「そ、そろそろ先輩たちの、あいだをまわって、昼食はどうしますかと、訊いて、準備す、るんだ」
変態オヤジが胸を押さえながら、あえぎあえぎ言った。ボディスラムは、打った背中よりも胸に効くと聞いとったが、ホンマのようやった。
そこへちょうどソバカスが通りかかったんで、昼はどうしまっかと訊くと、
「適当に買って食べるからいいよ。それよりも、おれっちの部屋をきれいにしといてよ。もう埃を食うのはたくさん」
ソバカスとアホの部屋を掃除しとったら、古参兵がぬっと覗き、
「急いで骨の名前を憶えてくれよ。まちがえた数だけぼくが殴られるんだから。もう手がかすっただけで鼻血が出るようになっちまった。ブッチャーの額と一緒」
ぶつくさ言いながら帰った。ほんなら勉強するかと事務室に行きかけると、
「ユエ、マッサージの練習してみる?」
マッカーサーに呼び止められた。マッカーサーはフフッと笑い、
「ユエなんていうと、ベトナムの戦場を思い出すわね。あの戦争で受けた心の傷は、今もあたしをさいなんでいる」
「姉さん、サバイバルゲームやろ?」
「まあね。でもね、ユエ。本物の戦争のない場所は、夢の中しかないのよ」
あいているマッサージルームで、マッカーサーが横になった。
「顔やってみて。小顔になりたくて、フェイスマッサージを希望する女性は多いの。それからお尻。ヒップアップさせるようにやって。あと背中。背中の血流を良くすると、ダイエット効果があるのよ。最後にお腹の横。ここの脂肪をうんと絞って」
自分のためにやらせとるな、と思いつつ揉んでやった。
ノックの音がしてドアがあいた。振り返るとソバカスが、
「クミさん、指名入りました」
やれやれとため息をついてマッカッサーが出て行くと、入れ替わりにソバカスがベッドに寝て、
「今度はおれっちが教えてあげる。足から尻にあがって腰と背中全部やって首。そうそう。しっぽの先から指先までね。うんうん。首と背中はもう一回やって」
アホと同じでこいつもイビキかいて寝よった。部屋を出て、向かいのマッサージルームのガラス窓を覗くと、中でイッチがせっせと古参兵の坊主頭を揉んどった。
やがて、イッチが部屋から出てきた。
「主任、寝ちゃった」
「みんなそうや。こいつら教える言うて、自分が気持ち良うなりたいだけや」
「疲れてるんたよ、きっと。でも、ああやって気持ち良さそうに寝てくれると、なんだか嬉しくなるね。この仕事が好きになってきたよ」
「ホンマにええやっちゃな、イッチは」
二人で二階に上がりながら、わしはイッチに言った。
「あのな、イッチ」
「なに?」
「わし、家庭に問題あんねん」
「言わなくてもいいよ、別に」
「まだ小っちゃいときに親が離婚してな。母親が再婚したんやけど、わしその男になつかなかってん。したら暴力振るわれてな、母親もそっちの味方しよった。わしよりも、男のほうを選んだんや。ほんだらそいつは図に乗りよって、身体に触ってくるようになった。母親は見て見ぬフリじゃ。だからな、わし、男に触られるの考えると、吐き気がすんねん。死にとうなんねん。堪忍してな」
「ひどい親だな。それでも向こうに帰りたい?」
「わからん。しかしな、帰らんいうのは、逃げのような気がするんよ」
「逃げたっていいじゃん」
「なんでわしが逃げなアカンねん。それが腹立つ。あいつらの思うツボじゃ」
「帰って対決する?」
「対決か……一対二やからな」
「ぼくを入れたら二対二だよ」
「一緒に闘ってくれるか?」
「もちろん。ずっとユエナと一緒にいるよ」
「ありがと。嬉しいわ」
頼りないと思うとったイッチやのに、今はイッチがおらんと、なんもできんような気になってきた。
結婚したい。
「あ、ごめん」
「なにを謝ってる?」
「泣いてるから」
「これは嬉し涙や。それか悲し涙や」
「どっち?」
「わからん。わしみたいな女でええかと思うと、嬉しいけど、悲しくもなんねん」
「泣かないで」
イッチの身体が近づいた。反射的に鳥肌が立つ。こんなに好きでもダメか、と思うたとき、ふと視線を感じた。
サンマルチノやった。食堂のドアの隙間から、明子姉さんよろしく覗いとった。
わしはコホンと咳払いした。
「あのな、イッチ。わしに触らんほうがええで」
「わかってるよ」
「マシンガンキックがとんでくるからな。今は明子姉さんしとるけど、そのうちクルーゾー警部を狙うカトーみたいに襲ってくるで」
「全然わかんないよ。クルーゾー警部って誰? 井上順?」
「井上順って誰や。アンパンマンの旦那か?」
「それは井上純一。井上順は通販の司会だよ。あー、またインディジューンズやってくんないかなー」
「もうええわ。さ、事務室行こ。テストあんのやろ」
サンマルチノに気づかんフリして、食堂の横を通った。襲うチャンスを逃したせいか、チッと舌打ちする音が聴こえた。
事務室に入ると、イッチが言った。
「ぼく今夜、山岸先輩と出掛けるんだ」
「変態とかい。どこ行くねん」
「ぼくの生活必需品を、買ってくれるんだって」
「あいつまだオタマジャクシで、金ないんやろ?」
「ここに来る前に別のところで働いてて、少し貯金があるんだって。誰にも言ってないから内緒だぞって、こっそり教えてくれた」
「ほんでイッチに買うてくれんの? ええとこあるやん」
「ツケだけどね。でもホント、すごくいい人だよ」
「わからんもんやな。仇名をジョージ・マイケルに変えたるか」
「それでね、昨日の夜、サイレントのことも話したんだ。そしたら、買い物のついでに若い女の子がいそうなところも見て、訊き込みしてくれるって」
「ほう、睡眠時間を削ってかい。ますます男前やのう。ウキウキ、ウェイクミーアップ!」
「でね、普通訊き込みするには写真がいるけど、持ってないから、似顔絵描いてみたんだ。ちょっと見てくれる?」
イッチが事務室を出て、紙切れを持って戻ってきた。
「どうかな」
鉛筆で、丸にチョンチョンと点をつけたような絵が描いてあった。
「絵心が……ずうとるびの江藤以来の衝撃やな。わしに任せい。三波伸介ばりに減点パパの要領で描いたるから。えーと、顔は丸顔、目は小さくて、鼻は低い」
イッチのメモ帳にできあがった絵を見ると、イッチの絵と大差なかった。
「あら、おかしいな。川島なお美かエバかっちゅうくらい、絵は得意なんやけど」
「だから、こんな顔なんだよ、サイレントは」
「そっか。あらためてセリイの顔思い出すと、平凡すぎて、どこにでもいそうな、そのくせ逆にどこにもいなさそうな感じが……」
「でしょ? 山岸先輩にこの絵を見せたら、この顔はどこかで見た気がするけど、いくら考えても、それがどこかは思い出せないって言ってた」
「不親切なギャルやで。もっと見つけやすい顔せいっちゅうんじゃ」
するとそのとき、ノックもなくドアがあいて、
「二人とも昼メシは食ったのか? まだならこれを食え」
古参兵が、ハンバーガーショップの包みを突き出した。
「遠慮させてもらうわ。どうせ一万円やろ」
「いやいや、これはぼくのおごり。本当だよ。そんな疑いのまなこでぼくを見ないで」
包みを置いて出ていった。あいつもええとこあるやんかと、見直す気になった。
「まずはメシ食お。食って体力つけんと、夜の訊き込みにも行けんからな」
午後もなにかと忙しかった。オスガエルどもの私物の洗濯やら、マッサージの練習やら、テスト勉強やら、夕食の買い出しやらで時間が過ぎた。
営業時間が終わり、マッサージルームの掃除とタオルケットの洗濯をして、食堂で食器を洗っとると、
「ラーメンでも食いに行くか?」
アホが誘ってくれた。そんとき食堂にいたのは、アホとソバカスと変態オヤジとイッチとわしの五人。古参兵は一人で外食に出かけ、サンマルチノとマッカーサーは、それぞれ自分のアパートに帰っとった。
「ありがとうございます。でも今夜は、山岸先輩と約束がありまして」
イッチが丁寧に断わった。するとソバカスが気に入らん顔して、
「なによ、自分たちだけで遊びに行くの? おれっちは朝四時にオーナーを迎えに行くから、もう寝なきゃなんないのに」
ブーたれた。変態オヤジは黙って下を向いた。
「ギシさん、こいつらにおごるの? そんな金あるんですか? わ、気持ち悪い顔。オエーッ」
「……金ないんで、ここでカップラーメンでも食べて出かけようかと」
「きみたちはカップじゃないラーメンのほうがいいでしょ? おれと行こうよ」
イッチが困ったような顔をして変態オヤジを見た。わしは助け舟のつもりで、
「あいにくやけど、先にした約束のほうが大事や。兄さんには、この次遠慮なくおごってもらうさかい」
すると突然ソバカスが、
「じゃあこうしよう。おれっちが山岸さんに特製コーヒーをおごるよ」
キッチンに立って、コーヒーを淹れ始めた。
「ウフフ」
妙な含み笑いをしながら、ズボンのポケットから紙包みを出し、そこに包んであった白い粉をコーヒーに入れた。
「はい、どうぞ」
変態オヤジが、コーヒーを見つめて固まった。
「どうしたの? 先輩の淹れたコーヒーが飲めないんですか?」
「……なに入れたんですか?」
「は? 砂糖ですけど」
文句あんのかという顔で言うと、アホがクツクツ笑い、
「それは、睡眠薬の錠剤を砕いたのだよ。こいつ、いつでもそれを持ち歩いて、街で女の子に悪いことしてんの」
「阿部さん、すぐ言う~」
変態オヤジが青い顔してうつむいとると、ソバカスはヒートアップし、
「なんでシカトしてんの。飲んで!」
「でもワタシ、睡眠不足で疲れてるから、これ飲んじゃうとちょっと……」
「おれっちはもう寝なきゃいけないって言ってんのに、後輩たちがなんで遊びに行く気でいんの。さあ飲め!」
「飲まんでええで」
また助け舟のつもりで言ったんが、かえってきっかけになって、
「いや、いいよ。ありがとう、ユエナちゃん。いただきます」
一気にガブガブ飲んでもうた。
「ごちそうさま。一ノ瀬ごめんな、今日はもうカップラーメン食べて寝よう。約束はまた今度」
そう言って立ち上がると、ふらふらと出口のほうへ向かった。
「兄さん、どこ行くん?」
「ちょっとコンビニまで。あそこにオバサンがいると、ただで商品をくれるんだ。ただし、いるのがオーナーか店長だと、刃物持って追いまわされるけど」
わしらのために、命懸けでカップラーメンを調達するつもりらしい。ほんなら一緒に行くかと、イッチに目配せして食堂を出たとき、
ドン! ガンデンダン!
でかい音が響いた。急いで廊下を走ると、階段の下で変態オヤジが倒れとった。
「睡眠薬が効いたんだよ。足元おかしかったもん」
イッチが言って駆け降りた。わしも降りて、二人で変態オヤジの身体を起こすと、
「イテテテ。いやー、失敗失敗。上から下まで落ちちまった」
「令和の平田満やな。病院行くか?」
「大丈夫。でも出かけるのはやめてもう寝るよ。一ノ瀬悪い。打ったところを、部屋でちょっとさすってくれ。すねと腹の真ん中とケツと背骨と横っ腹だ」
イッチがおんぶして部屋まで行った。わしは食堂に寄って、アホとソバカスをにらんだ。
「兄さんたち、仲間をケガさせても平気か」
返事はなかった。これ以上ここにおっても胸クソ悪いから、自分の部屋に入った。
なかなか眠れんかった。腹が減ってたし、ムカついてたし、なによりスマホで動画を観れんのが寂しかった。
スタ誕が観たい。新幹線コンビの幻の十週目を探したい。痩せてたころのコロッケを観たい。こんなことになるんなら、もう一度九十九一の一週目を観とけばよかった。あれは歴史に残る名作やった……
にじむ涙をそっと拭いた。そのとき小さなノックの音がした。
「ごめん、ユエナ。開けてくれる?」
ドアを開けると、イッチが深刻な顔して立っとった。
「山岸先輩が、トイレに行くって部屋を出たきり、戻ってこないんだ」
わしは、ふーっとため息をついた。
「夜逃げやな。イジメは罪やで、ホンマ」
「でも、財布は置いてってるし……とりあえず、この建物の中を一緒に捜してくれない? なんだか嫌な予感がするんだ」
部屋を出るとき、サンマルチノがくれた壁掛け時計を見た。もうとっくに十二時をまわって、そろそろ一時になるとこやった。
イッチが二階のトイレを覗いた。個室のドアはあいていて、中には誰もいなかった。
シャワー室も見た。誰もおらん。もちろん、人が隠れられるようなスペースもない。
「事務室も空やったな。となると、アホたちの部屋か、古参兵の部屋や。どっちかに呼ばれて、腰でも揉まされとんのとちゃうか」
「待って、まだ洗濯室を見てない」
洗濯機の動く音は聴こえんから、私物をこそこそ手洗いしてるのかもしれん。その可能性はあるなと思いつつ、電気の消えた暗い洗濯室のドアをあけると、
「あっ!」
イッチが声をあげた。わしは息を呑んだ。
洗濯機から、逆さになった人間の両脚が突き出ていた。そう、あのにしおかすみこの渾身のギャグ、犬神家そのままに……
洗濯槽からは、水があふれていた。ということは、頭は完全に水に漬かっとる。
「山岸先輩」
イッチが声をかけて、パジャマを穿いた両脚に抱きついて引っ張った。ぐしょ濡れになった上半身が洗濯槽から出る。イッチが手を放すと、身体は力なく床に横たわり、変態オヤジの顔があらわになった。
その顔色は真っ青で、目はカッと見開かれ、口が苦しげにゆがんでいた。
「びょ、病院に電話。一一九番、早く」
「待て。どう見てもこれ、瞳孔が開いとる。残念やけど、もう死んでるで」
「蘇生するかもしれないじゃん。救急車呼ぶだけ呼ぼう」
事務室へ行った。イッチが受話器をとって、一一九番を押す。ところが、
「……おかしいな。全然音がしない」
「壊れとんのか? 受付にも電話機あったで」
「あ」
「どうした?」
「見て、電話線切られてる」
イッチが指差した壁のところを見ると、確かにコードが切れて垂れ下がっていた。
「もしかして、通報されないように犯人が――」
「自殺ちゃうんか? イジメを苦にしての」
「こんな方法で自殺は無理だよ。苦しくてすぐに顔上げちゃうでしょ。水死するまで、誰かが上から押さえつけたんだよ」
「……むごいのう。誰がやったんや。アホか、ソバカスか?」
「先輩たちが、そんなことするとは思えないけど」
「現実に死んでるがな。ん、夢に、かな? まあええ。ともかく容疑者はアホとソバカスと古参兵の三人。このうちの誰かが犯人や。もしこれがクリスチィやったら、三人全部が犯人や」
「ホントにホームズみたいになったね」
「チンタイ・ホームズと呼んでくれ。せやけどこれは、ホームズ向きやないな。金田一、いや、マッサージ館の殺人やから、島田潔の出番や」
「ホームズ、犯人の動機は?」
「見当もつかん。ジョージ・マイケル殺して、いったい誰が得するねん。横でギター持ってたやつか」
わし、軽口叩いとるけど、ホンマは悲しかった。イッチの目にも涙がたまっとる。幼女誘拐犯で、変態で、生理的に無理やったけど、不器用で、どこか憎めなかった。こんなギャグっぽい死に方するなんて、悲しゅうて仕方なかった。
変態オヤジが夢の世界に来たのは、現実で生きるには、心が弱すぎたからや。あるいは優しすぎたからや。それなのに、こっちで殺されるなんてむごすぎる。理不尽や。世の中すべて、夢も現実も理不尽なんじゃ!
