LOGICAL PURENESS―秀才は初恋を理論する―

【誰か誰か助けて助けて怖い怖い怖い怖い聞くな止めたいイヤだイヤだ意識を失えばいいのかいっそのこと力尽きればいいのかイヤだ怖い怖い怖いどうすればいい誰か止めてほしいダメだ解決できない声を聞かないで思考をのぞかないで止まらない止めたいイヤだチカラを返してぼくのチカラを返して情報が足りない見えないこれはほしくないぼくの声を聞かないで勝手に流れ出る助けて制御できないできないできないできない不可能は怖い未知は怖い情報がほしい怖い怖い!!!!!】
 あまりの恐怖に喉が干からびて、肉声を出すことができない。なのに、思念の声だけが凄まじい悲鳴を上げ続ける。
 自分の体が自分のものじゃないみたいで、それが怖くて仕方ない。
「海牙くん!」
 肩をつかまれて、揺さぶられた。いつの間にか頭を抱えてしゃがみ込んでいたぼくを、正面から見つめる人。
【リアさんダメだ聞かないでイヤだ触れないでリアさんの手が肩に触れているダメだ無理だ怖い怖い怖い助けて声を聞かないで助けて怖い助けて見つめないで見ないで助けて触れないで触れたい触れたいぼくは壊れそうだ怖い怖い怖いぼくの醜い感情があふれてくるキレイな人だ聞かないでさわりたい聞かないでリアさんリアさん助けて離れてぼくを見てイヤださわりたい怖い肩に触れているダメだもっと触れてほしいダメだ聞かれたくない聞いてイヤだ助けて離れて助けて!!!!!】
 リアさんがぼくの手を取る。髪を撫でる。
「海牙くん、落ち着いて。大丈夫だから」
 ダメだ。
 ぼくはこんなに混乱しているのに、近付いちゃダメだ。
 ひどく素っ気なくシンプルな視界の真ん中にリアさんがいる。
 体が動かない。頭がおかしくなる。
【離れて離れて離れて感情が暴れるさわりたい今はそれどころじゃない触れたい触れたい近くにいたい離れていい匂いがするダメだもっと近くに来て考えちゃダメだおっぱいリアさん触れたいリアさん離れて離れて離れておっぱいぼくは失望されたくない触れたい近くに来ないでキレイな人さわりたい聞かないで唇が近いダメだぼくに触れて聞かないでぼくだけを見て聞かないで触れたいダメだもっともっともっとダメだ触れたいダメだ助けてダメだダメだ離れて離れて離れて!!!!!】
 リアさんが左手でぼくの右頬に触れた。
 ダメだと言っているのに。
 リアさんの右手が、ぼくの右手をつかんでいる。ぐいっと引かれた。
「やめてくださ……っ!」
 ぼくの右手がリアさんの胸に押し当てられた。
 ごく薄い生地のブラウス越しに、下着の上から。それでも、とても柔らかい。手のひらいっぱいに重みを感じる。
 ぼくの体には備わっていない、想像もつかなかった柔らかな感触。
【柔らかいさわってしまったやりたいもっともっと柔らかいすごいおっぱい興奮するもっとさわりたいおっぱいすごいすごいおっぱい気持ちいいしたいさわりたいおっぱい手ざわりが最高だやりたいもっともっともっともっとさわりたい押し倒したい触れたいほしいほしいほしいしたいおっぱい柔らかいやりたいもっとおっぱいたくさん知りたい見たいさわりたいさわりたいやりたい犯したい柔らかい見たい襲いたいやりたいもっともっともっともっともっともっ……】
 ぼくは絶叫した。
「聞くなぁぁあぁああああっ!!」




 声が、止まった。





 静寂。






 わかった。壁の作り方がわかった。


 思念を外に逃がさないための壁。声を聞かれないための術。


 そうか。

 こんなふうにしないと、人は無防備で、何もかも聞かせてしまうのか。思念のすべてを聞かれてしまうのか。

 自制って、できているようで、できていない。思念も感情も欲望も、少し特殊な環境下では簡単に流出する。
「ごめんなさい……」
 誰に何を謝っているのか。朦朧《もうろう》とする意識の中で、ぼくはつぶやいた。
 チカラを使いすぎた。体力が底を突いた。体勢を保っていられずに倒れ込んだら、リアさんに抱き止められた。ゆっくりと床に降ろされる。
【リアさん……柔らかい、あったかい……】
 また少し思念が洩れてしまった。
 煥くんが無理やり立ち上がるのが見えた。鈴蘭さんがぼくのそばに這ってきた。
「外傷はない、ですよね? すみません、わたし、疲労は治せないから」
 理仁くんが立とうとして、ふらつく。目を覆って呻いている。
 祥之助がブザーを鳴らした。室内の黒服は動けずにいる。どこからともなく、別の黒服が現れる。数えられない。この程度の数を情報として処理するのに時間が必要だなんて。
 ぼくは立ち上がれない。意識が遠のきかけている。
 鈴蘭さんが、あっ、と声を上げた。
「何、これ? 青獣珠なの? 守ってくれるの?」
 ぼくにもわかる。胸元にある、自分のものではない鼓動がハッキリと聞こえる。
【玄獣珠が、温かい】
 四つの意志が働いた。思念を交わすのが感じられた。
 ――人間への積極的な干渉は、よろしくない。
 ――だが、致し方あるまい。
 ――黄帝珠を野放しにはできぬゆえ。
 ――因果の天秤に、均衡を。
 チカラに包まれた。異物を排除する、自分だけの空間だ。四獣珠がみずからチカラを発揮しているんだと、ぼくは直感的に理解する。
 煥くんがあせった声を上げた。
「余計なことするな、白獣珠! オレは平気だから、自由に動かせてくれ! じゃなきゃ、リアさんが危険だ!」
 リアさんには、そうだ、四獣珠の守りがない。
 ぼくは必死で目を開いた。
 うっすらとした黒い膜が卵の殻のようにぼくを包んでいる。半透明な向こう側で、動けない理仁くんも、白獣珠を握りしめた煥くんも、立ち尽くした鈴蘭さんも、それぞれ膜の中に閉じ込められている。
 祥之助が命じた。
「その女を人質にしろ!」
 やめろ。彼女に触れるな。
 黒服の男たちがリアさんに殺到する。リアさんが抵抗して、最初の二人を蹴り飛ばす。数にはかなわない。たちまち腕をとらえられて、自由を奪われる。
【リアさん、リアさん……!】
 煥くんが自分の膜を破って飛び出した。リアさんをとらえる黒服の群れに突っ込む。体の動きがぎこちない。きっと、ぼくの声のせいだ。強烈な精神攻撃を受けたせい。
 警棒が煥くんの肩を打った。ガクリと体勢を崩した煥くんに、スタンガンが突き付けられる。
「うぁ……ッ!」
 煥くんが気を失った。鈴蘭さんが悲鳴を上げる。
 リアさんの気丈な声が煥くんを呼んだ。それが途中で途切れる。スタンガンを当てられたリアさんがビクリと硬直する。弓なりに反った体が、くずおれた。
「姉貴」
 理仁くんが悲痛につぶやく。
 煥くんに駆け寄った鈴蘭さんが、警棒を突き付けられて目を閉じる。振り下ろされる警棒。青獣珠の守りがそれを弾き飛ばす。
 リアさんが連れ去られていく。理仁くんが追い掛けようとしてつまずく。
「姉貴ッ!」
 チカラを失った声は、リアさんに届かない。
 祥之助と黄帝珠の哄笑が重なり合って響いている。
 ぼくは起き上がることすらできない。
【無力で、ごめんなさい……】
 そして意識を失った。
 目を開けたら、見慣れた色のシーツがあった。左を下にして体を丸めて眠る、いつもの癖。
 でも、足りない。目に入ってくるはずの、シーツのしわの形状を計測した数値。そんな当然の情報が、ぼくの視界に存在しない。
