「俺の交通手段は、歩くか自転車か、電車しかないんだよね」
照れも気負いもなくあっけらかんと笑う海君は、私を最寄りの駅まで先導して歩いた。
「やっぱり高校生なんでしょ?」
笑い含みの私の問いかけには、肩を竦めてみせるだけ。
どうやら答えるつもりはないらしい。
その表情からは、何の答えも読み取れなかった。
(まぁ、いいっか……)
それでも別にかまわなかった。
(どうせ今日だけだもんね。その後は、もう会うこともないんだから……)
気づいてみれば、まるで自分に牽制するかのように、私は何度も心の中でくり返している。
(ええっと……海に行くには……)
駅の構内に掲げられた路線図を見上げながら、私が考えているうちに、海君はさっさと切符を買っている。
「え? ええ?」
二人ぶんの切符をひらひらと振りながら、もう改札に向かっている。
「こっちだよ真実さん」
ふり向きもしないで、私に声だけをかけるその背中を、慌てて追いかけた。
ホームで待っていた電車にためらいもなく乗りこむと、海君は真っ直ぐに窓際の席へ向かう。
すぐに腰を下ろして、
「どうぞ」
自分の隣の席を指差す。
離れて座るのもなんだか不自然な気がして、私は言われるまま彼の隣に腰を下ろす。
間髪入れずに、ホームに発車のベルが鳴り響いた。
――ジリリリリリリ
電車が動き出した瞬間、私は思わず感嘆のため息をついた。
(すごい。なんてそつがないんだろ。私ひとりじゃ、とてもこうはいかない)
窓の外のだんだん早くなる景色を、黙ったまま見つめている海君の横顔を、チラッと見てみた。
私はどちらかというと、テキパキと物事がこなせないタイプで、よくぼーっとしていると言われる。
『真美はしょうがないな』
周りにいる人にはいつも世話ばかりかけている。
小さな頃は二つ年上の兄のあとを追いかけていたし、一人暮らしを始めてからも、なんだかんだと愛梨に助けてもらった。
そして、幸哉。
なんでも自分の思いどおりに私を動かそうとする幸哉の行動は、もとは私のこの性格が原因だ。
自分では何もできない。
あなたがいないとどうしようもない。
私の頼りなさを幸哉がそう解釈して、私のためにとやってくれていたことが次第にエスカレートしていった。
始まりはそうだったのかもしれない。
(だけど……でも……)
一瞬頭に浮かんだ好意的な解釈を、打ち消すように、私は激しく首を振る。
(自分の思いどおりにならないと、殴る。蹴る。そんな権利は幸哉にだってない。いくら、最初は私のためだったとしても……)
ともすれば情に流されそうになる感情を、必死に理性で押し止める。
真剣に、自分の中へと意識が向かっていくと、知らず知らずに俯かずにいられなかった。
膝に額がつきそうなほど、深く体を折り曲げて俯いた私の頭に、その時、海君が乱暴に赤いキャップを被せた。
「何?」
驚いてふり仰ぐと、
「貸してあげる」
静かな声が返ってくる。
帽子の跡がついた自分の髪をかき上げながら、私のほうを見ようともしない、わざとぶっきらぼうな言い方に、素直な言葉が零れ出た。
「……ありがと……」
私の気持ちが落ちこみそうだったのを、感じ取ってくれたのかもしれない。
窓の外を眺めている横顔からは、やっぱり何を考えているのかはわからないが、そういえば私の顔には、昨日の傷もまだ残ったままだった。
(傷を隠せるように……してくれたの?)
適当にのっけられたキャップを目深に被り直した。
なんだか胸が熱くなった。
(生意気。年下のくせに、気が利きすぎ……)
本心ではない悪態を心の中で呟く。
でもそうでもしていないと熱いものがこみ上げてきそうだった。
私のことなんてまるで眼中にないように、窓の外の景色に目を向けている年下の少年に、泣かされてしまうなんてなんだか悔しい。
(しかも今日だけ……今日だけしか一緒にいない相手なのに……)
だからこそなんのしがらみもなく、一番素のままの自分が、ひょっこりと顔を出してしまうのかもしれない。
そんな自分がまた悔しくて、なのにどこか嬉しくもあって、私はキャップのつばの下で、一人で小さく苦笑しっぱなしだった。
(それにしても、キャップの似あう格好してきて良かった……デニムのスカートなんて、何年かぶりだけど……別に変じゃないよね?)
幸哉は、何から何まで私が自分の思いどおりじゃないと、気がすまなかった。
幸哉の好きな色で幸哉の好きなデザインじゃないと、洋服も気に入らない。
ちょっと着てみたいと思って買った服を、まだ新品のうちにビリビリに破かれたこともあった。
(本当は、こういうカジュアルな格好が好きだったんだよね……)
シンプルなシャツにデニムのスカート。
足にはスニーカー。
いつもとはまったく違う自分の格好を、改めて点検してみる。
海に行けたらいいなと思って、それにあうようにしてきたつもりだが、今まで幸哉に強要されていた派手でケバケバしい服より、自分らしい気がした。
(これがきっと分相応……おかげで今日のメイク時間は、いつもの十分の一だったしね……)
つけようと思って出したはいいいものの、とてもそんな気になれなくて、洗面台に投げ出してきたマスカラやアイシャドウのことを思い出した。
なんだか笑えた。
ふと気がつくと、いつの間にか窓から私のほうへと向き直っていた海君も、私の顔を見て笑っていた。
なんだか余裕たっぷりの微笑に、ドキリと胸が鳴る。
「何?」
そんな自分に焦りを感じながらも、強気な姿勢は崩さず尋ねると、
「うん、今日の真実さんは昨日より可愛いなと思って」
海君はあっさりと――実にあっさりと言ってのける。
照れる様子など微塵も感じさせない。
彼が口にする言葉は、どこまでも真っ直ぐで、誇張も飾りもない。
私の顔をじっと見つめる彼の落ち着き払った態度とは対照的に、私のほうは一人で照れて、焦りまくって、
「と、年下のくせに……生意気言わないでよっ!」
これ以上表情を観察されないようにと、慌てて俯いた。
海君はくくくっと声を殺して笑いながら、私の頭をキャップの上から叩く。
その思ったよりも大きなてのひらに、またしてもドキリとする。
そんな自分は、どう考えても自意識過剰だった。
海水浴にはまだほんの少し早い季節、それでも海岸近くの駅で降りる乗客は多かった。
そのほとんどがカップルか、学生たちのグループ。
(私と海君は、どんなふうに見えるんだろ……?)
気にしなくてもいいはずのことを気にしながら、自分より頭一つぶん背が高い背中を、小走りで追いかける。
「真実さん。荷物、このへんに置いとくね」
海君は最初っから、私に気を遣うなんてことはなしに、自分の思うがまま行動している。
自分の乗りたい電車に乗って、降りたい駅で降り、行きたい方向に歩いて、当たり前のようにふり返って私を呼ぶ。
そんな行動の何もかもが、しっくりと心地良い。
昨夜出会ったばかりなのが、まるで嘘のようだった。
私はすっかり安心しきって、なんの迷いもなく終始彼のあとを追いかけている。
自分の意見や考えをしっかりと持っている人。
行動力のある人。
迷いのない人。
そんな人が私はうらやましい。
自分がそんな人間ではないので、憧れてやまない。
(私一人だったら、今日も一日部屋にいて、幸哉のことを思い出して落ちこむばかりだったと思う……)
迷いなく波うち際へと向かって行く海君の背中に、私は確かに感謝の気持ちを感じていた。
「真実さんもおいでよ」
靴を脱いで、ジーンズの裾をめくりながら、海君が呼ぶから、私はわざと砂浜に座りこんで、頬杖をつきながら首を振る。
「いい。やめとく」
「どうして?」
太陽を背に、海君が笑った。
眩しい光が、彼にはなんて似あうんだろう。
本音を言うと、その姿を見ていたいだけだが、それを口に出すことはためらわれて、
「だって海君、絶対私に水をかけるでしょ?」
せいいっぱい大人ぶって答えた。
そんな私を、海君は
「ハハハ」
と声に出して笑ってから、海水を両手にすくい上げた。
「え……? ちょっと待って……! って、もしかしてっ!」
私が身構えるより先に、
「それは……絶対するね!」
私に向かって、その水を放ってよこす。
ザンッ
幸いにも海水は、私の肩をかすめて、砂へと吸いこまれていったけど、
「うーみー君!」
不意をつかれた私は、抗議の声を上げると同時に、腰を下ろしていた砂浜から立ち上がった。
「なにするのよ! もうっ!」
急いでスニーカーを脱ぎ捨てて、波うち際へ向かう私に、
「あははっ! ゴメンゴメン!」
言葉とは裏腹に、彼は第二波、第三波を放ってよこす。
「この悪ガキ!」
ついに走り出し、応戦し始めた私に、海君はそれでも笑いながら水をかけた。
何度も何度も、知らない人から見たらおかしいのかと思うくらい、私たちはふざけあって、水をかけあって、大笑いしながらずぶ濡れになった。
「……ちょっと休憩」
水のかけあいの真っ最中に突然そう言うと、海君は本当に砂浜にゴロンと横になる。
かなりずぶ濡れのままだったから、
「えっ? 砂がついちゃうよ?」
慌てて忠告したのに、
「いいよ……それより疲れた……」
腕を目のあたりに押し当てて、まるで太陽から顔を隠すようにして、肩で大きく息をくり返す。
(……仕方ないな)
隣に腰を下ろして、
「おい、運動不足だぞ! 若者!」
私は笑った。
「……本当に」
笑い声で答えた海君の顔は、彼の腕に隠れてよく見えなかった。
でも、口元のあたりが笑みを作っていたから、私はそのまま軽口を続ける。
「まだまだこんなもんじゃ、私には勝てないわよ……!」
海君が腕をずらして、目を細めて私を見上げた。
眩しいくらいの笑顔の中で、綺麗な瞳が、キラリと光る。
「そうだね。あーあ、真実さん、小さくて痩せっぽちのクセに、パワフルなんだもんなー」
「小さいは余計です……!」
魅力的な笑顔にわざとしかめ面をしてみせてから、私はさっきまで二人で駆け回っていた波うち際へと視線を向けた。
寄せては返す白波。
それは私にとって、決して縁遠い存在ではない。
「私は港町で育ったから……海には慣れてるの。海風や海水って、思ったより体力消耗するんだよ……」
小さな頃、いろんな大人たちから聞かされた海の話。
それを、さも自分の言葉のように語っている私。
そんな自分がなんだか照れ臭い。
海君は砂浜からゆっくりと起き上がって、私の隣に座り直し、私が見ている方向に、同じように視線を向けた。
どこまでも続く水平線。
青い空と白い雲。
夏がすぐそこまで来ている。
「そっか。いつも遠くから見てるだけじゃ、そこまでわかんなかったな……」
独り言のような呟きに、私はびっくりして彼の横顔を見つめた。
「えっ? ひょっとして、海に来たの初めてだった?」
そんな人が果たしているのだろうか――よく考えなくても、自分の質問の滑稽さは、誰よりも自分が一番よくわかっていたが、
「……いいや、何度も来てるよ」
海君は呆れもせずに、波間に視線を向けたまま小さく笑った。
少し声のトーンを変えて、
「ただ俺が一番多く見ていた景色の中では、海は遠くにほんの少しだけ見えるものだったからさ……」
彼が呟いた謎かけのような言葉を、私はゆっくりと考察する。
(家の窓とか教室の窓とか、そんなところから遠くに海が見えたってこと……?)
首を捻り始めた私に、海君はフッと笑いを漏らす。
「……ゴメン。まあ要するに、こんなに楽しいのは初めてってことだよ」
急に真正面から顔をのぞきこまれて、そんなふうに言われると、なんだか照れてしまう。
私は俯いて、砂をてのひらですくい上げ、指の隙間からサラサラと落とした。
海君も同じように砂をつかんで、
「真実さんは、海のそばで育ったから海が好きなんだね」
もう一度笑う。
彼の大きな手の、長い指の間から砂が落ちていく様子に、思わず見惚れそうになっていた私は、そんな自分を追い払うように、
「うん、大好き」
大袈裟に笑って答えて、もう一度顔を上げた。
目があった途端に、海君の綺麗な瞳が、またキラッと光った。
「何が?」
年下とは思えない、落ち着いた響きのある声で、彼は余裕たっぷりに私に問いかける。
「何がって……だから……海だよ?」
疑いもせずに即座にそう答えた瞬間、自分を見下ろす笑顔の、本当の意図にやっと気がついた。
大慌てしてしまう。
「そそそうじゃなくてっ! いや、そうなんだけどっ!」
海君はすぐに、
「ハハハハッ」
と肩を揺すって大笑いを始める。
彼が私の反応を面白がって、わざと言っているのはよくわかる。
わかるのに――どうしてこう見事にひっかかってしまうんだろう。
「ああああ、何でこんな名前つけちゃったんだろう!」
両手で頭を抱えながらぼやく私に、
「……光栄です」
海君がポンと肩を叩いた。
そしてそのまま立ち上がり、荷物を置きっぱなしにしていたあたりに向かって、砂浜を戻り始める。
その思ったより大きな背中を見送りながら、私は彼が触れた左肩を、なんとなく右手で握りしめた。
感覚や意識がその場所に集中しすぎて、熱いようにさえ感じた。
(そんなはずない。……本当に笑っちゃうくらい気にし過ぎだ……)
苦笑交じりにそう思った時、
ズキリ
左腕が痛んだ。
(……そうだった。昨日、幸哉にやられた傷があったんだった……)
唇をかみ締めるようにそう思った瞬間、意識が急速に現実に引き戻される。
傷が見えないように今日は長袖の服を着てきたけど、
(そう……状況は何も変わってない……私は幸哉から離れられない)
今まで当然だと思っていたことが、今日はやけに胸に痛い。
幸哉の存在を、今日だけは忘れていられても、明日からはまた、幸哉に支配された、幸哉に怯える毎日に戻る。
(……嫌だな)
急にそう感じるようになったのはなぜだろう――少し自由に行動できたからか。
それとも、別の理由からか。
少し考えれば、その答えはすぐに出てくるのに、私は考えることを拒否する。
(どうせ何も変わらない……)
諦めることは簡単だ。
少なくとも、今の状況をどうにか良くしようと努力するよりは簡単だ。
自分の膝小僧におでこをくっつけるようにして、膝を抱えて俯いてしまった私を、遠くから海君が呼ぶ。
「真実さーん、お弁当食べようよー。俺、それが楽しみなんだからさー」
初めて聞いたその時から、海君の声は、私を落ち着かなくさせる。
なんだか胸がザワザワする。
じっとしていられないくらい心に響くのに、耳に心地良い。
返事もせず、そんなことを考えていたから、
「真美さん?」
もう一度、呼ばれた。
ふり返って、目を細めて見てみたら、夏の太陽にも負けないくらいの眩しい笑顔が、やっぱり私に向かって微笑んでいた。
(いつまでも見ていたい……)
涙が浮かんできそうなその思いが、正直私の本音だった。
だけど手を伸ばせば届きそうなその笑顔は、自分には遥かに遠いものなんだということも、私は痛いくらいに自覚していた。
浜辺にビニールシートを敷いて、その上に二人で並んで座った。
絵に描いたような『ピクニック』の図に、海君はとても満足そうだ。
「いいよーこれだよ、これ」
上機嫌を体いっぱいで表現するように、大きく伸びをしながら青空を見上げるから、私もつられたように空を見る。
白い大きな雲がいくつも浮かんでいた。
「夏の空っていいよね。すっごく気持ち良くって、ずーっと見ていたいくらいだ。でもこうして見ていると、意味もなく泣きたくなってきちゃうんだよな……」
独り言ともつかないその言葉に、思わず小さく息をのんだ。
子供の頃から私がこっそりいつも思っていたことを、自分じゃない人の口から聞かされて、かなりドキリとした。
(どうして……? 海君?)