「ユエナ、どうしよう。警察呼ぶ?」
「あんなもんアテにならん。容疑者どもを絞りあげてゲロさせるには、タマちゃん呼ぶしかないやろ」
「家、わかる?」
「ここに住所録でもあればな。せやけど、こっちの町名見てもどこかわからんな」
「もしオーナー呼んでも、本気で犯人を見つけようとしてくれるかな。身内みたいなもんだし、店のために事件を揉み消そうとするんじゃない?」
「そうなったら、わしらが危ないな。野放しになった犯人に、次に狙われてまうかも」
「そうだね。でもいくら想像しても、あの人たちが人を殺すとは思えないんだよなあ……あっ!」
わしはギャッと叫んで、床から跳びあがった。
「な、なんや、なんか出たか?」
「ううん。ちょっと思いついたことがあって」
「静かに思いつけドアホ! 口から心臓が出たやないか」
「あのさ、犯人は、あの三人じゃないかもしれないよ」
「どういうこっちゃ」
「ぼくたちはすでに、死体を二つ見たじゃん」
「すだれ髪と、タコ社長やろ」
「あれも殺人だったんだよ、きっと」
「連続殺人か? ますます動機がわからん」
「動機なんてないさ。こっちの世界は、サイコキラーが跳梁してるんでしょ。だから、無差別に殺しまわってるだけなんだよ」
「なーんだ、良かった、っておい! そっちのほうが安心できんやんけ!」
「今この瞬間も、下のマッサージルームに潜んでたりして」
「もうすでに、古参兵たちもえじきになってたりして。て、言うてる場合か。どないしたらええねん。ここにおって殺されるのを待つか、逃げて捕まるか」
「先輩たちを信じて、助けを求めよう」
「うーん、やっぱりわし、信用できんなあ。あいつらの容疑はまだ晴れとらん」
「なにか武器を持とうか。食堂に庖丁があったよ」
「わし、先端恐怖症やねん。イッチ持ってくれ」
事務室を出て、食堂に向かった。廊下の暗さに足がすくむ。殺人犯がすぐ近くにいるかもしれんと思うと、身体が勝手にガタガタ震えてきた。
「アカン。動けん」
「大丈夫?」
「泣きそうや。サンマルチノ呼べんかな。あの怪力女がおったら、きっと安心できると思うねん」
「住所わかんないしねえ。出勤してくるのを待つしかないよ。あと五時間くらい」
イッチが食堂に入って、灯りをつけた。とたんにウオッと獣みたいに吠えて、わしに抱きついてきた。
食堂に人がおる――あまりの恐怖に声帯が絞まって声が出ん。わしはヘナヘナと崩れそうになって、無意識にイッチにしがみついた。
「あら、ごめんなさい。おどかしちゃったわね」
なんや。よう見たらマッカーサーやった。まったく人騒がせな女や。ショック死させる気かい、ボケ!
と、怒鳴ったろうと思ったが、どっか様子がおかしい。目に力がなくて、頬がこけとる。仕事が終わって帰るときは普通やったのに、ほんの数時間でこんなにやつれるなんて、いったいなにがあったんやろう?
「姉さん、なんでこんな暗い中におったん?」
すると、マッカーサーは髪を掻きあげて、かすれた声で元気なく嗤った。
「羞ずかしいけど、お腹がすいちゃって。あたし今、スッカラカンなの。お金があってもすぐ費っちゃうのよね。だから財布も冷蔵庫もカラッポ」
「ほんで、パン食いに夜中に?」
「コソ泥みたいにね。空腹で寝られなかったから、朝まで待てなかったの。あなたたちもなにか食べにきたの? それとも……」
じーっと見られてハッとした。まだイッチと抱き合ったままや。
あわてて離れた。イッチの手の感触がまだ背中にある。男の手――嫌悪感、罪悪感。くそ、まだまだわしは、あいつらの呪縛に負けとる。
「お熱いとこ、ジャマしたみたいね」
「ちゃうねん、姉さん。そんな呑気な場合やない」
変態オヤジのことを話した。するとマッカーサーは、怒った顔して「嘘っ」と言い、洗濯室に駆け込んだ。
わしらもあとから行った。マッカーサーは床に膝をついて、動かない変態オヤジの身体を揺すぶっていた。
「どうしちゃったの? ねえ、返事してよ」
ポタポタ涙を落としとる。クールな姉さんやと思ってたが、仲間を想う気持ちは熱いようや。
「変態で、気持ち悪くて仕方なかったけど、いなくなったら寂しい。死んだら二度と会えないのよ。こんな悲しいことってある?」
ウンウン唸って泣いた。わしはしばらくなにも言えず、マッカーサーのうめき声が収まるのを待って、イッチと二人で考えた推理を話した。
マッカーサーは、憔悴した顔をあげてゆっくり首を振り、
「あの三人が犯人なわけないわ。山岸ちゃんがいなくなったら、ストレスの捌け口がなくなるもの。それに、雑用だって増えちゃうし」
「なにか個人的な恨みは?」
「全然。彼を恨む人なんか、この世に一人もいないわ。役立たずって、いつもみんなに罵られてたけど、本当はいちばん役に立ってたのよ。こういう人こそ絶対に必要だった。生きてるうちに、それを言ってあげなくてゴメンね。ウウ……」
またうめきだしたと思ったら、突然ガバッと立ちあがり、
「ちきしょう、サイコキラーめ。あたしが復讐してくれる。ここは二〇三高地。仲間の屍を越えて、必ずあたいが日の丸立ててやる」
洗濯室を出ていこうとするのを、手をとって止めた。
「待って、姉さん。一人でどこ行くん?」
「家に帰って武器をとってくる。サバイバルナイフとスタンガンがあるから」
「途中で捕まったらどないすんねん。男ども起こそか?」
「弱兵を連れて、捕虜にされても困るでしょ。あたしなら慣れてるから大丈夫。ついでに、イチゴちゃんとオーナーを呼んでくるわ。あなたたち五人は固まって防御態勢でいなさい。ラジャー?」
「ラジャー!」
わしとイッチは、思わず敬礼した。
「とりあえず、主任を起こそう」
マッカーサーが颯爽と行ってまうと、イッチがそう言って、古参兵の部屋をノックした。
「……どうした?」
眠そうに目をこすり、不審げな顔で訊いた古参兵に、変態オヤジが死んでることを伝えた。すると、
「はあ? なんだそりゃ」
大声をあげて洗濯室に行った。その音で起きたのか、アホたちの部屋のドアもあいて、
「どうしたの? 幽霊でも出た?」
びびった顔でソバカスが言った。そこでアホとソバカスにも状況を伝えた。
「嘘だあ。なんかのまちがいだろ」
「おまえの入れた睡眠薬が効きすぎて、熟睡してるだけじゃないか」
信じられんという顔をして、二人が洗濯室に向かったとき、
「おい、バカ! 早く救急車を呼べ!」
古参兵の怒鳴り声がした。行ってみると、古参兵は必死で変態オヤジに心臓マッサージをしとった。
「電話線、切られてんねん。たぶん犯人のしわざや」
「は、犯人?」
古参兵の手が止まる。アホが変態オヤジの顔を覗き込んで、
「主任、ダメです。もう完全に死んでます」
男どもが全員、がっくりと肩を落とした。
「クソッ! 誰が山岸を……ひでえことしやがる」
「なんで山岸さんなんだよ。こんないい人殺すなんて」
「ギシさんかわいそうに。犯人マジ許せねえ」
三人とも目が赤かった。わしは疑ったことを反省した。とても演技とは見えんかったし、もしこんな演技ができるようやったら、もっと上手に世渡りして、こっちに落ちてくることもなかったやろう。
と、そのとき、
「ピピピピピピピーッ!」
階下から、鳥の騒ぐ声が聴こえてきた。
「とおるちゃんだ。こんな時間に鳴くなんて変だな。なにかあったんだ」
古参兵が厳しい顔で言うと、ソバカスが震える声で、
「犯人が、休憩室に忍び込んだのかな」
「かもしれん。行ってみるか」
「気づかれないようにそっと行こう。できれば捕まえたい」
「無理するなよ、阿部。相手はどんな武器を持ってるかわからん」
「おれはモップを持っていきます。主任は消火器、永作は庖丁を持って。そっちの二人は、おれたちの後ろについて、なにか見たら知らせるんだ。行くぞ」
アホがリーダーシップをとった。みんな黙って言われたとおりにし、足音を忍ばせて階段を降りた。
男子の休憩室は、階段のすぐ横にある。アホが横開きのドアに手をかけ、慎重に数センチほどあけて、顔をくっつけて中を覗いた。
しばらくそうしとったが、やがて思いきったように大きくドアをあけた。その瞬間、
「トールチャンッ、トールチャンッ!」
部屋からとおるちゃんが飛び出してきた。だけど今回ばかりは、古参兵も追いかけようとはしなかった。そっちは無視して、アホの背後から手を伸ばし、部屋の灯りのスイッチを入れた。
休憩室には誰もいなかった。ロッカーはあいていて中が見えとったし、ほかに隠れられるような場所もない。
「ここの窓は小さいから、こっから外には出られない。別の部屋に移動したかも」
「一応見てまわるか。もう逃げたかもしれんけど」
古参兵はそう言ったが、わしにはまだ犯人がいるように思えた。というのも、
「ワスレテチョウダイ、ワスレテチョウダイ~」
とおるちゃんが、やけに興奮して、ぐるぐる飛びまわっていたからや。きっと怪しいやつが、まだこの建物のどっかに隠れとる。
ところが。
六つのマッサージルーム、トイレ、女子の休憩室、受付と見てまわったが、誰も見つけることはできんかった。
「いないな。クソ、逃げられた」
「怪しいやつがいないか、外を見まわってみるか」
「そこまでしなくていいんじゃない? それよりも、みんなで交番に行こう。あとは警察に任せたほうがいいよ」
ソバカスがそう言うと、アホは黙ってうなずいたが、古参兵が腕組みをし、
「そろそろクミさんが、オーナーを連れてくるだろう。先にオーナーに話してから行ったほうがいい」
男どもは、もう犯人は遠くに行ったと思ってるようや。しかしとおるちゃんは相変わらず興奮して、
「ココデワラワナイト、モウワラウトコナイヨー!」
天井を飛びまわっていた。もしかして、わしらはどこか見落としてるんちゃうやろか。人間一人が隠れられる、盲点の場所を――
と、首を捻って考えとったとき、外で車の音がした。
「オーナーのベンツだ」
みんなあわてて受付に走り、直立不動で待った。
「こんばんは、森進一です」
自動ドアが開くなり、タマちゃんが、不機嫌全開の顔で言った。今回は、さすがに兄貴のかっこやなかったが、すっかり釣りに行く気だったのか、やたらとポケットのついたベストを着とった。
「山岸さんはどこ?」
タマちゃんのあとから、サンマルチノが入ってきた。洗濯室ですと古参兵が答えると、マッカーサーと二人、階段をのぼっていった。
階段を降りてきたとき、サンマルチノは泣いていた。
そして、なんやらうわ言みたいに、言葉をつぶやいとった。
たった一人でこっちへ来て
たった一人で死んじゃった
あんなに必死に生きてきて
だけど逃げずにがんばって
なんのためにがんばったの
だけどそれも消えちゃった
自作の詩らしい。内容が当たり前すぎて、これじゃ売れんわなと思った。
せやが――
わしもちょっと、死、いうもんを考えさせられた。
詩っぽくするとこうや。
なんで人は死ぬんやろ
オギャーと生まれて早十五
わしかてちっとは考える
ヤなことあっても生きてきた
死ぬのは悪いと思うから(誰に?)
せやけど正味、みんな死ぬ
死ぬのは当たり前田のクラッカー
ほいでも悲しい色やねん
こいつは矛盾とちゃいまっか?
こんな矛盾をほっぽって
どうして生きろ言いまんねん(誰が?)
生きる理由を教えてや
気ィついてみたら夢ん中
死体を三つも見てもうた
こいつに意味はあるんかな
それとも意味はないんかな
意味あるんなら知りたいわ
意味ないんなら、ハイ、それまでヨ
サンマルチノが涙を拭いて、わしをじっと見た。
「すべては虚しい、そう思ってるんじゃない?」
わしは答えんかった。そうは思っとらんかったから。
「わたしたちは、たくさん死を見せられている。新聞、ドラマ、小説、歴史、芸術でね。どうしてなんだろう。人はこんなにたくさんの死を見る必要があるのかしら? どう考えてもあふれすぎている。これらの大量の死の結末はなに?」
わしは肩をすくめた。結末なんて、ないと思ったから。
「わたしは山岸さんの笑顔がもう一度見たい。そうでなきゃ虚しすぎる。世の中にいくら美しいものがあったって、最後がこれじゃあ出来が悪すぎるのよ」
わしはそっぽを向いた。サンマルチノはむちゃを言うとる。ほんなら変態オヤジがゾンビになって、復活したらええいうんかい。
――?
ふと、わしの頭ん中に、妙な考えが降りてきた。
夢ん中なら、そいつもアリちゃう?
そんなことあるわけない、というのは、常識に縛られた答えや。ここは常識とはちがう。ほとんど向こうと一緒やけど、なんかがちがう。さて、そのなんかとはなんやろう?
