身支度を終えて、家を出る。
いつものようにしろがねへ向かう道すがら、段々と自分から家の気配が薄れて、裏腹にリビングの父と里司と佐和子が並んだ姿が色濃く心に広がった。
「おはようございます!」
しろがねに到着すると急いで割烹着を着けて帳場へ。すると真っ白な猫が丸くなっていた。
「……寝てるのかな」
乃里は白猫に顔を近づけて様子をうかがう。すると、白猫は片方の目を薄っすら開けて乃里を見た。乃里は人差し指をそっと白猫の頭へ持っていき、そっと撫でた。頭をもたげた白猫は、乃里の指を気持ちよさそうに受けている。
「萩さぁん。寝不足なんですか?」
白猫は口だけ開けるサイレントにゃあといわれる仕草をした。信頼する相手にしか出さないらしい。
「ここじゃなくてお布団に行ったらどうです?」
なんなら抱き上げて運んでしまおうか。
でも萩は、抱かれるのが嫌い。牡丹と真逆である。牡丹は自ら膝に乗ってくる。
この白猫は萩である。
姿が見えないと思うと、大体こうして帳場や重ねてある座布団の上、廊下の日当たりがいい場所で眠っている。行儀よく揃えた前足の上に顔を乗せている。
「夜行性なのは普通の猫でも猫又でも同じなんですね」
そうですよ、とでも言いたそうにまた片目だけ開けて、再び丸まった体に顔をうずめた。
帳場の萩をそのままにして、乃里は厨房へ向かった。しろがねに到着してから既に出汁のいい香りがしていたので、牡丹が仕込みをしているのだろう。案の定、厨房には包丁を持つ牡丹がいた。今日は鶯色の着物だ。銀髪の牡丹にとてもよく似合う。
「おはようございます。牡丹さん」
「あ、おはよー。ねぇ、萩を見なかった?」
「帳場で丸くなっていましたよ。昨夜は遅かったみたいで」
「そうなの? まぁいいか。寝せてあげてよ。お客様が見えたら起きるだろうから」
「撫でちゃいました。可愛かったです」
ふふ、と笑うと牡丹は「そりゃよかった」と再び包丁を動かした。
猫の姿のときはふたりのことを撫でくりまわすことができる。乃里はここぞとばかりに触るのだった。
イケメン大好きな梓のことをミーハーだと言えない。
人間の姿をしているときは触ったりできない。ただ猫に触れたいだけではない感情があって、乃里はひとりで笑ってしまう。
「……ああ、ちょっと乃里ちゃん、ここ見ていてくれるかな」
「どうしました?」
まだ火の入らない鍋を覗くと、大根や蓮根の根菜が入っている。
「昆布が切れたから、倉庫に行ってくる」
「あ、じゃあわたしが取ってきます」
「そう、じゃあお願いしようかな。結び昆布を作るから」
乃里は厨房から外に出た。出てすぐ隣にまたドアがあり、倉庫と呼んでいる収納スペースがあるのだ。
厨房を出ると、しろがねの裏側になる。客を通さない場所なので、洗濯物が干してあったり、兄弟が世話をする畑があったりする。裏側といっても、乱雑な感じではなく、よく手入れされていて小さな花壇には花が咲いていた。
畑の向こうは山で、道が続いているらしく、山菜取りに行ったりするらしい。
自分も山菜取りに行きたい。
未経験だし、山菜料理を学ぶことができる。天ぷらにおひたし、炊き込みご飯など。
里司、苦みのある山菜は苦手かな。
苦い野菜は苦手な里司のことを考えながら、苦みのある山菜はビールに合うと言っていた父を思い出して、乃里は苦笑した。
親子だから味覚もきっと似てくるはず。いまが苦手だったとしても。
ガタン。
なにかが倒れる音がして、乃里は振り返った。誰かいるのだろうか。
「牡丹さん?」
それとも萩が戻ってきたのだろうか。見回すと、ゴミ箱が倒れて野菜くずが散らばっているのが目に入った。これがいまの音か。
「……て、え?」
倒れたゴミ箱の近くに、小さな男の子が倒れている。Tシャツから出る腕にはあちこち擦り傷が。乃里は血の気が引くのを感じながらも、男の子に駆け寄った。
「しっかりして! 牡丹さん、ぼたんさぁん!」
硬そうな黒髪はツンツンと立ち上がり、あちこちに葉っぱが付いてる。取ってやりながら「ねぇ、ちょっと!」と声をかけた。
里司よりも少し大きいくらいだろうか。小学校低学年か。
「どうしたの、乃里ちゃん?」
牡丹が厨房のドアから出てきた。
「大変です、怪我人が……て、牡丹さん!」
牡丹は、歩いてきながら猫の姿になったので乃里は息を飲む。牡丹は毛を逆立て威嚇し始めた。
「だ、牡丹さん、どう、どうし……」
「乃里ちゃん、手を離して。こいつ、人間じゃないから」
シャーという威嚇の声を、体全部から出している牡丹。
「だって、怪我をしています!」
「いいから、きみが手を汚す必要はないよ」
「だ、だって、このままじゃこの子」
腕の傷から流血をしている。手当てをしなければだめだと思う。