声に出さず視線だけで問いかけると、海君がやっぱり声には出さず瞳だけで返事する。
(……何? 真実さん……?)
胸が苦しくなる。
こんなことが嬉しくてなんになるというのだろう。
(今日だけだよ……一緒にいるのは今日だけ……)
感情を抑止するための心の声も、時間が経つに連れどんどん頼りなくなってきている。
いろんな思いをふり払うかのように、私は首を横に振って、作ってきたお弁当の包みを開いた。
蓋を取って、
「はい、どうぞ」
海君にさし出すと、
「おおおっ!」
歓声が上がる。
内心ホッとしながらも、表面上は少し偉そうに、
「心して食べなさい」
胸を張ってみせた。
笑いながら手を伸ばした海君の表情が、すぐにもっと嬉しそうに輝きだすから、私はもっともっと嬉しくなる。
「美味しい……美味しいよ、真実さん。うん、天才!」
決して嘘はつかないだろうと思えるその瞳で、言ってもらえると、
(お世辞だよね?)
と思いつつも、つい頬が緩んでしまう。
「じゃ、もっと食べなさい。ほらこれも」
にこにこしながら、海君の取り皿に料理をどんどん載っけていく私の姿は、
(……お姉さんを通り越して、これじゃお母さんだよ……)
自分でも苦笑せずにいられなかった。
本当に無邪気な顔で、「美味しい」と海君は笑ってくれる。
それが嬉しかった。
嬉しくてたまらなかった。
だから、自分が食べるのもそっちのけで、彼の世話を焼いていたんだけど、
「真実さんも食べないとなくなっちゃうよ?」
笑いながらそう言われて始めて、お弁当箱の中身がかなり少なくなっていたことに気がついた。
自分のぶんにあんなに作ってきた大好物の卵焼きが、もう全然ない。
「ああっ! 卵焼き全部食べたわねっ!」
年上の威厳も何もあったものじゃない非難の声に、海君はクスッと笑って、
「はい、じゃあ、これどうぞ」
と、自分が今食べようとしていた卵焼きをさし出す。
(ちょっと大人気なかったかな?)
恥ずかしく思いつつも、今更ひっこみがつかなくて、
「ありがとう」
と受け取った私に、海君はその綺麗な瞳にいたずらっぽい色を浮かべて、ニヤッと笑った。
「俺の食べかけだけどね」
途端、大人のふりも吹き飛んで、私はカーッと頭に血がのぼった。
(それぐらいどうってことないわよ! 全然大丈夫よ!)
口に出すと余計に意識しているみたいで、心の中だけで必死にくり返す。
でもいくらごまかそうとしても、どんどん顔が赤くなっていくのが自分でわかる。
(嫌だもう、こんなの……ものすごく意識してるみたいだよ)
実際、海君もそう思ったのかもしれない。
その証拠に、私につられたように赤くなって、
「ゴメン」
とそっぽを向いてしまった。
なんとも言えない空気に、心のどこかがチクリと痛む。
(これじゃあ、中学生の初デートみたいだよ)
懐かしいような、恥ずかしいような感覚に焦りを感じながら、私は
「海君」
と彼を呼んだ。
(このままじゃ、なんだか間が悪いよ)
年上の自分が何とかしなくちゃと呼びかけたつもりだったのに、ゆっくりとふり返った彼の横顔に、思わず目を奪われた。
照れたようなさっきまでの顔とはうって変わって、長めの前髪の向こうから私を見つめていた瞳は、ひどく大人っぽい表情をしていた。
思わずドキリと胸が高鳴って、そんな自分を抑えるのに、必死になる。
(なんだかふり回されっぱなしだ)
苦笑まじりにそう思った時、
「真実さん、明日も会いに行っていいかな?」
真っ直ぐな瞳で私の目を見て、海君が尋ねた。
その真摯な声と、言葉の意味にどうしようもなく胸が痛んで、私は俯いた。
(それは……どうだろう? ここでこうしていることさえ、いつ幸哉にバレないとも限らないし。バイトにも行かなくちゃだし。だいいちもう一度会う理由なんて、私たちの間には何もないよ……)
いろんな言い訳が頭の中を駆け巡って、口を開こうとした時、
「俺は、真実さんに会いたい」
海君の率直な言葉が、私の心にストンと入ってきた。
思わず俯いていた顔を上げて、彼の顔を見上げる。
さっきからずっと変わらない、真剣な表情。
その顔を見ていたら、いつの間にか、
「うん、私も海君に会いたい」
自分の意思とは裏腹に、私の口もそう答えていた。
一緒にいたいからいる。
会いたいから会う。
そんな当たり前のことに、どうして人は理由をつけたがるんだろう。
見栄とか建前とか同情とか恐怖とか、いろんなものを取り去ったあとには、真っ直ぐな気持ちしか残らないはずなのに。
正直な気持ちしか。
それから毎日、海君は朝になると私のアパートの前に現れた。
長い足を持て余すように、ガードレールに腰掛けて待っていて、部屋から出てきた私を見つけると、
「送るよ」
と、それはそれは嬉しそうに笑う。
初めて会ったあの夜のように、隣にピッタリ寄り添って歩いて、バイト先のファミレスまで送ってくれた。
バイトが終わる頃、また夕方、店の前で待っていて、今度は私のアパートまでの道のりを一緒に帰ってくれる。
歩きながらたわいもないおしゃべりをして、冗談を言って笑いあって、それで家の前まで来たら、
「じゃあ、また明日」
と帰って行く。
毎日がそのくり返し。
帰り際の小さな約束がある限り、彼はきっと明日も来てくれるのだろう。
当たり前のようにくり返される、ひどく当たり前ではない行動。
(どうして来てくれるの? 何のために? 何を考えているの?)
わからないことだらけで、私は何から尋ねていいのか迷う。
それに、たとえ尋ねたとしても、答えが返ってこないだろうと思っている。
「学校は? 行かなくていいの?」
あいかわらず自分に関する質問には、海君は曖昧な笑いを浮かべるだけで、答えようとはしない。
今更、「本当の名前は?」とも聞けなくて、私は彼の事を『海君』と呼び続けている。
でも、それで良かった。
ただ一緒に歩くだけで楽しかった。
いろんな話をするだけでワクワクした。
たったこれだけのことで毎日が楽しくて、夢みたいで、だからそのぶん、私は本当は怖くてたまらなかった。
(こんな毎日がずっと続くわけない。私はそんなことを望めるような人間じゃない)
誰よりも自分自身が、そのことをよくわかっていた。
「真実。いるんだろ? 入るぞ」
まだ夜明け前。
大きな怒鳴り声と、ガチャガチャと騒がしい物音で、私は深い眠りから無理やりに叩き起こされた。
体はすぐには動いてくれなかったけれど、
(幸哉だ!)
頭は一瞬で冴えた。
合鍵を使って幸哉が、私の部屋に勝手に入ってきたところだった。
急いでパジャマの胸をかきあわせて、ベッドの上に座り直す。
重苦しい空気をまとって私に歩み寄って来る幸哉が、とても怒っている様子が、暗闇に近い中でもわかるような気がした。
「お前最近、高校生ぐらいの若い男と一緒にいるんだってな」
(やっぱり……!)
全身から血の気が引く思いがする。
(絶対に、海君を傷つけるようなことになったらいけない! 私が守らないといけない!)
今まで抱いたこともないような強い決意が、私に力をくれた。
「あの子は……そんなんじゃない!」
自分でも信じられないくらい強くて冷静な声が出た。
私の静かな迫力に、幸哉も強く言わないほうがいいと感じたらしくて、
「それなら別にいいんだけどさ……」
らしくもなく口ごもる。
(まずは上手くいった……!)
ホッと胸を撫で下ろすような気持ちになりながらも、内心、私は落ちこんでいた。
今まで私を四六時中見張っていた幸哉にしては、実際、乗りこんできたのは遅いくらいだったかもしれない。
どこから聞きつけたのか。
それとも本当は自分自身の目で見たのか。
どちらにしても、こうなった以上は今までのようにはいかない。
(もう、海君には会わないほうがいい……)
それは思っていたよりも、胸に痛い決意だった。
でも仕方がない。
海君を巻きこむわけにはいかない。
胸の痛みをこらえながら、視線に力をこめ、じっと見つめ続ける私から、
「じゃあ、金貸してくれよ」
幸哉は逃げるように視線を床に落として呟いた。
話の矛先が変わったことに少しホッとして、私は立ち上がり、幸哉に背を向け、財布の入ったバッグに手を伸ばす。
その途端、後ろから羽交い絞めにするように抱きすくめられた。
「真実、俺を裏切るなよ」
暗い情念のこもった小さな呻き声に、私は返事をしない。
その代わりに懸命に手を伸ばして、財布の中からお金を抜き取った。
「はい。今はこれだけしかないわ」
幸哉の顔の前へと、後ろ手にお金を突きつけて、ようやく腕から開放された。
前に怪我した左腕がズキズキと痛む。
「サンキュ」
幸哉はさっさと踵を返して、来た時と同じようにわざと大きな音で扉を閉め、カンカンカンと階段の音を響かせて帰っていく。
(必要なのは私? それともお金?)
聞くのも虚しい質問を心の中で何度もくり返しながら、私は幸哉に触れられた体を自分の腕で抱きしめて床に座りこんだ。
古傷がまた開いたのか、左腕から血が流れ落ちてきて、床に染みを作る。
(嫌だ)
今までは、そんなに強く感じたことのなかった嫌悪感が、心の底から湧いてきた。
(あんな奴に触られた私は嫌だ!)
どうしてそう感じるようになったのか。
その答えは考えなくてもわかっている。
(こんな私じゃ、海君に会えないよ……!)
彼はたぶん待っている。
いつもと同じように、朝になったら私を待って、あのいつものガードレールに腰かけている。
(海君。海君。海君!)
手の跡がつくほどに自分の両肩を握りしめて、私は胸が痛んで仕方がなかった。
朝食を食べる時間を犠牲にしてシャワーを浴びた。
服を脱ぐと、古い傷痕だらけの体があらわになって、自分でもいたたまれなくなる。
幸哉に抱きしめられた感触を洗い流すかのように、私は力を入れて体をこすった。
「真実さん……今日は朝からなんだかいい匂いだね……」
思ったとおり。
いつもの時間にいつもの場所で私を待っていた海君は、開口一番そう言った。
なるべく動揺を悟られないように、
「うん、朝からシャワーを浴びたから」
答えた私から気まずそうに目を逸らして、彼は首まで真っ赤になる。
(いつもは余裕たっぷりなのに、こんな顔もするんだね……)
思わず笑顔になれた自分に心の中でホッとしながら、それでも今朝何があったのか、やっぱり彼には知られたくないと思った。
私が息を吐くことができる、唯一の大切な時間。
できれば失いたくなかった。
だけどこのままではいられない。
だからせいいっぱい、いつもどおり元気なフリをして、
「何を想像してんの、エッチ」
と海君の背中を叩いた。
(傷つけることは絶対にできない。だからサヨナラするしかないんだ)
私の心はとうに決まっている。
考えるまでもなく決まっている。
真っ赤になって俯いていた海君が、その時、私の手を掴んで顔を上げた。
「どうしたの?」
あまりにも真剣な眼差しに、ドキドキする。
手首を掴んでいる大きな手にドキドキする。
その動揺を悟られないように、せいいっぱい普通に笑ったつもりだったのに、海君は、うめくように低い声で、
「真実さん、何かあった?」
と呟いた。
私の心臓はドキリと飛び跳ねたけれど、
「どうして? 何もないよ」
と普通に答えた。
答えたつもりだった。
でも、できなかった。
海君の真剣な瞳に見つめられると、嘘を吐くことが、とてつもない罪のように思える。
そんな罪を犯したら、もう二度とこの人とは会えなくなるんじゃないかと思える。
そのほうがいいに決まってるのに。
彼のためにはきっと、もう会わないほうがいいのに、
(そんなの嫌だよ)
自分の心を抑えられない。
ポタポタポタ
と大粒の涙が私の頬を伝って落ちた。
海君は、苦しそうに綺麗な瞳を細めて、
「ゴメン」
と言った。
返事をしたいのに口を開くことができない。
もし今、口を開いたら、彼に甘えてしまいそうだった。
縋りついてしまいそうだった。
何も言わず首を横に振った私に、海君はもう一度、
「ゴメン」
とくり返した。
そして乱暴に私を引き寄せて、息もできないくらいに抱きしめた。
「海君」
涙声の私に、
「ゴメン」
海君は何度もくり返す。
自然と胸に顔を埋める形になって、そこからそっと見上げると、眩暈がするくらいに近い距離から、彼の真剣な顔が私を見下ろしていた。
「ゴメン、真実さん。許して」
海君が謝っているのが今の状況のことだったら、それは私が心のどこかで望んでいたことだ。
海君が謝る必要はない。
そうじゃなくて、私が朝からシャワーを浴びた理由を察してしまったことだったら、それは私の、自分でもどうしようもない現実だ。
やっぱり海君が謝ることじゃない。
(気にしなくてもいいんだよ)
の思いをこめて、私はそっと彼の背中に腕をこまわした。
温かい体を抱きしめ返す。
この上なく幸せな気持ちだった。
彼がいったい何者なのか。
私にはわからない。
それと同じように、今何を考えているのかも、本当のところはわからない。
わからないから自分で考えるしかないけれど、こんな時はいくら考えてみても、自分に都合のいい解釈しかできない。
期待を持つだけ持って、裏切られることは辛い。
辛い目には散々あってきたと思っても、海君に裏切られるのは、きっと耐えようのない辛さだ。
(だから私は考えない。海君が私をどう思っているのかなんて……知りたくない)
彼を抱きしめる腕の強さに反して、私の心は首を横に振り続けていた。
「海君」
胸に顔を埋めたまま、そっと名前を呼んだ。
海君は私の頭に頬を寄せたまま、
「嫌だ」
と言った。
何のことを言っているのかと不思議に思って、頭を上げようとする私を、海君は決して放すまいと、抱きしめる腕に力を入れる。
「海君?」
「だから嫌だ」
また間髪入れずに返されて、少しムッとする。
「何が嫌なの?」
海君はますます強く、私の頭に自分の頬を押しつけた。
「真実さんが言おうとしていることの答え。俺は嫌だから」
「海君……」
また涙が零れそうになった。
このままじゃいけないとわかっている。
幸哉ときちんと話もできない私じゃ、海君のそばにいたって迷惑になるだけだ。
私と一緒にいても、海君には何もいいことはない。
それどころか、幸哉が何をするかわからない。
だから――
(もう会わない)
そう決心して、今日は出てきた。
その決心がわかったとでもいうのだろうか。
そしてそれを、
「自分は嫌だ」
と言ってくれているのだろうか。
「でも……」
不安をぬぐいきれず、口ごもる私に、
「俺は、俺のやりたいようにする。明日も明後日もその次も、真実さんに会いに来る」
海君がくれた言葉は、どんな谷底に突き落とされても、たった一つそれさえ残っていればいいと思える、希望の灯火のようだった。
初夏の爽やかな朝の風の中、私の心の中に、その小さな灯火が確かに点った。
儚げで頼りない光ながらも、懸命に新しい世界を照らしだそうとしていた。
「今度真実さんが休みの日に、一緒に遊びに行こう」
と海君と約束した日は、眩しいくらいの晴天だった。
六月の終わり。
確かまだ梅雨の真っ最中のはずなのに、もう何日も晴れの日が続いている。
くっきりと白い大きな雲がいくつも浮かぶ夏色の空の下。
少し前を歩く頭一つぶんだけ背の高い背中を追いかけて、私は今日ものんびりと歩く。
「海君が現れてから、なんだか毎日がいい天気な気がする……」
思わずもれた呟きに、
「何だよ、それ」
立ち止まってふり返った彼が、夏の太陽にも負けないくらいの笑顔で笑った。
大袈裟じゃなく本当に目が眩みそうになる。
そんな自分に負けないように首を振って、
「だって本当だもん」
強気に言い返す。
夜のネオンが輝く街から、昼の太陽の下へと海君が私を連れだした。
あの日から、ちゃんと朝食を食べるようになった。
日づけが変わる前に眠るようにもなった。
だから――
「もうそろそろいいかもしれない……」
私は、ずっと伸ばしていた髪を切ることにした。
「本当にいいの?」
美容室のお姉さんは腰まである私の髪を持ち上げて、何度も確認したけれど、
「はい。いいです」
私はしっかりと頷いた。
幸哉とつきあいだしてから、ずっと伸ばした髪だった。
「真実の長い髪が好きだ」と幸哉は言った。
だけど
だから
パーマが取れて痛んで変色したままになっている髪を、全部切ってしまおう。
(それが、私の幸哉との決別の儀式)
そんなたいそうな決意がなされているとは知らず、
「じゃあ、切りますねぇ」
お姉さんは大声で宣言してから、私の長い髪に大胆にはさみを入れた。
近くの本屋で立ち読みをしながら待っていてくれた海君は、ふと雑誌から目を上げ、私の姿を見た瞬間に、大袈裟なくらいに瞳を見開いた。
「え? ひょっとして真実さん?」
茶目っ気たっぷりに尋ねられて、思わずムッとする。
「ひょっとしてって……どういう意味?」
彼の読んでいた雑誌を取り上げて、棚へと戻す私に、海君はおかしくてたまらないといった表情で笑いかける。
「だって……それじゃ俺とどっちが年下なんだか、わかんないじゃん……!」
急に涼しくなった襟足を吹き抜けていく風があまりにも新鮮で、私だって自分でも、
(切りすぎたかな)
と気にしていた。
そこをズバリと指摘されて、
「私だって、ちょっとやりすぎたかなって思ってるもん!」
思わず叫んでしまった。
海君はすぐに肩を揺すって大笑いを始める。
(失礼だな、もう!)