【見えない】
 失ったんだ。この世に生を受けた瞬間からぼくに備わっていたチカラ、力学《フィジックス》。過剰な情報量を持つ視界が、ぼくにとっての当たり前だったのに。
「おんや~、目ぇ覚めた?」
 思いがけない声が聞こえた。ぼくは、パッと起き上がった。
 ぼくの部屋に、理仁《りひと》くんがいる。彼は勉強机の椅子に後ろ向きに腰掛けて、背もたれを抱いていた。
「これは……ぼくたちは、一体……」
「一夜明けて、今は午後一時だよ。あの後さ~、おれと鈴蘭ちゃんで、もう必死。海ちゃんとあっきーは気絶したまんまだし。四獣珠がバリア張ってくれてなかったら、ヤバかったよ」
 理仁くんは目を伏せている。視界に何も入れたくないんだろう。口元は相変わらず、微笑んだふりを続けている。
「リアさんは?」
「連れてかれた」
 理仁くんは背筋を丸めて、椅子の背に額をくっつけた。明るい色の髪は、リアさんと同じ色だ。
「ごめんなさい」
「何で謝るの?」
「ぼくがチカラを制御できなかったせいで、足を引っ張りました」
 情けなくて申し訳なくて仕方がない。
「海ちゃんって、意外と謝るね。チカラが入れ替わってからこっち、何度も聞いたよ。ごめんなさいって。意識のない間も、ずーっとね、ほんとにしょっちゅう謝ってた」
【無力感、失望、劣等感、自尊心】
 思念が勝手にこぼれてしまう。その途端、また、疲労感が肩にのしかかる。気を付けていないと、チカラを使いっぱなしになるんだ。数値だらけのあの視界より、はるかにエネルギー消費量の大きなチカラを。
「ぼくはナルシストなんですよ。十分に満足できるくらい優秀で有能な自分じゃないと、生きていられない。だから、生きている限り、ぼくはつねに優秀で有能なはずなんです。なのに昨日、何もできなかった。今、自分に対して絶望しています」
「海ちゃん、それ、ナルシストって言えない。海ちゃんはおれと同じで、自分のこと、そんなに好きじゃないでしょ? でも、どーにかして生きてなきゃいけないから、自分がこの世に存在することを許すための口実を用意してんだ」
【自己評価。優秀であること。他人と違う自分。特別でありたい願望。普通になれない、という劣等感を書き換える。変人であろうと振る舞う。力を抜くことができない。本当は、とても疲れている】
 理仁くんはしばらく黙っていた。それから顔を上げて、目を閉じたまま、口元だけでニッと笑った。
「昨日の晩、おれ、ここに泊めてもらった。すっげー金持ちなのな、平井のおっちゃんって。朝飯、うまかったし。あ、そういや、昼飯まだなんだ。海ちゃん起きねぇかな~と思って、待ってた」
「食欲が……」
「なくても食わなきゃダメ」
【つらい】
 弱音がこぼれる。本心を隠しておけない。こんなの、本当は誰にも聞かれたくない。
【怖い】
 でも、一方で、このチカラを理解する理仁くんには見放されたくない。助けてほしい。
 不甲斐ない。
 ぼくはベッドに仰向けに倒れた。白い天井を映す視界は、あまりにも殺風景だ。数字が見えない。距離も角度も測れない。怖くなって、ぼくはまた、まぶたを閉じる。
「ぼくがさっさと祥之助に対応していればよかったんです。魂《コン》の抜かれた動物や人の存在は知っていました。祥之助が絡んでいるらしいこともわかっていました。それどころか、話をしようと誘われていたんです。あのとき、誘いに応じていればよかった」
 もっと警戒すべきだった。きちんと計画すべきだった。綿密に情報収集しておくべきだった。今さら後悔しても遅すぎるのに。
「おんなじこと、瑠偉っちが言ってたよ」
「瑠偉と会ったんですか?」
「昨日の晩、真っ先に駆け付けてくれたの。海ちゃん、突入の前に瑠偉っちに連絡したんでしょ? 場所は聞かなかったけど、お坊ちゃんちのビルだと思ったんだって」
【一人で何でもできるつもりでいた。そんなわけない。自分でもわかっているんだ、ぼくは視野が狭くて精神的に脆いって。ぼくは一人では何もできない】
「海ちゃん、素直」
「聞かないでください、こんなの」
「思ってることが洩れるのは、疲れてるときは仕方ないって。おれでも、たまにポロッとやっちゃうもんね~」
【壁を……】
「理仁くん、どうやったら壁を保持していられるんですか?」
「けっこう無意識」
「ずるいですよ、そんなの」
「海ちゃんこそ、どうやってこんな視界に対応してたわけ?」
「無意識ですね」
「ほらね」
 どうやって、ものを見て情報を得ているのか。どうやって、声に出す言葉と胸に秘める言葉を選んでいるか。
 無意識の判断は、幼児のころに徐々に身に付いていく。通常の範囲の能力も、ぼくたちの異能も、使いこなすためのプロセスはきっと同じだ。
「苦労しませんでした?」
「苦労したよ~。お友達にそんなこと言っちゃダメでしょ、っていうお叱りが、おれは普通の子より多かったわけ。叱られてるうちにチカラの操り方を覚えた感じ」
 思念の声を洩らさないためには、自分を律する必要があって、感情を安定させておかなければならない。幼児には難しかったはずだ。十七歳のぼくにさえ難しい。
「だから、きみはいつも計算したような笑顔なんですね」
「海ちゃんだって、計算ずくの笑顔じゃん」
「つかみどころのない変人として扱われるのが、いちばん楽なんです」
【だって、ぼくは普通になれないんだから。演技しても努力しても、どうやったって普通になれずに、浮いてしまうんだから】
 他人の視界には数値が現れないのだと、幼いころは理解できずにいた。
 多すぎる情報量を持て余しながら、ぼくには不思議だった。どうしてみんなは曖昧な方法でしか物を見ないんだろう、と。
 力学《フィジックス》のチカラがある限り、ぼくは普通になれない。だったら自分から、変人でいることを望んでやる。あいつには近寄れない、と思われるほうがいい。この情報量を共有できる相手も、本当の意味でぼくを理解してくれる相手も、どうせいないのだから。
【孤独だった。笑ってごまかした。仮面をかぶるみたいに、こうしていると、楽になった】
 どんな形に唇を動かせば笑顔に見えるのか、鏡をのぞきながら練習した。ぼくの顔立ちには、左右で誤差がある。でも、笑った顔はほぼ左右対称に見えるはずだ。
【完璧なように練習したから】
 ぼくはため息をついた。
「ダメですね。思ったことが、どうしても洩れてしまう。寝言とか、うるさかったんじゃないですか?」
「朝までは、おれじゃなくて瑠偉っちが、この部屋に寝てたんだよね。床に布団敷いてさ。もし瑠偉っちが何か聞いてたとしても、大丈夫じゃない? あの人、口堅いでしょ」
「そうですね」
 相当、心配をかけたんだろう。瑠偉がぼくの部屋に泊まるなんて。
 ぼくが他人に寝顔を見せたくないこと、プライベートな空間に入られるのを極端に嫌うことは、瑠偉もよく知っている。修学旅行では、ぼくは大部屋で一睡もできなかった。最終日、瑠偉が教師に掛け合って個室を用意してくれた。
「瑠偉っちは今、たぶん学校だよ。情報収集のために、途中でちょっと抜け出すとは言ってたけど。で、朝から今までは、おれがこの部屋にいた。海ちゃんの寝言に関しては、まあ、姉貴のことだけ、後で瑠偉っちに説明しといたがいいんじゃない?」
 リアさんのこと?
