと一緒にカフェへと降りてきた志希は、荒熊さんに促されるままカウンター席へと座った。
一度泣き叫んだ所為か、今は心が妙にフラットだ。おかげで、子供のように荒熊さんへ当たってしまったことが、恥ずかしくて仕方ない。
志希がそんなことを思いながら、カウンターテーブルをじっと見つめていると、温かで甘い湯気が鼻腔をくすぐった。
「はい、どうぞ。特製ココア。甘くて温かくて、飲んだら心が落ち着くよ」
「あ……ええと、ありがとう……ございます」
ぺこりとお辞儀をし、おずおずとココアが入ったカップを受け取る。
温かなココアを一口啜ると柔らかな甘さが口いっぱいに広がって、確かに心が少し落ち着いた。
すると、志希の表情が和らいだのを見て取ったのか、荒熊さんが口を開いた。
「さっきは言いそびれていたけど、満男さんが来てくれて本当によかったね。まだ君には家族がいたんだ。おめでとう、志希ちゃん」
「……はい。両親は駆け落ちして結婚したと聞いていたので、お祖父さんが来てくれたのは本当にうれしかったです。しかも、『うちに来なさい』とまで言ってもらえて……。私は本当に幸せ者です」
カップの中のココアを眺めながら、志希は荒熊さんに答える。この気持ちには、嘘はない。
「でも志希ちゃんは、その申し出を素直に喜べないんだよね。原因は、前に言っていた『お母さんについていた嘘』かな」
荒熊さんの問いに、志希は無言で頷く。
「もしよければ、君の過去に何があったのか、話してくれないか?」
荒熊さんからそう言われ、志希はようやく源内や紗代が素直に身の上話をした気持ちがわかった。これも神様としての特性なのか、荒熊さんには話を聞いてもらいたいという思いがこみ上げてくる。
ただ、志希はそんな無粋な考え方はよそうと思った。確かに荒熊さんにはそういった力があるのかもしれないが、話をするのは自分の意思でありたい。だから志希は、これは自分の意思だ、と自分に対して告げた上で荒熊さんへ向かって話し始めた。
「荒熊さんも知っての通り、私はずっとお母さんとふたり暮らしで生活してきました。お父さんが亡くなったのが五歳の時ですから、ちょうど十三年くらいですね。母子家庭ですので裕福ではありませんでしたが、豪快で明るいお母さんのおかげで家の中はいつも笑いが絶えませんでした」
志希は、部屋から抱きかかえたままだった絵本をカウンターテーブルに置く。
「小さい頃は、よくこの絵本をお母さんに読んでもらっていました。これ、まだお父さんが生きていた頃に、ふたりが買ってきてくれた誕生日プレゼントなんです。私、本当にうれしくて……もらってからしばらくは、これを読んでもらわないと寝られないくらいだったんですよ」
そう言って、志希は少し恥ずかしそうに頬を染めながら微笑んだ。
そんな志希に、荒熊さんも優しく笑い返す。
「私は、明るくて強いお母さんのことが大好きでした。私も、大人になったらお母さんのような女性になりたい。ずっとそんな風に思っていたんです」
瞳を輝かせ、志希は幼い頃から抱いていた憧れを語る。
しかし、その表情が不意に曇った。
「でも、私はそんなお母さんに対して、とても許されないことをしていたんです」
そして志希の告白は、核心へと至る。
ただ、志希はそこで一度口を噤んだ。話すことを躊躇ったのだ。
カフェの店内に沈黙が下りる。壁時計の秒針が時を刻むコチ……コチ……という音が、やたらと大きく聞こえる。
荒熊さんは、何も言わない。話すかどうかを、志希自身に委ねている。
だから志希は、このまま何も言わずに逃げようとする感情と戦いながら、勇気を奮い立たせてその言葉を口にした。
「私は心の片隅で――お母さんがいつか私を捨てるんじゃないかって、ずっと疑っていたんです」
志希が紡いだ最低最悪の言葉が、カフェの中に木霊する。音として響いた自身の醜悪な感情に、志希は思わず吐き気を覚えた。
「きっかけは、お父さんの葬式の後のことでした……」
ただ、一度口が回り出せば、そこから先は難なく言葉が滑り出てくる。
志希は、まるで自分ではない誰かが語るのを聞くような感覚で、自らの過去を明かしていく。
「あの日……、葬式が終わって夜になっても、お母さんはお父さんの遺影を見ながら泣いていて……。それで私、お母さんを励ましたくて、『お母さん、元気出して』って、肩に手を置きながら言ったんです。でも、そしたらお母さんは『ひとりにして』って無関心な目で私の手を払いのけて……」
今でも鮮明に思い出すことができる。
払いのけられた時の母の手の冷たさ。自分に向けられた空洞のような眼差し。
いつも優しく明るかった母が初めて見せた一面に、当時の志希は恐れ戦いた。
「それは……辛かったね」
荒熊さんは労わるようにそう言ってくれたが、志希は首を横に振った。
「あの時のお母さんは、お父さんを亡くして心がボロボロでした。一人にしてほしいと思うのだって、当然だったと思います。子供だったとはいえ、私にデリカシーがなかったんです」
そう。悪いのは、母の心情を思いやることができなかった自分だ。
それはわかっている。でも……。
「でも、お母さんに拒絶されたという事実だけは、頭に残って……。あの時のお母さんの顔と言葉が頭から離れなくなってしまって……。私は、お父さんだけでなくお母さんまでいなくなってしまうのでは、と考えてしまったのです」
母の泣く姿を見ていたら、幼心にも父はもう戻ってこないということはわかった。
そして、このまま母までいなくなってしまったら――。そう考えると、体の震えが止まらなくなった。怖くて悲しくて、泣き叫びたい衝動に駆られた。