怒った私は、彼に背を向けて店から出た。
そのまま足の向いた方向へと歩き出す。
「待って真実さん」
後ろで自動ドアの開く気配がして、私を呼ぶ海君の声が聞こえたけれど、
(笑いながら呼んだって、止まってなんかやらないんだから)
ますます足を速める私に、海君はようやく笑うのをやめたようだった。
それでも走って追いかけるなんてことはせずに、大声で叫ぶ。
「待ってくれないと、俺は追いかけないよ」
けっこう距離があるはずなのに、なぜかその声ははっきりと私の耳に届いて、ピタリと足が動かなくなった。
広い舗道をそれぞれのペースで歩いている人の中で、あっという間に私だけが取り残される。
通り過ぎて行くたくさんの人々。
その中に一人佇んでいると、あの夜の、重苦しい気持ちが甦ってくる。
足をひきずるように、夜のネオンの中を一人歩きながら、
(もう疲れたよ)
そんなことをくり返し考えていた。
今にも全てを投げ出してしまいそうな絶望感。
どうにかなってしまいそうなほどの切迫した思い。
(もうあんな私に戻りたくはない。あの夜になんて帰りたくない……!)
忘れかけていた苦しい思いをもう一度ふり払うかのように、何度も頭を横に振って、私は青い空を見上げた。
(辛くて、悲しくってどうしようもない夜に、私を見つけてくれたのは誰? そこから連れ出してくれたのは誰だった?)
こみ上げる想いに唇を噛みしめて、私は海君をふり返った。
太陽を背に、その人が立っていた。
両手をジーンズのポケットにつっこんで、私に投げかけた言葉の重さとはまるで不釣あいに、いつもの調子で笑ってる。
笑いながらゆっくりと歩いて、私のほうへやってくる。
ふり返った私は、どうやらよほど情けない表情だったらしい。
海君は瞳をグッと優しくして、ちょっと笑いをこらえたように私のことを見つめる。
だけど、
「ゴメンね、真美さん。でも本当だから」
ゆっくりと私に近づいてくるその表情は、近づけば近づくほど、真剣だとわかった。
首を傾げるように、私の顔をのぞきこんで、
「俺と一緒にいるの、もうやめる?」
彼が尋ねた言葉が、また胸に刺さった。
考えるより先に、体が動く。
ほんのさっきまで体が硬直していたはずなのに、海君の質問に必死で首を横に振っている自分がいる。
どうしようもない想いが、湧き上がる。
私が抱いてはいけない想いが、心の奥から溢れ出ようとする。
それを打ち消すように、私はせいいっぱい背伸びして、海君の頭に手を伸ばした。
「何言ってるのよ。可愛いのは海君のほうでしょ」
どさくさに紛れて触った柔らかい髪に、胸が高鳴った。
笑いながら私の髪をかき混ぜる笑顔を見上げて、
(……もう駄目だ)
と思った。
楽しそうに輝く瞳が、すぐ近くから私を見つめる。
(大好きだ。どうしよう……)
涙が出そうなくらいの想いを自覚した。
(ホントに馬鹿だな……どうしようもないな……)
俯くと泣いてしまいそうだったから、私は必死に顔を上げ続けた。
やんちゃな顔で私の髪をくしゃくしゃにしてしまう海君に負けないように、その髪を力いっぱい触ってやった。
本当はただ触れていたいだけの気持ちを隠して、両手で思いっきりかき混ぜてやった。
「今日は動物園に行きたい」
照れ隠しも兼ねて、強気で主張した私に、
「はい、かしこまりました」
海君は、わざと神妙な面持ちで頭を下げる。
気がつけば、もうすでに日が高くなりつつあった。
このままだとせっかく作ったお弁当が、お昼の時間に間にあわなくなってしまう。
「じゃあ急ごっか?」
笑う海君に私は頷いて、晴天の下、一緒に動物園へと向かった。
頭一つぶん私より背が高い背中を、いつものように、とっても嬉しい気分で追いかけた。
「今日も俺の一番の楽しみは、真美さんのお弁当」
海君は急いで歩きながら、背中を向けたままそんなことを言って、私を喜ばせてくれる。
それなのに、目的地に着いた途端、
「真実さん、あれ見てよ。ほらほら」
小学生に戻ったみたいなはしゃぎっぷり。
あっちへこっちへと、動物たちの動きにあわせて、実に忙しく動き回っている。
(いつもは私より大人っぽいくらいなのに、今日はまるで子供みたいだね……)
私は内心笑いながら、彼に気づかれないようにその姿を飽きることなく見つめていた。
そんな私を知ってか知らずか、海君の
「真実さん、見て見て!」
は、対象の動物が変わるごとに果てしなく続く。
(うーん……いつも余裕たっぷりの海君自身に、この姿を見せてあげたいなあ……)
まるで動物の檻から離れようとしない子供を待っているお母さんのように、近くのベンチに腰を下ろした私は、食い入るように動物の入った檻にしがみついている海君を見ていた。
はしゃぐ背中に、笑いながら声をかける。
「まるで、初めて動物園に来た子供みたいだよ。海君」
その呼びかけに、ふり向いて頷きながら、
「うん。俺、初めてなんだよ」
と海君は笑った。
思ってもみなかった返事に、思わず、
「えっ? 本当に?」
と聞き返さずにはいられない。
「本当」
輝く瞳に、少しだけ寂しそうな影が過ぎった。
海君はきっと嘘を吐かない。
私はそこのことに、なぜか強い確信を持っている。
だから彼がそう言うのなら、本当に今日が初めてなのだろう。
(でも普通、子供の頃に誰だって来たことあるよね? 家族でとか、遠足でとか……それが全然って……)
考えこんでしまった私に、海君が何か言おうと口を開きかけた時、
「ひょっとして真実?」
後ろから聞き慣れた声がした。
ふり返って見てみると、たくさんの幼稚園児に囲まれた愛梨が立っていた。
愛梨はどちらかというと華やかな雰囲気の美人で、スタイルもいい。
いつも流行の服を着て、楽しげにキャンパスを闊歩してて、男子から声をかけられることも多い。
その愛梨が、ノーメークでお下げ髪。
ジャージの上にアップリケのついたエプロンをして、小さな子供たちに囲まれている。
かたや私は、いつも派手なメイクと服で、大学ではちょっと近寄り難い雰囲気だったと思う。
長い髪とハイヒールがトレードマーク。
それなのに今日はジーンズにスニーカー。
しかも切ったばかりの短い髪。
自然とお互いに笑みが零れた。
「愛梨。ひょっとして教育実習? 誰だかわかんないよ、それ」
笑う私に、愛梨も、
「真実こそ。どこの高校生カップルかと思ったわよ。彼氏?」
笑って返して、海君のほうにチラリと視線を流した。
ドキリと鳴った胸をごまかすように、
「ち、違うわよ。そんなんじゃないわよ」
大袈裟なくらいに、私は手を振って否定した。
愛梨は、
(本当にそう?)
表情だけで私に確認してきたけれど、あまりに焦る私の様子に、
「でも、元気そうで良かった」
と、話を変えてくれた。
本当に安心したように私を見つめる優しい瞳に、思わず泣いてしまいそうになる。
「愛梨……」
その時、愛梨を囲む子供たちが、
「せんせえ、せんせえ」
と口々に騒ぎ始めて、彼女は慌てて子供たちに向き直った。
「はいはい、ごめんね」
「真実、大学出ておいでよね」
後ろ姿のまま、私に向かってかけられた言葉に、
「うん」
私は小さく返事する。
「そっちの彼」
ふいに海君に声をかけた愛梨に、跳ねる胸を懸命に抑えながら、
「海君だよ」
と私が教えてあげて、愛梨は改めて彼のほうをふり返った。
「海君、真実をヨロシクね」
私は大慌てで、
(何言ってるの! ほんとにそんなんじゃないんだから……!)
愛梨に向かって叫ぼうとしたけれど、それより早く背後から、
「はい」
と海君の返事が聞こえた。
その潔さ、迷いのなさに胸を衝かれて、また泣きそうな気持ちになる。
縋るような思いで愛梨の顔を見た私に、彼女は
(良かったね)
とでも言うように満足げに笑って、子供たちと共に行ってしまった。
愛梨と子供たちが手を振って行ってしまっても、私はなかなかベンチから立ち上がる勇気が出なかった。
ふり返って、海君の顔を見る勇気もない。
(愛梨が変なこと言うから、どんな顔していいのかわからないよ……)
一人で硬直する私に、
「そろそろ、移動しようっと」
海君は独り言のように言って、私の隣に置いてあったお弁当のバッグを取り上げた。
ホッとして立ち上がった私は、歩き出した彼の後ろを黙ってついて行く。
(海君が何か話してくれたらいいのに……)
前を向いてズンズン歩いていく背中を見ながら、そう願った。
だけど海君は何も言ってくれない。
それどころかふり返ってさえくれなくて、どんどんどんどん歩いていく。
そのペースに一生懸命ついて行こうとしていたら、だんだん息が切れてきて、さすがに私も、
(何か変だぞ)
と気がついた。
「海君?」
必死で呼びかけた声に、
「何?」
返ってきた声が、素っ気ない。
(やっぱりそうだ……怒ってる)
私はため息を吐いた。
「海君? 何か怒ってる?」
率直に聞いてみても、
「別に」
短い返事しかない。
「だって変だよ。どうして一人で先に行っちゃうの?」
せいいっぱい息を吐きながら話す私に、海君は、
「サルが俺を呼んでるから」
と答えた。
(サル?)
思わず足を止めた私は、そこからは、どんどん遠ざかっていく背中に、ただひたすら大きな声を出すしかない。
「何よそれ。さっきまで並んで歩いてたじゃない」
海君の背中は答えてくれない。
「そんなに急いだら、私、ついて行けない」
泣きそうな声になったと、自分でも思ったその時、彼が立ち止まった。
「しょうがないな、はい」
ふり向きざま、さし出された左手。
私はちょっと首を傾げる。
(お弁当のバッグは、海君が持ってる。他に荷物はない。だから、もしかして……?)
その瞬間、
「早く繋いで下さーい」
海君が、まるで園内アナウンスのようにすまして言って、いたずらっ子みたいに笑った。
その笑顔に、私がどんなにホッとしたかなんて、彼にはきっとわからない。
だから、
「あと十秒で締め切りまーす」
の声に、慌てて、
「やだっ、待って!」
走り出した私を、もっと優しい顔で待っててくれるんだ。
私は急いで、その手を掴んだ。
(どうしよう。この手をずっと放したくないよ)
切ないばかりの気持ちを感じながら、私は初めて、海君と手を繋いで歩いた。
海君はサル山の前に着くと、本当にサルを眺めたまま、かなり長い時間ずっと立ち尽くしていた。
手を繋いだままだから、自然と私もそれにつきあって、ずっと立っていることになる。
(何がそんなにおもしろいのかな?)
そっと横顔を見上げてみると、彼の目は別にサルを見ているわけではなかった。
「海君?」
呼びかけた私に、視線はそのままで問いかけてくる。
「俺は真実さんの何?」
いつもとずいぶん調子が違う声に、私はハッとした。
私と愛梨のさっきの会話に、海君はひっかかってるんだと、その時初めて気がついた。
(彼氏なんかじゃ……そんなんじゃないって言ったことだ……)
私は恥ずかしくなって俯く。
(だって本当だもの……でも、それじゃいったいなんなんだろう? 私と海君の関係は……?)