「ヤバい発言、してました?」
「そりゃもうすっげー正直に、高校生男子の欲望を」
「うわ……」
「冗談だよ~」
「やめてくださいよ」
「海ちゃんって、姉貴のこと好き?」
【美人。キレイな人。強い。スタイルがいい。柔らかかった】
 勝手にあふれる思念に蓋をするように、ぼくは両手で顔を覆った。
「嫌いではないです。でも、好きだとか。そう感じるほどの長い付き合いじゃないですし」
 正直な気持ち、だと思う。ハッキリとはわからない。
「ま、好きって言われても嫌いって言われても、複雑だけど」
 理仁くんが乾いた声で笑った。
「心配ですよね」
「当たり前じゃん」
「今すぐにでも、動けたらいいんですが」
「うん、無理なのはわかってる」
【無力感。苦しい。情報が足りない。戦うにも支障がある。怖い。情報がほしい。数字がほしい。自信がほしい】
 胸の上で玄獣珠が鼓動している。今まで、未知の情報の集合体である玄獣珠に意識を凝らしてみることなんて、ろくになかった。預かりたくもないくらいに、解析不能な玄獣珠というものを、ぼくは疎ましく思っていた。
 たぶん今、ぼくはどうしようもなく弱っている。玄獣珠を拒む元気もない。
 だから、初めてわかった。玄獣珠のぬくもりから、ぼくをいたわる思念が静かに伝わってくる。言葉と呼べるほど明確なものではないけれど、優しさと呼んでいいような波動が、じわじわとぼくの胸を温めようとしている。
 理仁くんが、また、乾いた笑いをこぼした。
「すげーよな、海ちゃんって。この視界の情報、全部使いこなしてんでしょ? 眼鏡型のPCが開発中とかいうけど、海ちゃんのチカラは、その超絶高性能バージョンじゃん」
「理仁くんのほうがすごいでしょう。こんな状況なのに、冷静ですよね」
「んなことなくて、ひと暴れしたんだよ」
「ひと暴れ?」
「昨日の晩、平井のおっちゃん相手にね。今すぐ姉貴を助けに行きたいっつって、暴れて泣いて疲れ果てて、や~っと落ち着きました。めっちゃみんなに見られたからね。今さらだけど、すげー恥ずかしい」
「リアさんが安全な場所でおとなしく待っているような人なら、こんなことにはならなかった。でも、リアさんがいなかったら、ぼくは混乱したまま、どうなっていたか」
 場面ごとに場合分けして考えてみる。要所要所で、リアさんの機転に救われた。リアさんがいなければ、ぼくたちの行動はもたついたはずだ。
「度胸がよすぎて危なっかしいでしょ。昔から、あんな人なんだ。おれ、絶対にかなわないもんね」
「いくつ違うんですか?」
「八つ上で、二十五歳だよ。姉貴はさ、おれのチカラのストッパーだったの。おれがちっちゃいころ。だから、あの場面であんなことできたわけ」
「あんなことって? 体を張って、って意味ですか?」
「こら、そこ変な想像しない。ちっちゃいころって言ったろ?」
 軽い口調で、理仁くんは語った。子どものころ、わがままが駄々洩れになることがあった、という話。
 癇癪を起こして、大音量で泣きわめいてしまった。肉声とともに、まわりの人々の精神を傷付ける衝撃波が噴出した。抑えようにも、自分ではうまく制御できなかった。
 そんなときに助けてくれるのが、リアさんだった。誰彼かまわず操ってしまうマインドコントロールの号令《コマンド》を止めてくれるのも、チカラの影響を受けないリアさんだった。
「姉貴も、まったく効果なしってわけじゃないらしいけどね」
「ああ、それはぼくも感じました。自分が号令《コマンド》に抵抗しているのがわかった、というか」
「意識がない状態なら、預かり手だろうがその血縁だろうが、操れるかもね。んな悪趣味、やってみたことないけどさ」
「意外です」
「マジ?」
「ぼくなら、その実験、やってしまったんじゃないかな。相手の尊厳とかより、自分の好奇心のほうが大事なんです」
 そして、全部が済んでから後悔するんだ。人でなしだ。マッドサイエンティストだ。こんなふうだから、ぼくは人と同じようになれないんだ。最低の人間だ。
 理仁くんは小さく笑って、言った。
「子どものころのわがままってね、おれの場合だけど、腹減ったとか眠いとかより強い欲求があったんだ。甘えたいとか、くっつきたいとか、そーいうやつ。でも、恥ずかしいじゃん? なのに、変なスイッチが入るとさ、勝手に声になって聞かれちゃうんだよね」
 同じだ。昨日のぼくと同じ。
【触れたい、助けてほしい、自分だけ見てほしい。無意識の欲求だった。恥ずかしいのに、望むことを止められなかった】
「でしょ? 姉貴はさ、そこを逆手に取るんだよね。ショック療法的な感じで。人前で思いっ切りギューッてやられたの。自意識の強い幼稚園児のおれ、超恥ずかしくて。やめろーって感じで、声をシャットダウンする」
「まったく一緒ですね、昨日のぼくと」
「海ちゃんのほうがなまなましかったけどね」
「年齢相応です」
「超恥ずかしかったろ?」
「死にたかったですよ」
 ぼくはずっと、性別や年齢に関係なく、人との接触を拒んできた。両親との間にさえ、壁のようなものを作った。高校に上がって総統や瑠偉と知り合って、少しマシになったけれど。
【女性に触れたのは初めてだった】
「え、うっそ~、モテそうなのに」