「なあ、イッチ」
小さく声をかけた。イッチが無言で振り向く。
「わしらがここに来たのって、意味あると思うか?」
イッチが肩をすくめた。自分がやるのはええが、人にやられるとむかつくポーズや。
「わしには意味あるいう気がするんよ。だったら、結末もあるのかもしれん。変態オヤジが生き返って、もうイジメられんようになるのが、いちばんええ結末とちがうか?」
イッチは首を捻った。
「ちょっとなに言ってるかわからない」
「そうや。わしにもわからんのや。なんで夢のくせに普通に死ぬ? わしらの状態は普通か? ちゃうやろ?」
「まあ、そうだけど」
「ツボ押されて来たんやで。充分異常や。だったらな、変態オヤジのツボ押して、生き返らせるいうのはどや?」
「それはいくらなんでも――」
「無理、決めつけたらアカン。なんでも試さな。なあ、タマちゃん。ツボは無限で万能ちゅうのは、確かにホンマか?」
タマちゃんは、相変わらずの仏頂面で、
「弟が言うにはな。おれは知らん」
「死者を生き返らせるツボ、聞いたことないか?」
「はあ? なにをくだらんことを。それよりおれは、猛烈に腹が立ってる。味方にグダグダの守備をされた下柳の気分だ。山岸のヤロー、最後まで迷惑かけやがって。店で殺人があったなんて知れたら、客が来なくなっちまう。店が潰れりゃ、貴様らも全員クビだぞ」
すっと心臓が冷えた。こんガキ、なにが下柳じゃ。わしはプッツン切れた。
「おうおうおう。こんなときでも商売かい。おどれは夢の住人失格やのお」
サンマルチノがわしの腕をつかんで引いた。でも止まらんかった。
「現実に帰ったれ、ドアホ! おどれみたいなくされ外道は、向こうがお似合いじゃ。汚く虚しく死んでいけ! わしらと同じ空気吸うな」
タマちゃんはぷるぷるとこぶしを震わせた。わしは、殴んなら殴れと顎を突き出した。
と、次の瞬間タマちゃんは、小早川にホームランを打たれた江川みたいに、床にがっくり膝をついた。
「えーん、えーん、死ねなんて、コンプラ違反だよー」
唖然とした。サンマルチノはため息をつき、
「オーナーはね、すごく打たれ弱いの。マット・ガファリくらい。そう、小川のパンチでコンタクトがずれて戦意喪失した、あの彼くらいにね」
「馬場の裏腕ひしぎでギブアップした、ラジャ・ライオンとどっちが?」
「あれは馬場が強すぎたの」
わしらは揃ってタマちゃんを見た。もはやなんの威厳もないその姿は、裸の王様、いや、パンツまで剥ぎとられた井出らっきょと変わらんわびしさやった。
「なあ、タマちゃん。教えとくれ。このマッサージ館には、隠し部屋とか、床下収納とか、屋根裏とか、屋上シェルターとか、人間が隠れられるような空間がどっかにないか?」
タマちゃんは、えっ、えっと涙をすすっとったが、
「……ない。無駄なものは、作らん主義だから」
「犯人が隠れてたら、わしらで捕まえようと思ったんやがな。しゃーない、そろそろ警察呼ぶか。車で交番に行こう」
するとタマちゃんは、焦った顔して、
「ま、待てコラ。おおごとにするな。客が来なくなる」
「まだ言ってんのかい。ほんならタマちゃん、あんたがホシ挙げてくれるか?」
「せめて事故死にできないかな。そっと死体を移して、川で溺れたように見せかけるとか」
「セコいのう。みんなしらけてまっせ。あんたには、従業員が死んで悲しいとか、犯人が憎いっちゅう感情はないんか」
「ないことはないが……おれにはビジネスを考える責任があるし、悲しけりゃ働かなくていいってわけじゃないしな。みんなも本音はそんなもんじゃないの、なあ阿部?」
突然振られたアホは、「えっ?」ちゅう顔をしたが、
「そうですねえ。三日くらい、休みになったら嬉しいですけど」
アホがそう言うと、タマちゃんは満面笑顔になって手を叩いた。
「ほれ見ろ。仲間が死んでも、そのおかげで仕事が休めたらラッキーと思うのが人情だ。いやー、きみは実に人間味がある。この正直者~」
「じゃあ、明日は休みでいいですか?」
「いや、それは許さん。さっさと山岸を川に棄ててこい」
調子こいて言った。アホはムッとした様子で、
「えー、めんどくさい。それに、客だけじゃなくておれだって、コロシがあった店なんか嫌ですよ。三号館に異動させてください」
「な、なんだと貴様、おれに口答えする気か」
「だって、もうオーナー恐くないもん。号泣見せられたら、さすがにヤバいっしょ」
と、吐き捨てるように言って、受付のカウンターに寄りかかったときやった。
「うっ」
アホが目をむいて、胸に手を当てた。
「ごあっ!」
そのまま前のめりに倒れて、手足をけいれんさせた。あまりに急なことで誰も動けない。
やがて、アホの手足が動かなくなった。そこでようやくサンマルチノが、我に返ったようにアホの身体に飛びつき、ごろんと仰向けにさせた。
アホの顔は紫色に変色し、口から舌がだらりと伸びとった。
「阿部さん!」
ソバカスが叫んで、床に這いつくばってアホの顔を覗き込んだ。
「わ、わ、どうしよう。息してない。心臓マッサージしなきゃ。誰か、AED持ってきて!」
「AEDなんかうちにない。それに、もう無駄だ」
タマちゃんが、アホとソバカスを冷たく見降ろして言った。
「それは、生きている人間の顔色じゃない。百パー死人だ。胸を押さえての突然死となると、きっと、大動脈瘤破裂かなんかだろう」
「そんな。阿部さんまだ、二十二ですよ」
「おれに逆らったから、天罰でも下ったか……いやいや、これはほんのジョーク。そんな恐い目でボクを見ないで」
タマちゃんが黙るとシンとした。たぶん、みんなの胸には、おんなじ想いが渦巻いとるやろう。
これは殺人だ。
病死なんかじゃない。きっと毒殺。カプセルかなんかに毒薬を入れて呑ませ、そのカプセルがゆっくりと溶けて、たった今、アホの心臓を止めた。
犯人は、変態オヤジをやったんと同一人物。つまり、連続殺人や。
とすると――
「タマちゃん、もう、店の営業はあきらめたほうがええで」
わしは、こうなったらハッキリ言うたれ思って言った。
「おんなじ夜に、一人が溺れ死んで、一人が突然死するなんて、そんな話誰も信じんで。あそこはおかしい、縁起でもない店やって、みんな言いまっせ。それにな」
大きく息を吸って、続けた。
「犯人は、店のモンにちがいない、そういう噂も立つやろな」
「なにい」
タマちゃんが、目玉をギョロリとむいた。
「貴様、なにを根拠にそんなことを」
「根拠でっか? 今のポックリやがな。こんなもん、一服盛られたに決まっとる。そうすると、とても行きずりのサイコの仕業とは思えん。ここにいる誰かが、毒薬を用意して、アホの飲み物か食べ物に混ぜたんや」
「ちょ待てよ!」
ソバカスが血相を変えて立ち上がり、キムタクみたいに言った。
「そんなこと言ったら、おれっちが疑われんじゃん。行きずりの女にハルシオン盛って悪さすんのは、おれっちの得意技なんだからさ」
タマちゃんと古参兵が顔を見合わせて、ソバカスに詰め寄った。
「今のは本当か、永作」
そう言った古参兵の唇は、怒りのせいか、わなわな震えとった。
「言え。ハルシオンはどこで手に入れた」
ソバカスは、不満そうに口を尖らせた。
「ちぇ、なんだよ。主任、いつから刑事になったのさ」
「さっさと言え! 言わなかったら、本物の刑事に突き出すぞ」
「はいはい。じゃあ言いますけどね、おれっちの付き合ってるのがナースで、そいつに頼んで流してもらったんです。おれっち不眠症だからって言って。でももらったのは、ハルシオンだけっすよ。毒薬なんて、そいつの勤めてる病院にもないっしょ」
「わからんぞ」
今度はタマちゃんが言った。
「こっちの世界は管理が甘い。手ちがいに手ちがいが重なって、布袋並みのポイズンが病院に置かれてたのかもしれん。もし、阿部が毒を呑まされたんだとしたら、貴様しかやりそうなやつはいない。それが普段やり慣れた方法だからな」
「なに言ってんすか!」
ソバカスが絶叫した。
「おれっちがいちばん仲が良かったんすよ! なんで阿部さんを殺すんすか」
「かわいさ余って憎さ百倍。仲がいいからこそ、ボタンのかけちがいで殺意も生まれるってもんだ。親が子を殺し、妻が夫を殺す。親友殺しなんて平凡パンチだ」
「オーナーは狂ってる」
ついにソバカスは泣きだした。
「キチガイ。バカ。ちんば。乞食。玉袋筋太郎!」
コンプラ違反の連続攻撃や。タマちゃんは、ぐっと踏みこたえると、
「そっちのタマちゃん呼ばわりだけは許さん。言い直せ」
「わかったよ、こんちくしょう。精神障害者。頭の不自由な人。足の不自由な人。ホームレス。知恵袋賢太郎!」
「なにが知恵袋だ、この東ブクロめ。そんな改名考えたやつはぶっ壊してやる」
醜い悪口合戦に、わしもええかげんうんざりしてきた。
「なあ、タマちゃん。まだ独身の若者つかまえて、東ブクロ言うたらアカン。もう知恵袋でええやないか」
「しかし、いくらなんでも賢太郎は……」
悔しそうに唇を噛んだ。するとソバカスが、
「いちばん怪しいのは、そこの二人じゃないか。あいつらを雇ったとたん、こんなことが起きたんだぞ!」
と言って、わしらに指を突きつけた。全員こっちを向いた。わしもイッチも、とっさになんも言い返せんかった。
もちろん、わしらは犯人やない。だから、そんな可能性を云々されても時間の無駄やとわかっとる。せやけど、「やってません」言うてもなんの証拠にもならん。
「ぼくはやってません」
イッチがストレートに言うた。しらけたムードが漂う。
「あのな、イッチ」
わしは考え考え言った。
「今まで平和やった職場に、わしらが来たとたん連続殺人事件が発生した。これは事実や。怪しい思われてもしゃーない。だからわしらには、無実を証明する義務がある」
「アリバイ、ってこと?」
「そのアリバイがないんや。変態オヤジの変死の第一発見者はわしらや。非力なわしらでも、二人がかりで押さえつけたら、洗濯機で人を溺れさすことも不可能やない」
「でもやってないじゃん」
「それにやな、朝のコーヒーに始まって、今日の食事の支度をしたのもわしらや。アホの口に入れるもんに、なんでも混ぜ放題やったわけや」
「……混ぜたの?」
「やっとらんわ! あんたがわし疑ってどないすんねん。困ったな。どう言ったら怪しゅうなくなる?」
「ぼくたちには動機がない」
「そんなもん、みんなかてない言うやろ。だいたい世の中の殺人かて、まともな動機なんてほとんどないがな。なんで人様殺してんねん、アホか、いうもんばっかや」
「太陽のせい、とかね」
「誘惑に負けてしまいましたとか、耳にタコができたからとかな。だからこの際、動機はどうでもええ。誰に機会があったかや」
「ぼくたちにはあった……ねえ、ユエナ。自分で自分の首絞めてない?」
「そやねん。なんかうまい弁明はないかな」
わしは必死で考えた。わしとイッチが犯人じゃない証拠、みんなを納得さすような釈明を、どうにか捻りださんと――
と、またしても、頭ん中に妙な考えが降りてきた。
ここは夢や。現実とはちがう。なにがちがうかはわからん。でもなんとなく感じるのは、ここは現実より、どっか芝居っぽいちゅうことや。
レイに眠らされて、目を醒ましたら別の世界にいた。まるで劇の中に突然放り込まれたみたいや。要するに、当たり前やがここには現実感がない。
現実なら、殺人の被害者になることもあるやろう。冤罪で捕まることもあるやろう。自分には理不尽なことが起こらない、ちゅう保証はどこにもない世界やから。
劇ならどうか。多少理不尽なことはあるかもしれんが、中途半端で意味ないことは起こらん気がする。もし、仮に、これがミステリー劇だとしたら、わしらが犯人っちゅうのはどっか納まりが悪い。わしらの役どころは、たぶんそこやない。
もし、これが劇なら――
あ、そうか。
そういうことか。
こいつは劇なんや!
劇やったら、意味がある。
わしは今、人生を生きとる。それは、わしにとって、自分を主人公にした劇を演じとるのとおんなじことや。
なら、そいつをどういう劇にしたいか。主人公が途中で死ぬ? 殺人犯になる? そんなんアカン。もっとおもろい劇にすんで。
意外な結末。驚愕のトリック。そういうもんはちっとも思いつかんけど、
《茫然の結末。爆笑のトリック》
なら、わしにもなんとかできそうや。
わしは、自分が主役の劇を生きとる。そうなら、もっともっと主人公を大切にせな。途中で死んだり、悪者になったりしたらイカン。そんな劇はつまらんし、意味がない。人生は、劇にしてこそ意味がある。
もし、現実が、理不尽に殺されだり、冤罪があったりする世界でも、わしはそん中でもう一つの世界を生きる。そこではわしが主人公じゃ。負けへんで。ヤなこと全部ふっとばして、逆転して、意味ある劇にしたる。だからわしは、絶対犯人やない。イッチもそうや。わしの人生にとって大切だから、イッチも絶対犯人じゃないんじゃ!
