病院から帰ってすぐ、私は母に言われたとおり箪笥から浴衣を出した。ベランダのサッシを開け、カーテンレールにハンガーに掛けた浴衣をつるす。
 このところ晴れの日が続いていたので、外からからりと乾いた爽やかな風が入ってくる。私はソファに腰掛け、随分長い時間、風に煽られ時折ひらりと舞う浴衣を見つめていた。
 浴衣の向こうに、病室の母の顔が浮かび、心が塞ぐ。
母もあんなに喜んだ結婚を、相手に否があるとはいえダメにした。かといって母が元気にしている間に花嫁姿なんて到底見せられそうにない。
たぶん母は、自分の病気のせいで私が今の会社で仕事を続けなくてはならなかったことを私よりも気にしている。そして心の中では、安心して娘である私を託すことのできる誰かを、ずっと待ち望んでいるはずだ。
 私が選んだ過去は、本当に正しかったのだろうか? あの時、自分を曲げてでも鳴沢さんを受け入れるべきだったの?
本当は私だって、母の望みを叶えてあげたかった。
愛する人と結ばれて幸せな自分を見せてあげたかった。
母のことになると私は、どうしようもないくらい心が揺らぐ。滲んできた涙を指で拭ったその時だった。
控えめに玄関のドアを叩く音がする。立ち上がりドアフォンの画面を確認すると、ドアの向こう側に仏頂面で佇む上村がいた。
ため息を吐き、ドアを開ける。
「……なあに、突然」
「飯食いに来ました」
「また?」
 顔をしかめる私を無視して、上村はずかずかと部屋に上がり込んでくる。
「はい、おみやげ」
 そう言ってスーパーの袋を私に押し付けた。
「なによ、またグレープフルーツ?」
「案外うまいんだなと思って」
「ふうん。まあ、ありがとう」
 前回、うちの部屋で食べてみて、そんなに気に入ったのだろうか。
ガサゴソと袋から取り出し、とりあえず冷蔵庫にしまうと同時に、冷蔵庫の中味をチェックする。
……上村の胃袋を満たすことができるようなもの、入ってたかな。
「飯って言ったって、まだ私なんの準備もしてないわよ」
「これから作るんだ? じゃあ俺、食べたいものリクエストできますよね?」
「はあ、あんた何様!?」
 私の言葉に、上村はぶはっ! と盛大に吹き出した。
「やっぱ先輩おもしれえ」
 私の何がそんなに面白いのかわからないけれど、二人でいるとき、上村はよく笑う。
まあ、会社で見せる澄ました作り笑いよりはよっぽどいいんだけど。