「容姿とステータスだけはね」
「初めて揉んじゃった感想は?」
【柔らかかった気持ちよかったおっぱいもっとさわりたかったおっぱい見てみたかったもっと知りたかっ……】
「変な誘導尋問はやめてください! 本当に、シャレにならない!」
 顔から火を噴きそうだ。ぼくは年齢相応に、あるいはそれ以上に性欲があって、エロいことも考えるし、いやらしい視点で女性の体を見たりもする。でも、そんな一面なんて人前では絶対に出したくないのに。
「ま、おれとしても複雑だしね~。姉貴が男からそういう目で見られてるって、わかってても、わざわざ知らされたくねぇや」
「じゃあもう言わないでください」
「りょーかい。たぶんね」
 ぼくは髪を掻きむしって、話題を変えた。
「理仁くんはリアさんと仲がいいんですね」
「仲よくなきゃ、生き延びれなかったしね」
「どういう意味ですか?」
 文字どおりと答えて、少し間があって、理仁くんは言葉を補った。
「こないだまで、一年くらい、フランスにいたんだ。おれと姉貴、二人で、国外逃亡して隠れてた」
「ほかの家族は?」
「おふくろは入院中。親父は……死ねばいいのに」
 流行りの言い回しだ。「死ね」と口にする生徒が多いと、教師はよく怒っている。
 でも、理仁くんの「死ねばいいのに」は重みが違った。思念と言葉が、理仁くんの本来のチカラだ。その彼が父親のために選んだ言葉が、「死ねばいいのに」だなんて。
「深刻そうですね」
「あの祥之助坊ちゃまが自分の父親だったら、海ちゃん、どう?」
「絶対イヤです」
「そんな感じなの、おれんち」
 祥之助は黄帝珠に操られて、そのチカラに依存している。リアさんと理仁くんは、そんな祥之助に対して強烈な嫌悪感を示していた。リアさんは、朱獣珠に振り回されてきたとも言っていた。
【朱獣珠の乱用?】
「そのへんでやめといてよ。話せるときが来たら話すし」
「リアさんにも、同じようなことを言われましたよ。全部を話せるような深い仲ではない、とね」
「うちの事情、特殊だから」
「朱獣珠の活性化が、四獣珠の集結に関与したかもしれないんでしょう?」
「使っちゃいけないんだよね~。代償を差し出せば何でも叶えてくれる宝珠って、そんな便利なもん、人間が使っちゃダメだ。朱獣珠は、止めてほしくて、みんなを叩き起こしたんだよ」
 問い掛けて答えてくれるなら、四獣珠と話をしてみたい。聞かせてほしい。今、何が起こっているのか。四獣珠が何を望んでいるのか。
「黄帝珠も、同じように叩き起こされたんでしょうか?」
「それに関しては、瑠偉っちがちょっと調べてきてたよ」
「え? 瑠偉が?」
「平井のおっちゃんも、自分が知ってることを教えてくれるっぽい。だから、今日は学校終わったら、みんなここに集合するんだ。まあ、おれらは、今はとりあえず昼飯ね。腹ごしらえしよ?」
 理仁くんの誘いに、ぼくはベッドから起き上がった。
「そうしますか」
 夕刻、総統の屋敷へ最初に到着したのは、さよ子さんと鈴蘭さんだった。
 さよ子さんは初っ端から、普段以上にテンションが高かった。「おかえり」と出迎えた理仁くんの前で甲高い声を上げて、はしゃいだ。
「理仁《りひと》先輩って、ほんとにカッコいいですね! 噂以上っていうか。ねえ、鈴蘭!」
 鈴蘭さんもそわそわしていた。
「イ、イケメンがそろってるって、いいですよね。海牙さんもすごい美形だし!」
 次に姿を現したのは、瑠偉だ。
「海牙、無事か? って、さすがに顔色悪いな。飯はちゃんと食えたか?」
 ぼくが応対するより素早く、さよ子さんがテンションの高いままで瑠偉にまとわりついた。
「瑠偉くん、じゃなくて、瑠偉さん! 昨日はあんまりしゃべれなくて残念でしたっ。ものすごーく誉めてる意味で言いますけど、若く見えますよね! カッコかわいい美少年ですよねっ!」
「いや、あの、とりあえず、どうも」
 どこか達観した印象の瑠偉が、珍しくたじたじになった。
 そうこうするうちに、真打ち登場。大型バイクを飛ばして、ライダースーツ姿の煥《あきら》くんが到着した。
「悪い、遅くなった」
 ヘルメットを小脇に抱えた姿は、男の目から見ても格好いい。
 さよ子さんと鈴蘭さんが真っ赤になって騒ぎ出した。煥くんのそばに寄っていくわけじゃない。ちょっと遠巻きな距離感で、キャーキャーと。
 ぼくは白けてしまった。
「非常事態だとわかってるんでしょうか?」
 理仁くんが笑った。
「ま、沈んで無気力になっちゃうより、全然よくない?」
 煥くんが顔をしかめて、銀髪をクシャクシャと掻き回した。
「よくねぇよ。普段よりひでぇ扱いだ。何考えてんだ?」
「たぶん、わざとでしょ。さよ子ちゃん、昨日は泣いてたもん。何もできなかった、って」
 昨日というのは、ぼくと煥くんが意識のない状態で総統の屋敷に回収されたときだろう。
 瑠偉が理仁くんに同意した。
「安豊寺さんだっけ? あの子もね。実際に現場にいたのに、自分ひとり何もできなかったって。自分の能力は戦闘の役にも立たないって。すげぇ落ち込んでた」
 だから、自分たちにできることを探した? せめて士気を落とさないように、無駄に元気なふりをしている?
