「シズさんは湯守ですよね……」
「シズさんは僕たちふたり分の働きをしますからね。仕事はなんでもできるのです。料理はさすがに免許がないので任せられませんが。接客もお手の物。僕たちよりも受けがいいですよ。宿泊は満室、日帰り温泉のみの営業ということにしておけばなんの問題もありません」
「そんなんで……いいの……」
「すぐ戻りますし。大丈夫ですよ」
 萩は準備をするようにと皆を促す。
 車で二時間かからないのであれば、許容範囲ではあると思うけれど。
 紅首村まで車で二時間?
「ちょっと待って。カワオヌさんここまでなにで来たんですか?」
「ん? 歩いてだ」
「え……」
 車で二時間のところを徒歩で。
 もういい。常識なんか通用しない。乃里は割烹着の紐を結び直した。
 カワオヌが入浴を済ませ、玄関から出てくる。帳場にはビールケースを踏み台にしてシズさんが入り、笑顔で送り出してくれた。
「あれ、牡丹さんはまだなのかな……」
 乃里は割烹着姿のまま、自分のリュックを背負って玄関で待機していた。
萩が運転する白いワンボックスカーが奥から走ってきて、玄関前に横づけされる。
 カワオヌが乗るのに小さい車では無理だろうなと思ったけれど、これならなんとか乗ることができるのではないだろうか。
「どうだべ、おら、車には乗ったことがねぇよ。狭いんだな」
「カワオヌさん、トラックに積むようにしなければ無理なのでは……」
 運転席から出てきた萩は、着物にスニーカーといういで立ちだった。草履で運転は危険だからだろう。
 ふむ、と萩はカワオヌを見上げた。
「ちょっと試してみていただけますか」
 スライドドアを開け、カワオヌを促す。頭から乗り込んでみたものの、二メートルはゆうに超える身長のカワオヌは、座席に座れない。頭部が天井についてしまうこともあるが、お尻が座席にはまらない。
「これは仕方がないですね。座れなければ寝そべってください。座席をフラットにするので」
「なるほど、その手がありますね」
 乃里は萩を手伝って、座席をフラットにした。
「乃里さん、ありがとう」
「うちのお父さんの車もこうして大きな荷物を積みますから」
「カワオヌさんは荷物ではないのですけれどね。仕方ありません」
 ふたりの会話を聞いていて、カワオヌは笑っている。
「申し訳ねぇ、迷惑かけで」
「気になさらないでください。さぁ、これでいいでしょう」
 カワオヌはフラットになった場所に横になった。それでもやはり狭いので、前方に足を、くの字に体を曲げ、肩ひじをついて寝るような状態になった。
「これならいい」
「しばらく辛抱してくださいね。ええと、牡丹はどこでしょう」
 萩がキョロキョロとあたりを見回すので乃里もつられた。
 すると、乃里の足元に触るものがあるので下を見る。
「あれ、猫……」
 乃里の足に尻尾を触れさせて、猫がうろちょろしていた。銀色猫。
 この辺で見かける猫だ。
 いままで等間隔移動でしか会わなかったのに、触れてくるなんて。嬉しくて撫でようとしたとき、萩が猫を見て「さぁ、乗って」と言う。
「牡丹、行きますよ。準備はいいですか」
 猫に向かって話しかけると、銀色猫は「ニャア」と鳴いてひょいと車に乗り込んだ。
「あ……え……ああ」
 そうか、この猫、牡丹だった。
 先程の鬼火騒動のときに言われたことを思い出した。
 本当に、いちいち驚いていたら心がもたないかもしれない。
 そのとき、再び車のエンジンがかかる。そうだ、ぼーっとしている場合ではない。乃里はリュックをおろして抱え、後部座席でフラットにされていない席に乗り込んだ。
「それでは出発します」
「お願いします」
 乃里が返事をすると、車がゆっくりと発進した
竹林を抜け、通りに出て行く。旅館しろがねから出て行く道のりは、なんだか異世界から抜け出していくような感覚だ。窓の外を見ていると、膝の上に重みを感じた。見ると、銀色猫が眠る気満々で乃里の膝に乗っている。
「いや……ちょっと……牡丹さん……」
「ああ、すみませんね。乃里さん、牡丹に膝を貸してあげてください」
 銀色猫……の姿の牡丹は、乃里の膝の上でくるりと丸まり、尻尾をゆらゆらさせた。
「仕方ないですね、もう」
 人間の姿だったらこれは本当に許されることではないのだけれど、猫だからいいか。乃里は呆れと嬉しさの半分ずつ混ざる気持ちで、牡丹の背中を撫でた。
 大通りから国道へ出て走る。
「カワオヌさん、乃里さんは眠っていただいても構いませんからね。到着したら声をかけますので」
 萩の気遣いを嬉しく思い、乃里は膝で眠る牡丹を気にしながらフラットの後部座席を振り返る。