何も答えることができず、俯いたままの私に、海君がやっと視線を向けてくれた。
「ゴメン。答えにくいよね。それじゃ、質問を変える。真実さんは俺をどう思ってるの?」
聞かれて思わず、息をのんだ。
なんと答えたらいいのだろう。
なんて答えることができるのだろう。
思い悩んで黙りこむ私を、海君は目を離さず、ただじっと見下ろしている。
そんな真っ直ぐな目で――私の憧れる曇りのない瞳で――私を見つめるのは反則だ。
私には権利も資格もないって、自分が一番良く知っている。
いくらそう望んでも、それを口に出したらいけないとわかっている。
それなのに、海君の瞳はズルい。
嘘を許さないその瞳は、私をただの怖いもの知らずに変える。
「好きだよ。大好き」
どうしようもない想いに抗うことができず、搾り出した私の答えに、海君はふうっと息を吐いた。
私から真っ直ぐな瞳を逸らさずに、繋いだ手に力をこめて、
「俺もだよ」
確かに呟いた。
誰かを手に入れるのは、失うのよりも怖い。
今はどんなに大切でも、その先それがどんなふうに変化していくのか。
一瞬先も安心できない、人の気持ちの変化を、私は知っている。
その原因を作るのは自分かもしれない。
ひょっとしたら、何度恋をしても、どんな人を好きになっても、私が私である限り、私の恋はいつも同じ結末にたどり着くのかもしれない。
そんな思いが私を苦しめる。
一歩を踏み出すことをためらわせる。
だけど自分ではなく、彼のことなら信じられると思った。
私を真っ直ぐに見つめて語られる言葉には、決して嘘はないと感じた。
「真実さん、こっちこっち。ほらあそこに真実さんがいる」
海君が指差したほうを何気なく見てみると、木々の間に腕の長い黒っぽい動物がぶら下がっていた。
説明が書いてあるプレートを呼んでみると、『ナマケモノ』の文字。
「こらーっ!」
怒ってふり上げた右手は、海君と繋いだままになっていて、彼はしてやったりとばかりにニヤッと笑った。
(だったら、左手があるのよ!)
すぐにふり上げた左手も、笑いながらかわされてしまった。
「ほんとにもう!」
怒った声を出しながらも、本当はどんなことにも腹は立たない。
笑いながら私を見つめる海君の顔を見るたび、ドキドキが止まらない。
だから私はわざと、冷静さを保った顔を作る。
最後の抵抗。
年上の意地。
(負けてなるものか)
とがんばる。
本当は、初めて会ったあの夜からどうしようもないほどに彼に囚われていることは、自分でも痛いほどにわかっていた。
「私……大学に行こうかな」
何の脈絡もない私の話にも、海君は決して驚いたりしない。
「うん。いいんじゃない」
まるで私の考えていることが全てわかっているかのように、すぐに返事をしてくれる。
それは初めて会ったあの夜から変わらずに、ずっと。
不思議なほど、当たり前に。
「その時は俺が送っていくよ」
当然のように返される言葉に、
「歩いて?」
思わず一矢報いたくなる。
でも私のそれくらいの問いかけでは、一枚上手な彼の顔色一つ変えることはできない。
真剣な顔で、
「もちろん歩いて。それが無理なら電車かな」
そう返されるから、私のほうが笑うしかなくなってしまう。
「なにそれ」
「はははっ」
顔を見あわせて、二人で大笑いしながら私は、
(うん。海君がそう言うんだったら、本気でがんばってみよう)
と思った。
彼と一緒なら、どんなことだってできる気がした。
でもそのためには、先に片づけなければならない問題がある。
大好きな海君を守るため。
そして自分自身の自由を取り戻すため。
(戦ってみよう)
ひさしぶりにそう思えただけで、私にとっては大進歩だった。
その進歩はまちがいなく、年下のこの男の子が私に与えてくれた。
「ありがとう」
私の言葉に、やっぱり海君は、
「何が?」
とも聞かずに、当たり前のように、
「こっちこそ、ありがとう」
と返事する。
余計な言葉が要らないその関係が嬉しくて、私は、繋いだ手にギュッと力をこめた。
負けないくらい強い力が彼から帰ってきて、またどうしようもないほど嬉しくなった。
その日、マナーモードにしたままの携帯には、幸哉の留守録が何十件も入っていた。
着信履歴も軽く五十を超えている。
(まずいな……怒らせたかもしれない……)
重苦しい気持ちで、画面にズラッと並んだメッセージをスクロールしていた時、ちょうど着信があった。
ひと呼吸置いてから、決心を固め、
「もしもし?」
恐る恐る出てみると、
「今日はどこにいたんだよ?」
前置きもなく、突然問いかけてきたのはやっぱり幸哉の怒った声だった。
「友達と一緒だった」
私の返事は耳に入っているのか、いないのか。
「今すぐ俺のアパートに来い。来ないんだったら俺がそっちに行く」
携帯の向こうの声は、怒りに満ちている。
途端にガクガクと体が震えだす私の体と心に、嫌というほど染みついている恐怖感。
(どうしたら……いいんだろう?)
携帯を持つ左手もどうしようもなく震えて、懸命に右手で押さえる。
そうしながら心の中では必死に考える。
(私だって幸哉に話さないといけないことがある。避けては通れない。逃げてばかりもいられない……でも……)
一歩を踏み出すと決めたからには、私にとって最初に越えなければならない壁が幸哉だ。
けれど実際に会ってみて、私の話がどれだけ幸哉に聞いてもらえるかはわからない。
(力ずくではかなわない……結局いつものようにいうことをきかされる……そんなの嫌だ)
私は意を決して、口を開いた。
「私は行かない。あなたも来ないで」
「はあ?」
携帯の向こうで、幸哉がギリッと奥歯を噛みしめる音が聞こえた。
「ごめんなさい……幸哉とは、もう終わったと思ってる。本当はずっとそう思ってた……もう会わない……」
ずいぶん長い時間がかかって、ようやく口にすることができた私の本音に、
「馬鹿なこと言ってんじゃないぞ。俺は絶対に認めない」
幸哉は想像していたよりは冷静に返事をした。
「でも、私はもうあなたのところには行かない……だから私のところにも来ないで……!」
私のきっぱりとした拒絶に、静かにやり過ごそうとしていたらしい幸哉の怒りは爆発した。
「お前は俺のものだ! これからもずっと!」
私は懸命に首を振る。
幸哉に見えはしないとわかっていても、自分の意思表示のためにそうせずにはいられなかった。
「違う! 私は誰のものでもない!」
「真実!」
まだ何かを叫ぼうとする幸哉に、私は、
「さよなら」
と短く言って通話を終えた。
すぐにまた鳴り始めるので、着信拒否にした。
見ているだけで怖いので、クッションの下に押しこんで、新しく付け替えた玄関の鍵が閉まっていることを確認する。
念のために窓の鍵も全部確かめて、ベッドの上で丸くなった。
肌布団を被って、握りしめた自分の右手を胸にそっと抱きしめる。
海君と今日繋いで歩いた手だった。
(海君、私に勇気をちょうだい)
祈るようにそのこぶしを抱きしめた。
思ったより早く、アパートの前に幸哉の車が停まった音がした。
ガンガンガンとわざと大きな音を鳴らして階段を上がってくる足音と、ドンドンドンと玄関のドアを叩く音。
「真実! 真実! いるんだろ」
もう夜になろうかという時間なのに、大声で私を呼ぶ声。
私はたまらず両手で耳を塞いだ。
ドンドンと鳴り止まない音に、
「うるさいぞ!」
左隣の部屋からは抗議の声が上がる。
それでも幸哉はドアを叩き続ける。
(どうして? こんな人じゃなかったのに……)
胸が締めつけられるように痛んだ。
まだ優しかった頃の幸哉の穏やかな顔は、今でも私の瞼の裏に残っている。
大きな体のわりには気が小さいところがあって、私に初めて声をかけた時には、かなりの勇気をふり絞ったんだと、照れ臭そうに笑いながら教えてくれた。
懐かしい表情。
(なんで……こうなっちゃったの……?)
答えはわからない。
けれど、全てが幸哉一人の責任だと簡単には言い切れない。
(私が悪いの? 私のせいなの?)
後ろめたいような、懺悔するような気持ちで一度考え始めると、転がり落ちていく思考は、自分自身でも止められない。
溢れ出した涙を止めることができないのと同じに――。
『お前のせいだ。お前が俺を裏切るようなことをするから、こうなるんだ!』
くり返し呪いのように心に刻まれた言葉は、私の全てを真っ黒に塗りつぶしていく。
(海君、無理だよ)
涙が零れた。
(やっぱり私は、海君と太陽の下を歩けるような女の子には、なれないよ)
被っていた肌布団を跳ね除けて、私は起き上がった。
流れる涙を手の甲でごしごしと拭きながら、玄関へと向かう。
まだ幸哉が叩き続けているドアを、(やっぱり開けよう)と心に決め、手を伸ばしたその瞬間、
「真実さん」
ドアとは反対側の、窓のほうから、私を呼ぶ声がした。
「真実さん」
とっても小さくて、ドアを叩く幸哉にはきっと聞こえない。
けれど私には、決してまちがえようのない――その静かな声。
(まさか!)
ドンドンと鳴り続けるドアに背を向けて、私は窓辺へと駆け寄った。
鍵を開けようかどうしようかとためらう私に、窓に映る白い人影は、
「真実さん。俺だよ」
もう一度囁いた。
耳に心地良い、よくとおるその声。
聞き違えようがない。
(海君!)
そっと窓を開けて恐る恐る外を確認した私に、暗闇の中から二本の腕がすっとさし伸べられた。
私の頭を引き寄せて、痛いくらいに抱きしめる。
すっかり暗くなった窓の外に、一瞬、確かに海君の顔が見えた。
(来てくれたんだ……)
嬉しくて、ホッとして、そのまま彼に体重を預けそうになって、ふと思い当たる。
私の部屋はアパートの二階。
この南側の窓には小さなベランダはあるが、階段はない。
もちろん隣の部屋とだって繋がっていない。
「海君……どうやってここに登ったの?」
呟く私に、彼は夜目にも鮮やかに笑ってみせる。
「ないしょ」
それから私の耳元に顔を近づけて、声をひそめて囁いた。
「もうすぐ警察が来るから、表の人は引き取ってもらえるよ」
私を安心させるかのように、にっこりと笑う。
私もつられて小さく笑った。
そんな私に、海君はキラリと瞳を輝かせて、今までとは少し違う笑い方をする。
「その前に、俺のほうがまるで不審者みたいだから、中に入れてもらってもいい?」
思わず胸が、ドキリと鳴った。
(海君が私の部屋に来る?)
なるべく平静を装って、「どうぞ」と返事したつもり。
海君は「お邪魔します」と律儀に言ってペコリと頭を下げ、私と一緒に部屋へ入った。
玄関ではまだ幸哉が、「真実! 真実!」と叫びながらドアを叩いているけれど、不思議ともう怖くはなかった。
それよりも今は、窓から射しこむ月光を背に浴びて、昼間よりもなんだか大人っぽい海君が、気になって仕方がない。
(どうして来てくれたの? なんでわかったの?)
聞きたいことはたくさんあるのに、何も口から出て来ない。
(海君と部屋の中に二人きり)
そのことが、頭がクラクラするくらいに私を緊張させていた。
「すごいね。あの人」
なるべく幸哉のいる玄関から遠くなるようにと、ベッドの上に二人で並んで座って、声を出さないでいいくらいに顔を近づけて話をしているのだから、私の心臓はもうパンク寸前だ。
それなのに海君は、そんなことはなんでもないかのように平然としているんだから、ちょっぴり腹が立つ。
その上、
「俺、今出て行ったら殺されるかもね?」
冗談を言って笑う余裕まである。
「そうかもね……」
答えに少し不満が滲んでしまった私の顔を、海君はしげしげと見つめた。
「どうしたの?」
(お願いだから、そんなに至近距離から見ないで……!)
とはまさか言えなくて、慌てて俯く。
遠くからパトカーのサイレンの音が近づいてくるのが聞こえた。
「ほら、来たよ」
私を安心させるかのように、海君は明るく言ってくれたけれど、私は少し複雑な気持ちで玄関のドアを見つめた。
「真実! 真実!」
こぶしを打ちつけるようにしてドアを叩き続ける幸哉には、あのサイレンは聞こえないのだろうか。
(警察だよ、幸哉。もう止めて)
思わず喉まで出かかった時に、
「ダメだよ。真実さん」
海君のひどく冴えた冷静な声が耳元で響いた。
「真実さんが今ここであいつを許したら、何も変わらないよ」
私は唇を噛みしめてうつむいた。
(それはわかってる。私だってわかってるよ……)
口に出しては言えなかった言葉の代わりに、海君が続ける。
「俺は忘れないから。真実さんがあいつにどんな目にあわされたか……絶対に忘れないし、許さないから」
強い口調に驚いて顔を上げてみると、海君はこれまで見たこともないような厳しい顔をしていた。
氷のように冷たい表情。
それをそのまま私に向けて、
「真実さん。俺が来なかったら、またあいつにドアを開けてたね。そう思ったから俺は来た」
心に切りこんでくるような言葉を紡ぐ。
「心配でずっと外で見てたけど……真実さんが一人で戦ってるのを、本当は黙って見守ってたかったけど……真実さんがまたあいつに流されるのは、俺だって絶対に嫌なんだ」
ふいに伸ばされた両手が私の体を包み、有無を言わさず彼のほうへと引き寄せた。
気がついた時には、私は海君に抱きしめられていた。
痛いくらいの腕の強さが、苦しげな言葉の重みが、海君の真剣さを伝えてくる。
だから零れる涙にかき消されてしまわないうちに、私は自分の素直な気持ちを言葉にした。
「ごめん……ごめんなさい。海君……」
返事はせずに、海君は私の背中に廻した腕に、更に力をこめる。
「来てくれてありがとう……」
感謝の言葉には、私の右の肩口に乗った頭が、少しだけ頷いてくれた。
(これ以上大切なものなんて……今の私にはない……!)
そう思える存在がこうしてすぐ近くにいてくれることが本当に嬉しくて、私は柔らかな海君の髪にそっと頬を寄せた。
狭いベッドの上で、肩を寄せあうようにして座って、
「海君、いつから外に居たの?」
「真実さんと別れてからそのままずっと」
なんて話をしたのを覚えている。
あまりにも近すぎる海君との距離。
思いがけない返事にも、真っ直ぐに私を見つめてくる瞳にも、いろんな感情が入り混じっているように感じるから、どうしようもなく鼓動が速くなる。
「それってストーカーみたいだよ……?」
緊張するばかりの自分をごまかそうと、わざとふざけて言ってみたのに、大真面目な顔で、
「ある意味、俺はそうだよ」
と返された。
かえって胸のドキドキが大きくなって、息が止まってしまいそうだった。
(これからいったいどうしたらいいの? どうするって……ど……どうしよう?)