「わかったで、イッチ。わしらは犯人やない」
みんな不思議そうな顔をして、わしを見つめた。わしの声に、深い確信がこもっとったからやろう。
「よう聞いてくれ。わしらは主人公じゃ。だから途中で殺されることもないし、ましてや犯人やない。この殺人事件の謎を解く側なんや」
見事にキョトンの空気が生まれた。わしは焦らずに続けた。
「そらな、主人公が実は犯人でした、いうミステリーもないわけやないで。しかし、そいつはアンフェアや。マッサージ館の殺人っちゅう、本格っぽいタイトルで、アンフェアはまずいやろ。島田潔と江南なんちゃらは絶対犯人やない。そやろ?」
「ごめん、ユエナ。やっぱりなに言ってるかわからない」
「じゃあ訊くがな、イッチはおのれの人生を、どう思ってんねん」
「……?」
「自分が主人公ちゃうんか」
「……人生を、ドラマと考えたらってこと?」
「そうや」
「そうだね。主人公かもしれない」
「せやったら、途中で退場したらアカン。とことん劇を生きるんじゃ。なにがなんでもハッピーエンドを目指したれ」
「それが、ぼくたちが犯人じゃないっていう証拠?」
「おう」
「むちゃくちゃ弱くない?」
「信じきるんじゃ。主人公は死なんし、卑劣な犯人にもならん。事件を通じて成長し、ラストには希望を見出す、ってな。せやなかったら、ここへ来た意味がない」
「いくら信じたって、いつかは死ぬでしょ」
「その弱気がイカンのじゃ。わたし、なんだか死なないような気がするんですよーって、阿部知代も言うてたやろ」
「それは宇野千代でしょ。とっくに死んだけど」
「揚げ足とんな! あっこまで生きたら大勝利や。とにかく気合じゃ。気合じゃ気合じゃ気合じゃ気合じゃ気合じゃ気合じゃ気合じゃ気合じゃ気合じゃあー、ゴース」
「うるさいな! さっきから、なにゴチャゴチャ言ってんだよ!」
ソバカスが、ザコキャラのくせにマジギレしてわめいた。
「なにが主人公だよ。そんだったら、おれっちだって主人公じゃん。そう言い張ったら、犯人じゃないって認めてくれんのかよ」
「兄さんは、どんなタイトルのドラマを生きてんねん」
「タイトル? そうだなあ……永作くんのちょい悪伝説、かな」
「犯人っぽいな。後半の舞台は刑務所がお似合いや」
「ふざけんなよ! もう前半で入っちまったよ」
「兄さんも、一発逆転目指したらええねん。わしは主人公やってとことん信じたれ」
「うーん、おれっちは、どうせなら悪のヒーローになりたいなあ。完全犯罪やって、最後まで捕まらないの」
「やっぱしあんたは最有力容疑者や。でも待てよ、そんなミステリーちっともおもろないなあ。誰が犯人やったら意外でおもろいか……」
古参兵、タマちゃん、サンマルチノと、順繰りに顔を見た。タマちゃんとサンマルチノには、変態オヤジの殺人に関してはアリバイがある。そこが逆に怪しい。いちばん意外でアリバイのあるやつが、この場合は正解――
ん?
おかしい。どこにもマッカーサーがおらん。
「戦争好きの姉さん、どこ行った?」
みんなも気づかんかったらしく、まわりをきょろきょろと見た。
「トイレにでも行ったかな。そのうち帰ってくるだろう」
古参兵が言うと、サンマルチノが首を振り、
「ちがうわ。わたしと一緒に二階へ行ったあと、降りてきてないのよ。まだ山岸さんのそばにいるのかも」
「だとしたら遅すぎる。花畑、見に行ってこい」
タマちゃんがそう言ったとき、わしの脳裡に、マッカーサーがランボーみたいに、サバイバルナイフを持って待ち伏せしとる絵が浮かんだ。
そうや。腹減ったとか言って、夜中に食堂に忍び込んでたマッカーサーこそ、いっちゃん怪しい。そこそこ意外性もある。
「一人で行くのは危ない。行くならみんなで行こ」
わしの提案で、みんなで一列になって階段を昇った。先頭は古参兵で、最後尾にはピーピー鳴きながらとおるちゃんがついた。
「電気点けろ。サイコが隠れてる可能性もあるからな」
タマちゃんの命令で、古参兵が廊下の灯りを点け、洗濯室を覗いた。変態オヤジの死体があるだけで、マッカーサーはいない。
「クミちゃん」
呼びながら、サンマルチノがトイレを見た。が、ここにもおらん。
「食堂で、パン食ってないかな」
わしが言うと、タマちゃんが食堂のドアを開けた。ここの灯りは最初から点いとる。
「あっ!」
サンマルチノが叫んだ。その瞬間、わしにも見えた――マッカーサーが、冷蔵庫のそばにうつ伏せに倒れとるのが。
真っ先に駈け寄ったサンマルチノが、マッカーサーの身体を揺すった。しかし反応はない。仰向けにする。顔が見える。サンマルチノが悲鳴をあげた。
マッカーサーの顔は、土色に変色し、すっかり干からびていた。
超常現象や。
さっきまで、普通に生きとった人間がミイラになる。そんなことあるか? でもあれはまちがいなくマッカーサー。じゃあ、なんらかのトリックで?
ミイラ……即身仏……布団パック即身成仏……電撃ネットワーク……犯人はギュウゾウ?
いやいや。布団圧縮袋で窒息はしても干からびはせん。もっと別のトリックや。そういえば、パン食いに来たとき、やけにやつれとると思ったが、それとこの死に方は関係あるんやろうか。いったいどうしたら、見る見るやつれて干からびる?
どう考えても、そんなトリックがあるとは思えん。無理や。もはやミステリーの範疇やない。ブードゥーの呪いとか、吸血鬼とかの世界や。
そうか。こいつは本格やなくて、実はホラーやったんか――
「もう嫌だ!」
ソバカスが、突然泣き声を張り上げて喚いた。
「冗談じゃねえや。こんな職場にいられっかよ。今すぐ辞めさせろ!」
「なにい」
タマちゃんも、負けじと全力投球で喚いた。
「そんなのは、借金全部返してから言え。このタコ!」
「なにコラあ。タコはそっちじゃ、タコ!」
「金なら返せんってか。大川総裁気取ってねんじゃねえぞ、このタコ!」
「タコ!」
「もうやめて!」
サンマルチノが、不毛な言い争いに割って入った。
「ケンカしてる場合じゃないでしょ。クミちゃんが餓死したのよ!」
「餓死だって?」
古参兵が、ポカンと口を開けた。
「昼に野菜スティック食ってたぞ。餓死なんてするもんか」
「きっとそれ、指をしゃぶってたのよ」
「いやいや、ニンジンとかセロリを食ってたって」
「指にいろんな色塗って、みそつけるフリしてたのよ」
「んなアホな……うっ」
古参兵が、突然苦しげに顔をゆがめた。
「く、空気」
「どうしたの?」
「酸素が薄い。苦しい」
「パニック? 落ち着いて。酸素ならあるわよ。さあ、ゆっくり息を吸って」
「酸素!」
古参兵の顔が、紫イモみたいになった。なんでか知らんが、古参兵のまわりだけ、急に空気が薄くなったようやった。
「過呼吸だな。金魚みたいにパクパクして。まあ、部下が三人も死んだんだから無理もない。おい、秋山。そいつは時間が経てば治るから、あわてず息を吐いてみろ。吸う、吐く、吐く、吸う、吐く、吐くのリズムだ」
「むむむむむむむむ」
ついに古参兵は、床に転がってジタバタしはじめた。サンマルチノが、シンクの抽斗を漁ってビニール袋を取ってきて、古参兵の口にあてがおうとした。が、首をブンブン振って暴れるので、全然できずにいた。
「オーナーどうしよう。秋山さん死にそう」
「過呼吸じゃ死なんよ。そう見えるだけだ。そのうち落ち着く」
「ほっといていいの? もうすっかりゆでダコみたいよ」
「ハハハ。千と千尋に出てくるオヤジみたいだな。意地汚くバクバク食って、こんな顔色になったっけ」
と、ソバカスが、むきになって反論した。
「なに言ってんすか、オーナー。千と千尋に、そんな場面ないっすよ」
「いや、ある。おれは宮崎にはちょいと詳しいんだ」
「オーナーの言ってるのは、カリオストロのルパンでしょ。血が足りねえってバクバク食って、食ったから寝るってやつ」
「そんな場面あったか?」
「オーナー」
サンマルチノが、しゃがんだままタマちゃんを振り仰いだ。
「秋山さん、死にました」
「へ?」
タマちゃんの顔が、クラリスに次元様と言われて、くわえタバコを髭に落としたときの次元そっくりになった。
「でも死ぬはずないんだけどなあ……ホントだ、死んでる。おかしいなー。過呼吸じゃなくて、のど飴でものどに詰まらせたかな」
「秋山さん、のど飴舐めてたの? ひどい。目の前で、クミちゃんが餓死したっていうのに」
「いや、舐めてたかどうか知らんけど、ほかに理由が思いつかん」
「みんな、いいかげん目を覚ませよ!」
ソバカスが叫んだ。
「こんなにジャンジャン人が死ぬなんて、どう考えてもおかしいだろ。こいつらのせいに決まってる。こいつらが、向こうから殺人ウイルスでも持ってきやがったんだよ!」
またわしらを犯人呼ばわりした。
「山岸さんは溺死ウイルス、阿部さんは頓死ウイルス、クミさんは餓死ウイルス、主任は窒息死ウイルスで殺したんだ」
「殺してません!」
イッチが試合後の大仁田みたいに、涙の出ない涙声で訴えた。
「もしかしたら、ぼくたちが来たことで、なんらかの異変がこちらの世界に起きてしまったのかもしれません。もしそうだとしたら、本当に申し訳ないと思います。だけど、意図的に殺したりは絶対にしてません」
「なんらかの異変って、なんだよ」
「ぼくにもさっぱりわかりません。ユエナ、どう思う?」
いきなり振ってきよった。ホンマ、アドリブの効かんやっちゃ。
「自分で言っといて、どう思うってどないやねん。フリートークが苦手やと、せっかく売れても生き残れんで」
「たとえば?」
「いくらでもおる。うなずきトリオがそうやろ。あとクールポコや」
「そこ限定?」
「まじめはいいけどなんかしゃべれって、どつきたくなんねん。今のあんたがそうや。異変がなにかくらい、口から出任せでもいいから言え」
「出任せじゃダメじゃん。ゴマスリ行進曲じゃないんだから」
「誠心誠意、嘘をつく。そうすりゃ嘘もまことになるって、道徳の時間に習ったろ」
「それは、昭和の政治家のセリフでしょ。だいたい古いんだよユエナは。誠意なんて、平成のバカップルとともに死んだよ」
「おいコラ待て。イッチの言うてるのは、ウキウキウォッチングの羽賀研ちゃんのことやろ。古いなー。平成のバカップルいうたら、今やモーニングの辻ちゃんや」
「全然バカのスケールがちがうじゃん」
「漫才はやめろ!」
ソバカスの怒声が響いた。
「今度は誰が死ぬんだ。え? おまえらの正体はなんだ。テロリストか?」
「テロリストちゃうわい。藤原組長みたいに言うな」
「じゃあなんなんだよ。なんでみんな死ぬんだ。説明しろ!」
「わしらかて、知らん言うてるやろ。テロリストでもなきゃ魔術師でもなきゃ妖怪でもないねん……あ」
突然わしは、妖怪いう言葉から、あることを連想した。
「なあ、イッチ。もしかしてこれ、本物の妖怪の出てくるミステリーちゃうか?」
「どうしたの、ユエナ。稲川淳二がホラ話をするときみたいな顔になってるけど」
「もしかしたらわしら、妖怪に化かされてるのかもしれん」
「たぬきとか?」
「わからんけど、たとえばタイトルに魍魎とあっても、ホンマに魍魎が犯人やないやろ。でもなんとなく、魍魎いう怖ろしげなもんがどっかで出てきてほしいなーって、期待して待ってることないか?」
「ごめんなさい。一ミリもわかりません」
「とおるちゃん見てみい。さっきから、妙にビクビクしとる。わしらには見えんもんが、あの子にはバッチリ見えとるんちゃうか?」
「別に、ピヨちゃんは、普通の鳥だよ」
「動物の能力は、人間には計り知れん。こんなん出ましたけどいう白蛇も、なんか見えとったんやろ」
「あれも動物? ただのクラブのママでしょ」
「まあそれはたとえや。とにかく、ここは現実とどっかがちがう。そのどっかとは、本物の妖怪がいるっちゅうことやと推理したわけや」
「当てずっぽうじゃん」
「直観推理こそ、ミステリーの王道じゃ。名探偵は、みんなそうして大きゅうなった」
「直観とは、推理によらず物事を認識することである」
「当たっとればいいんじゃい! ここまで言えば、イッチにはピーンとくると思っとったんやけどな」
「もっとヒントを」
「象印クイズかい。ほんならズバリ言うたるわ。幾野セリイや」
「サイレント?」
「そや。なんかおかしかったやないけ。口利かんのもそうやし、夢に出てくるのもそうやし、どっかで見た気がするけどどこにもいないっちゅう……妖怪やろ?」
「けど、あっちでクラスメートだったんだよ」
「向こうの世界じゃ、力を封印されてたんやろうな。それを玉城レイが余計なことして、こっちへ送り込んだもんで、力を解き放って殺しまくってるわけや」
「そんな子じゃなさそうだったけど」
「甘い! 妖怪には倫理もへったくれもない。だから怖いんじゃ」
「いい妖怪もいるじゃん。鬼太郎とか」
「あんなもん、目玉をお父さん呼んどるキチガイや。名前に鬼つけられとるしな。わしはな、セリイはマッサージ館にとり憑いた、座敷わらしやとにらんどるんよ」
「座敷わらし?」
「昔っから、それっぽいなとは思ってたんや。あれに憑かれた家は、次々に不幸が起こって、没落するんやなかったな」
「どうかなあ。直接人殺す?」
「殺す殺す。華麗なる没落目指して一直線や。そして誰もおらんようなる」
「いったいなんの話だっ!」
タマちゃんが、おさむちゃんです言う直前くらい、額に青筋立てて吠えた。
「うちに座敷わらしがとり憑いた? はっ! 冗談は顔だけにしろ。座敷わらしがいる家は栄えて、いなくなった家が没落するんだ。貴様の言ってるのは真逆だ」
わしは、ほーっと感心した。
「タマちゃん、えらい詳しいでんな」
「常識だ。だいたい座敷わらしは、いたずら好きのおちゃめさんだからな。人殺しなどはせん。ただし赤いわらしを見ると、一家全員食中毒で死ぬそうだ」
「やっぱり怖いわ。確かサイレント、赤い靴履いとったで」
「クラスに座敷わらしがいたのか?」
「それっぽいのがな」
「子どもにしか見えないから、貴様らの歳では見えんはずだぞ。でも最近の学生は精神年齢が低いから、そういうこともあるかもしれん」
「先生にも見えとったで」
「先生なんてもっと幼稚だ。で、そいつがこっちに来たのか?」
「わしら、そのギャルを追ってきたんや」
そもそもの最初から説明すると、タマちゃんは腕組みをしてうーんと唸り、
「確かに怪しいな。レイはとんでもないことをしたのかもしれん。ぜひその子を見つけたいもんだが、なにか呼び出す方法はないかな」
「わたし、こんな話知ってる」
サンマルチノが、得意げに胸を張って言った。
「宮沢賢治の童話に、ざしきぼっこのはなしというのがあるの。その中で、十人の子どもたちが大道めぐりをやってると、いつのまにか十一人になって、増えた一人がざしきぼっこだって書いてあった。だから、みんなでそれをやったら呼び出せるかもしれない」
「大道めぐりって?」
わしが訊くと、サンマルチノは首を傾げ、
「よく知らないけど、手をつないで円くなって、ぐるぐるまわる遊びみたい」
「なにがおもろいのかわからんな。かごめかごめと一緒か?」
「さあ。でも結局、増えた一人がどの子かわからなくって、それなのに、何度数えても十一人いたんだって。不思議でしょ?」
「不思議を通り越しとる。数学的にありえへん」
「くだらねえ話はやめろ!」
