突然。
「おい、兄貴」
 その声は、空気をまっすぐ貫いた。
 大声ではなくて、むしろ、ささやきに近い。けれど、ピシリとよく通る声だった。
 声の主は数歩先にいた。その姿に、わたしは思わず息を呑む。
 銀色の髪、金色の瞳。両耳にはリングのピアス。長めの前髪に隠れがちの、不機嫌そうな無表情。切れ長な目、スッとした鼻筋、薄い唇は、作り物みたいに整っている。
 着崩した制服の、見るからに不良だ。
 不良っぽい銀髪の人がわたしを見た。金色の目には温度が感じられない。この人が、文徳先輩の弟? 確かに顔立ちはよく似ている。背は、文徳先輩のほうが高い。
 銀髪の人はクルッと背を向けた。
「兄貴、遅い。先に行くぞ」
 低い声なのに、響く。クリスタルの結晶みたいな声だと、なんとなく感じた。男の人の声を透明だと感じたのは初めてだ。透き通って、尖っていて、冷たい。そして、とてもキレイだ。
 文徳先輩が肩をすくめた。
「あいつがおれの弟の煥《あきら》。普通科の二年だよ。愛想がなくて、悪いな。おれのバンドのヴォーカルなんだけど。歌うとき以外はずっとあの調子なんだ」
「歌う人なんですね。声、印象的ですもんね」
「あ、わかる? あいつの声、いいだろ? 兄弟なのに、声は全然違う。あいつだけ、ほんとに特別な声してるよ。おれ、あいつの声が好きでさ。よかったら、聴きに来てほしいな」
「機会があったら、ぜひ。文徳先輩がギターを弾くところも見たいです」
「ありがとう。まあ、そのうちね。じゃあ、おれ、煥を追い掛けるから」
 チラッと手を振った文徳先輩が、軽快に駆け出した。
 文徳先輩が煥先輩に追い付いた。あ、やっぱり文徳先輩のほうが背が高い。二人とも脚が長いな。
 笑いながら煥先輩に話しかける文徳先輩の横顔は、生き生きとして楽しそうだ。生徒会長としての堂々とした姿もカッコいいけれど、あんなふうに普通に楽しんでる姿もいい。何もかもがカッコいい。
 朝から幸せな気分だ。体がふわふわする。
「お嬢、よかったじゃん! 名前、覚えてもらってんだね!」
 いつの間にか、寧々ちゃんが隣にいた。
 尾張くんは、いつになく目を輝かせている。
「煥先輩、カッケェよな。すげぇ強いんだぜ。強すぎて、銀髪の悪魔って呼ばれてんの」
「銀髪の悪魔? 強いって、ケンカのこと?」
「当然。それに、バイク乗っても速いって噂だ。すげぇよな」
 男子の「すごい」の基準はよくわからない。ケンカが強いことって、ステータスなの?
「暴力は好きじゃないな」
 思わず本音をこぼした。
 博愛主義者を名乗るつもりはないけれど、暴力で相手を屈服させるのは道徳に反する。いじめと同じだと思う。そういうのは嫌い。
 尾張くんがオレンジ色の髪を掻いた。
「あー、そうだったな。うん、変な話して、悪ぃ」
 オレンジ色をした尾張くんの髪は、校則で認められている。去年から、襄陽学園では髪の色が自由だ。文徳先輩が生徒会を率いて先生方に掛け合って、髪の色を含むいくつかの規制を撤廃したんだって。
 わたしは髪を染めることには興味がないけれど、文徳先輩が掲げる「自立」というモットーは素晴らしいと思う。自立こそ、わたしの目標だ。
「頑張らなきゃ」
 文徳先輩に振り向いてもらいたい。今はまだ、たくさんのファンの中の一人。だけど、いつか特別な一人になりたい。
「お嬢、ほら、突っ立ってないで。ボーッとしてたら遅刻するよ」
「あ、うん」
「あーぁ。ついにお嬢にも好きな人ができちゃったか。あたし一筋だと思ってたんだけどなー」
 寧々ちゃんがいじけたふりをする。わたしは寧々ちゃんの腕に自分の腕を絡めた。
「そんなこと言って、寧々ちゃんだって尾張くんがいるでしょ?」
「タカより断然、お嬢が好き!」
 寧々ちゃんが高らかに宣言する。尾張くんが思いっきり顔をしかめた。
「おまえら、いい加減なこと言ってんじゃねぇよ!」
 生徒玄関で寧々ちゃんたちと別れた。靴箱のところでクラスメイトと一緒になったから、数学の宿題のことを話しながら教室へ向かう。
「おはよう」
「あ、おはよ」
 気楽な挨拶が飛び交う。
「安豊寺さん、さっき、文徳先輩と話してなかった?」
「話してたよ」
「ずるいー!」
「えへへ、ずるいでしょ?」
 襄陽学園の進学科にしてよかった。価値観が似ている人が多い気がする。似てなくても敵じゃなくて、違う価値観に対して大らかだ。自分に自信があるから、ブレないのかな。
 中学時代はこうじゃなかった。わたしのことを嫌いな人は最後まで嫌っていて、寧々ちゃんの目を盗んでの嫌がらせが絶えなかった。
「数学の課題、解けた?」
「一つわからなかったよ」
「だよねー。高校の数学、ヤバすぎるって」
「ヤバすぎるね。進学科だもんね」
 恥ずかしながら、わたしは数学が苦手で、授業開始から一週間にして、もうふぅふぅ言っている。
 頑張らなきゃね。文徳先輩みたいに。