動揺が激しくなるにつれ、心臓のほうも、もう今にもパンクしそうになっていく。
その時の私は、確かにそんな状態だったのに――。
サイレンを鳴らしながらやってきたパトカーに、幸哉がそのまま連行されてしまったのかどうかさえ、実は私は覚えていない。
海君に寄りかかるように座って、息をひそめながら、幸哉が叩き続けるドアの音を聞いているうちに、どうやら眠ってしまったらしかった。
翌朝目が覚めた時には、しっかりとベッドに横になって寝ていて、部屋には海君の姿も、外には幸哉の姿もなかった。
(す、すごいよ……私……)
自分でもかなりびっくりしたし、呆れた。
とにかくいつものように朝食を食べて、バイトにでかける準備をして、家を出る。
(海君……ひょっとしたら今日は来てくれないんじゃないかな……?)
予想に反して、彼はいつもの時間にいつもの場所で待っていてくれた。
けれど嬉しい気持ちいっぱいで駆け寄った私の姿を見て、少し眠そうな目をパチパチと瞬かせながら、
「真実さん、すごすぎるよ……」
いつになく大きなため息と共に迎えてくれた。
海君の話によると、私は警察が着くと同時に軽やかな寝息を立て始め、そのあと彼がいくら呼んでも揺さぶっても、ピクリとも起きなかったらしい。
おかげで駆けつけてくれた警察の人には事情の説明ができず、私はあとで改めて、警察署に行かなければならなくなった。
「俺も少し質問されたけど、詳しいことはわかんないし……正直困った……」
少々うつむき加減のまま、ポツリポツリと昨夜の状況を語ってくれた海君に、私は慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい! 前の晩あんまりよく眠れなかったから……だから……海君が来てくれて……それで安心しちゃった……のかな? ……ほんとごめんなさい!」
言ってて自分でも恥ずかしくなる。
「うん。いいよ」
表情がよく見えないままの海君の耳も、ほんのりと赤くなっている。
でも上目遣いにしばらくの間見ていても、珍しく目をあわせてくれない。
「…………?」
不思議に思って尋ねようかとした時、ふいに海君が口を開いた。
「いいけど……俺……しばらくは立ち直れそうにない……」
「え?」
見るからにガックリと肩を落としてみせてから、海君は顔を上げた。
真っ直ぐな瞳が、少し怒ったように、拗ねたように、私に問いかける。
「だって……真実さんが本当に俺を好きだったら、まさかあの状況では眠れないでしょ? 俺なんて、心臓が口から飛び出しそうなくらい緊張してたのに……」
私は慌てて、手も顔も必死に横に振った。
「私だって! 私だって同じだったよ!」
けれど海君にはまったく信じてもらえない。
「いいや。俺が思う『好き』と、真実さんの『好き』は、同じじゃないんだよ……あーくそっ。俺ってほんと馬鹿みたいだ……!」
いくら私が「違う」と言っても、海君にはまるで通じなかった。
「私だってドキドキしてたよ!」
「…………」
「ほんとだってば!」
「…………」
あまりにも話を聞いてもらえないその状況に、自分が悪いにも関わらず、思わず腹が立った。
「もういいっ!」
感情のままに怒って歩き出し、二、三歩進んだところで、自然と足が止まる。
朝の清々しい空気の中でこだまするように、以前海君が言っていた言葉が、ふいに耳の奥に蘇った。
『俺は追いかけないよ』
途端に不安になって、私は慌ててふり返った。
ほんのついさっきまで私の心のほとんどを支配していたはずの怒りなんて、完全にどこかに消え去っていた。
ただ心配で心配でたまらなかった。
思ったとおり――海君はやっぱり私を追いかけず、まださっきの場所に佇んでいる。
どうやら本当に、追いかけるつもりはないらしい。
けれど目があった瞬間に、彼が一瞬見せた表情は、深い安堵の表情だったように感じた。
私が立ち止まってふり返ることを、彼も望んでくれていたように感じた。
(じゃあいったいどうして……追いかけないの?)
尋ねてみればすぐに答えがもらえるかもしれない単純な疑問なのに、私はなぜかそれを海君に訊くことができない。
勘。
嫌な予感。
私の本能にも近いものが、意識のずっと奥のほうから、ストップをかけてくる。
(いい。何も知らなくてもいい……そばにいてくれれば、それでいい……)
自分にとって今何が一番大切なのか。自分自身がよくわかっていた。
「警察に行くんでしょ? 俺も一緒に行くよ。心配だから」
固まってしまった私にゆっくりと近づいてきて、海君はまるで何もなかったかのように、私の右手を取る。
まるで当たり前のように、自分の手が彼の手の中に収まって、私はホッと息をついた。
(うん。やっぱり無理だ……変な意地を張って海君を失うなんて……私にはできない……)
降参して、素直に口を開いた。
「うん。ありがとう。でも、警察に行く前に、寄りたい所があるの……」
私の言葉に、海君はさらりと柔らかな髪を揺らして、首を捻る。
「何?」と問いかけるような視線に、私は昨日決意したことを伝えた。
「バイト先に行って、話をしなくちゃ……大学に通うから、もう辞めますって……」
海君の顔がパアッと明るく輝く。
「じゃあ真実さん……本当に大学に戻るんだ?」
「うん」
誇らしくって、私は胸を張った。
何もかもを諦めかけていた自分が、今、新しい一歩を踏み出そうとしている。
それが、たまらなく嬉しかった。
でも、もとはといえば――全ては海君のおかげなのだ。
彼とであったから、私は、(まだやり直せるかも?)と思った。
彼の隣に並んでいたいから、(変わりたい!)と思った。
(いくら感謝しても、しきれない……!)
見上げてみた海君の顔は、心から嬉しそうな笑顔で私を見下ろしていて、また少し、いつもより大人びて見えた。
(いたずら好きの少年。かと思うと、時々とっても大人。嘘のない人。でも秘密はいっぱい。私をいつも助けてくれる。私の大好きな人。)
上目遣いにその笑顔を見上げながら、私はその時初めて、
(海君って本当はどんな人なんだろう?)
と思った。
私が実際に見て、聞いて、触れている海君のことはよく知っている。
でもその他のことは、何一つわからない。
「海君って、本当はいくつなの?」
思わず口をついて出てしまった言葉に、並んで歩いていた彼が歩みを止めて、私のほうに向き直った。
(しまった!)
なぜだかそんなことも聞いてはいけなかったような気がして、心の中で息をのんだ。
海君はゆっくりと私に腕を伸ばす。
「なんでそんなことが知りたいのかな、この人は?」
私と繋いだ左手じゃなく右手で、私の鼻を軽くつまんだその顔は、別に怒った様子ではなかった。
ホッとすると同時に、ちょっと強気になる。
「別に。ただ思っただけ」
(ほら、やっぱりちゃんと答えてはくれない……)
それは最初からわかっていた。
海君は私に何も教えてくれない。
名前も、年も、普段は何をしているのかも。
どこに住んでいるのかさえも。
(別に、そんなこと、知らなくてもいい。こうして隣にいてくれるだけでいい……)
自分に言い聞かせるようにそう思ってはみても、いつもどこかに、釈然としない気分が残っているのも嘘ではない。
「それじゃあ、真実さんは? 何歳なの?」
考えこんでいた私に、海君がふいに問いかけた。
面白そうに笑って、私の反応を見ているその目が、
(女の人は自分の年なんて答えないでしょ?)
と言っているような気がして、私はついつい、「負けるものか!」と思ってしまった。
「私は二十歳。九月になったら、誕生日が来て二十一歳!」
ごまかしも隠しもせず、ハッキリと答えてやった。
(どんなもんだ。参ったか)
妙に勝ち誇った気持ちで見上げた海君の顔は、思っていた以上に動揺していた。
私から視線を逸らして、右手で前髪をかき上げ、そのままギュッと目を閉じる。
「え、何? どうしたの?」
自分から言っておいて、私はとても不安になった。
「もしかして、ものすごい年の差だった……?」
ドキドキしながら顔色を探る私に、海君はやっと目を開いて、視線を向けてくれる。
「いや、そうでもないよ」
私の顔を改めて、正面から見つめ直す。
「でも、二十歳かあ……」
その声に少し非難の色を感じて、私はまたムッとした。
「悪い?」
まるで挑むかのように強い口調で言い返すと、海君は小さく笑う。
急にいつものように曇りのない笑顔になって、
「いや悪くないよ」
と、とても魅力的に笑ってくれた。
けれど次の瞬間には、その笑顔が見事なまでにひっこんで、キリッと真剣この上ない顔に変貌する。
「でも、絶対俺の家には連れていかない、と今決めた!」
「え?」
語気荒く告げられた言葉の意味がよくわからなくて、思わず間抜けな声が出てしまう。
「どうして?」
改めて聞き直した私に向かって、海君は珍しくちょっと困った顔をする。
理由は言いたくないような。
私にも聞いて欲しくないような。
そんな顔。
いつもの余裕たっぷりの笑顔とはまるで違っていて、その顔はなんだかかなり彼の年相応に見えた。
「どうして?」
いつまでも答えてくれないから、もう一押し尋ねてみる。
海君は渋々と口を尖らせながら口を開いた。
「兄貴と同じ年なんだよ……だから、ぜえったいに! 会わせない!」
ますます強い口調で宣言されて、思わず口がポカンと開いた。
「それは……いったいどういう意味に取ったらいいのかな……?」
よけいにわけがわからなくなって、首を捻るばかりの私に、海君はとうとう諦めたみたいに大きく息を吐いた。
「真実さんに、兄貴のほうがいいなんて言われたら、俺、今以上に、もう絶対に立ち直れないよ! ……だから絶対に、絶対に兄貴にだけは会わせない!」
ため息まじりなわりには、妙にハッキリとしたその決意表明に、私は唖然とするしかなかった。
「な……なに言ってるの海君……?……」
また私をからかおうとしているのかと、しばらく見つめてみても、海君の表情はいつまでも真剣そのものだ。
「海君……?」
その表情の中に、少しふてくされたような色があって、それがたまらなく可愛かった。
年下のくせにいつも余裕たっぷりの海君が、「絶対! 絶対」と何度もくり返すのが、なんだかおかしかった。
私の少し尖がっていた気持ちなんて、いつの間にかスーッとどこかへ消えてしまう。
「そんなことあるわけないじゃない! 大丈夫だよ……!」
嬉しくてつい笑わずにいられない私に、グッと顔を近づけて、海君は真剣な瞳で問う。
「兄貴、俺とソックリだよ。きっと、何年後かの俺の姿そのものだよ……?」
急に目の前に現れた海君の顔にドキドキして、私は息が止まりそうだった。
決して彼が言うように、「そうか。海君にそっくりなのか……」なんて、彼のお兄さんに興味を持ったわけではない。
それなのに海君は、真っ赤になって絶句してしまった私の顔を見て、
「ほらね」
とため息を吐くのだ。
「ち、違う!『ほらね』じゃないわよ! 全然そんなんじゃないもの!」
慌てて抗議の声を上げる私に向かって、海君はもう一度、
「絶対に会わせない!」
とくり返した。
有り得るはずのないことに、ひとりで心配して。
怒って。
むくれたように前を見たまま歩き続ける海君は――なんだか可愛い。
ううん、愛しくてたまらない。
繋いだ私の手はそのまま――放さずに、彼の手の中でしっかりと握られたままだから――余計にそう思う。
「海君」
「うん?」
私のほうをふり返らずに、言葉だけで返事したその背中に、それでも私はそっと笑いかけた。
「私が好きなのは海君だよ」
あまりにもストレート過ぎただろうか。
ちょっと驚いたように海君は立ち止まる。
でも大切な言葉は、そう何度も言ってあげない。
その代わり、繋いだ手にギュッと力をこめる。
「本当だよ」の思いをこめて握りしめる。
負けないくらいの強さが、彼から返ってきた。
何も言わずにふり返った綺麗な瞳が、静かに私を見下ろしていた――大事なものを見つめるみたいに、ただ優しく。
だから嬉しくなる。
どんな言葉を貰うよりも、ずっとずっと嬉しくなる。
その時、柔らかい、明るい色の海君の髪をかき乱すように、温かい南風が私達の間を吹き抜けていった。
その風に乗って、なんだか彼から、意外な匂いがしたと私は思った。
(薬……消毒薬? ……病院の匂い……?)
私を見つめる海君の笑顔からは、何もうかがい知れない。
いつもの道。
いつもの時間。
いつも一緒の大好きな人。
それは、私にとって本当に大切なものだったから、あらゆる非日常的な事は、今の私の頭の中では、あっという間に排除されてしまう。
ただこの時を嬉しいと思い、楽しいと思う心が今は一番大切。
だから、心に沸いた小さな疑問は、すぐに消えてしまう。
(ううん……きっとなんでもない……)
海君と並んで手を繋いで歩けること――それがその時の私の幸せの全てだった。
刹那の幸せに溺れる者を、どこかで見張ってくれている冷静な目があるのなら、ぜひ迂闊な私に声をかけてほしかった。
肩を叩いて気づかせてほしかった。
何も見えない。
何も考えたくないほどの幸せが、どんなに危険なものなのか。
どんなに危ういものなのか。
自分ではわからないその愚かさを――誰でもいいからこの時教えてほしかった。
バイト先のファミレスへ行って、近々辞めることの承諾を貰ってから、私たちはそのまま警察署へと向かった。
大学へも続いている大通り。
通い慣れた道のはずなのに、どこかが、何かが違う。
故郷から出て、すでに二年以上を過ごした場所なのに、海君と手を繋いで歩く街は、まるで知らない街のようだった。
いつもは車の窓から見るともなくぼんやりと見ていた景色が、鮮やかな色彩を伴って、ゆっくりと私の目に飛びここんでくる。
「ふーん。こんなところにこんなお店があったんだ……」
「あっ、知らない道を発見! こっちのほうが近道じゃない?」
目に映る全てが新鮮で、珍しくて、新しい街に引っ越して来たような気さえする。
のんびりとあたりに視線を配りながら、
「ああ、楽しい」
なんて思わず口に出して言ってしまったから、海君に笑われた。
「真実さん。今からどこに行くのか、本当にわかってる?」
おかしくてたまらないというようなその顔に、
(……はっ! そうだった! 今、私たち警察署に向かってるんだった!)