これで何度目かの爆発を、ソバカスがした。
「妖怪なんているもんか。アホくせえ! ごまかしてんじゃねえよ」
「ごまかす気はないで。一生懸命考えとるんや」
「ふざけてるようにしか見えねえよ。おい、妖怪、いるなら出てこい。姿を見せろ、アホ。ほら見ろ、いねえじゃねえか」
「妖怪をバカにしたらいかん。なんかされるで」
「なんかしてみろ、妖怪! なんかようかいじゃねーよ、バーカ。ほら見ろ、なんにも……え?」
ソバカスが、不意に口をつぐんだ。
「どうした?」
ソバカスが、のどに手を当てて、やけに難しい顔をした。さっきの古参兵みたいに、急に空気が薄くなったんやろうか。
「え……あれ……て、て、て、て、て」
「手? 手がどないした?」
「ティ、ティ、ティ、ティー」
「ティー? 紅茶か?」
「ティー、ティー、ティティーティティー!」
ソバカスの口から絶叫がほとばしり、両手がピーンと横に伸びた。そして、首がぐるっと三六〇度まわった。
「え?」
「ユエナ、見るな!」
イッチが手を伸ばして、わしの目をふさいだ。でもその前に、見てもうた。
ソバカスの首が、胴体から離れて落ちたのを。
血は出んかった。まるで、その箇所がネジ式になっとったみたいに、きれいに外れてポトリと落ちた。
「ティー!」
断末魔の絶叫が、まだ耳に残っとる。首がとれ、腕を水平に広げたソバカスの姿は、あたかもエジプト十字架の再現……いや、完璧なTT兄弟の体現やった。
ついに、ソバカスまで逝ってもうた。
残ったのは四人。わし、イッチ、タマちゃん、サンマルチノ。
わしとサンマルチノは口を利けず、ただ突っ立っとった。そのあいだに、イッチとタマちゃんが、ソバカスの首と胴体をどっかに運び、また食堂に戻ってきた。
「これではっきりしたな」
タマちゃんが、荒い息をつきながら、ぼそりと言った。
「永作は、アンドロイドでも宇宙人でもない。おれたちと同じホモ・サピエンスだ。その首が、一滴の血も流さずにとれるなんて、あるはずがない。そのあるはずのないことが、われわれの目の前で起こった」
「そやな」
みんな無言やったんで、わしが相槌を打った。
「もはや人間技じゃない。もし、人間が犯人だとしたら、デビッド・カッパーフィールドしか思いつかん。でも彼は向こうの世界にいる」
タマちゃんが遠くに目を向けて言うと、サンマルチノがはたと手を打ち、
「そういえば、こっちに河童フィールドというのがいたわね。でも彼にできるイリュージョンといったら、せいぜい頭のお皿で目玉焼きを作るくらいだわ」
要らん小ネタを挟んだ。しかしタマちゃんは、それに食いついた。
「河童! そうだ。河童なら殺人をする。やつに尻小玉を抜かれると、死ぬからな」
「尻小玉って?」
「肛門内にあるとされる幻の臓器だ。河童はそれを食う。きみのクラスメートは、同級生の尻小玉を抜いてなかったか?」
「そらないなあ。みんなピンピン生きとったさかい」
そもそも肛門内にそんなもんがあったら、わしらと同じホモ・サピエンスやない気がする。河童犯人説は、その点からも大いに疑問やった。
「まあ、そういうメジャーなやつかどうかは別として、妖怪の仕業なのは確かだ。とすると、おれたちに助かる見込みはないな」
タマちゃんはすっかり観念したようや。顔をあげて天井のどっかを見つめ、
「妖怪さん、さっきは永作が失礼なことを言ってすみませんでした。その報復で首をねじ切ったんですね。すばらしい力です。感服します。もう脱帽です。つきましては、不肖玉城イチロー、あなたの弟子になりたいと思います。殺人の手伝いでもなんでもしますから、どうかわたくしの命だけは、見逃していただきたく存じます」
いっそ爽快なくらい卑怯やった。サンマルチノがタマちゃんを横目でにらみ、
「もし妖怪が、天邪鬼だったらどうするの。反対のことされるわよ」
「反対? とすると……おいコラ、天邪鬼! 殺してみろ、ほら」
カマーンと天邪鬼を挑発した。が、なんも起こらんかった。
「花畑、おれは疲れた。もうどうしていいかわからん」
「そうですね」
サンマルチノも、もはやあきらめムードやった。
「わたし、仲間より長く生きる気なんてなかった。みんなが死ぬのを見るくらいなら、いっそ先に殺されたかった」
「なに言うねん」
わしは本気で突っ込んだ。
「弱気は最大の敵や。最後まで生きよう思わんかったら、人生が劇にならん」
「もういいのよ、ユエナちゃん。わたしは死を見すぎた。わたしだけが生き延びていい理由なんかない。ただ消えたいの」
「死ぬのは痛いで」
「一瞬よ」
「なんのために生まれてきたんや」
「五歳で死ぬ子もいるわ。わたしなんかもう三十よ。充分生きたわ」
「アホぬかせ! わし、姉さん好きなのに」
サンマルチノが黙った。わしはここぞと畳み込んだ。
「悲しむ人をあとに残して、勝手に死んだらアカン。そらな、この世が五歳でも死ぬいう不細工なところやっちゅうことは、小学生でも知っとる。そんな当たり前のことで悩むんは、正しいことやない。笑いとばすんが正解や。お笑い観い。ケタケタ笑うと、元気出るで。この世も捨てたもんやないっちゅう気になる」
「そうね。ありがとう」
サンマルチノが、にこりともせんと言った。
「でもこの状況で、笑うのは無理。助かる気もしないし。どうせ死ぬんだから、みっともない悪あがきはしたくないの」
ちらっとタマちゃんを見た。タマちゃんはいかにも心外そうにムッとし、
「おれへの当てつけか? フン。みっともなかろうが、おれは最後まで自分が生き残る道を探る。ねえ、妖怪さん。あなたに生け贄を捧げましょうか? そうですねえ、まだ十五歳の若い少年少女などはいかがでしょう」
ぎらりと光る目をこっちに向けた。わしはぞっとして、イッチにすり寄った。
「おい、イッチ。あのおっさん、わしらを殺すつもりやで」
しかしイッチは、心ここにあらずといった様子で、
「……え?」
「聞いてなかったんか。妖怪の生け贄に、わしらを差し出す言うとるんや」
「妖怪?」
「どっから聞いてないねん! 耳あるんか、われ」
「ああごめん。考え事してたから」
「恐るべき鈍感力やな。なに考えてたんや」
「いや、昨日骨の勉強してて、ふと思いついたことがあって」
「骨? 骨がどないした」
「まあ、ただの偶然かもしれないけど、先輩たちの身に起こったことに、ひょっとしたら関係あるのかなあって」
「なんや。はっきり言え」
「うーん、でも、なんか羞ずかしいなあ。笑われそう」
「モジモジくんしとる場合か。ほら」
「あのさ、外側のくるぶしは、外果って呼ぶじゃん」
「おう」
「そんで、内側は内果って……ウフフ」
「コラ! オチ言う前に笑うんは最低や。早よ言え」
じれてイッチをどついたときやった。
「ワチャー!」
タマちゃんが、ブルース・リー調の雄叫びをあげながら、ジャンピング・ニーで飛び込んできた。
「おげ!」
イッチの顔面にモロに入った。たまらず後ろに吹っ飛ぶ。キッチンの戸棚に背中からぶち当たり、派手な音を立てた。
「デビルウイング!」
タマちゃんが怪鳥のように宙を舞い、くるりと前方回転して浴びせ蹴りをした。イッチが間一髪でよける。するとタマちゃんの踵が、豪快に戸棚の扉を蹴破った。
「おんどりゃわれ!」
イッチが見たこともないような形相になり、聞いたことのないような汚い河内言葉を発して、戸棚から皿をとってタマちゃんの頭に振りおろした。
コーンと安い音が響く。安いプラスチックの皿や。タマちゃんは不敵に笑い、皿を四、五枚わしづかみにしてイッチの頭を殴った。
皿はペロンと曲がった。紙皿や。つくづく安いモンしか置いてない。二人は互いにプラスチックと紙で攻撃し合ったが、ほとんどノーダメージやった。
「あの人たち、妖怪にとり憑かれたわ」
サンマルチノが二人のほうへ走った。そして険しい顔で手を振りあげ、
「出て行け! 出て行け!」
叫びながら、背中をバシバシ叩いた。タマちゃんもイッチも、電流爆破でやられたように背中をのけぞらせてあえいだ。やっぱり恐ろしいパワーや。
「まだ出て行かないのっ!」
サンマルチノが、ロードウォリアーズばりにタマちゃんを頭の上にリフトアップして、床に思いきり叩きつけた。
わしは、ここが敵を倒すチャンスと見てテーブルにのぼり、悶絶してるタマちゃんの腹にフットスタンプで降りた。
「おごうっ!」
手ごたえ、いや、足ごたえ充分や。
「もういっちょ行くぞ!」
そう言って再びテーブルにあがった。が、よう見ると、サンマルチノが今度はイッチをリフトアップしとる。味方のピンチじゃ!
「ハイジャンプ魔球、エビ投げ!」
わしは高々とジャンプして、振りかぶった手を、脳天唐竹割りの要領でサンマルチノの頭に叩き込んだ。
「効かぬわ!」
サンマルチノは、イッチを頭上に差し上げたまま、微動だにしなかった。わしはもう一度テーブルにあがり、ホワーッと気合の声もろとも、キラーカーン直伝のモンゴリアンチョップをかました。
「効かぬ、効かぬ」
化け物や。もし妖怪がとり憑いてるんなら、この女や。
「行くわよ!」
サンマルチノがイッチを投げつけてきた。まともにボディアタックを食らった格好になり、後ろにひっくり返って、イッチを抱えたまま硬い床に背中を打ちつけた。
息が詰まる。身体中がしびれて力が入らない。
「オウ、オウ、オウ、オウ」
まずい。サンマルチノがシンクに寄りかかって、野生の遠吠えを始めた。ブルーザー・ブロディの、必殺キングコング・ニードロップがくる!
「オウ、オウ、オウ、オウ、オウ、オウ」
サンマルチノが、ゆっくりと右腕を差し上げた。助走が開始される。もうアカン。あれを食らったら最期、内臓破裂で大量出血し、苦しみぬいてジ・エンドや。
「イッチ。わしは動けん。あんただけでも逃げろ」
わしが言ったんと、サンマルチノが跳んだのが同時やった。もう間に合わん。二人とも、超獣のニーに串刺しにされる。
と。
イッチがさっと身体を反転させて、右足を天に突き出した。そこへサンマルチノが顎から落下した。迎撃ミサイル命中や!
「ハーッ、ハッ、ハッ、ハッ、ハー」
イッチがぬーっと立ち上がり、アンドレ風に野太く笑った。サンマルチノは大の字に伸びとる。
「時は来た!」
イッチが爆勝宣言をした。そして、サンマルチノの頭をつかんで無理やり立たせると、ブレーンバスターの形に担ぎあげ、マットのない床に垂直落下式DDTを決めた。
ゴーンと、ボーリングの球でも落としたような音が響いた。こいつはエグい。ケネディ大統領みたいに、サンマルチノの頭が爆ぜてなんか出たんちゃうかと思った。
「小川ァ、まだだコラア」
橋本妖怪にとり憑かれたイッチは、相手を完全に小川直也と思い込んどった。スリーカウントは狙わず、サンマルチノを失神させようと、三角絞めの体勢に入った。
「イッチ、危ない!」
いつの間にか復活していたタマちゃんが、イッチの背後に迫った。振り向くイッチ。その顔面に、タマちゃんの口からブーッと液体が吐き出された。
「青汁毒霧じゃあ!」
目を押さえてひざまずくイッチ。タマちゃんはニターッと不気味な笑みを浮かべ、手をひらひらさせながら、イッチのまわりを蝶が舞うようにダンスした。
「ケッケッケ。邪道でけっこうコケコッコー」
調子づいて言うと、おもむろにポケットからチャッカマンを取り出し、イッチの髪の毛を燃やそうとした。
「それがあんたのやり方かあ!」
わしはたまらず、床から頭をあげて叫んだ。するとタマちゃんは、ザコシのアシュラマン漫談のようにカーッカッカッカーと笑い、イッチのまわりを舞っては、ちょいちょい火をつけた。
「クソ……正直、目が見えん」
「落ち着け、イッチ。それ青汁やぞ」
「……青?」
イッチがひざまずいたまま、恐る恐る目を開けた。その瞬間、タマちゃんが電光石火のシャイニング・ウィザードを浴びせた。
イッチがダウンした。まずい。わしがなんとかせんと、イッチが完璧にやられてまう。
「ドドスコスコスコ」
勝利を確信したんか、タマちゃんが腰を振ってダンスし、ありもしない観客席に向かって投げキッスをした。
「そろそろフィニッシュ行くぞー」
悠々とテーブルにのぼり、イッチに背中を向けた。まちがいない。ムーンサルトプレスを決めるつもりや。
タマちゃんが腰を深く沈める。すると、ゴルゴ松本の命のポーズっぽくなった。そういえば、松本という名字には、人志や清張や零士など超ビッグネームが多いが、ゴルゴだけは例外やなとほんの一瞬思った。
くそったれ。わしかて大物になったる。
しびれる身体を起こした。タマちゃんがジャンプする。美しく宙を舞うタマちゃん。わしはとっさに、星飛雄馬のスクリュースピンスライディングを破った掛布を思い出し、下からジャンプして、錐揉み状に身体をねじってタマちゃんに激突した。
タマちゃんがバランスを崩し、側頭部から床に落ちた。首が、なにを唄っても橋幸夫になってあれーっと悩むおさむちゃんみたいに、L字型に曲がった。
「よくもやったな、武藤ォ」
橋本イッチが、ゆらりと立ちあがった。タマちゃんのベルトをつかんで腰を引っ張りあげ、胴に両腕をまわしてガシッとロックする。プロレスの芸術品、ジャーマン・スープレックス・ホールドの体勢や。
「小川ァ、おれごと刈れえ!」
今度はわしが、小川になってもうた。
「いや、タマちゃんはグロッキーや。そのまま後ろにほっぽり投げたらよろし」
「遠慮するなあ、小川」
「わし小川ちゃう。奥川や」
「オゥガァワァァァァ」
アカン。こんなんしてるうちにタマちゃんが息を吹き返してまう。わしはえいと肚を据え、柔道の授業で習った大外刈りのポイントを思い泛かべながら、タマちゃんを抱えたイッチに組みついた。
「いくでSTO、スペース・トルネード・奥川!」
大きく振りあげた右足で、イッチの右足を刈った。イッチ、続いてタマちゃんが、後頭部をゴンゴンと床に打ちつけた。
タマちゃんの口から舌が出た。ちょうどIWGPの決勝で、ホーガンにKOされたときの猪木そっくりに。ということは、まぎれもなく本物の気絶や。
「イッチ、大丈夫か?」
見ると、イッチも舌を出しとる。しまった。ダブル失神させてもうた。
「ペローン、なんちゃって。ぼくなら大丈夫」
イッチが舌をペコちゃんみたいにして、ウィンクした。わしはどっと疲れた。
「驚かすなや。イッチまでやってもうたと思ったわ」
「フフフ。敵をあざむくにはまず味方からってね。さあ、あとはミス花畑だ」
「サンマルチノなら伸びとる。あんたがやったんや」
「え?」
DDTを食らって死んだようになってるサンマルチノを見て、イッチは信じられないという顔をした。
「じゃあ、ぼくたち勝ったの?」
「そうらしいで。二人ともねんねや」
「あの怪人コンビに……勝った……」
その様子は、あたかも猪木・坂口組に勝利して、ホントにおれたちがやったのかと驚き惑う、若き日のマッチョ・ドラゴンを彷彿とさせた。
ちゅーことは。
「やったぞ!」
パク・チュー役のわしと、がっちり抱き合った。
自然な抱擁や。
なんの罪悪感もない。嫌悪感もない。共に死力を尽くして闘い、強敵を破った仲間への、爽やかで純粋な共感しかなかった。
イッチと抱き合いながら、わしは心ん中で母親に向かって叫んだ。
ザマーミロ。わし、あんたらに勝ったで!