 煥くんが口を開いた。でも、言葉がうまく見付からなかったようで、黙って。それからどうにか、ため息混じりにつぶやいた。
「無力なのは全員だった」
 来客用の、会議室を兼ねた食堂に通された。和洋折衷な屋敷の中で、この部屋は完全に洋風の内装だ。
 総統はすでにそこにいた。
「皆さん、よく来てくれたね。話が一段落したら夕食を運ばせるよ。きみたちが疑問を投げ掛けてくれたら、私が答える。そういう席にしよう」
 大きな円卓を、全員で囲む。四獣珠の預かり手の四人。総統と、さよ子さんと、瑠偉の三人。ぼくの左隣には理仁くん、右隣に瑠偉が着席した。
 総統が理仁くんを気遣った。
「視界には慣れたかい?」
「転ばずに歩けるようにはなりましたよ」
「自覚する以上に負担が掛かっているはずだ。くれぐれも、無理はしないようにな」
「は~い」
 誰から話す? と目配せし合った。
 ぼくは玄獣珠の鼓動を胸元に感じながら、言葉を出せずにいる。思考がまとまらない。下手に強い思念をいだけば、全部洩れ出てしまいそうで怖い。ぐしゃぐしゃに疲れた精神状態のまま、議論を放棄しようとしている。
 瑠偉がテーブルの上にタブレットPCを載せた。軽く身を乗り出して、理仁くんのほうを見る。
「じゃ、おれから話していい? まず確認したいんだけど、理仁」
「ん? 何?」
「襄陽学園の理事長やってる長江って男、あんたの親父さん?」
 理仁くんが瑠偉を見て、肩をすくめて笑った。
「バレちゃってんだ? せっかく隠してたのにな~。そうだよ。あのバカがおれの親父さんだよ」
 鈴蘭さんが目を丸くした。
「バカって、どういうことですか? 理事長先生は、お若くてスタイリッシュで、お話もおもしろいし、女子の間ではけっこう人気なんですよ」
 理仁くんは少しも楽しくなそうに、声を上げて笑った。
「外ヅラはいいからね、あの人。でも、すげーバカ。襄陽学園って、何度も経営危機に陥ってんだけどさ。そのたびに何やってるか、わかる?」
 瑠偉が短く答える。
「奇跡的すぎるよな」
 昼間に理仁くんと交わした会話を思い出す。祥之助が自分の父親だったら、という例え話。
【朱獣珠に願いを掛けて、経営危機を脱出】
「うん、海ちゃんの予想で正解。でもまあ、詳しく話すことでもないでしょ?」
 きちんと聞きたい気もする。でも、話の流れに直接関与しないなら、今は聞く必要がない。瑠偉は、必要ないと判断したらしい。タブレットPCに表示したメモパッドを、指先でざっと流した。
「宝珠は数十年間、使われてなかった。少なくとも、総統がご存じの宝珠は全部、眠ってた。唯一の例外が朱獣珠だ。この十七年間で、おれにわかるだけでも六回、長江家や襄陽学園に経済的な奇跡を起こしてる」
 理仁くんが軽く両腕を広げてみせた。六回なんてもんじゃない、と無言の笑顔が告げている。
 眠っているべき朱獣珠が活動させられている。それが四獣珠すべてを呼び起こしたんだろう。そう言った瑠偉の予測は、ぼくと理仁くんの昼間の見解と同じだ。
 鈴蘭さんが眉をひそめた。
「でも、今、朱獣珠は長江先輩がきちんと管理しているでしょう? それに、問題になっているのは、文天堂さんの黄帝珠です。わたしは、四獣珠のことは母から聞いて知っていました。ただ、五番目の色を司る宝珠があるなんて、母も知らなかった」
 母が先代の青獣珠の預かり手だったんです、と鈴蘭さんは付け加えた。
 瑠偉がまた口を開いた。
「黄帝珠の出所は、たぶん、文天堂家の蔵ん中だ。あの家、けっこう古くて由緒正しいらしい。昔は奇跡のチカラを操ってたとか何とか、伝説があるしな」
「それじゃあ、瑠偉、なぜ今さらになって、そのチカラが再び表に現れたんです?」
 疑問を発したぼく越しに、瑠偉は理仁くんを見据えて言った。
「襄陽の長江理事長が、この一年間、宝珠のことを調べまくってた。派手な動きだったおかげで、あっという間に足取りがつかめたよ。三月に長江理事長が文天堂家を訪ねてる。文天堂家に宝珠があるはずだから譲ってくれ、って」
 文天堂家は「宝珠はない」と答えた。「破壊された」という記録を持ち出して、長江理事長を納得させたらしい。その記録を撮影したデジタルデータを、瑠偉は入手済みだった。地元の地方大学のライブラリに、件の古文書の写しがあったんだ。
 筆書きで、漢字とカタカナの交じったものだ。紙の材質も古めかしい。何となく、戦前のものだろうかと感じた。
 四獣ノ預カリ手、ナラビニ吾ヲ責ム。
 黄帝珠、四ツニ割レ、沈黙セリ。
 朱い墨で、重要な箇所に傍点が打たれている。そこに書かれていたのは、四獣珠と黄帝珠、四人の預かり手と文天堂家当主の対立構造だった。
 入手した記録をひととおり読んできた瑠偉が、簡潔にまとめた。
「実際のところ、記録にあるのは破壊って表現じゃない。四つに割られたって書いてあるんだ。そして、紛失や消失とは書かれてない。で、実際、文天堂家のどこかに、割れた状態の黄帝珠があったんだろう。それを祥之助が見付け出して使い始めた」
 三月に祥之助が長江理事長の訪問を受けて黄帝珠の存在を把握し、発見した。そして、黄帝珠と意志を交わして、チカラを振るい始めた。とすれば、魂《コン》の抜けた動物の出現時期と一致する。
「瑠偉、その黄帝珠って何者なんです?」
「さあ? そこまでは調べられてねぇよ」
「四獣珠と黄帝珠が対立した理由も、書かれてない?」
「ないけど、一般的に考えて、黄帝珠の預かり手が悪いことしたせいじゃねぇの? 今、おれらがこうむってる迷惑と同じことを、昔の黄帝珠の預かり手もやらかした」
 宝珠の預かり手が冒し得る禁忌。過分な願いをかけたんだろうか。それとも、邪悪な願いを?