「だから私は、その日からお母さんに一つの嘘をつき始めました。お母さんに捨てられたくなくて、お母さんを困らせない“いい子”の自分を演じ始めたんです」
父が亡くなるまでの志希は、どちらかといえばやんちゃな子供だった。あまり女の子らしくなく、男の子たちに交じって泥だらけになって遊ぶような性格だった。
服は汚すし、片付けもしない。本当に、どうしようもないダメな子だった。
けれど、それではいけないと思ったのだ。そんな“悪い子”では、母にまたあの空洞のような目を向けられてしまうと――。
だからやんちゃだった性格を直し、お行儀よくすることを覚えた。少しでも“いい子”に見えるように、保育園の先生に丁寧な言葉遣いを教えてもらった。母が褒めてくれるように、進んでお手伝いをするようになった。さらに母の負担を減らそうと、自分が家事を担当するようになっていった。
全部全部、母に捨てられたくない一心だった。
「……もちろん、私も自分が悲観的に考え過ぎていたことはわかっていたんですよ。実際、お母さんはいつも私のことを大切にしてくれました。本当なら、捨てられるなんて考える必要はどこにもなかったのに……。でも、私の弱い心は、お母さんに大切にしてもらえばもらうほど、不安を膨らませていって……」
自分がいないところでは、自分のことを厄介がっているのではないか。“いい子”でいるから、母は自分を大事にしてくれているのではないか。少しでも気を抜いてボロを出したら、母に愛想を尽かされるのではないか――。
母が好きであることは変わらないのに、一方で志希はそんな疑心暗鬼に囚われてしまっていたのだ。
「私は、お母さんを信じ切れずに“いい子”の仮面を被って、最後まで疑っていることを隠し続けてしまいました。源内さんや明日香ちゃんを助けようとしたのだって、お母さんへの償いの代償行為で……。私はお母さんと似ても似つかない、本当に弱くて卑怯な人間なんです」
母を騙し続けた罪悪感から自らを蔑み、志希は俯く。
そして結局、すべてを明かして謝ることもできないまま、母は思っていたのとは別の形で志希の前からいなくなってしまった。
「何でお母さんが死んで、私が残ってしまったのでしょう。逆だったらよかったのに……。ううん、逆でなければいけなかったのに……」
志希が吐き捨てるように言う。そこからは、何でもいいから自分を罰したいという志希の罪の意識が見て取れた。
罰せられるべきは、自分だったはずだ。それなのに、なぜ母が死ななければならなかったのか。自分なんかが生き残って、何になるというのか。
この半年間、志希はそうやってずっと自問自答してきたのだ。
だからこそ、祖父が自分のところへ来てくれたという幸運を、志希は素直に受け入れることができなかった。母を騙していた自分が幸せへ手を伸ばそうとすること自体、許されないことであるとしか思えなかった。
「荒熊さん、教えてください。私は、どうしたらいいのでしょう。どうすれば、この罪を償うことができるのでしょう」
縋るような目で、荒熊さんを見つめる。
すべてはそこからなのだ。母に対して犯したこの罪を償うことができなければ、志希は一歩たりとも先へ進むことはできない。
「……だったら、謝りに行くかい? お母さん本人に」
そんな志希に対して、荒熊さんは最適解を提案してくれた。
実際、志希もそれは何度も考えた。
幸いなことに、自分や母と縁が深い絵本が手元にあるのだ。それならば荒熊さんの力を借りれば、源内や明日香たちのように、母と会うことできるだろうと。直接、母に問うことができるだろうと。
ただ……。
「すみません。たぶんそれでは、私自身が納得できない気がします……」
志希は、力なく笑いながらそう言った。
そう、きっと納得できない。
本の記憶の中で罪を明かせば、母はきっと笑って許してくれると思う。母はそういう人だから。でも、だからこそダメなのだ。それでは、ただの自己満足のために、本の記憶の中の母を利用しているようにしか、志希には思えなかった。
我ながらほとほと面倒くさい性分だと思うが、こればかりは仕方ない。
「お母さんの本音もきちんと知った上で謝る。たぶん私がしたいのは、そういうことなんだと思います。だから、本の記憶の中のお母さんを呼び出して謝るだけでは、足りない気がするんです」
「まあ、そうだろうね……」
荒熊さんも、志希がそう言うであろうことは予想していたとでもいうように、深く息を吐いた。
その上で、荒熊さんは志希を思いやるように、そっと語り掛けてくる。
「志希ちゃんの気持ちは、よくわかった。この問題、一晩だけ僕に預けてくれないかな」
「預ける……ですか?」
「そう。今日はもう遅いからね。僕に問題を丸投げして、まずは一晩ぐっすり眠りなさい。でないと、美容に悪いよ」
最後は冗談めかして、荒熊さんが休むように促してくる。
確かに、今日は色々あり過ぎた。泣いたり叫んだり、感情を露わにした所為か、ひどく眠い。
「それで明日の朝、もう一度話をしよう。そこで、きっと志希ちゃんが納得できる解決法を示してあげるから。僕に任せて」
そして荒熊さんは、最後にそう約束してくれた。
正直なところ、志希にはどうすれば自分が納得できるのか、皆目見当もつかない。
けれど、荒熊さんは「任せて」と言ってくれているのだ。ならば、この世界で一番信頼できる神様に自身の命運を託してみるのもいいだろう。
「わかりました。お手数をお掛けして申し訳ありませんが、よろしくお願いします」
そう言って、志希は荒熊さんへ深々と頭を下げた。