パチパチパチ。
拍手の音が聞こえて、ハッと後ろを向いた。
タマちゃんとサンマルチノが、いつの間にかテーブルに寄りかかって立っとった。
「敗けたよ、ヤングパワーに」
タマちゃんが苦笑いを泛かべて、潔く言った。
「空中で蹴られて落下したときは、誇張しすぎたパーフェクト・ヒューマンくらい首が曲がっちまった。あれで勝負あったな」
「わたしも」
サンマルチノも、笑みを見せて言うた。
「DDTを受けた瞬間、目の前がぱーっと明るくなって、オーマイゴッドファーザー降臨って思ったわ」
「ところで一ノ瀬くん」
タマちゃんが、椅子によいしょと坐って、イッチを手招きすると、
「さっきわたしがジャンピング・ニーをする前に言ってた、外果とか内果とかの話。あれはどういう意味か、教えてくれるかね」
わしもそれが気になっとった。
「そや、あの続きを言えや」
イッチはまた、照れ臭そうにモジモジすると、
「たまたま思いついたんだけど」
顔をほんのり赤くして、話し始めた。
「ぼくたちは、ツボを押されてこっちに来ました。どうしてそういうことが可能だったかというと、ツボにはぼくたちの知らない秘密があって、その押す強さ、時間、角度などの組み合わせで、無限の作用を引き起こすことができるからだそうです」
「待ってな、コーヒー淹れたる」
わしはシンクのほうへ行って、四人分のコーヒーを淹れた。
「ありがとう。それで奥川さんは、どこのツボを押されたかをちゃんと記憶していました。ぼくはそれを聞いて、頭の中で反芻してみました。最初に両手の指先、次にまぶた、首すじ、足首のまわり、最後にお腹。ぼくと奥川さんは、ツボの本を見てみましたが、それこそ数える気にもならないくらいたくさんツボがあって、果たしてどの組み合わせだったかを特定するのは、到底不可能だと思いました。だから、なんの知識もないぼくらにそれを再現するのは無理だとあきらめ、マスターモミゾウのお兄さんであるオーナーに教えてもらうしかないと考えたのです」
「すまんな、実はおれもまったく知らん」
タマちゃんが、コーヒーを啜って悪びれもせずに言った。
「どうせそんなことやと思ったわ」
わしはため息をついた。それをアテにしてマッサージ館に来たばっかりに、とんだ事件に巻き込まれ、危うくKOされるところやった。
「もちろん、すぐに教えてもらえるとは思わなかったので、無駄を承知で、指、目、首、足、お腹と、自分で触ってみたりしました。しかしこの中で、首は果たして、首のツボなのかと思いました。というのは、奥川さんの話では、押されたのは首というより、のどの近くだったようだからです。のどというのは変わってるな、そんなところにツボがあるのかな、とぼくは考えました。指、目、のど、指、目、のど」
イッチがコーヒーを飲み、あちっと顔をしかめた。
「そこでぼくは、おやっと思いました。指、目、のどの順番で、頭文字をつなげてみると、ゆ、め、の、となることに気づいたからです。夢の、か。これは面白い偶然だな。残りは足とお腹だから、あ、お、です。ゆ、め、の、あ、お。これでは意味がありません。まあ、意味がなくて当たり前なんですけど、ほかに考えることもなかったので、もう少しこの言葉遊びを続けてみました。足はひょっとして、足ではないのかもしれない。ユエナはどこだと言ってたろう。そうだ、足の内側と、踵だった。そういえば、足の内側のくるぶしのことは、内果というんだったな。内果、踵で、な、か、か」
聞きながら、わしも頭の中で文字をつなげてみた。ゆ、め、の、な……か?
「夢の中!」
思わず声をあげると、イッチがにこっとした。
「面白いでしょ? 最後にお腹を、へそだと考えたの。そうすると、夢の中へ、となるんだよね。夢の中へ、夢の中へって、わ、井上陽水じゃんって思って」
「いやいや、イッチ、陽水になるからおもろいわけやない。まさしくわしらは夢の中へ来たんや。こんな偶然あるか?」
「こじつけだな」
タマちゃんが鼻で嗤った。イッチはますます照れ臭そうになり、
「もちろんこじつけですが、いったん頭文字が気になりだすと、なんでもその法則を当てはめたくなってきました。山岸先輩の死体を発見したあと、しばらくして、そういえば先輩のことをマッサージしたなと思い出しました。階段から落ちて打った場所をさすったんです。あれはどこだったろう、確かお尻とか、背中とか、お腹だったな。あと、すねも触った。尻、背中、お腹、すね。順番はどうだったろう。すねが最初だったかな。す、し、せ、お? だめだな、全然言葉にならない。お腹はへそかな? 待てよ、山岸先輩は、横っ腹と、胃のあたりをさすってほしいと言ってなかったかな。す、し、せ、よ、い? ちがう、すねの次は胃だった。で、最後が横っ腹だった気がする。すね、胃、尻、背中、横っ腹。もしこの順番だったとしたら、どうなるだろう。す、い、し、せ、よ……あ、水死せよだ」
サンマルチノが椅子を蹴って立ちあがった。わしはブーッとコーヒーを噴いた。
「水死しようにも、ここには海も川も、風呂桶もないしね。だから洗濯機に水を溜めて、頭から飛び込んだのかなあなんて、バカなことを考えたりして」
「待って、バカじゃないわ」
サンマルチノが、真剣な顔で言った。
「偶然も、二つ重なると偶然とは呼べない。一ノ瀬くんは、この世に潜む、とんでもない秘密を発見したのかもしれないわ」
「ツボの秘密ですよね。だとしても、発見したのはぼくじゃなくて、玉城レイさんのお父さん、つまりオーナーの弟さんですよ」
「フン、おれじゃなくて悪かったな」
タマちゃんが拗ねて、イッチを上目遣いににらんだ。
「でもおかしいじゃないか。夢の中へ、と押したら、すぐこっちに来たんだろ。水死せよ、と押したら、たちまち水死したのか? え?」
「たぶんそれは」
イッチの代わりに、サンマルチノが答えた。
「夢の中へ、と押したのは、プロみたいに上手な子だったんでしょ。だからすぐに効果が現れたのよ。一ノ瀬くんは素人だから、そこにタイムラグができたんじゃないかしら」
「それこそこじつけだ」
タマちゃんは納得しない。しかしわしは、だんだん興奮してきた。
そうや。わしがモミスケしたあと、あの嘘つきのタコ社長は道で行き倒れた。その次は、マッサージの練習でアホを揉んだ。ソバカスもマッカーサーも揉んだ。それがみんな死んだんは、それとは知らずに、偶然おかしな順番で身体を触ったからやないか? さて、それぞれどの順番で触ったか……
「夢の中へと水死せよか。うまいこと文章になったな。じゃあ秋山先輩はどうだろう。ぼくは、マッサージの練習で秋山先輩を揉んだので、どの順番で触ったかを思い出そうとしました。確か、こめかみのあたりを揉んだな。臀部もやった。指先もやった。そういえば、先輩は恥骨結合炎という疾患に悩まされてるとかで、恥骨も触らされたな。こ、で、ゆ、ち? いやちがう、恥骨が最初だった。ち、こ、で、ゆ? どうもこれじゃあ正解が出そうもない。どうやって死んだかを考えてみよう。秋山先輩は、突然酸素が薄くなったと言って死んだ。じゃあ、酸欠になれ、となるような順番で押したのかな? でも、さ、ん、け、つ、だと、んが入っているからダメだ。だったら窒息ならどうだろう。ち、っ、そ、く、か。小さい『つ』があるからこれも無理かな。だけど、最初が恥骨だとすると、『ち』で合ってるしなあ……あ、そうだ。指先のマッサージをしたとき、爪に触ってるぞ。恥骨の次が爪なら、ち、つ、だ。その次が『そ』か。『そ』で始まる身体の部分……こめかみ……頭……頭の横……わかった、側頭部だ。ち、つ、そ、になった。いいぞ。次は『く』だ。うん、これは首だろう。あと残った臀部は、尻というふうにすると、恥骨、爪、側頭部、首、尻で、ち、つ、そ、く、し、窒息死だ。うん、できた」
「お見事!」
わしとサンマルチノは、拍手で讃えた。タマちゃんだけが、歳くって頭が固くなったせいか、しきりに首を捻っとった。
「な、わしにもやらせてくれ」
まずはタコ社長や。どこを触ったっけ。おケツは揉まされた。足ツボもやった。あとは……そう、手首や。変なとこ揉ませるなあと思ったが、自分の手を骨に沿って揉んでみると、これが案外気持ち良かった。
「うん、思い出したで。ケツ、足、手首や。け、あ、て。ちゃうな。ケツは尻かな。待てよ、いちばん最初は足やったな。あ、し、て? だめや。全然できん」
「ギブアップには早すぎるよ」
イッチが、まるでギムレットには早すぎるみたいにマーロウっぽく言うと、わしから奪った名探偵役をすっかり楽しんでる調子で、
「手首って、どのあたりだった。親指側? 小指側?」
「親指や。いや、ちがう。最初親指側を要求して、あとからやっぱこっちも言うて、小指のほうも揉ませよった」
「じゃあそれは、橈骨と尺骨と考えよう。これで、『と』と『し』を手に入れた。いちばん最初に触ったのは足だったんだね。踵とか、くるぶしじゃない?」
「ちゃうな。オーソドックスに足の裏や」
「仮に、あ、としておこう。次は尻? それとも橈骨?」
「うーん、尻やったような……待てよ。手をやって、あいだに尻を挟んで、また手をやれ言うたな。手、尻、手や」
「で、橈骨が先なんだね。足、橈骨、尻、尺骨、あ、と、し、し、か。『し、し』はうまくないな。尻は臀部にしてみようか。すると、あ、と、で、し、だね。あとほかに触ったところはない?」
「あ、思い出した。首をやったで。それが最後や。まちがいない」
「あ、と、で、し、く、あ、と、で、し、く……うーん、なんだかもうちょっとで、文章になりそうな気がするんだけど」
「前半は、あとで、やな。し、く、が変や」
「首はどう? のどじゃなかった?」
「首は首や。ネック、ネック言うて、うなじをさんざん揉まされたで」
「ネックねえ……あ」
イッチが、口をFFのサボテンダーみたいな形にして叫んだ。
「あとで死ねだ!」
「あとで死ね?」
わしも負けじと、口をモルボルくらいでかくして言うた。
「そっかあ。いやー、悪いことしたなあ。あとで死ねなんて、なにも急がせんでも、どうせそろそろ死ぬとこやったのに。あちゃー、やってもうたあ」
後悔先に立たずや。だから後悔はこれくらいにして、先に進んだ。
「そうすると、空海の松んとこで見つけた、すだれ髪のおっさんも怪しいな。あれたぶん、マッカーサーが揉んだんやで」
「きっとあの人も、偶然死ぬような順番で、身体を触られたんだよ」
「たとえば?」
「そうだね。松で死ね、なんてどう?」
「ハハハ。横着しよるな。後半の『で、し、ね』が、タコ社長のときと一緒や」
「ありえるでしょ。まはまぶたで、つは爪。それで、松で死ね。どう?」
「ま、ええやろ。空海の、まで考えるのも面倒やしな。よし、次行こ。タコの次はアホや。なんだかアホも、タコとおんなじようなとこやらせたな」
「あとで死ね?」
「いや、まったくおんなじやない。最初の足と、最後の首は一緒や。あとは、手首は小指のほうだけやったかな。それと、背骨に沿って背中を揉ませよった」
「最後がネックで、その前が尺骨なら『し、ね』だから、そこは死ねで決定しよう。最初は足だったね」
「うん。だんだん思い出してきた。その次は手をやって、あいだに背中を挟んで、また手をやったんや」
「手首は、どっちも尺骨?」
「そうや。足、尺骨、背中、尺骨、ネックでええと思う。とすると、あ、し、せ、し、ね……あしせ死ね? あしせってなんや?」
「わかった。それは背中じゃなくて、背中と腰を含めた全部なんだよ。それを体幹っていうんだ。『せ』を体幹の『た』に変えれば、あしたしね、明日死ねさ。チェキラ!」
わしとイッチは、イエーイと手を打ち合わせた。
「なーるへそ。あれはソバカスに毒を盛られたんやなくて、ただ死んだんか。なんだかわしのはつまらんな。イッチはええのう。溺死とか窒息とか、死なせ方がおもろい」
「くだらんことを言うな! あいつらが死んだのはギャグじゃない!」
タマちゃんが、苦虫を噛んで食ったような顔して吠えた。わしらの名推理に対する嫉妬やろうが、文句ばっかつけるのはただの老害や。イッチも、年寄りはしょうがないねーっちゅう感じで肩をすくめると、
「菊池先輩と永作先輩は、ユエナが揉んだ?」
