バイト先のファミレスへ行って、近々辞めることの承諾を貰ってから、私たちはそのまま警察署へと向かった。
 大学へも続いている大通り。
 通い慣れた道のはずなのに、どこかが、何かが違う。
 
 故郷から出て、すでに二年以上を過ごした場所なのに、海君と手を繋いで歩く街は、まるで知らない街のようだった。
 いつもは車の窓から見るともなくぼんやりと見ていた景色が、鮮やかな色彩を伴って、ゆっくりと私の目に飛びここんでくる。
 
「ふーん。こんなところにこんなお店があったんだ……」
「あっ、知らない道を発見! こっちのほうが近道じゃない?」
 目に映る全てが新鮮で、珍しくて、新しい街に引っ越して来たような気さえする。
 
 のんびりとあたりに視線を配りながら、
「ああ、楽しい」
 なんて思わず口に出して言ってしまったから、海君に笑われた。
「真実さん。今からどこに行くのか、本当にわかってる?」
 
 おかしくてたまらないというようなその顔に、
(……はっ! そうだった! 今、私たち警察署に向かってるんだった!)
 ようやく本来の目的を思い出して、バツが悪くなった。
 私は首を縮める。
 
「別に自分が悪いことをしたわけじゃないのにね……どうして『警察』って聞いただけで、こんなにドキドキするんだろうね?」
 苦笑交じりで呟いた言葉に、
 
「え? 真実さんは悪いことしてるじゃない。いつも未成年者を連れまわしてるでしょ?」
 海君はキョトンと目を見開いて私の顔を見た。
 
「ええっ? これって……犯罪なの!?」
 ビックリして、思わず繋いだ手を海君の手ごと目の高さまで持ち上げる。
 
 そんな私を見て、海君はたまらずふき出した。
「ハハッ。そんなわけないじゃん。いくらなんでも、犯罪になるほどには若くないよ、俺。……それに今の見た目から言ったら、真実さんのほうがずっと若くて、かえって俺のほうが犯罪者みたいじゃない……?」
 肩を揺すって大笑いしながらも、海君は余裕たっぷりにそんなことを言う。
 
 私はムスッとむくれた。
 繋いだ手をふり解いて、彼はもうこの場所に置いていくことにする。
 
「待って、真実さん。俺も行くから」
 笑いながら声だけかけたって、待ってなんかやらない。
 
(もう! いっつもいっつも、海君は私をからかってばかり……!)
 簡単にひっかかってしまう自分が悪いのだが、悔しいものだから、前を見てズンズンと歩き続ける。
 
 頑なに彼に向け続ける無言の背中が、私の静かな抗議だった。
 
 でも、それがなんの意味もないことを、私はよくわかっている。
 
「俺は追いかけない」と海君が宣言している以上、私がいくら怒って先に行ってしまっても、それは海君にとってはなんの牽制にもならない。
 それどころか、ひょっとしたら私たちの別れの原因にも成りかねない。
 
 そんな危険を冒してまで、私が一人で先に行くことに意味はない。
 それは私だってわかっている。
 わかってはいるけれど――
 
(じゃあこの悔しさはどうすればいいわけ?)
 誰にともなく、心の中で尋ねずにはいられない。
 
 残念なことに、私は心優しい天使なんかじゃない。
 それどころか、ボーッとしているわりにはすぐにカッとなりがちだから、そんな自分をなんとか落ち着かせるのに、しょっちゅう苦労している。
 努力している。
 
 けれどやっぱりまだまだだ。
 上手く感情のコントロールができる大人になる日は、本当に来るんだろうか。
 
(でも……だけど……)
 そんな自分の短所と戦ってでも、大切にしたい想いを、私は今胸に抱えている。
 どんなものとでも秤にかけることはできない――それほど大切な、かけがえのない想い。
 
 だからやっぱり立ち止まる。
 彼のことをふり返る。
 
 そうすればきっと、またいつものように一緒に歩くことができるはずだ。
 
(本当はわかってる……待っていればゆっくりと追いついてきてくれることも。私の短気を責めもしないで、当たり前のようにまた手を繋いでくれることも。だから私はそんな海君の優しさに甘えて、こんなふうにわがままな行動だってできるんだ……)
 
 ふり返って見てみた海君は、本当にいつものようにさっきの場所に立ち尽くしていた。
 微動だにせず立っていた。
 だけど――。
 
「海君?」
 思わず大きな声で呼びかけずにはいられないくらい、彼の様子はおかしかった。
 まるでいつもどおりではなかった。
 
 ギュッと眉根を寄せて目を閉じ、空を仰ぐように上を向いている。
 もともと色白な顔はますます色を失って、透きとおりそうなほどに蒼白だった。
 
 私は我を忘れて、今歩いたぶんの距離を急いで駆け戻った。
「どうしたの、海君? 大丈夫?」
 
 すっかり慌てきった私の声に、「大丈夫」と答えるように、彼はかろうじて右手をほんの少しだけ持ち上げる。
 
「ねえ、どうかしたの?」
 胸が詰まるような思いで問いかけながら、私は海君の様子を何度も何度も確かめた。
 
 目を開けることも、口を聞くこともできないようで、ただ大きく肩で息をくり返している。
 こめかみを伝って大粒の汗が、次から次へと流れ落ちてくる。
 あまりにも血色の悪い唇。
 