「しかし、この短時間でこの情報量、よく調べましたね」
 瑠偉は得意そうに、鼻をひくつかせた。
「ネットの住民は噂話が好きだからな。いい具合に話題をあおってやれば、情報は集まるよ」
 総統がおもしろがるように眉を掲げた。
「ほう、ネットでこれだけのことがわかるのか」
「わかるんですよ。掲示板であおるのと、SNSやネトゲで直接絡むのと。それぞれ、使ってる世代が違うんで、調べたい情報によって使い分けるのがコツですね。友達の友達の友達までたどれば、関係者本人か近親者に行き着けます」
「すごい時代だね」
「でも、ネットで個人情報の収集って、イヤな作業ですよ。ディスったりアジったりするたびに、自分がすり減る感じがする。ネットは、自分が楽しめる範囲でゲームするために使いたいもんです」
【ゴメン、瑠偉】
 とっさに洩れた言葉に、瑠偉がキョトンとした。気まずい。申し訳なく思っても、普段は言えずにいるから。
「えっと、いや……瑠偉には、苦労ばかり掛けていて。わかってるんですよ。その……甘えて、頼りきりで、ゴメン」
 うつむいたぼくに、瑠偉と反対側から手が伸びてきた。思わずビクリとする。理仁くんがぼくの頭を撫でた。
「姉貴も言ってたけど、海ちゃんって、いい子だね」
【いい子じゃない違うひねくれてるリアさんを助けられなかった無力だったリアさんリアさんぼくは無力だっ……】
「ああぁぁっ、もう、弱音とか! そんなの言っても仕方ない! 本題に戻しましょう。黄帝珠って何なんですか、総統?」
 頬に熱が集まっている。クールなふりが全然できない。こんな状態で格好をつけても、かえって滑稽だろう。
 総統は、ぼくの問いに対して、謎かけのような答えを出した。
「四獣珠は元来、物事に備わる四つの『特徴』を司っている。最もわかりやすいのは、方位だろう。東、南、西、北が、それぞれ青、朱、白、玄。さて、その四点が同一平面上に正方形を為している。対角線を引いてみたくならないかね?」
「その正方形の対角線の交点が、黄帝珠だということですか?」
「古来、『中華』という言葉があるだろう? 中華の色は、黄土の色、すなわち黄だ。四方の四色に囲まれた中央に、黄色が規定される」
 煥くんが眉間にしわを寄せた。
「何となくだけど、あの黄色は、白獣珠より強い気がした。真ん中だからとか、帝を名乗ってるからとかじゃない。妙な人間臭さが、あれにチカラを加えてる感じがした」
 総統が、ほう、と目を見張る。
「煥くんは鋭いね。どうしてそう思うのかな?」
「直感」
「なるほどね。きわめて正確な直感だ」
「あれが後からできたんだろう? 先に四獣珠があって、チカラの交点に、あれが生まれてしまった」
「そのとおりだ。中央は、流れから取り残されて淀みやすい。そんな性質がある。そしてもう一つ、方位のほかに、四対一の組み合わせを挙げよう。人間に備わる感情を表す四字熟語は、何だ?」
 質問に、さよ子さんが挙手して答えた。
「喜怒哀楽!」
「では、もう一つ、人間の中にある強い感情を挙げるとすれば?」
「恋!」
「さよ子、少し黙っていなさい」
「恋じゃないの?」
「残念ながら、そうキラキラしたものではないよ」
 理仁くんが答えを出した。
「怨《うら》み、でしょ?」
「正解だ、理仁くん。知っていたのかい?」
「いや、それこそ直感ってやつ」
 方位にも感情にも、四獣珠が司る色がそれぞれ与えられている。
 喜は青、東方や春を示す色。
 怒は白、西方や秋を示す色。
 哀は玄、北方や冬を示す色。
 楽は朱、南方や夏を示す色。
 そして、怨は黄色だ。人とチカラの集まりやすい中央に、濃く淀んでたまる感情。
 でも、ぼくには少しわからない。
「怒りや哀しみと、怨みの違いは何ですか?」
 人は何かを怨むことなく、怒ったり哀しんだりできるのか?
 瑠偉が素早くタブレットPCをいじった。辞書を引いたらしい。
「怒や哀と怨の違いは、外に出るか内にこもるか、だ」
「じゃあ、純粋な怒りや哀しみって、難しいな。ぼくはそんなに正直じゃない。内に閉じ込めて、怨みにしてしまいますね」
 瑠偉がニヤッとした。
「海牙、おまえ、すげぇ正直だぞ。素直じゃないところはあるけど、少なくとも、怨んだり祟《たた》ったり呪ったりするキャラじゃねぇよ。おれが保証する」
 さよ子さんが大いに賛同した。
「確かに! 海牙さんって、すぐ顔や態度や言葉に出ますよね。リアさんのこと好きなのも丸わか……」
「【意味のわからないことを言わないでください!】」
 思念と肉声で同時に叫んだ。
「海ちゃん、真っ赤。やっぱ、すっげー正直」
「からかわれることに慣れていないだけです」
 総統が噴き出して、笑いがみんなに伝染した。
 ああ、もう。最悪だ。ぼくまで笑ってしまいそうになっている。
 ノッカーを叩く音がした。礼儀正しい余白の後、静かにドアが開く。
「失礼いたします。そろそろお食事をお持ちしようと思いますが」
 総統の執事の天沢《あまさわ》さんだ。白髪の老紳士で、いつもまったく隙がない。瑠偉と同じように、等級の低い宝珠の預かり手でもある。
「ああ、よろしく」
 総統にそう告げられた天沢さんは、ワゴンを押して部屋に入ってくる。
 天沢さんは、洗練された動作でテーブルをセッティングした。箸や布ナプキンを一人ずつの前に置いていく。
「ありがとうございます」
 礼儀正しく笑顔をつくった鈴蘭さんが次の瞬間、「えっ」と息を呑んだ。
 さよ子さんが、さも当然そうに鈴蘭さんに笑った。
「天沢さんの背中の翼、かわいいでしょ! あったかくて、羽根はつやつやすべすべなの。羽毛はふかふかだし。それに、一応、飛べるんだよ」
 天沢さんは生まれつき、背中に羽毛があったらしい。思春期、体の成長とともに翼も伸びて、隠せなくなった。平井家が彼を見出さなかったら、生きる道がなかったという。
 天沢さんは穏やかな微笑で、さよ子さんの言葉を訂正した。
「一応ではありません。私はきちんと飛べます」
「引退したのかと思ってた。だって、最近、抱えて飛んでくれないんだもん」
「お嬢さまがお年頃になられたからです」
 みんな唖然としている。ぼくはさすがに慣れた。これが平井家の日常だ。
 煥《あきら》くんが天沢さんの翼を気にしながら、総統に鋭い目を向けた。
「この屋敷はどうなってるんだ? あんたは能力者を集めてるのか? それに、あんた自身、能力者だよな?」
 総統が両肘をテーブルの上に突いて、両手の指を組み合わせた。軽く身を乗り出すと、組んだ両手の上にあごを載せる。
【ここはちょっとしたお化け屋敷、かもしれないね。私は、能力者そのものを集めているわけではない。私の特殊な体質のために必要なものを集めている】
 笑顔の総統の口元は動いていない。声は、音を伴わないそれだ。
「特殊な体質って、何だ?」
【チカラが強すぎて困っている】
「あんたのチカラ、テレパシーだけじゃないのか?」
 唐突に、煥くんが立ち上がった。違う。浮き上がった。
「なっ……お、おい、何だこれはっ!」
 煥くんは不可視の十字架に張り付けられた体勢で、天井まで吊り上げられている。両手のこぶしの形が硬い。歯を食いしばる表情。力を込めて抵抗している。