ようやく本来の目的を思い出して、バツが悪くなった。
私は首を縮める。
「別に自分が悪いことをしたわけじゃないのにね……どうして『警察』って聞いただけで、こんなにドキドキするんだろうね?」
苦笑交じりで呟いた言葉に、
「え? 真実さんは悪いことしてるじゃない。いつも未成年者を連れまわしてるでしょ?」
海君はキョトンと目を見開いて私の顔を見た。
「ええっ? これって……犯罪なの!?」
ビックリして、思わず繋いだ手を海君の手ごと目の高さまで持ち上げる。
そんな私を見て、海君はたまらずふき出した。
「ハハッ。そんなわけないじゃん。いくらなんでも、犯罪になるほどには若くないよ、俺。……それに今の見た目から言ったら、真実さんのほうがずっと若くて、かえって俺のほうが犯罪者みたいじゃない……?」
肩を揺すって大笑いしながらも、海君は余裕たっぷりにそんなことを言う。
私はムスッとむくれた。
繋いだ手をふり解いて、彼はもうこの場所に置いていくことにする。
「待って、真実さん。俺も行くから」
笑いながら声だけかけたって、待ってなんかやらない。
(もう! いっつもいっつも、海君は私をからかってばかり……!)
簡単にひっかかってしまう自分が悪いのだが、悔しいものだから、前を見てズンズンと歩き続ける。
頑なに彼に向け続ける無言の背中が、私の静かな抗議だった。
でも、それがなんの意味もないことを、私はよくわかっている。
「俺は追いかけない」と海君が宣言している以上、私がいくら怒って先に行ってしまっても、それは海君にとってはなんの牽制にもならない。
それどころか、ひょっとしたら私たちの別れの原因にも成りかねない。
そんな危険を冒してまで、私が一人で先に行くことに意味はない。
それは私だってわかっている。
わかってはいるけれど――
(じゃあこの悔しさはどうすればいいわけ?)
誰にともなく、心の中で尋ねずにはいられない。
残念なことに、私は心優しい天使なんかじゃない。
それどころか、ボーッとしているわりにはすぐにカッとなりがちだから、そんな自分をなんとか落ち着かせるのに、しょっちゅう苦労している。
努力している。
けれどやっぱりまだまだだ。
上手く感情のコントロールができる大人になる日は、本当に来るんだろうか。
(でも……だけど……)
そんな自分の短所と戦ってでも、大切にしたい想いを、私は今胸に抱えている。
どんなものとでも秤にかけることはできない――それほど大切な、かけがえのない想い。
だからやっぱり立ち止まる。
彼のことをふり返る。
そうすればきっと、またいつものように一緒に歩くことができるはずだ。
(本当はわかってる……待っていればゆっくりと追いついてきてくれることも。私の短気を責めもしないで、当たり前のようにまた手を繋いでくれることも。だから私はそんな海君の優しさに甘えて、こんなふうにわがままな行動だってできるんだ……)
ふり返って見てみた海君は、本当にいつものようにさっきの場所に立ち尽くしていた。
微動だにせず立っていた。
だけど――。
「海君?」
思わず大きな声で呼びかけずにはいられないくらい、彼の様子はおかしかった。
まるでいつもどおりではなかった。
ギュッと眉根を寄せて目を閉じ、空を仰ぐように上を向いている。
もともと色白な顔はますます色を失って、透きとおりそうなほどに蒼白だった。
私は我を忘れて、今歩いたぶんの距離を急いで駆け戻った。
「どうしたの、海君? 大丈夫?」
すっかり慌てきった私の声に、「大丈夫」と答えるように、彼はかろうじて右手をほんの少しだけ持ち上げる。
「ねえ、どうかしたの?」
胸が詰まるような思いで問いかけながら、私は海君の様子を何度も何度も確かめた。
目を開けることも、口を聞くこともできないようで、ただ大きく肩で息をくり返している。
こめかみを伝って大粒の汗が、次から次へと流れ落ちてくる。
あまりにも血色の悪い唇。
急にどうしたのか。
彼にいったい何が起きたのか。
まるでわからない。
「海君! ねえ、大丈夫?」
叫ぶように名前を呼びながら、私が彼の両腕を掴んだ瞬間、彼がその腕を返すようにして、私を抱きしめた。
背中までしっかりと包みこむようにまわされたその腕が、いつもと同じように力強い。
彼の胸の中に抱えこまれて、
「……海君?」
困惑したように顔を上げた私を、海君は眩暈がするほど近くから真っ直ぐに見下ろした。
いたずらっぽく輝く、私の大好きな綺麗な瞳。
その瞳がみるみる微笑みを帯びていく。
「なっなに? ……まさか……! 騙したわねっ!」
こぶしをふり上げようとした私は、身動きさえできなかった。
海君はクククッと喉の奥で笑いながら、右手で私の頭を自分の胸に押しつける。
「ひどいっ! もうっ!」
力一杯その胸を押し返そうとするのに、びくとも動かない。
海君は全然私を放してくれない。
「ゴメンね、真実さん……でも言ったでしょ? 俺を置いていったらダメだよ……」
私の髪に頬をつけるようにして呟かれる海君の声は、彼の体を通して伝わってきて、いつもよりずっと近くに聞こえた。
だからその言葉の意味も、いつもよりもっともっと大きな意味を持って、私の心に響く。
(そうだね……どちらかが手を放したら、そこでもう私たちの関係は終わりになるんだもんね……一緒にいたいって想いの他は、二人を結びつけるものは何もないんだもんね……)
私の耳に直接、かなり速い速度で海君の鼓動が聞こえてくる。
そのドキドキの原因が、私の今のこの胸の痛みと、同じならいいなと思った。
二人で手を繋いで同じ道を、まだまだ歩き続けたいという思いからならいいと思った。
「うん……私こそ……ごめんなさい……」
素直に謝ると、海君は安心したかのように大きく息を吐く。
長い長い呼吸を、ゆっくりと何度もくり返す。
けれどなかなか落ち着かない彼の心音。
私はさっきの鬼気迫るような海君の表情を思い出して、小さく笑った。
「それにしても……凄い演技力だったよ海君。私すっかり騙されるところだった……」
「そうでしょ?」
海君はすました声で返事する。
私は少し緩んだ彼の腕の中から抜け出して、ゆっくりと顔を見上げ、「そうだよ、本当にビックリした」と笑おうとした。
彼の上手な仮病を一緒に笑いあおうとした。
それなのに――。
私を見下ろしている海君を何気なく見上げたら、言葉が止まってしまった。
(海君?)
喉が貼りついてしまったかのように、上手く言葉が出てこない。
海君は私を見下ろして、せいいっぱいいつものように笑っているけれど、その顔色も表情も、さっきと変わらずとても調子が悪いように見えた。
(演技……だったんだよね?)
不安にかられる私に、その無理のある笑顔が、パチリと片目をつむってみせる。
「真実さんは騙されやすいから、気をつけないとダメだね」
余裕の声音で言われた言葉は、茶目っ気たっぷりで、実にいつもの彼らしかった。
その瞬間、条件反射のように思わずムッと口を尖らしてしまう私の中では、胸に湧いた疑問など二の次になってしまう。
「それを海君が言う?」
「ハハハッ。それはそうだね……!」
肩を揺すって大声で笑いだした海君は、いつの間にかもう普段どおりの彼だった。
私の右手を大きな左手で掴むと、さっきまで歩いていた方向へ向かって、さっさと歩き出す。
「せっかく一緒にいるんだからさ。こうしてるほうがいいでしょ?」
私の大好きな屈託のない笑顔でそんなふうに尋ねられたら、私にはもう、頷くしかない。
なんて単純なんだろう。
なんて簡単なんだろう。
(海君もきっと、そう思ってるんだろうな……)
ため息まじりに考えながら、彼に手を引かれて、私は警察署までの道を歩いた。
本当にさっきまでの不安や疑問をすっかり忘れてしまっていた。
何が本当で、何が嘘か。
何が優しさで、何が偽りか。
気づくこともなく、考えることもないような人間だったら、いつだって悩まず、傷つかず生きていけるのに。
でもそれが、引き替えに誰かを傷つけることになるのなら、
大切なものを失うことになるのなら、
私は絶対にそんな生き方は望まない。
全てを知りたい。本物を見抜く目を手に入れたい。
――ただそれだけを願う。
警察署の建物内は、独特の冷たい雰囲気に満ちていた。
思わず尻ごみしてしまいそうな気持ちを勇気づけ、私は受付で名前と用件を告げる。
すぐに担当の刑事さんがいるという部屋に案内されたが、あいにくと外出中だった。
そこは大勢の人が忙しく出入りする大きな部屋で、周りにいる刑事さんたちも、気さくに椅子に座ることをすすめてくれて、正直ホッとする。
取調室なんかでなくて良かった。
婦警さんがお茶を淹れてくれたことで、緊張でガチガチだった心も、ほんの少し和らいだ。
海君は少し離れた長椅子で、壁にもたれかかって座りながら、私を待ってくれている。
もの珍しそうにあたりをきょろきょろと見ている様子に、また少し、私の心は穏やかになった。
「やあ、お待たせしたね」
出先から急いで帰ってきてくれたのだろうか。
来ていた上着を椅子の背に掛けて、私の目の前に腰を下ろした担当刑事さんは、汗だくだ。
「ひとまず例の彼を自分の部屋に送ってきたよ。今はまだ顔を会わせないほうがいいと思ったんだが……余計なお世話だったかな?」
人好きのする笑顔を浮かべているわりに、刑事さんの目は鋭い。
私は慌てて頭を下げた。
「いえ……ありがとうございます……」
「うん」
様々な書類が積み重ねて置いてある机の上から、一冊のファイルを取り、刑事さんはパラパラとめくる。
「一晩ここで頭を冷やして、今はすっかり落ち着いてる。自分がしたことを申し訳なかったとも言ってたし……もうこんなこと、起こさないといいんだが……」
「はい……」
頷く私に、刑事さんは少し声の調子を変えてつけ足した。
「ただ……こういう問題は、簡単には片づかないことが多いからね……」
私の胸はズキリと痛んだ。
「少し詳しく話を聞かせてくれるかな?」
「はい」
それから私は村岡さんというその刑事さんに問われるまま、幸哉との関係について話をした。
出会った頃のことから、最近の関係に到るまで。
できる限り詳しく話した。
順を追って、覚えている限りのことを全て聞いてもらった。
正直、人には聞かれたくない話もあったけど、警察に協力を仰ぐためには、情報提供は不可欠だ。
村岡さんはまめにメモを取って、私の話をちゃんと聞いてくれた。
私はと言えば、少し離れたところにいる海君が、気になって仕方がなかった。
(できれば海君には聞かれたくない……なんて……私の身勝手だよね)
またズキリと胸が痛んだ。
「実は私たち警察にできることは、そんなに多くはないんだ。岩瀬君――だったかな? 彼に対して、君に近寄らないように警告を出すこと。それに従わない場合には、さらに禁止命令を出すこと。これくらいだ。検挙すれば懲役や罰金も課せられるが、それにはまず先に、キミが彼を告訴しなければならない……」
聞き慣れない言葉の羅列は、まるでテレビドラマでも見ているような気分だった。
しかしこれは私の現実だ。
私と幸哉との間の話なのだ。
「懲役……? 告訴……?」
事態の深刻さに、私はただ呆然とするしかなかった。
村岡さんはそんな私を見て、表情をさらに柔らかくする。
何も知らない小さな子どもを見守るように、どこか悲しそうな目をした。
「そこまでおおごとだとは思っていなかったかな? でも彼がやっていることは、あきらかにストーカー行為だよ。法的にも認められている犯罪なんだ」
諭すように一言一言告げるその口調は、どこか故郷の父を思い出させた。
「だけど……!」
幸哉をそこまで糾弾する権利が、私にあるんだろうか。
いつまでもダラダラと関係を断ち切ることさえできず、ほんのついこの間まで傍にいた私に。
「もちろん君がそれを望まないなら、私たちに強制する権利はない。そこまでやったら、正直、あとには憎しみとか負の感情しか残らないからね。君も彼もまだ若いし、今日の様子だったらしばらく時間を置けば解決するんじゃないかとも思う。あくまで私の意見だがね」
私の感情をちゃんと気遣ってくれる優しい口調に、頭が下がった。
「とりあえず、もしまた何かあったら、すぐに連絡しなさい。私のほうでも、時々彼のことは気にかけておくから……」
村岡さんは俯いてしまった私の頭をポンと優しく叩くと、目の前に名刺をさし出した。
朗らかな声で、
「大丈夫だよ。君にはちゃんとボディガードもいるようだ……」
ふり返り、少し離れたところに目を向ける。
顔を上げた私は、いつの間にか海君が真っ直ぐにこちらを見ていたことに気がついた。
村岡さんに向かってペコリと頭を下げている。
「今のところはとりあえず、様子を見よう……そのほうがいいだろう?」
「はい。ありがとうございます」
せいいっぱいの感謝をこめて、私も頭を下げた。
村岡さんの言うとおり、時間が解決してくれるのならそれが一番いいと思った。
夕日が空を真っ赤に染める中、海君と手を繋いで家までの道を帰った。
警察署に向かっていた時とは真逆に、気持ちがどんどん落ちこんでいく。
夕暮れ時はもの悲しい――海君との別れの時間が近づくから。
どこから来てどこへ帰っていくのか、私にはわからないけれど、いつも今ぐらいの時間になると、「また明日」とニッコリ手を振って、海君は帰ってしまう。
別れ際の約束がある限り、きっと明日も来てくれるんだろう。
だって海君は約束を破らない。
でもそれはいったいいつまで続くのか。
私にはわからない。
確かな保証は何もない。
寂しい気持ちでちょっと俯きがちに下を向いて歩くと、綺麗に舗装された歩道に、私たちの影が仲良く並んで伸びていくのが見えた。
けれど実際には、私たちは警察署を出てから一言も話をしていなかった。
まったく口を開かない海君に、
(さっきの話どこまで聞こえたんだろう? 海君はどう思ったかな……?)
いろんなことが気になっている。
どうしようもなく胸が痛む。
「真実さん」
ふいに名前を呼ばれてドキリとした。
いつもの声と全然違う、すごく真剣な調子だったから、私は二つ並んだ影法師に目を向けたまま、海君のほうを見ないで返事した。
「何?」
海君は長い時間、何も言わなかった。
ただ黙って歩き続けるだけ。
だから私も呼びかけられたことは気にしないで、黙って一緒に歩き続ける。
目が痛くなるほどに見つめ続けた二つの影は、だんだん長くなって、そのうち夕闇にまぎれて見えなくなった。
いくつもの角を曲がって、いくつもの信号を越えて、私のアパートが近づいてくる。
私の足はどんどん歩くのが遅くなり、そのうちピタリと止まってしまった。
自然と海君も立ち止まることになってしまう。
(もしも、部屋の前で幸哉が待ってたらどうしよう……?)
心の中で呟いた不安の声が、まるで聞こえたかのように、
「大丈夫だよ」
海君が囁いた。
見上げてみたら、薄闇の中、泣きたくなるくらいに優しい顔が、私をじっと見下ろしていた。
「俺がついてるよ」
短い言葉が嬉しかった。
けれどそれと同時に不安な心も大きくなる。
私は首を横に振った。
(海君を巻きこみたくない……! 海君をひどい目にあわせるようなことになるのが、一番怖い……!)
