「わたしね、あなたの赤ちゃんの頃を知らないからね。背も伸びて、段々と女性になっていくから、ああ、もうちょっと少女の乃里ちゃんを見ていてかったなって思っていた」
 里司と繋いでいた手。開いているほうの手を、佐和子は取った。温かくて柔らかい。
「昨日はね、こんな風にまるで小さな子供みたいなところもあるの。まだ、あってよかった。見つけたわ。嬉しいなって思っちゃった」
 馬鹿じゃないの。つい悪態をつきそうになる。けれど、そんな憎まれ口をきく必要はない。
「佐和子さん、変わってるよね」
「そうかもね。普通は怒ったりすればいいのかしら。別に乃里ちゃんのこと腹立たしくなんて思ってない。だからね、乃里ちゃんが自分を責めることないからね」
 思えばこんな風に話をしたことがない。正面から、佐和子の顔を見たことがなかったかもしれない。
 死んだ母の顔と似ていない。けれど、彼女が毎日作ってくれる料理で乃里は大きくなったのだ。
「初めて会ったときね。覚えてるよ。母恋しくて、わたしの手をぎゅっとにぎったの。乃里ちゃん」
 佐和子は乃里の手を自分の胸に当てた。愛おしそうに、切ない目をして。
「ああ、この子を一生守っていこうと思ったの」
 あんたの子供じゃないとか、言ってごめんなさい。思って、ごめんなさい。
 家に帰りたくないとか、迎えを頼んでないとか、ごめんなさい。
 謝罪の言葉がたくさん体に詰まっているのに、口から出てこない。パンパンになった心を、どうしたらいいのかわからない。
「あり、がと」
 いろんな思いを込めて、佐和子の手をぎゅっと握った。
 この人は、温かい。
 佐和子がにっこりと笑った。
「大きくなったね、乃里ちゃん」
「佐和子さんの、おかげ。ありがと、ございます」
 乃里はぎゅっと目を閉じた。どんな顔をすればいいのか、わからないから。情けないしずるいけれど。精一杯。
「やだ、そんなー泣いちゃうじゃないのよ」
「えーママ、なんで泣くの! お熱あるの?」
「ないない、違うの、嬉しいの。乃里ちゃんが好きで泣いちゃった。あはは」
「僕も好きだから泣く!」
「泣かなくていい!」
 三人できゃあきゃあ笑っていると、佐和子がはたと視線を止める。
「ねぇ、乃里ちゃん。綺麗な猫がいるわ」
 視線の先を追いかけると、しろがねの玄関前に、白猫と銀色猫がちょこんと座って、こっちを見ていた。

 白と銀色の兄弟が目を細めてこっちを見ている。
 明日も会うし、報告をしよう。そしてここでの仕事をがんばろう。
「里司、帰ろうか! お姉ちゃん腹ペコなんだよ」
「うん! あのね、朝ごはんはねー」
 里司が今朝のメニューを教えてくれた。昨日佐和子が言っていたプリンもあるはず。
 食べるのが楽しみだ。
 空腹を抱えて家に帰れば、佐和子の料理が待っている。

 わたしは、こんなに幸せだったのだ。
 里司を挟んで、三人で車に戻る。里司を先に乗せると、乃里は佐和子を呼び止める。
「佐和子さんがキッチンに立つ後ろ姿、ね」
 胸に詰まったたくさんの言葉を、ひとつずつ、明日の自分のために使うんだ。きっと、みんなが。
 不器用でうまくできなくても、泣いても、間違えても。いいんだよって笑ってくれるひとがいるんだ。
「お母さんと、そっくりなんだ」
 みんなが、自分のために。