【なかなか力が強いね。高校生の男の子は体力があってうらやましい】
「ふざけんな! 離せよ、おい! くそ、障壁《ガード》も封じやがって!」
【このとおり、私は割と何でもできるのだよ。肉体そのものは、普通の人間だがね】
 さよ子さんが割り込んだ。
「普通の中年オヤジよりは、体、シュッとしてるよ! パパ、鍛えてるもん」
 意味が若干ズレている。
 理仁《りひと》くんが、ハッキリと青ざめた。無理やり笑ってはいるけれど、総統を見る目が怯《おび》えている。
「すっげー失礼なこと言いまくるんだけど、平井のおっちゃんも海ちゃんも大目に見てね。視界、めっちゃ気持ち悪い。おっちゃんがチカラ使ってるとき、情報量が意味わかんねえ。この数字でも文字でも記号でもないコレ、うじゃうじゃ動き回ってて、気持ち悪すぎ」
 ぼくの力学《フィジックス》は、三次元的な物理法則を読み解くチカラだ。宝珠や能力者のチカラは、その物理法則に属さない。そこにエネルギーが存在することは見えても、ぼくのチカラでは解析できない。
 理仁くんはギュッと目を閉じた。それがいいと思う。
「力学《フィジックス》で異能を直視しちゃダメですよ。解析できない情報があまりにも多くて、めまいがするでしょう?」
「めまいってか、鳥肌。背筋がぞわぞわする」
「虫が苦手なタイプですか? 脚の多い虫とか、集団になってる虫とか」
「そう、それ。めっちゃ苦手。あのぞわぞわ感と一緒だゎ」
 理仁くんはまぶたを閉じた上に、右手で目元をすっかり覆っている。額にうっすらと汗が見えた。
 さよ子さんがまた、すっとぼけたことを言い出した。
「理仁先輩の手、指が長くてキレイですね! 目元覆ってるポーズ、すっごいセクシーというか!」
 さよ子さんには黙っていてほしい。まじめな話が引っ掻き回される。
「海牙さん、今、余計なこと考えたでしょ!」
「え? 声、洩れてました?」
「顔に出てました!」
「……別に何も考えてませんが」
「わたしは決して天然じゃないです!」
【天然なんてかわいい表現、使ってない】
「ほら今! また余計なこと考えた!」
「……総統、話、続けません?」
「海牙さんが逃げた!」
 総統はぼくを見てうなずいて、口を閉ざしたまま、話題の軌道を修正した。
【宝珠は、その等級如何で、預かり手の能力の強さを決定する。四獣珠は比較的、等級が高い。陰陽を司る二極珠には劣るが、第三位と言っていいだろう。第一位が何か、誰か想像がつくかね?】
 誰か、と問いを投げ掛けられたのは、理仁くんと煥くんと鈴蘭さんだ。それ以外のぼくたちは、総統が預かる宝珠の正体を知っている。
 ヴォーカリストのしなやかな声が降ってきた。
「この地球上でいちばんデカい球体ってわけだろ? そんなの、決まってる。地球そのものじゃねぇか」
【よくわかったね、煥くん。いつも、なかなか気付いてもらえないのだよ】
 ぼくも瑠偉も、正解に至るまでに時間がかかった。だって、ぼくたちの宝珠は直径20-23mm程度だ。その先入観があるから、まさか平均直径約12,730kmの地球が宝珠の一つだとは思わない。
【大地聖珠《だいちせいしゅ》、と呼ぶのだ。私は地球という天体を預かっている。別の言い方もできる。私は、運命という大樹におけるこの一枝を預かっている】
「運命かよ? あんたは神さまなのか?」
【神ではない。私は人間として生まれ、人間の肉体を持っている。天地創造をしたわけでもないし、不老不死でもない。最近は花粉症が気になったりする、普通の人間だ】
「でも、化け物級のチカラがあるじゃねぇか。何でも知ってやがる。運命を預かるなんて、普通の人間の仕業じゃねぇよ」
【運命の一枝、だ。運命は、多数の可能性の枝を持つ大樹の姿をしている。私は運命の大樹そのものではなく、一枝のみを識《し》る者だ】
 鈴蘭さんが、そろりと手を挙げた。
「あの、平井さん、お願いがあるんですけど」
【何かな?】
「煥先輩を下ろしてあげていただけませんか? けっこう、つらそうです」
 鈴蘭さんの指摘で、みんな煥くんを見上げた。煥くんの端正な顔に汗が伝っている。ひそかに暴れ続けていたらしい。総統の拘束は筋力でどうにかなるものじゃないのに。
【じゃあ、放そうか】
 天井の高さにある煥くんの体が、ふっと支えを失う。息を呑む気配と短い悲鳴。けれど、当の煥くんは身軽に宙返りして、床に降り立った。
「危ねぇな。普通ならケガしてるぞ」
 普通じゃない身体能力の煥くんが、平然と言い放つ。天沢さんもまた平然として、総統のそばに立った。
「失礼いたします、総統。テーブルのセッティングをいたしますので、肘をどけていただけますか?」
「ああ、これはすまない」
 煥くんが自分の席に戻って、両肩を軽く回した。
「そんだけチカラが強いくせに、妙に平等なんだな。偉ぶったやつなら、こんな丸いテーブルは使わねえ。給仕の順番も、自分を最初にしたがる」
 煥くんの口調に愛想がないのは、これが彼のスタンダードなんだろう。総統に敵意をいだいているからじゃない。
「私は決して偉くないからね。ただ単に、巨大な宝珠を預かっているだけだ。チカラが強いぶん、禁忌も大きい」
「禁忌?」
「きみたちにはろくな情報提供ができない。協力もできない。私が不言不動でなくては、因果の天秤が均衡しない」
 理仁くんがようやく、手を下ろして目を開けた。
「あーもう、さっきはビビった~。で、やっとわかりましたよ。平井のおっちゃんが、全身にじゃらじゃら宝珠をくっつけてる理由」
「じゃらじゃら宝珠を、ですか?」
 鈴蘭さんが、思わずといった様子で胸元に触れた。ペンダントの青獣珠がそこにあるはずだ。
「ほんっと、じゃらじゃらだよ~。海ちゃんモードの視界だと、チカラがあるのが見えんだよね。等級が低いのから高いのまで、いろいろ。おっちゃん、それ、結界でしょ? 自分のチカラが暴発しないように、宝珠のチカラで抑えてる」
 瑠偉と天沢さんがうなずいた。二人とも、宝珠を総統に譲渡した。理仁くんの予測どおり、結界を作るためだ。
 だから、この屋敷には能力者が集まっている。総統のチカラの抑制に協力する預かり手が、宝珠を総統に譲渡する、あるいは貸与する。その見返りとして、総統から仕事を与えられている人も多い。複数の企業を経営する総統のもとでなら、異能を活かした仕事ができる。
 食事が運ばれてきた。洋風の部屋には不似合いだけど、和食だ。野菜や煮物を中心とした、高級料亭の弁当風。
 鈴蘭さんが目を輝かせた一方で、煥くんが不満そうな顔をした。気持ちはわかる。これだけじゃエネルギーが足りない。
 そのあたりは、もちろんフォローがあった。鶏の唐揚げとキャベツのサラダが大皿でやって来た。おかわり用の雑穀米のおひつも一緒だ。
 いただきますと手を合わせてから、またにぎやかになった。
「煥先輩、唐揚げ、取り分けますね」
「あー、鈴蘭、ずるい!」
「……自分でやる」
「おーい、おれにも回して」
「あ、瑠偉くん、取り分けるね♪」
「くん付けかよ。おれのが年上だってば」
