「いいのですよ、乃里さん。ときにタキさん、おひとりなのですか?」
自分が一番だから心が無限大に広いのだろうか。それとも元々の性格か。萩は優しく微笑みながらタキに問う。
「ううん。ひとりじゃない」
「おおかた、山で遊んでて迷子になったんだろ」
牡丹が鼻で笑うとタキは不機嫌そうに口を尖らせる。なんとなく、牡丹とタキは気が合わなそうだ。
「迷子っていうな。迷子なんてクソバカのやることだ。はぐれたんだよ。俺は迷ってねぇ」
「口が悪いな……」
本当だ。これはたしかに厄介な子供を引き込んでしまった気がする。
「はぐれたとは、誰と? ひとりじゃなかったのですか」
ということは、群れにでもいたのだろうか。
タキはかきこんだ玉子かけご飯を咀嚼し、乃里が煎れた茶で流し込むと、ひとつげっぷをした。行儀が悪い。
「父ちゃんだ」
えっへん、といった感じでタキが言う。
「父ちゃんですか。先程も言っていましたね。ということはお父様と一緒だったのにはぐれてしまったと」
そうだよ。タキは付け合わせの沢庵をかじった。
「ねぇ、萩さん。ということは、大人の狼男ってことですか?」
「そうですね。これが子供ですから」
「うへぇ……」
乃里は、タキを大きくして想像してみた。めちゃくちゃ怖いのではないだろうか。
「おい、乃里! 誇り高き狼男にうへぇとはなんだよ!」
「あう、ごめん」
美しく崇高な猫と、誇り高き狼男の間に挟まる人間の乃里は小さく溜息をついた。
タキが言うには、狩りをしていたら父親とはぐれてしまったということだった。そして、怖くて不安になり、闇雲に走りまわっていたら日が暮れた。適当な場所を見つけて眠り、沢の水を飲んだ。それを何度か繰り返しているらしい。ということは数日経過しているということだ。
それは空腹どころの話ではない。たしかに人間ならば死んでいる。
「父さんは大きくて強くてかっこいい。俺は父さんみたいになりたい」
自分が迷子に、いや父とはぐれてこのような状況に陥っているというのに、タキは父を称賛することばかりをいう。
「タキさんは、お父様が大好きなのですね」
「そうだよ。強くて大好きだ。俺を育ててくれている男だもん、強いよ」
育ててくれている。ということは、母親も一緒なのではないだろか。
「お前、母親は?」
牡丹はタキに聞く。「いない」と答えが返ってきた。
「俺のこと産み落として死んでいたらしいよ。で、俺がびーびー泣いていたら、父さんが自分の住処に連れて帰ってくれたんだ」
母親は死んでいるとは、自分と同じではないか。乃里は胸がチクリと痛んだ。
「父さんがいなかったら俺は死んでいたし、他の獣の餌になっていただろうな」
「タキのお父さん、本当の父親じゃないの?」
「ああ。でも、父さんが俺の父さんだ。たったひとりの」
一心に求めて、素直に真っすぐに、育ての父がたったひとりの親だと言い切るタキ。
自分には眩しくて、タキの純粋さが痛い。
もちろん、狼男と人間は違う。違うけれど、子はひとりで大きくなれない。
「本当のお父さんじゃないのに、会いたいの?」
「乃里、変なこと言うな。乃里にも親いるんだろ?」
「い、いるけど」
本当の母親じゃないんだよ、思わず口に出しそうになった。タキは本当の父親じゃないのに大好きだと笑う。そんな彼にいまの乃里の気持ちを言う必要はない。
どうしてわたしは、こんな風に笑えないのだろう。
「なぁ、父さん探すのを手伝ってくれよ」
それがひとにものを頼むときの態度なのかと思った乃里は、タキの頭を撫でた。撫でたら、気持ちよさそうに目を細めるタキ。
「仕方ないなぁ」
牡丹は立ち上がり、着物の帯をぽんと叩く。
「とりあえず、俺たちは仕事があるから、今日はここに泊ればいい。明日、手伝ってやるよ」
そんな簡単に言うか。乃里も立ち上がって、部屋を出て行く牡丹のあとを追う。そういえば煮物が途中だったのだ。
「昆布……そうだ、いや、それよりも、タキを手伝うって、山に行くんですか?」
「山ではぐれたなら山だろうね。どこではぐれたとか、そのあたりは聞いてみないとわからないから、確認しないと」
厨房へ戻ると、牡丹は鍋の前にいく。合わせ出汁の入った寸胴の蓋をあけて、お玉で煮物に出汁を流し入れた。
「山って、じゃあ紅首のときみたいに? また気まぐれにお休みにするんですか」
「人聞きの悪い。シズさんにお任せするの」
やっぱりか。しろがねの営業形態は兄弟の気まぐれで変化する。兄弟が出かけるならばシズさんが店を見る。
「もう、ここシズさんがいないと営業ままならないんじゃないですかぁ」
自分で分かるほど情けない声が出てしまった。牡丹は表情を変化させず飄々としているのだが。