「おう、どっちもわしや。えーと、マッカーサーは、美容っぽいことばっかやらせたな。フェイスマッサージに、ヒップアップに、脂肪絞りや。確か順番は、フェイス、ヒップ、背中、わき腹やった気がする」
「それだと『ふ、ひ、せ、わ』だね。たった四文字か。それに、それぞれ別の言い方を探さないと、全然文章になりそうもない」
「フェイスは顔、ヒップは尻か臀部。背中は体幹かバック、わき腹はなんやろな、脂肪かぜい肉か横っ腹かな」
「か、し、た、し……か、で、ば、ぜ……これはちょっと難しいな。逆から考えよう。菊池先輩の死に方は?」
「餓死よ」
横からサンマルチノが言うた。わしには即身成仏したとしか見えんかったが、親友がそう言うんならそっちにしとこう。
「餓死、ガシ……し、は尻だな。となると、フェイスを『が』にするには……あ、顔面だ。残りは背中とわき腹で、せ、わ。がしせわ?」
わしははっとして、早押しクイズみたいにテーブルを叩いて叫んだ。
「わき腹は横っ腹や。それで、が、し、せ、よ、餓死せよや!」
頭ん中で、ピンポーンちゅう音が鳴った。なんも言えねえほど、チョー気持ちいい。
「どうや。たった四文字で、文章にしたったで」
「ユエナもすごいじゃん。花畑先輩、やっぱり菊池先輩は餓死でしたよ!」
サンマルチノは、うううと呻いて泣いた。
「じゃあ最後、永作先輩だ。これは難問だね。首がネジみたいにまわって取れたんだから、相当長い文章になるはずだよ」
「あいつ、やたらとあちこち揉ませたからな。ほんでバチが当たったんや。どれ、思い出すで。えーと、ソバカスは、足のほうからどんどん上に向かってやったな。足、尻、腰、背中、首、手。それでも足りずに、また首と背中やれ言うたで」
「あ、し、こ、せ、く、て、く、せ。わー、こりゃ長いなー。別の言い方を考えるにしても、組み合わせの数がむちゃくちゃある」
「これも逆から考えよう。ソバカスの死にざまは?」
「あれ、なんて言うの?」
「ネジ式ソバカス」
「そんな言葉ないよ。リアルTT兄弟?」
「どうかなあ……エジプト十字架のほうが、まだええと思うけど」
「ねえ聞いて」
サンマルチノが、指で涙を拭きながら言った。
「最初の四つは、腰と背中をセットで体幹としたら、足、尻、体幹で、あ、し、た。明日になるわ」
「明日! それええな。姉さん、さすがよのー」
持つべきものは先輩や。ちゃんとええとこでアドバイスをくれる。
「残りは首、手、首、背中や。く、て、く、せ。明日くてくせ……明日の次の『く』が怪しいな。『く』の次に『び』がきたら、一気に正解にいけそうやけど」
「び、ねえ。びで始まる身体の部位……鼻骨っていうのがあるけど」
「ビコツって?」
「鼻の骨」
「そら触ってないわ。まあ、うっかり触ったことにしてもええけど、わしインチキだけはしとうない。正々堂々勝負したいんや」
「まだ尾骨もあるよ。尾てい骨ともいうけど、お尻の真ん中へん」
「わ、ビンゴや。しっぽの先やれ言うて、そこ揉まされたがな。く、び、ができた!」
「明日首、の次は?」
「手、首、背中。待て。手っちゅうより、指先やったな。ゆ、く、せ?」
「指先ねえ……爪だと、つ、く、せ。ちがうな」
「親指、人差し指、中指……あ、そうや。中指の爪持って揉んだわ」
「中指……な、く、せ。明日、首、な、く、せ」
「明日首なくせ!」
わしとイッチが同時に叫んだ。
「ひゃー、首なくせかあ。首なくそう思ったら、身体から外すしかないもんなー。ほんであんなふうに、妖怪の仕業みたいになったんか」
「この事件に、妖怪は関係なかったんだよ。すべては偶然だったのさ」
「偶然か。重なるときは重なるもんやのお」
触る順番が一個ちがっても、こんなことにはならんかった。猿がでたらめにキーボードを叩いて、たまたまサラリーマン川柳の一位ができてしまうくらいの確率やが、わざとやったんやない以上、恐ろしい偶然と呼ぶしかなかった。
「おい、貴様ら。本当に偶然か?」
タマちゃんが、人を疑うようにギョロ目を細くした。なんや、自分はちっとも推理できんかったくせにと、わしはカッとなったが、イッチは冷静やった。
「ぼくは以前、ポケットにスマホを入れてたら、勝手にメールを送ってしまったことがあります。振動で、たまたまそうなったんです。しかもそれが、『お前即死して』になってたんです。びっくりして、送ってしまった友だちに必死で謝りましたが、偶然というのは怖ろしいなーと思いました」
「フン。そんなメールが立て続けに送られてきたら、おれなら偶然とは認めん」
「ほななにかい、わしらが知ってやっとって、わざわざ推理してみせたいうんかい。こちとら伊達や酔狂で探偵やっとるんちゃうで。そういや、伊達家酔狂いう落語家がおったけど、今でも生きとるかな?」
「なによ。あなたたちって、テレビで観なくなった芸人は、すぐ死んだことにするのね!」
サンマルチノが金切り声をあげた。えらいカリカリしとる。そら偶然とはいえ、仲間が続々と死んだんやから無理もなかった。
わしとイッチの目が合うた。一瞬で、おんなじことを考えとるなとピーンときた。
イッチが、コホンと咳払いして言うた。
「みなさん、聴いてください。ツボというのは、病気の症状や痛みを軽くするだけではなく、今見たように、正しい組み合わせで押せば、ほとんど無限の効果が発揮できると証明されました。ただ今回は、それが悲劇につながってしまいましたけれど。だったら、そのツボの力を利用して、事態を収拾させるべきだと思うんですが、どうでしょう?」
「なんだ。くどいばっかりで、全然意味がわからんぞ」
タマちゃんが唇を尖らせたとき、とおるちゃんがピヨピヨ鳴いた。鳥でもわかるような単純なことが、このおっさんにはわからんらしい。
「その先は、わしが言うたる。こういうことや」
わしも、エヘンと咳払いした。
「ツボで殺すことができるんなら、その反対もできる。つまり、『い、き、か、え、れ』ちゅう順番で、死体を押したらええんや」
シーンとした。
完全にすべった空気。ちょうど紅白の大舞台で、ミヤコに向かってミソラ言うてしまったみたいに。
「なんやこの静けさは……寒い」
「ゆーとぴあみたいに言うな! じゃあ貴様、肩こりのツボ押したら、死人の肩こりが治るっていうのか。え?」
「たぶん、な」
「ならやってみろ。ほら、そこに菊池が寝てる」
ミイラ化したマッカーサーが、冷蔵庫の横で、うつろな目を天井に向けとった。それ見とると、ええアイデアやと思っとった自信が、みるみるうちにしぼんでいった。
「わし、まちごうとったかな」
「いや、ぼくも同じこと考えてたよ。ツボに不可能はない。さあ、ドーンとやってみよう!」
どうぞどうぞと、イッチがダチョウ倶楽部みたいに勧めるポーズをした。
「イッチに任せるわ。あんた、死体触るの平気やろ」
「まあね。えっと、生き返れか。い、き、か、え、れ……『れ』で始まる場所ってある?」
「れ、れ、れ……らりるれろで始まるのって、日本語には少ないな」
「じゃあ英語で探そう。レ、RE、LE……あった、レッグだ!」
「よっしゃ。い、は胃やろ。き、は?」
「胸骨がある。か、は踵。え、は……えら?」
「えらがあんのは魚やろ」
「いや、顎の外側のことだよ。片桐はいりで有名な」
「おお、あれな。ええんちゃう」
「とすると、胃、胸骨、踵、えら、レッグだね。よし、やってみるよ」
イッチがマッカーサーの死体の横に、礼儀正しく正座し、両手を合わせてお辞儀してから、おもむろに胃のマッサージをした。
「クミちゃん……」
サンマルチノが、複雑な顔で見とった。親友の死体がトップバッターで実験されてるのが、痛ましいのかもしれん。
「もし、これが成功したら、どうなるの?」
「あらわたし、寝てたのかしらって、むっくり起きてくるやろな」
「失敗したら?」
「干からびたまんま、ちゅうことになる」
「半分成功で、半分失敗したら?」
「半分? さあ……ゾンビ化して、襲ってくるんかな」
イッチが真剣に、胸の骨、踵、えらの順番で揉み、最後のレッグにとりかかった。黒のレザーパンツを穿いた脚を、太ももからすねまで丁寧に、両手で包み込むようにしてマッサージする。
「どや? 心臓動きだしたか?」
「いや。でもぼく下手だから、効果が出るまで、何日もかかるかもしれない」
「アカンで。腐乱してから生き返ったら、バタリアンの誕生やからな」
「おい、何時間待ったらいいんだ。朝までは無理だぞ」
タマちゃんが、イライラしたように腕時計を見た。
「客が来る前に、死体を隠さないと。ほかの支店から応援を頼む必要もあるし、タイムリミットは朝の五時、あと一時間だ」
「あんたまだ、営業考えとったんか」
わしは呆れた。金に汚くて、ずうずうしくて、顔と声と態度がでかい。まんま西川のりおやないか。
「あと一時間ですね。では菊池先輩は置いといて、秋山先輩に移りましょう」
料理番組みたいな手際で、イッチが移動した。古参兵は、入口近くの床で、苦悶の表情を浮かべて硬直しとる。
「失礼します。どうか生き返ってください」
趣味の悪い、横縞のパジャマを着て横たわってる古参兵の姿は、脱走に失敗して撃ち殺された囚人みたいに見えた。今さらながら、仇名をザ・コンビクトに変えたくなる。
「さあ、レッグまでやりました。次は山岸先輩か、永作先輩をします」
イッチが、額の汗を拭いて言うたときやった。
サンマルチノが悲鳴をあげた。
反射的に振り向く。視線の先に、マッカーサーの干からびた死体。
そのうつろな目玉が、動いたように、見えた。
「おおっ!」
わしの尻が、勝手にきゅっと固くなった。あ、もしかして、これが尻小玉の正体かと、脈絡もなく思った。
「……クミ、ちゃん?」
サンマルチノが呼びかける。すると完全に、黒目がそっちを向いた。
「生きとるやん。あれ、目玉動いたよな。なあ?」
イッチの腕をつかんで言う。イッチは身体を固くして、なにも言わない。
マッカーサーが、まばたきをした。これで決まりや。死人はまばたきなんかせん。マッカーサーが、生き返った!
「クミちゃあん!」
サンマルチノが、泣きながらマッカーサーにむしゃぶりついた。マッカーサーの目が、不思議そうな色を浮かべ、わしらを順繰りにきょろきょろと見た。
「ちょっと……重い」
マッカーサーが言うた。するとサンマルチノが、わーわー号泣した。わしもつられて、涙がすーっと頬に流れた。
「イッチ、やったで。あんた、人を生き返らせたんや。あんたこそ、マスターモミゾウや!」
イッチの腕を揺さぶって言うた。イッチはそれに答えず、ガタガタ震えていた。どうしたんかと思って顔を見ると、星飛雄馬ぐらい泣いとった。
「どうして泣くん。いいことしたんやで、イッチ」
「いや、オーナーを見たら、つい……」
イッチの指差したほうを見た。テーブルに手をついて立っていたタマちゃんが、腕を目に当てて、まるで母を亡くした少年のように泣いていた。
「あれれ、鬼の目にも涙やな。なんやみんな泣いて。ええことなのに。喜ばしいのに泣くなんて、ホンマ、人間っておかしいなー」
サンマルチノの手を借りて、マッカーサーがよろよろと立った。テーブルに行って坐ると、ふっと照れたような顔になって、
「ごめんなさい。なにか食べようと思って食堂に来たんだけど、お腹がすきすぎて、気を失っちゃったみたい。ところで、山岸ちゃんを殺した犯人は?」
シンとした。みんなこの状況を、どう説明したらええかわからんのやった。
「えっとな、姉さん、落ち着いて聞いとくれ。姉さんさっきまで、死んどったんや」
「……?」
思いっきり、ハテナの顔をした。するとそれがおかしかったんか、サンマルチノがぷーっと噴き出した。
「なによ、イチゴちゃん。今のどこが面白いの?」
サンマルチノは床に崩れて、ヒーヒー笑い転げた。タマちゃんも、涙に濡れた顔でゲタゲタ笑った。イッチすら声をあげて笑った。わしも、腹筋がヒクヒクなって、M―1の観客くらい爆笑した。
「さっきまで死んでた? 空腹で倒れただけなのにい」
もうたまらんかった。わしもイッチもタマちゃんも、みんな床を転げて笑った。そうや、これが真理や。人が生きるんは、むちゃくちゃ泣けてむちゃくちゃおもろい。わしはそれを知ったで!
