「皆が、カワオヌ様に感謝してるよ。長閑でいい村で、作物もたくさん採れたし。今日もこんなに美味しいものが食べられた」
 感謝の言葉は、大きいことにも小さいことにも乗せる。こんな気質の村の人たちがいるのも、紅首村をずっと守ってきたカワオヌのおかげなのかもしれない。
「カワオヌ様も、お祭り楽しんでいると思います」
「だといいな」
「……吉野さん。もし、カワオヌ様が村の皆さんにお礼がしたいといっていたら、なにをしてもらいたいですか?」
 なんとなく、聞いてみたくなった。
 カワオヌがしろがねに来て、浴場で「村の人たちにお礼がしたい」と言ったことが始まりなのだから。
 カワオヌのお礼が、村の人の感謝が、このお祭り。
 吉野は目を細めた。
「おらたちはここを去る。カワオヌ様からはなにもいらないよ。いままでたくさんもらってきた。あとは、おらたちがいなくなったこの景色を、守ってくださいって」
 景色を守る。いままで村を見守ってきたように、ここをずっと守る。紅首村がなくなっても、変わりゆく景色の中で、カワオヌは生きる。
「もとはといえば、ここはなにもなかった。カワオヌ様がいたところに、戦から逃れてきた人たちが住み着いて、村になった。勝手に入ってきたのは人間たちなのに、水害から救ってくれたり、畑を耕すのを手伝ってくれたり。そんな鬼がこの村には、いるんだ」
「カワオヌ様、ずっとここにいますかね」
「いてほしいな。おらたちの息子や孫が、懐かしくて来るかもしれねぇ。カワオヌ様を目指して。ここはこのままだから。長くて高い階段が嫌われるけれど、こうして高くして置いてよかったっていうもんだよ」
 はははと笑う吉野。乃里も微笑んだとき、びょうと風が吹き抜けた。
「突風かしら」
 ブルーシートやゴミが飛ばないか心配になったので、乃里はあたりを見回す。
「ああ、ほら、聞こえるだろ」
「なに、ですか?」
 吉野は耳を澄ませるよう、「ほら」と目を閉じる。びょう、びょうと二度、風が境内を吹き抜け階段のほうへ。乃里の髪の毛も乱れた。
「カワオヌ様の、村を守る声だよ」
 びょう、びょう。鳴き声か、遠吠えか。階段をおりていく風は村をめぐって山に帰ってくるようだった。カワオヌの声が山に響く
 すぐそこにいるのに。見守っているカワオヌは、姿を隠して近くにずっといる。
「カワオヌ様は……」
 乃里は、吉野を振り返る。瞬きをすると、テーブルの向こうにいる萩と牡丹と目が合った。
「萩さん、牡丹さん……」
 萩と牡丹しか、いなかった。
「え。ど、どう、し……」
 村の人たちが、弁当を食べ、美味しいと口々に言って、笑顔が溢れていた。カワオヌ神社収穫祭は盛り上がっていた。
「はず、だけど」
 振り返ると、境内には誰もいなかった。
 萩と牡丹だけが、立っている。
「やっぱりな。こういうことだった」
「ここにいるのは僕たちだけ、ですね」
「ええ! どういうことなの? どうしてそんなに冷静なんですか!」
 落ち着いて、と萩は言うけれど、どうしたらこの状況で落ち着いていられるのだろうか。分からない。
「紅首村、少し前に完全廃村になっているようです。実際ある村だったのでたいして疑問にも思わずにいたのですが、昨夜調べて分かりました。ダムの計画は進んでいます。そこらへんは話の通りです。ただ、村はもうとっく廃村になっているんです」
 そんなことがあるだろうか。さっきまで、ここに村の人がいて、皆で弁当を食べて笑っていたのに。
「それなのに、なぜ、僕たちには村人と触れ合うことができたのでしょうね」
萩は首を傾げたが、そんなこと誰にも分らない。
「カ、カワオヌさん!」
 乃里は社に向かって叫んだ。あそこにまだ隠れてこちらを見ているだろうから。カワオヌ祭りを、見ていたはず、なのだから。
「彼、もういませんよ。山へ行ったようです」
「そんな……」
 最後に会いたかったのに。
 乃里は、持っていたペットボトルを地面に置く。
 コの字に置いたテーブルも、食べかけの弁当もあるのに、村の人たちが忽然と姿を消していた。風の行方を見て、音を聞いて、視線を戻したら消えていた。
「カワオヌの思いが見せたものだったんだろう。村の為になにかしたいといった彼の気持ちは本当だったのだから」
「僕たちは化かされていたようですね」
 兄弟の笑顔。笑っている場合だろうか。
 びょう、びょうと、吹く風の音が、カワオヌの声。
 人が住み着き、村が生まれてそして消えていくのを、じっと見ている。
 お礼をしたかった。追い出すことをせず自分を受け入れ、社まで建立し祭ってくれた村の人たちに、喜んでほしかった。
「だから、カワオヌさん……」
 なにもいらないと言った吉野。ずっとここを見守ってと。
「あれも、カワオヌさんの思いが見せたものなのかな……」
 気の遠くなる長い命を、ずっとここで生きて、人の戻らない村の跡を見守って。
「乃里ちゃん、帰ろうか」
 茫然としていた乃里だったが、牡丹の声に頷く。
 帰り道。吉野の軽トラックが傾いて停まっていた。よく見ればナンバープレートがない。どうして気付かなかったのだろう。
 あちこち錆びだらけで、右の前輪がパンクしている。
 その斜めの車体は夕日に染まってオレンジ色になっていた。まるで空の色を取ってきて、車体に塗ったようだった。
 彼らの暮らした証は、静かに、風の音と共に、水に沈む。