 理仁くんが静かだ。隣にいると、ポーズだけの笑顔に隠してため息をつくのが聞こえてしまった。
「大丈夫ですか?」
 理仁くんは箸を持ったまま、弁当に目を落としていた。
「数字がうじゃうじゃすぎて食欲が失せるっていうか。米が何粒あるのか、表示されるんだね~。表面に見えてるぶんと、全体の推定の数。目ぇ凝らしたら、温度まで見えた」
 そう、食卓上の光景は、ぼく本来の視界とって、かなり疲れるものだ。粒や繊維の形状をした食べ物には、その個数が表示される。温度や体積も、見ようとすれば見える。
「茶碗だったら、持ったときに重さも見えますよ」
「だよね。昼飯でサンドウィッチの重さが表示されてビビった」
「小麦粉の粒子が見えないぶん、パンがマシでしょう? 素材の形がなくなっている食べ物のほうが、疲れないから好きです。固形のバランス栄養食とチョコレートでカロリー補給することも多いですよ」
「海ちゃんって、ガンガンの理系じゃん?」
「リヒちゃんは、文系ですか?」
 ふざけた呼び方を、思い切ってまねしてみた。一瞬、理仁くんが目を見張って、それから笑った。本物の笑顔だった。
「おれは文系。おれのチカラ、言葉に直結してるから、日本語にせよ外国語にせよ、言語系だけは飲み込みがえらく速いんだよね。一方でさ、努力してないから、数字はほんと苦手」
「じゃあ、今の視界、鬱陶しくてしょうがないでしょう?」
「しんどい。理系の海ちゃんでも、この米粒の数字、疲れんだよね?」
「疲れますね」
「おれ、泣きそうだよ。食べ物がこんなにストレスフルな存在になるとはね~」
 さよ子さんが勢いよく立ち上がった。
「理仁先輩、困ってるんですね? ってことは、わたし、ほっとけないです! 目をつぶって、あーんしてください。わたしが食べさせてあげますっ」
 朱い目を見張った理仁くんは、ポロッと箸を落とした。
「あ~、気持ちは嬉しいんだけど、そういうのをパパの前でやるのはどーかなーって思うんだよね」
 にぎやかで、なごやかな夕食だった。何のためにここに集まっているのか、しばし忘れそうなほどに。
 会話の輪に加わる理仁くんが、ふっと黙り込むことがある。表情を消して、目を閉じて、息をついて、かぶりを振って、うなずいて、自分の中で何かに納得して、また目を開ける。会話に加わって、一言ごとにおどけてみせる。
 強い人だ。
 ぼくでさえ、リアさんのことが心配でならない。あせりが胸を圧迫するから、じっとしているのが苦しい。リアさんの弟である理仁くんが平気なはずはない。
 でも、総統が、動くべき時だと告げない。この一枝に起こる出来事をすべて把握できるのに、ぼくたちをここに留め置いている。それはつまり、まだ時が満ちていないから。
【不安かね、海牙くん?】
 総統の声に、ハッと顔を上げる。ほかの誰も反応していない。ぼくだけに聞こえる声だ。
 理仁くんなら、同じように思念の声をコントロールして、ほかの誰にも聞かれることなく応答できるんだろう。ぼくにはそのやり方がわからない。
 ぼくは、小さく一つ、うなずいた。
【今のところ、彼女の命に別状はない。肉体を損ねたりけがされたりもしていない。ただし、この先はきみたち次第だ】
 運命の一枝が分岐するポイントでは、総統にも明確な未来が見えない。一枝はブラックボックスの中で生長する。評価値を満たす生長をおこなうなら、未来は続いていく。おこなえないなら、一枝ごと淘汰される。
 彼女を無事に救出できるのか。ぼくと理仁くんの能力はもとに戻るのか。そもそも、ぼくたちは生存できるのか。
 不確かな未来へと、とにかく進んでみるしかない。
 食事を終えた。紅茶とコーヒーが運ばれてきた。せっかくだからデザートも、と、さよ子さんが騒ぐ。
 熱すぎる紅茶にミルクと砂糖を入れて、冷めるのを待っていた。スプーンで掻き混ぜてできた渦を見ながら、渦って何だろうと考える。螺旋《らせん》状の流線。渦度の定義も、それを求める式もあるのに、渦そのものが何かをハッキリと定義した本には出会ったことがない。
 好きな渦は、銀河の形だ。渦巻銀河は、横から見るのも上から見るのも、かわいい形をしていると思う。銀河の中心にあるブラックホールも、いつかどうにかして自分の目で見てみたい。
 けれど、それを見るための目が、今のぼくには。
 思索の迷路に踏み込みかけた、そのときだった。
 ポケットでスマホが振動した。何となくピンと来て、慌ててチェックする。
【リアさん!】
 メッセージの内容を確認するより先に叫んでしまった。けっこう大きな声だったから、全員の注目が集まった。
「あ、いや、あの、リアさんのIDからメッセージが……」
「海牙、おまえ、すげー嬉しそうな顔したぞ」
「それは、だって、当然でしょう? ようやく新しい情報を得て、これから動けるじゃないですか」
「何でおれんとこじゃなくて海ちゃんに?」
 理仁くんが冗談っぽく言った。瑠偉が冷静に、非情な事実を突き付けた。
「彼女本人が送信者じゃないからだろ。文天堂がいちばん嫌がらせしたい相手は、たぶん、海牙だ」
 スマホのロックを外して、メッセージを確認する。瑠偉は正しかった。
〈人質の命は無事だ〉
〈眠らせてある〉
〈様子を知りたければこちらへ来い〉
〈TOPAZに今夜〇時〉
〈必ず四獣珠を持参しろ〉
 ぼくがトークアプリを開いているのを確認した上でメッセージを送っているらしい。次々と短文が投げ付けられてくる。ぼくはそれを読み上げる。みんな、しんとして聞いている。
 唐突に、一枚の写真がトークルームに上げられた。
〈よく撮れているだろう?〉
【リアさんリアさん赤いドレスだ目を閉じている眠っている昨日と違う服だ印象が違う化粧が違うのか髪型が違う眠っているリアさんリアさん赤いドレスを着ている助けに行かないと危険だ危険だ祥之助許せないリアさんに触れた許せない助けに行……】
「…………っ!」
 写真のインパクトが強い。口で説明できない。ぼくは、画面を開いたスマホをテーブルに投げ置いた。
 理仁くんが無言で、テーブルをこぶしで打った。
 ひどくキレイな写真だった。
 赤いドレスをまとったリアさんが、目を閉じて横たわっている。膨らみの形もあらわな、広く開いた胸元。赤いバラがあちこちに散らしてある。棺《ひつぎ》の中で花とともに眠っているようだ、と感じてしまった。
 総統が静かに言った。
「車を用意してある。時間になったら、行ってくるといい。心を強く持って、くれぐれも気を付けて」
 さよ子さんが、鈴蘭さんにギュッと抱き付いた。
「預かり手じゃなきゃ、行けないんだよね。鈴蘭、絶対に無事で帰ってきてよね? 昨日も、ほんとにすごく、心配だったんだからね?」
 瑠偉がぼくにUSBメモリを差し出した。
「持っといてくれ。USBメモリのふりした別物なんだ。おれのPC宛てに、位置情報が送信される。確実に何かの役に立つわけじゃないけど、待機してるだけのおれらにしてみたら、何でもいいから情報がほしいんだ」
 ぼくは情報発信装置をポケットに入れた。心配されていることも、情報が不安を和らげることも、痛いくらいよくわかった。