「いいかげんにしてよ、もおー。はいはい、あたしは死にました。そして生き返りました。これでいい?」
「ええ、ええ、姉さんビンゴや。あー、もうこれ以上笑かさんでくれ。わしらのほうが死んでまう」
「なんだかちっともわからないけど……ねえ、主任、この人たちどうしちゃったの?」
床からよいしょと立ちあがって、なにげなく横を見たら、古参兵が普通に立っとった。わしはまた、わっと床にひっくり返った。
「どうしちゃったっていうか……あれ、おかしいな。クミさん、死ななかったっけ?」
「なによ主任まで! みんなしてバカにする気」
「どうも記憶が……はて。おれ今、なにしてたんだろう」
「今の今まで死んでたで」
「?」
また爆笑が起こった。わしら四人は、お互いの身体をバシバシ叩き合い、床をバタバタ蹴って、涙が涸れるまで笑った。
「あーおかしい。この調子で、みんな生き返らせてくれ」
「任せて。オーナーも、手伝ってくれますか?」
「おう!」
イッチとタマちゃんが食堂を出ていった。そのあいだに、わしとサンマルチノで、起きたことの説明をマッカーサーと古参兵にした。
「おれが窒息う?」
古参兵は首を捻ったが、マッカーサーがミイラ化したのは憶えとったから、
「クミさんは、確かに死んでたしなあ。うーん、じゃあおれも、一回死んだのかもしれん。妙な気分だな、テヘッ」
「あたしが餓死したかどうかは別にして、山岸ちゃんは確実に水死したでしょ。それが生き返るっていうの?」
「変態オヤジだけやない。アホもソバカスも死んだんや。今からそれを起こすで」
これがうまくいったら、すだれ髪もタコ社長も生き返らせたい。死体がどこにあるかはしらんが、きっとやってみせるでと闘志が湧いた。
「だけどさあ」
古参兵が、イマイチ納得できんという顔をした。
「電話線が切られてたじゃん。あれがあったから、これは殺人事件だと思ったんだけど、もしツボが原因だとしたら、誰がどんな理由で切ったんだ?」
「もしかしたら、で、ん、わ、せ、ん、き、れ、いう順番で、誰かのツボを押してしまったのかもしれん」
「なんだよ、それ。ん、が二回もあるぞ」
テレフォン、でもンが出てくるし、さてほかにどんな言い換えができるかと、一生懸命考えとると、
「おいみんな!」
ソバカスが興奮気味に、変態オヤジを引っ張って食堂に飛び込んできた。
「山岸さんが蘇生した!」
爆笑。マッカーサーも古参兵も、大口開けて笑った。やっぱり真理や。生き返りは、テッパンの爆笑ネタなんや。
「あんたかて、立派に死んどったがな」
わしは腹がよじれるほど笑った。しかし、イッチの上達ぶりは恐ろしかった。ちょちょっと揉んで、あっという間に外れた首をつけるんやから。
「兄さんホンマに、首とれたの知らん?」
今度は変態オヤジとソバカスに、これまでのことを説明した。
「ワタシが犬神家?」
「おれっちがTT兄弟?」
信じようとしない二人に、サンマルチノとわしが、身振り手振りで解説した。
「そんなあ。首がネジなわけないっしょ」
「ワタシ、いくら世をはかなんでも、洗濯機に身投げはしません」
とそこへ、階段を駆けあがる音がして、アホが入ってきた。
「みんな、オーナーがおかしくなったぞ。ギシさんが生き返ったとか言い出してる」
「ワタシですか?」
変態オヤジが振り向くと、アホがわっと飛びあがった。
「わーっ、気持ち悪りい! オエーッ!」
走って出ていった。おおかたトイレで吐いてくる気やろう。泣く、笑う、のほかに、人によっては吐くという反応があることもこれで学んだ。
「いやー、まいった、まいった。ほんとにギシさんですか?」
タマちゃんとイッチが食堂に戻ってきたあと、アホが神妙な面持ちで入口に立ち、まじまじと変態の顔を見つめた。
「う、また胃が……このキモさはやっぱり本物だ」
「阿部さん」
ソバカスが、感に堪えんという様子で言った。
「生き返ってくれてありがとうございます。もう少しでおれっちが、阿部さん殺しの犯人にされるところでした」
「なに言ってんの?」
アホにも説明した。アホはアホやから、なかなか理解できんでいたが、最後は無理やり自分を納得させた感じで、
「言葉の意味はわからんけど、とにかくギシさんが生きてるのはわかった。ということは、元に戻ったわけだ」
「そうや。これで死んだスタッフは、全員生き返った。ノー問題や」
「そうだ、貴様ら。今日も一日通常業務、永作はおれとチヌ釣りだ」
「うへー、また地獄の日々が始まる」
みんな笑った。タマちゃんも、自分がディスられたのにも気づかず陽気に笑い、
「さあ、手をつなごう。輪になろう!」
調子に乗ってはしゃいだ。みんなも、なにはともあれめでたいと、手をとり合って輪になった。
「右にステップ、ワン、ツー、スリー、フォー」
全員が、時計まわりの反対にまわりだす。わしの右手はイッチ、左手はサンマルチノにつながれとる。
なぜか、このとき、背すじを冷たいものが走った。
「うふふ、面白いわね」
サンマルチノが、横で小さく笑う。その手を離そうとしても、万力のように固く締まって離れない。
「大道めぐり、大道めぐり」
サンマルチノが囁く。アカン、と言おうとしたが、どういうわけか、上唇と下唇が引っついてはがれない。
みんなが生き返って喜んだのも束の間、得体の知れない恐怖が襲ってきた。
この、ぐるぐるまわってる人らは、一回死んだことにも気づかず、生きてる。
ということは、もしかして、わしも――?
タマちゃんとサンマルチノと闘ったとき、床で頭を打った。あのときに、ひょっとしたら、死んだのかもしれない。
そのあと、イッチも殺されたのかもしれない。
だとすると、今いるここは、死者の国――?
「大道めぐり、大道めぐり」
サンマルチノの声が大きくなる。まわればまわるほど、気が遠くなっていく。
いったいなにが本当なんや。わしは生きてるのか、死んでるのか。
ここは夢の国か、それとも死者の国か。
そもそもわしはどうしてここに来た? ツボ? あれは本当か。もしそうでなかったら、これはただの夢か。だとしたら、いつ目が醒めるのか。
それとも現実世界で、わしはもう、死んだことになっとるのか――
「大道めぐり、大道めぐり。さあ、数えなさい。わたしたちは何人いる?」
頭の中で指を折る。わし、イッチ、タマちゃん、サンマルチノ、マッカーサー、古参兵、アホ、ソバカス、変態オヤジで、九人。
手でつながった輪を見る。全員知ってる顔。それ以外には誰もいない。わしから始めて、左まわりに数える。一、二、三、四……
「七、八、九……十」
サンマルチノを数えたとき、それは、十になった。
「出てきたわね」
サンマルチノの視線の先を追う。わしの右、それはイッチのはず。
が。
「まいど」
きっちり散髪されたヘアースタイル。三角眉毛に黒縁メガネ。
「……オーマイゴッドファーザー降臨」
日本一の漫才師が、そこにいた。
怒るでしかし……正味の話……どないやっちゅうねん……メガネメガネ……
わしの横で、やっさんが、身をくねらせて熱演しとる。
わしは固く目を閉じた。
やっさん、あんたのことは大好きや。ずっと逢いたかった。でも師匠、あんたはとっくに死んだんやで。頼む、ゆっくりしいや……
そっと薄目を開けた。恐る恐る横を見る。
「神の御前に身を委ねたるぅ~、一ノ瀬どのの願いを叶えたまーえ~」
茫然とした。いくらなんでも、サービス精神がありすぎる。本物の横山やすしは、こんなに安っぽくギャグを披露したりせん。
「おまえ誰や!」
一喝した。するとそいつは、メガネのフレームに人差し指を当てて、わしを上から下まで舐めるように見まわし、
「キー坊、えらい若返ったな」
「アホウ! わしの目は騙されんで。正体をさらせ、妖怪!」
「口悪い姉ちゃんやなー。どないやっちゅうねん。ほな目ン玉かっぽじってよう見い」
そう言うと、そいつはヘアーをぐちゃぐちゃにし、メガネをはたき落とし、ネクタイをゆるめ、コラァなにすんねんと、顔を真っ赤にして怒った。
「なんで怒ってんねん。全部自分でやっといて。しっかし、ちっちゃいお目々やなあ」
そいつの顔を見た。メガネをとると、いかにも特徴がない。小さい目もそうやが、鼻も口も顎も、どこにでもいそうな平凡な――
「あ」
そこにいたのは、男物のスーツを着た、幾野セリイやった。
「やっとわかったか。ちょこっとメガネして髪型変えただけで、クラスメートの顔を忘れるやつがあるか」
「……あんた、口利けたんか」
「ドアホウ! わしはな、向こうの世界はゲー出るくらい肌に合わんかったんや。息吸うのもヤなくらいじゃ。考えてみい。息吸わんで口利けるか?」
ジーンとした。わしがクラスで流行らせたエセ関西弁――それでまくしたてるギャルを見とると、ほんの二日ほどこっちにいただけなのに、懐かしさが込みあげて、無性に帰りとうなってきた。
「ホンマはあんた、おしゃべりなんやな。春やすこかおきゃんぴーくらいに」
「そや。おどれとしゃべんのは特に楽しかったで。でもそのうち窒息しかけてな、しゃべるのやめさせてもろうた。堪忍、スマン」
「ええねん。わしのために、いちばん大好きなやっさんにまで変装してくれたし」
「おどれのためちゃう。わしもやすしがいちばん好きや。みんなそうやろ」
「天才やし」
「愛敬あるしな」
なぜか泣けてきた。自然とセリイに寄りかかった。セリイは背中を抱いてくれた。
「あんた、これみんな、わしのためか?」
「ま、あんたと一ノ瀬やな。ええやつなのに、苦しんでた。なんとかしたくてな」
「ええやつちゃうで。わし、あんたがいなくなっても、どうでもええと思ってた」
「わしがわざとそう思わせといたんじゃ。そろそろ消えよういうときに、気兼ねのないようにな」
「あんたの正体は?」
「夢、思うてくれ。現実を救うために存在しとる、夢やと」
「ようわからんな」
「ようわからんことなんて、世の中になんぼでもあるやろ」
「とにかく、救ってくれたんやな」
「あんたはもう大丈夫や。心配せんで、向こうに帰り」
「もうちょっと、いたい気もするな」
「情が移ったんかい。アホやな。ぐずぐずせんと、とっとと一ノ瀬連れて帰れ」
「サイレント」
イッチが不意に、声をかけた。
「子どものときに、ぼくの夢に出てきたのって、きみ?」
するとセリイが、ぶるっと身震いし、
「きみ言うのやめい。さぶイボ出るがな。まあそうや。懐かしかったか?」
「うん、すごく」
「子どものころの夢忘れんやつは、ええやつや。わしのこと憶えてくれとったら、わしかてほっとけんやろ」
「ありがとう。ねえ、サイレント」
「なんや」
「きみはいったい、なにをしたの?」
「簡単や。レイの心に、ツボは万能っちゅう考えを入れた」
「で?」
「ほんで、そういう法則で世界が動くようにした。あとはあんたらの推理どおりや。ちょっとした手ちがいで、想定外にたくさん人が死んでもうたけど、あんたらでうまく収めてくれたしな。おおきに」
「電話のコードを切ったのは?」
「わしや。警察来たら面倒や思うてな」
「あの、お話し中すみませんが」
えらい低姿勢で割り込んできたのは、タマちゃんやった。
「あなたは、その、座敷わらし様で?」
「む……ま、親戚みたいなもんや」
「あのー、ぶしつけなお願いなんですが」
気色の悪い笑顔を浮かべ、揉み手をしながら言う。
「ずっとうちの店にいてくださいませんか。誠心誠意、おもてなししますから」
「誠意は死語やがな。平成のバカップル知っとるやろ」
「羽賀様のことでしたら、それはもう……」
「もうええ。あんたの心がキレイなら、わしはいつでもそばにおる。ただし、従業員からむしるようなら、今日にも出ていくで」
「それだけはご勘弁を」
「ほんだら給料倍にして、休みも倍にせい。今すぐや!」
「は、はい!」
とたんにスタッフたちが、ワーイと歓声をあげて飛び跳ねた。
小早川にホームランを打たれた江川みたいにうずくまったタマちゃんの肩に、セリイがポンと手を置いた。
「あんたには、まだやることがある。死体置場に行け。今度のことで不慮の死を遂げたジジイの死体が二つある。それを生き返らせてくるんや」
「……わかりました」
「おっとその前に」
セリイが、わしとイッチのほうを向き、ニコッとした。
「タマちゃんに、ツボ押してもらいな。も、と、の、せ、か、い、へ、ってな」
「もう帰っちゃうの?」
サンマルチノが寄ってきて、わしの手を握った。
「む……もちょっと優しく握ってくれ。姉さんおおきに。セリイを呼び出してくれて」
「ああすれば、なにかが出てくると思ったの。でもこちらのお友だち、座敷わらしとはちがうみたいね」
「そや、セリイ。あんたなんで、大道めぐりで出てきたんや。電話線切ったときみたいに、いつでも出てこれたんやろ」
「なんもなかったら出づらいやん。あれが出囃子になってな」
「とおるちゃんが騒いどったのも、あんたの気配を感じてたんやな。やっぱし動物には、わしらの見えんもんが見えとるらしい」
「できました」
イッチがどこか遠慮がちに、タマちゃんに言った。
「も、はもも、つまり大腿部で、と、は橈骨。の、はのど。せ、は背中。か、は踵。い、は胃。へ、はへそで、元の世界へ、となります」
「そうか」
タマちゃんが、ゆっくり立ちあがって、イッチを正面から見すえた。
「短いあいだだったが、これもなにかの縁だ。つらいことがあったら、おれと花畑を見事に敗ったことを思い出すんだ」
「はい!」
「うちで一日修行したら、向こうの世界では、どこに勤めても一年間は通用する。一年もったら三年続く。三年できたら一生大丈夫だ。頑張ってくれ」
「はい!」
イッチとタマちゃんが固く抱き合った。いつの間に師弟関係ができたんか、わしにはようわからんかった。
まあええ。世の中わからんことばかりでも、きっとなんとかなる。子どものころに見た夢を忘れず、心をキレイにし、そしてたぶん、いつでも笑いを愛していれば、夢が助けにきてくれるから。
「おれっちのこと、忘れるなよ」
「ワタシも」
「たまには遊びに来いよ」
「戦争になったら逃げてきなさい」
一人一人とハグをした。そのあと、わしとイッチはそれぞれの部屋へ行き、高校のブレザーに着替えて戻ってきた。
イッチがセリイに向かってうなずいた。椅子に坐って目を閉じる。タマちゃんがその前に立ち、ももをマッサージし始めた。
「時間を巻き戻して、わしが消えた少しあとに帰れるようにしとく。ツボの法則はなくすから、もう自由には来れんで」
「なんかヘマして、穴に落ちんかったらな」
「そうならんようにしとき。この次は戻れんかもしれんで」
タマちゃんの手が、イッチのへそに置かれた。イッチの身体が薄くなり、やがて見えなくなった。
「次はわしやな」
椅子に坐って力を抜く。もも、橈骨、のど、背中、踵まで来たとき、ふと気になってセリイに訊いた。
「わしらが戻ったあと、セリイは来るんか?」
「いや。ホームルームで担任が、幾野セリイさんは都合で転校されましたって発表するさかい、驚いたフリして、えー言うてくれたらよろし」
「ほんでしまいか」
「いつでもおるで。やっさんを好きでいるかぎり」
「一生好きに決まっとるやろ!」
タマちゃんにへそを押された。意識がすっと遠のく。
あ、寝てまう、と思うと同時に、寝てもうた。