いつものようにしろがねへ向かう道すがら、段々と自分から家の気配が薄れて、裏腹にリビングの父と里司と佐和子が並んだ姿が色濃く心に広がった。
「おはようございます!」
しろがねに到着すると急いで割烹着を着けて帳場へ。すると真っ白な猫が丸くなっていた。
「……寝てるのかな」
乃里は白猫に顔を近づけて様子をうかがう。すると、白猫は片方の目を薄っすら開けて乃里を見た。乃里は人差し指をそっと白猫の頭へ持っていき、そっと撫でた。頭をもたげた白猫は、乃里の指を気持ちよさそうに受けている。
「萩さぁん。寝不足なんですか?」
白猫は口だけ開けるサイレントにゃあといわれる仕草をした。信頼する相手にしか出さないらしい。
「ここじゃなくてお布団に行ったらどうです?」
なんなら抱き上げて運んでしまおうか。
でも萩は、抱かれるのが嫌い。牡丹と真逆である。牡丹は自ら膝に乗ってくる。
この白猫は萩である。
姿が見えないと思うと、大体こうして帳場や重ねてある座布団の上、廊下の日当たりがいい場所で眠っている。行儀よく揃えた前足の上に顔を乗せている。
「夜行性なのは普通の猫でも猫又でも同じなんですね」
そうですよ、とでも言いたそうにまた片目だけ開けて、再び丸まった体に顔をうずめた。
帳場の萩をそのままにして、乃里は厨房へ向かった。しろがねに到着してから既に出汁のいい香りがしていたので、牡丹が仕込みをしているのだろう。案の定、厨房には包丁を持つ牡丹がいた。今日は鶯色の着物だ。銀髪の牡丹にとてもよく似合う。
「おはようございます。牡丹さん」
「あ、おはよー。ねぇ、萩を見なかった?」
「帳場で丸くなっていましたよ。昨夜は遅かったみたいで」
「そうなの? まぁいいか。寝せてあげてよ。お客様が見えたら起きるだろうから」
「撫でちゃいました。可愛かったです」
ふふ、と笑うと牡丹は「そりゃよかった」と再び包丁を動かした。
猫の姿のときはふたりのことを撫でくりまわすことができる。乃里はここぞとばかりに触るのだった。
イケメン大好きな梓のことをミーハーだと言えない。
人間の姿をしているときは触ったりできない。ただ猫に触れたいだけではない感情があって、乃里はひとりで笑ってしまう。
「……ああ、ちょっと乃里ちゃん、ここ見ていてくれるかな」
「どうしました?」
まだ火の入らない鍋を覗くと、大根や蓮根の根菜が入っている。
「昆布が切れたから、倉庫に行ってくる」
「あ、じゃあわたしが取ってきます」
「そう、じゃあお願いしようかな。結び昆布を作るから」
乃里は厨房から外に出た。出てすぐ隣にまたドアがあり、倉庫と呼んでいる収納スペースがあるのだ。
厨房を出ると、しろがねの裏側になる。客を通さない場所なので、洗濯物が干してあったり、兄弟が世話をする畑があったりする。裏側といっても、乱雑な感じではなく、よく手入れされていて小さな花壇には花が咲いていた。
畑の向こうは山で、道が続いているらしく、山菜取りに行ったりするらしい。
自分も山菜取りに行きたい。
未経験だし、山菜料理を学ぶことができる。天ぷらにおひたし、炊き込みご飯など。
里司、苦みのある山菜は苦手かな。
苦い野菜は苦手な里司のことを考えながら、苦みのある山菜はビールに合うと言っていた父を思い出して、乃里は苦笑した。
親子だから味覚もきっと似てくるはず。いまが苦手だったとしても。
ガタン。
なにかが倒れる音がして、乃里は振り返った。誰かいるのだろうか。
「牡丹さん?」
それとも萩が戻ってきたのだろうか。見回すと、ゴミ箱が倒れて野菜くずが散らばっているのが目に入った。これがいまの音か。
「……て、え?」
倒れたゴミ箱の近くに、小さな男の子が倒れている。Tシャツから出る腕にはあちこち擦り傷が。乃里は血の気が引くのを感じながらも、男の子に駆け寄った。
「しっかりして! 牡丹さん、ぼたんさぁん!」
硬そうな黒髪はツンツンと立ち上がり、あちこちに葉っぱが付いてる。取ってやりながら「ねぇ、ちょっと!」と声をかけた。
里司よりも少し大きいくらいだろうか。小学校低学年か。
「どうしたの、乃里ちゃん?」
牡丹が厨房のドアから出てきた。
「大変です、怪我人が……て、牡丹さん!」
牡丹は、歩いてきながら猫の姿になったので乃里は息を飲む。牡丹は毛を逆立て威嚇し始めた。
「だ、牡丹さん、どう、どうし……」
「乃里ちゃん、手を離して。こいつ、人間じゃないから」
シャーという威嚇の声を、体全部から出している牡丹。
「だって、怪我をしています!」
「いいから、きみが手を汚す必要はないよ」
「だ、だって、このままじゃこの子」
腕の傷から流血をしている。手当てをしなければだめだと思う。