私の思いはきっと海君には通じているだろう。
だけど彼もまた、静かに首を横に振る。
「駄目だよ。絶対に一人でなんて帰さない。今、真実さんがあいつに捕まるようなことになったら、俺は後悔してもしきれない」
強い口調できっぱりと言われて、私はまた俯いた。
「だけど怖いよ……海君がひどい目にあったらどうしよう……」
私の不安を打ち消すように、海君が繋いだ手に力をこめた。
「大丈夫。殴りあいになったら、確かに分が悪いかもしれないけど、俺はちゃんと秘密兵器を持ってるから……!」
そして、胸ポケットから出したその秘密兵器を、得意そうに私の目の前で振ってみせる。
ごく普通の携帯電話。
「えっ? ……携帯?」
いぶかしげに見つめる私に、
「そう、これでいつでもパトカーを呼べる。昨日みたいにね」
ひどく真面目な調子で、海君は答えた。
その真剣な顔が、言ってることまるでチグハグで、私は吹き出さずにいられない。
「やだもう! 海君ったら!」
海君はそんな私の様子を見て、
「やっと笑ってくれた」
と、大きなため息を吐いた。
心の底から安堵したような声だった。
「海君……」
彼がずっと私の様子を気にかけていてくれていたことに、私はこの時初めて気がついた。
そういえば、警察署に入ってからはずっと、不安と恐怖ばかりが心に渦巻いて、私はとても笑うような心境ではなかった。
その上思い出したくないようなことも思い出さなければならず、聞かれたくない話を海君にも聞かせることになったかもしれない。
そう思うとやるせなくて辛くて、沈む気持ちばかりが心の中で折り重なっていた。
だけど海君は、その間もずっと私の心配をしてくれてたんだ。
そうわかっただけで、笑顔が自分の中で、何倍にも何十倍にも広がっていくのを感じた。
「ありがとう」
それだけを言って、誰よりも優しい人の顔を見上げる。
「どういたしまして」
海君はいつもどおりに、すました顔でそつなく答える。
そのことが嬉しくて、また私は笑顔になった。
わざとゆっくりと、歩く速度を遅らせて、たどり着いた私の部屋の前に幸哉の姿はなかった。
ホッとして、隣に立つ海君の顔を見上げる。
彼は私と目があった瞬間、いたずらっ子のように笑った。
「なんなら部屋の中までついて行こうか?」
途端、頭の中で、昨日部屋の中で二人きりになってとんでもなくドキドキしたことを思い出した。
「い、いいよ!」
慌てて手を振る私に、
「なんで? なんか問題ある? どうせ俺がいたって、真実さんは普通に寝ちゃうだけでしょ?」
海君は前髪をかき上げながら、いかにも意味ありげに笑ってみせる。
「もうっ! やっぱりまだ根に持ってるんじゃない!」
私は大好きなはずのその笑顔に、こぶしを振り上げた。
「いいです! 一人で帰ります!」
キッパリと宣言して、海君に背を向ける。
「ゴメンゴメン。ふざけすぎた」
海君がしきりに謝っているけど、聞いてなんかやるもんか。
私は彼の声を無視して、玄関のドアへと手をかけた。
――その瞬間。
それがギイッと音をたてて簡単に内側に開いたことで、私の体も思考も凍りついた。
「真実さん!」
海君がすぐに私とドアとの間に入りこんで、自分の後ろに私を庇おうとする。
「やだ! 海君!」
私は彼のシャツをぎゅっと握りしめて、背中に額を押しつけた。
「大丈夫だよ」
彼が用心深く開いたドアの向こうに、人の気配はなかった。
でも、中に踏み入ろうとした足がびっくりして止まってしまうくらい、部屋の中はめちゃくちゃに荒らされていた。
引出しの中身や、クローゼットの中身、ありとあらゆる物がひっぱり出され、テーブルも椅子もひっくり返っている。
「……どうして…………?」
しばらく呆然と立ち尽くしたあと、私は海君の後ろから歩み出て、ヨロヨロとした足取りで力なく部屋の中へ入った。
一通り見てまわって、特になくなっているものや、壊されているものはないと確認する。
(ぐちゃぐちゃに荒らされただけ……だよね……?)
それが誰の仕業なのかは、考えなくてもわかった。
私は唇を噛みしめる。
クローゼットの前に散乱する下着類をかき集めながら、顔を上げないで、
「ゴメン……海君、ちょっと外で待ってて」
とお願いした。
「ああ……うん」
海君はすぐにドアから出て行って、誰かに携帯で連絡を取ってくれているようだ。
きっと村岡さんだろう。
警察が来る前に、人に見られたら困るものだけでも片づけようと、私は歯を食いしばって必死に涙をこらえながら、ぐちゃぐちゃになった自分の下着を一つ一つ拾い集めた。
学で使うテキストやノート類も、全て残らず鞄と本棚からひっぱり出されていた。
そういえば、幸哉は私が大学に行くことを極端に嫌っていた。
(……破かれたりしてないかな?)
部屋中に散乱するレポート用紙やルーズリーフの山に、絶望的な気持ちで目をやった時、偶然にか、故意にか、ドア近くの紙の山のてっぺんに載せられた私の写真が、目に止まった。
私が自分で持っていた写真ではなかった。
幸哉に暴力を受けた直後の姿だろうか。
傷だらけの体を丸めて、死んだように幸哉のベッドで眠っている私。
(……こんなの海君に見せられない……!)
手の中に握りこんだ写真をギュッと握りつぶしながら、私は怒りと悲しみで体が震えるのを感じた。
(ひどいよ……! こんなの嫌だ……)
他にもないか、必死で探し回る。
床を這いつくばって確認しているうちに、じっと自分に注がれている視線に気がついた。
おそるおそる後ろをふり返る。
ドアの向こうにいる海君が、真っ直ぐにこっちを見ていた。
目があった瞬間、今の私と同じくらい、彼もまた泣きそうな顔をしていると思った。
(見たんだね。海君)
それはどんな現実よりも、今の私には受け入れがたい絶望だった。
「私の考えが甘かったとしか言いようがないな……すまない。怖い思いをさせてしまったね」
駆けつけてくれた村岡さんはため息を吐いて、とても悲しそうな顔で私を見つめた。
でもその目の奥には、厳しい光を宿している。
「やっぱり岩瀬幸哉に警告を出させてもらうよ。その上で告訴するのかしないのか。キミにもよく考えてほしい……」
残念そうに、それでもキッパリと宣言されれば、私に反論する力はもう残っていない。
「はい」
静かに頷いて、打ちのめされたような思いで胸に手を当てる。
村岡さんの背後に目を向けて、もう一度海君の顔を見る勇気が、私にはなかった。
「今日は用心のためにも友だちの家にでも行ったほうがいい。ここは私たちがしばらく見張っておくから」
優しく気遣ってくれる村岡さんに頭を下げる。
「ありがとうございます」
それから村岡さんと、一緒に来ていた刑事さんに手伝ってもらって、簡単に部屋の片づけをした。
海君も、いつの間にか部屋には入ってきたけれど、照明器具やテーブルなんかの大きな物を片づけるばかりで、細かな私のものには手をつけようとはしなかった。
私のほうを見ようともしない彼に、私もわざと背中を向け続ける。
でも背中越し、ずっと彼の動きばかりを気にしていた。
(こっちを見てよ。海君)
彼がいったい何を考えているのか。
気になって仕方がない。
いろんな思いが頭の中を駆けめぐって、気を緩めると涙が零れそうになる。
だから歯を食いしばって、必死に部屋の片づけを頑張る。
(何か言ってよ。海君)
これ以上、彼に何を望めるというのだろう。
私には、もうどうしようもなかった。
「好きだから」という思いだけで傍にいてもらうには、今の私の現実はあまりにも厳しいものだ。
このまま優しさに甘え、自分の感情に溺れていたら、もっと彼を傷つけることになる――きっと。
彼が私に感じてくれている好意は、果たしてそれに見あうほどのものなんだろうか。
私と同じくらい強いものなんだろうか。
わからない。
自信なんて全然ない。
だから私は目を閉じる。
耳を塞ぐ。
確かめもせずに、彼の前から逃げだしたい衝動に駆られる自分を、これ以上引き止めることなんて、もうとてもできそうにない。
愛梨に連絡して、その日は彼女の部屋に泊めてもらうことになった。
「大丈夫……居候の彼氏なんかすぐに追い出すから! いつまでだってここにいなさい!」
携帯の向こうですごい剣幕で叫んでいる愛梨は、「だからあんなに言ったじゃない!」なんて私を責めるような言葉は、決して口にしない。
その優しさが今は心に染みる。
「ありがとう……」
心からのお礼を言って、携帯を切った。
愛梨のおかげで、ほんの少しだけ気持ちが明るくなったような気がする。
でも、ドアの向こうで私を待っている海君の背中を見たら、またすぐに泣きそうな気持ちになった。
海君が私の顔を見てくれない。
それがくり返されるたび、胸の痛みはどんどん大きくなる。
ブランコと滑り台しかない小さな公園に入った海君は、本当にブランコに座ってキーキーと軋む音を立てながら、ゆっくりと漕ぎ始めた。
私ももう一つ並んだブランコに腰かける。
でも、とても漕ぐような気にはなれない。
静かな公園に、海君の座ったブランコの音だけが響いた。
私たち二人の間には、ただ長い長い沈黙だけが続く。
これから海君がどんな話を切り出すつもりなのか。
想像しただけで、心が握り潰されそうだった。
(どうせサヨナラするんなら早いほうがいい。そうじゃないと、私はどんどん海君を好きになってしまう。望めるはずもない夢ばっかり見てしまう。そうなってからじゃ……きっともっと辛くなる……)
自分に言い聞かせるかのように、そんなことばかりを考える。
いつの間にか、深く俯いていた頬を、涙が伝って落ちた。
「泣かないで」
海君がふいにそう言って、ブランコから飛び下りた。
私の傍へとやってくる気配がする。
すぐ目の前で止まる、見慣れたスニーカー。
「泣かないで真実さん」
頭上から降ってくる声は、胸を締めつけられるくらいに優しかった。
私の髪にそっと触れた手が、そのまま頬を撫でるようにして涙をすくい取り、肩の位置まで下りて止まる。
「泣かないでよ、真実さん」
まるで壊れものを扱うかのように、優しく抱き寄せられて、もう涙が止まらなくなった。
「ごめんね、海君……」
何に対して謝っているのか、自分でもよくわからない。
でも――。
「ごめんね……ごめんね……」
涙と一緒にその言葉しか、私の口からは出てこなかった。
「傷つけてごめんね。こんな私でごめんね。海君を好きになってごめんね。迷惑ばっかりかけてごめんね……!」
胸いっぱいに抱えこんでいた気持ちを全部さらけ出すかのように、ただ謝り続ける私を、ぎゅっと抱きしめて海君は囁く。
「謝らないで。謝らないでいいよ真実さん。……真実さんが思ってるほど、俺は優しい人間なんかじゃないよ……!」
しゃくりあげるばかりだった私は、息が止まるような思いで、海君の腕の中から彼の顔を見上げた。
月明かりの中。
確かに海君はいつもとは別人のように、冴え渡った表情をしていた。
「真実さんとあいつの問題に、俺がどうこう言う権利はない。言える立場なんかじゃないってことはわかってる。嫌っていうほどわかってるんだ!」
「海君?」
「それでもどうにかしたい! 真実さんをこんなに傷つける奴がいるんなら……そんな人間、いっそ俺がこの手でどうにかしてしまえばいい! ……さっきからそんなことばっかり考えてる……!」
「海君!!」
息をのんだ私に、海君は実に彼らしくない、形だけの笑い方をした。
「大丈夫だよ。くれぐれも早まったことはするなよって、さっき村岡さんにも釘を刺されたから……」
もう言葉も出てこない。
彼は本当に私のよく知っている海君だろうか。
それとも別の誰かだろうか。
そもそも『海君』という青年は、私が勝手に名づけた、本当には存在しない人物だ。
でも私は知っている。
私の目の前にいるこの彼は、とても太陽の下が似あうこと。
明るく屈託なく笑うこと。
私を見つけ出し、暗闇の中から救ってくれたこと。
――そして誰よりも優しいこと。
私はそんな彼に憧れて――どうしようもなく好きになった。
だから――
(私のせいで、傷つかないで……!)
願うような、祈るような気持ちで、その胸にもう一度顔を埋めた。
誰かを大切にしたいという想いは、祈りによく似ている。
(どうかこの人が幸せになれますように……)
自分のためならば願いもしないようなことも、その人のためならば、願わずにいられない。
代償に自分が不幸になってもかまわない。
そんなことはどうでもいい。
(ただこの人が幸せならば……)
出会ってからずっと、私が海君に感じていた想いは、いつだってそんな――祈りにも似た願いだった。
「でも……真実さんはどんなにひどい目にあっても、あいつを許すんだ。結局、許してしまうんだ……ねぇ、そんなにあいつが好き?」
私を抱きしめたまま、海君は思いもかけないことを言いだす。
驚いて顔を上げた私は、月の光を背中に受けながら、真っ直ぐに私を見つめている海君と目があった。
怒ったような、傷ついたような、初めて見る表情だった。
「……どうして?」
彼が言ったことの意味がわからない。
そんなことがあるはずない。
驚きのあまり目を見開く私を、彼はほんの少し目を細めて見る。
どんな時だって真っ直ぐなその瞳に、一筋の影が落ちる光景が、たまらなく私の胸を灼く。
「私が好きなのは……!」
彼の両腕をしっかりと掴んで、声を荒げて主張しようとした私の声は、同じように大きな海君の声に遮られる。
「俺でしょ! ごめん。わかってる……ちゃんと知っている。でもどこかであいつを許してる真実さんがいる……できることなら、あいつにまともに戻って欲しいと望んでる真実さんがいる……もし本当にそうなったらどうするの……? 俺の傍からいなくなるの……?」
胸にかき抱くように私を抱きしめて、海君は押し殺したような声で呟く。
その声が、言葉が、痛いくらいの腕が、私の胸に刺さった。
「そんなはずないじゃない!」
涙と一緒に溢れだした言葉が、ちゃんと海君に伝わるだろうか。
こんなに傷つけて、こんなに苦しめて、それでも傍にいて欲しいと願わずにはいられない人。
――どうやったらもっと、彼に私の想いを伝えられるのだろう。
自分だけが、あの地獄のような日々から抜けだして幸せになるのは、なんだかズルいことのような気がして、私は幸哉にも幸せになって欲しいと願った。
でもそれは、私の自己満足であり、偽善だ。
幸哉が私を望むかぎり、幸哉の願いは叶わない。
絶対に叶わないのだから――。
(わかっているのに望んだ。願わずにいられなかった。全部私のわがままだね……)
どうしようもない思いに、私は海君の腕の中で、固く目を瞑った。
(私のわがままで、海君を傷つけた……!)