 急にどうしたのか。
 彼にいったい何が起きたのか。
 まるでわからない。
 
「海君! ねえ、大丈夫?」
 叫ぶように名前を呼びながら、私が彼の両腕を掴んだ瞬間、彼がその腕を返すようにして、私を抱きしめた。
 背中までしっかりと包みこむようにまわされたその腕が、いつもと同じように力強い。
 
 彼の胸の中に抱えこまれて、
「……海君?」
 困惑したように顔を上げた私を、海君は眩暈がするほど近くから真っ直ぐに見下ろした。
 
 いたずらっぽく輝く、私の大好きな綺麗な瞳。
 その瞳がみるみる微笑みを帯びていく。
 
「なっなに? ……まさか……! 騙したわねっ!」
 こぶしをふり上げようとした私は、身動きさえできなかった。
 
 海君はクククッと喉の奥で笑いながら、右手で私の頭を自分の胸に押しつける。
 
「ひどいっ! もうっ!」
 力一杯その胸を押し返そうとするのに、びくとも動かない。
 海君は全然私を放してくれない。
 
「ゴメンね、真実さん……でも言ったでしょ? 俺を置いていったらダメだよ……」
 私の髪に頬をつけるようにして呟かれる海君の声は、彼の体を通して伝わってきて、いつもよりずっと近くに聞こえた。
 
 だからその言葉の意味も、いつもよりもっともっと大きな意味を持って、私の心に響く。
 
(そうだね……どちらかが手を放したら、そこでもう私たちの関係は終わりになるんだもんね……一緒にいたいって想いの他は、二人を結びつけるものは何もないんだもんね……)
 
 私の耳に直接、かなり速い速度で海君の鼓動が聞こえてくる。
 そのドキドキの原因が、私の今のこの胸の痛みと、同じならいいなと思った。
 二人で手を繋いで同じ道を、まだまだ歩き続けたいという思いからならいいと思った。
 
「うん……私こそ……ごめんなさい……」
 素直に謝ると、海君は安心したかのように大きく息を吐く。
 長い長い呼吸を、ゆっくりと何度もくり返す。
 
 けれどなかなか落ち着かない彼の心音。
 私はさっきの鬼気迫るような海君の表情を思い出して、小さく笑った。
 
「それにしても……凄い演技力だったよ海君。私すっかり騙されるところだった……」
「そうでしょ?」
 海君はすました声で返事する。
 
 私は少し緩んだ彼の腕の中から抜け出して、ゆっくりと顔を見上げ、「そうだよ、本当にビックリした」と笑おうとした。
 彼の上手な仮病を一緒に笑いあおうとした。
 それなのに――。
 
 私を見下ろしている海君を何気なく見上げたら、言葉が止まってしまった。
(海君?)
 喉が貼りついてしまったかのように、上手く言葉が出てこない。
 
 海君は私を見下ろして、せいいっぱいいつものように笑っているけれど、その顔色も表情も、さっきと変わらずとても調子が悪いように見えた。
(演技……だったんだよね?)
 
 不安にかられる私に、その無理のある笑顔が、パチリと片目をつむってみせる。
「真実さんは騙されやすいから、気をつけないとダメだね」
 余裕の声音で言われた言葉は、茶目っ気たっぷりで、実にいつもの彼らしかった。
 
 その瞬間、条件反射のように思わずムッと口を尖らしてしまう私の中では、胸に湧いた疑問など二の次になってしまう。
「それを海君が言う?」
「ハハハッ。それはそうだね……!」
 
 肩を揺すって大声で笑いだした海君は、いつの間にかもう普段どおりの彼だった。
 私の右手を大きな左手で掴むと、さっきまで歩いていた方向へ向かって、さっさと歩き出す。
 
「せっかく一緒にいるんだからさ。こうしてるほうがいいでしょ?」
 私の大好きな屈託のない笑顔でそんなふうに尋ねられたら、私にはもう、頷くしかない。
 
 なんて単純なんだろう。
 なんて簡単なんだろう。
 
(海君もきっと、そう思ってるんだろうな……)
 ため息まじりに考えながら、彼に手を引かれて、私は警察署までの道を歩いた。
 
 本当にさっきまでの不安や疑問をすっかり忘れてしまっていた。
 
 何が本当で、何が嘘か。
 何が優しさで、何が偽りか。
 
 気づくこともなく、考えることもないような人間だったら、いつだって悩まず、傷つかず生きていけるのに。
 
 でもそれが、引き替えに誰かを傷つけることになるのなら、
 大切なものを失うことになるのなら、
 私は絶対にそんな生き方は望まない。
 
 全てを知りたい。本物を見抜く目を手に入れたい。
 ――ただそれだけを願う。