それなのに、まるで誰にも渡さないという意思表示のように、彼は私をきつく抱きしめる。
「もっと早く真実さんに会いたかった。俺が一番に真実さんと出会いたかった。どうしようもないことだってわかってるけど、そう思わずにいられない!」
「海君……!」
どうしよう、涙が止まらない。
「相手を縛りつけて、それで自分のものにする愛し方なんて、俺は絶対に認めない。好きな人を苦しめるようなやり方なんて、そんなのは絶対に愛なんかじゃない!」
小さな叫びのように、私の耳元で囁かれる言葉は、私だけのものだ。
私だけに海君が向けてくれた、これ以上ない強い想いだ。
「俺は許さない。真実さんが許しても……俺は絶対にあいつを許さない!」
一つまちがえれえば彼を奈落の底に突き落としてしまいかねない、それは恐ろしい言葉のはずなのに、嬉しくてたまらない。
泣かずにいられない。
この言葉は、きっと私の一生の宝物になる。
この先もしも一緒に歩けない日が来たとしても、海君が私に与えてくれた最高の贈りものになる。
「ありがとう……私が好きなのは海君だよ。海君だけだよ……」
その胸に頬を押し当てたまま、くり返し伝える言葉に、彼は長い息を吐き、私の髪に頬を押し当てた。
「うん。真実さん」
いつものように優しい調子に戻ったその声が、張り裂けそうだった私の心を、そっと優しく包みこんでくれた。
愛梨のアパートまでの道を、海君と手を繋いで歩いた。
私のアパートよりは繁華街から遠い静かな道。
静まり返った住宅街に、私と彼の足音だけが響く。
(この道がどこまでも続けばいいのに……)
一歩先を歩く背中を見つめながら、そんなことを思った。
けれどアパートよりはずっと手前の曲がり角で、うす暗い街灯の下、私を待ってくれている愛梨の姿を見つけたら、嬉しくて泣きそうな気持ちになった。
「あっ来た! 真実ー!」
大きな声で叫びながら、ぴょんぴょんと飛び跳ねるようにして手を振る元気な姿は、いつも変わらない。
「愛梨!」
手を振り返す私を海君は見下ろして、ちょっぴり笑った。
まるで自分のことのように嬉しそうな顔。
優しい瞳が「良かったね」と声にならない言葉をかけてくる。
(うん)
私も声に出さないで頷いてから、繋いだ手に力をこめた。
ありがとうの思いをこめて握りしめた。
まさか海君が私を送ってくるとは、さすがに愛梨も予想していなかったらしい。
「こんばんは」
と笑って頭を下げた海君に、ほんのり頬を染めて、かなり慌てている。
「こ、こんばんは」
愛梨の視線がじいっと、私と海君が繋いだ手に注がれているのを感じた。
思わず放そうとした私の手を、海君は自分の手ごと軽く持ち上げて、「はい」と愛梨にさし出す。
「う……海君!」
焦る私にニヤッと悪戯っぽい笑顔を向けると、海君は愛梨の手の上で私の手を放した。
「こっからは交代。よろしくお願いします」
もしうぬぼれてもかまわないならば、私を見つめる海君の瞳はこの上なく優しい。
まるで慈しむように、惜しむことなく注がれる優しい眼差し。
「OK。お姫様は確かに預かるからね」
冗談めかして愛梨が私の手をしっかりと受け取った。
根が陽気な愛梨は、きっとこんなやり取りが大好きだ。
海君のことをかなり気に入ったはずだと、私にはわかる。
「じゃあ、また明日」
「うん。明日」
いつもと同じ約束を残して、海君は私たちに背を向ける。
すっかり見慣れたその背中を、私はちょっぴり寂しい気持ちで見送った。
「ありがとー! 海君!」
愛梨が私と繋いだ手をぶんぶんと振りながら、大声で叫ぶ。
海君は笑顔でふり返って、もう一度愛梨に頭を下げる。
その背中が遠くの角を曲がって、すっかり見えなくなってから、愛梨は改めて、ポツリと呟いた。
「真実……きっと今度は幸せになれるよ……」
余計なネオンがないおかげで、このあたりは私の部屋がある界隈よりよく星が見える。
愛梨は夜空を見上げながら、独り言のようにくり返した。
「幸せになれる。きっと。海君と一緒だったら……」
胸が痛かった。
「うん。そうかもしれない……」
口ではそう答えながらも、きっとそうはならない予感が私にはある。
海君は私に何も教えてくれない。
あれこれ聞かれるのを好まないのには、きっと何か理由があるはずだ。
私の知らない『何か』。
その『何か』がある限り、あまり夢を見てはいけないと、私は自分に言い聞かせる。
でも今は――少なくとも今この時だけは、また明日来てくれると言った彼の言葉を喜ぼう。
喜んで――幸せな気持ちで、嫌なことも全部忘れて眠りにつこう。
「私……今でも、幸せだよ……」
夜空を見上げながら自然と笑顔になれた私の顔をのぞきこんで、愛梨もぱあっと華やかに笑う。
「それはどうも……ごちそうさま!」
「あははっ」
あんなに嫌なことがあった夜だというのに、私は笑っていた――笑えているのは、海君や愛梨のおかげだということを忘れてはならない。
夜空を見上げながら、二人がいてくれたことに心から感謝した。
「でもさ……警察が動きだしたんだったら、さすがに岩瀬も、もうこれで諦めるんじゃないかな? ……犯罪者にまではなりたくないんじゃない?」
ベッドが一つしかない愛梨の部屋。
私は愛梨のお母さんが田舎からやってきた時用の布団をベッドの隣に敷いて、ベッド上の愛梨と並んで横になっている。
突然出てきた幸哉の名前にドキリとしながらも、できるだけ普通に聞こえるように返事した。
「うん。そうだね」
愛梨は、幸哉が私にふるった暴力の全てを知っているわけではない。
どんどんおかしくなっていく幸哉が、私は怖くてたまらなくて、次第に誰にも言えなくなったから、愛梨だけじゃなく他の誰も、本当のことは知らない。
言うつもりもなかった。
ただ私が一人で耐えていればいいのだと――我慢していればいいのだと、ずっと自分で自分に言い聞かせていた。
でも本当は――
「できたら……もう私のことは忘れてほしい……それで前の幸哉に戻ってほしい……」
口に出して言葉にして、初めて、願いは誰かに届くものなのかもしれない。
「きっと、そうなるよ」
愛梨の返事は、優しい彼女の慰めの言葉であるだけではなく、目には見えない誰かの言葉のようにも聞こえた。
本当に幸哉に変わってほしいと願う私の心が、その時初めて、その誰かに届いたような気がした。
(幸せになって、とはもう願わない……だからどうか……私のことはもう忘れて)
今度こそ、その願いが叶うといいと、私は心から祈った。
「ねぇ真実。せっかくだからさ……明日一緒に大学に行かない?」
もう眠ったのかと思っていた愛梨が、ふいにそう問いかけてくる。
突然だったのに、どうしようなんて迷う間もなく、私の口は勝手に、
「うん。行こうかな」
と答えていた。
しーんと一瞬、部屋の中に静けさが広がる。
ひょっとしたら返事が聞こえなかったのかと、布団から身を起こしてベッドの上の愛梨をのぞきこんだ私はびっくりした。
愛梨はベッドに仰向けに転がったまま、ポロポロと涙を流していた。
「やっと……やっと真実の口からその言葉が聞けた……」
ぐいぐいと手の甲で涙を拭きながら、嗚咽する愛梨の姿に、あっという間に私の視界もかすんで見えなくなる。
面倒見が良くて人情家の、思いやりに満ちたこの親友を、私は今までどれだけ傷つけてきたのだろう。
時と共に誰もが私という存在を忘れて行く中、たった一人でくり返し声をかけてくれるには、いったいどれだけの勇気をふり絞ってくれていたんだろう。
「愛梨……」
ボタボタと涙をこぼしながら呼びかける私の顔を見て、愛梨は泣きながらふき出した。
「ブッ。真実ったら泣き顔ちょっと不細工……そんなんじゃ海君に逃げられちゃう」
涙でぐしゃぐしゃな自分の顔は棚に上げておいて、よく言う。
「愛梨だって! その顔じゃ彼氏に逃げられるわよ……!」
負けずに言い返した私に向かって、愛梨はイーッと顔をしかめてみせた。
「残念でしたー。しょっちゅう喧嘩するから、時男は私のこんな顔ぐらい見慣れますー。今更そんなことくらいじゃ、私たちはどうにもなりませーん」
「………………!」
負けるものかと何か言い返したかったけれど、それ以上はもう何も言えなかった。
海君と出会って一ヶ月にも満たない私じゃ、二年も恋人と一緒に暮らしている愛梨にかなうはずがない。
「ふふふっ」
勝ち誇ったように笑った愛梨は、起き上がっていたベッドの上にもう一度ゴロンと転がった。
私ももう一度、布団に横になって、天井を見上げる。
「真実は変わったなー」
同じように上を見たままの愛梨が、笑いまじりに呟いた。
「そうかな?」
自分では全然そんな気はしなくて。
でもそう言われるとなんだか悪い気もしなくて。
私もついつい頬が緩む。
「変わった。変わった」
おどけたような愛梨の声が――ダメだ。
嬉しくって、もう笑わずにはいられない。
「ふふっ。だとしたら嬉しいな」
笑いながらも素直に気持ちを語ってみると、間髪入れずに愛梨から、鋭い指摘が返ってくる。
「彼のおかげだね」
「うん」
頷いてから私は、そっと目を閉じた。
愛梨が「抱き枕変わりに」と貸してくれた柔らかな手触りのクッションを、ぎゅっと胸に抱きしめる。
――目を閉じれば浮かんでくるのは、いつだって海君の笑顔。
(あの笑顔の隣にいたい……!)
その思いだけが私を衝き動かす。
「良かったねー……ほんと良かった……」
何度も何度もくり返す愛梨の声が、胸に染みる。
その一つ一つに私は、「うん」「うん」といつまでも返事し続けた。
翌朝、大学へ向かおうと二人で愛梨の部屋を出た途端、、少し離れたバス停に立っている海君の姿が目に飛びこんできた。
私たちの姿を見つけると、遠目にもはっきりとわかるくらいに、ニッコリと微笑む。
「すごい……笑顔が眩しいわ……!」
いつも心の中でこっそりと考えていたことを、愛梨に口に出して言われてしまって、私は思わずふき出した。
「あははっ」
そんな私たちに歩み寄ってきた海君は、ほんの少し目を細めて、いっそう笑顔になる。
「おはよう。楽しそうだね」
「おはよう」
負けないぐらいの笑顔で返事した私の手を、海君はすぐにいつものように捕まえる。
「じゃ行こうか」
「えっ? どこへ?」と聞き返す暇もなく、海君は私の手を引き歩きだした。
そうしながら、あまりにもサラッと、
「行くんでしょ? ……大学」
私がこれから言い出そうとしていたこと、そのものズバリを当ててしまう。
「ど、どうしてっ!?」
大声で叫んだ私をふり返って、海君はかなり意味深な表情で、じいっと私の顔を見つめた。
「真実さんのことなら俺はなんだってわかるから」
私が次に何かを言うまでは、決して崩れないその大真面目な顔は、いつだって私をこの上なくドキドキさせる。
私をからかうのが大好きな海君は、きっと何かを企んでいるんだろうに、私はまたそれにまんまと引っかかって、焦りまくってしまう。
「ど、どうしてっ……?」
海君はもうたまらないとばかりに、大笑いを始めた。
「もちろんただのカンだよ。ゴメン。そんなに素直に俺を信じないでよ……ハハハッ」
悔しい。
海君にはもう、かなわない。
全然かなわない。
「まいったなー。これは本当に本物だわ……!」
感嘆しながら腕組みをする愛梨を、一人置いてはいけないと私は必死でふり返るのに、当の愛梨は早く行けとばかりに、ヒラヒラと手を振る。
「どうぞ私のことは気にしないで。うーん……なんだか二人を見てたら、私も時男に会いたくなって来ちゃった……」
時男とは、私が転がりこんだせいで現在愛梨の部屋を追いだされている、彼女の恋人である。
「これ以上当てられると、ちょっと寂しくなってくるんで……どうぞ私のことは放っておいて下さい……」
冗談めかしてペコリと頭を下げた愛梨に、海君も立ち止まり、大きく体を折り曲げてお辞儀した。
「それでは、これより姫は自分が責任を持ってお預かりします」
「うんうん。いいよ」
「ちょ、ちょっと……姫って……!」
芝居めかしたやり取りが、すっかり気に入ってしまったらしい海君と愛梨は、二人揃って笑いながら、焦る私を見つめている。
優しい思いに満ちた、穏やかな眼差し。
全てが私のためだと、私の気持ちを明るくするためだと、気づいてしまったらまたきっと泣いてしまうだろうから、私はしらんふりりする。
ふたりの優しさに気がつかないフリをする。
「帰りも迎えに行くよ。ここまで送るから、大学どんなだったか、話を聞かせて」
余裕たっぷりで微笑む海君に、たまにはちょっとやり返してみたい気がして、私はわざと問いかけた。
「……それって、もしかして歩いて?」
顔が笑ってしまいそうになるのを必死にこらえて、せいいっぱい真面目な顔を作る。
『俺の交通手段は、歩くか自転車か、電車に乗るぐらいしかないんで』
なんて、以前笑って言った時の、海君の茶目っ気いっぱいの子供みたいな笑顔を思い出して、ドキドキと反応を待つ。
海君は愛梨が一緒にいることをまったく気にしていないかのように、繋いだ手を強く引いて私を抱き寄せ、ぎゅっと自分の腕の中に抱きこんでしまった。
「もちろんそうだよ。何? もっと他の方法がいいの?」
私の意志をうかがうポーズとはいえ、そんなに近い距離から、瞳をのぞきこまないでほしい。
そんなに真っ直ぐに見られたら、息がかかりそうに近い位置から見つめられたら、ドキドキと心臓が口から飛び出してきそうになる。
どうしようもなく胸が鳴って、平静な顔なんてもうできるわけがない。
「……真実さん」
「な……な、何?」
「トマトみたいに顔が真っ赤だよ」
「…………………!」
ニヤリと笑った海君は、次の瞬間、お腹を抱えて大笑いを始めた。
(まったくかなわない! かなうわけがない!)
内心かなり怒っているはずなのに、やっぱり私はそんな彼の笑顔から、一瞬も目を逸らすことができない。
眩しくって、綺麗で、見つめずにはいられない。
「ゴメン。ゴメン。行こっか」
クシャッと私の頭を撫でる大きな手に、心臓を鷲づかみにされたような気分になる。
これではどう考えても私のほうが余裕がない。
その笑顔に、何気ない行動に、どうしようもなくドキドキさせられて、年上の威厳も何もあったものじゃない。
「これは……真実じゃなくっても、やられるわ……」
愛梨の小さな呟きが思いがけず耳に入ってきて、私はますますドキドキする。
赤くなる。
「あっ、またトマト!」
目ざとく見つけてしまう海君を、また喜ばせるばかりだった。