キミの秘密も愛してる

 月が変わり、大学では後期の授業が始まった。
 前期から引き続きの講義に、新しい講義が加わり、そのうえ一年半後の卒業に向けた、より専門的なゼミも始まる。
 自分で組む一週間の日程の中に、私は学年一の才媛である貴子も舌を巻くくらいの授業数を組みこんだ。
 
「ほんとに大丈夫なの?」
 愛梨にも花菜にも念を押されたけれど、時間的・体力的な面からいうと大丈夫だ。
 
 バイトは少し減らしてもらったし、今のところ、座って授業を聞いているだけなら辛いこともない。
 それに、今期でがんばっておかないと来年はどうなるかわからないという思いも強い。
 
 しかし学力的な面で大丈夫かと聞かれると、それはもう
「努力します……」
 としか言いようがなかった。
 
 それももちろん、貴子の助力あっての話だ。
 
「私に頼るな」
 
 どんなに冷たい言葉を放っても、結局貴子は最後には私の面倒を見てくれる。
 それに甘えてばかりではいけないとわかっているが、こればっかりはしょうがない。
 
「よろしくお願いします」
 冗談まじりに頭を下げると、貴子はふうっと息を吐きながらも頷いてくれる。
 
「まあ……今やるしかないか……」
 
 本当に私の周りにいる人たちは、私に優しい。
 その優しさに対する感謝だけは、決して忘れてはならないと思う。
 
「ありがとう」
 
 並んで歩きながら、貴子に最大の感謝をこめて頭を下げた時、大学の門の向こう、海君がいつも私を待ってそっと佇んでいたあたりに、思いがけない人物の姿を見た。
 
 ハッキリした顔立ちの、意志の強そうな目をした綺麗な女の子。
 白いラインが襟に二本入ったセーラー服を着て、黒い真っ直ぐな腰まである長い髪を、風になびかせている。
 
(ひとみちゃん!)
 
 その瞬間、私の心は縮み上がって、みっともないくらいにドキドキと心臓が鳴り始めた。
 とても待っていたけれど、内心来てほしくないとも思っていたその時が、ついに来たと思った。
 
(大丈夫……大丈夫だよ……)
 懸命に自分自身に言い聞かせながら、大きく深呼吸をして、なんでもない顔を心がけながら彼女に声をかける。
 
「ひとみちゃん……だよね……?」
 本当は確認するまでもなく、胸に深く刻みこまれているその名前を形ばかり尋ねる。
 
 まちがいなく私のことを嫌っているであろう彼女は、ニコリともせずにただ頷いた。
 
(なんの用かな……? どうして彼女が来たの……?)
 
 口に出して尋ねることはできなかった。
 胸を過ぎる不安と必死に戦いながら、私はひとみちゃんが口を開いてくれるのを、じっと待つ。
 
「連れてくるように言われたから……」
 
 永遠とも思える沈黙のあと。
 彼女は少しかすれた声でそう告げた。
 まるで何か不吉なことを暗示しているかのように、真っ赤に充血した彼女の瞳から目が離せない。
 
「……海君が?」
 わかりきっていることを確認したら、少しムッとしたように頷き返された。
 
 私が彼のことを呼ぶ名前は、彼の本当の名前ではない。
 そんなことは百も承知で、出会ってからずっとそれで通してきたけれど、あからさまに嫌な顔をされると、自分がとても悪いことをしているように感じて困ってしまう。
 
 重苦しい雰囲気の中、これ以上途切れ途切れの会話を続けていることが苦しくて、私は急いで問いかけた。
「どこに行ったらいいの?」
 
 ひとみちゃんは、ますますムッとしたような顔で私を見てから、クルリと背を向けた。
「送るから一緒に来て……」
 
 貴子が私の肩から、テキスト類が入った大きなバッグを取る。
「行ってこい。真実……」
 
 優しく背中を押してくれたので、私は慌ててひとみちゃんのうしろ姿を追いかけた。
 貴子に何か言おうかと口を開きかけたけれど、言葉が出てこなかった。
 
(ひょっとしたらこれが、海君との本当のサヨナラになるかもしれない……)
 
 そう思うだけで、胸が締めつけられるように痛い。
 涙が浮かんできそうになる。
 
 そんな私を、背後から、
「真実! 泣くな、笑え!」
 貴子の真剣な声が追いかけてきた。
 
(そうだ!……笑顔!)
 他ならぬ海君が私に思い出させてくれた笑顔を、こんな時こそ彼に返さなければ。
 
(いつだって私は笑っていられる。あなたのおかげで……)
 その証明のように、今こそ笑わなければ。
 
 忘れそうになっていた大切なことを思い出させてくれた貴子を、私はふり返った。
 
「いってきます」
 せいいっぱいの笑顔で笑った私に、負けないくらいの笑顔で貴子が手を振った。
 だから私は、最大の勇気を発揮することができた。


 
「乗って」
 短い言葉で指示された車の後部座席に乗りこんで、私はひとみちゃんと並んで座った。
 
 話す言葉なんかまるで思いつかない。
 私を拒絶するように、背中を向け気味に座った彼女の肩が、小刻みに震えているから――どうしようもなく胸が苦しくなる。
 
 笑顔で海君に会おうと――たった今貴子のおかげでそう決意した心が、不安でいっぱいになってしまう。
 
(どこに行くの? ……海君の体調はいったいどうなんだろう……?)
 訊きたいことはたくさんあるのに、彼女の様子があまりに痛々しくて、つられるように私の心も不安になって、尋ねることもできない。
 
 押し黙ったまま俯いていると、うしろ姿のまま、ひとみちゃんがポツリと呟いた。
「あなたと会ってから彼は変わった……」
 
 ドキリと跳ねた胸を懸命に落ち着かせながら顔を上げる。
 ひとみちゃんは私に向き直ろうとはしなかったが、ポツリポツリと続けて言葉を紡ぎ始めた。
 
「どこかに出歩くことなんて全然興味なかったはずなのに、いろんな場所に出かけるようになった……たくさん笑うようになった……ずっと描いてなかった絵をまた描くようになった……」
 
 彼というのは、もちろん海君のことだ。
 私が決して知ることができなかった、彼が本来いる場所での彼の話を、私は初めて耳にする。
 
「みんな感謝してるって言ってる……もうだめだってお医者さまにも言われた状態から、あんなに幸せそうな彼を見れたのは、きっとあなたのおかげだって……」
 
 胸が詰まる。
 そんなふうに言ってもらえるどれだけのことを、私が海君のためにできたというのだろう。
 
 実際はいつも助けてもらってばかりで、嬉しい気持ち、幸せな気持ちを与えてもらってばかりで、私が彼にしてあげられたことなんて何もない。
 ――本当に何もない。
 
 静かに首を横に振る私の様子は、うしろ向きのひとみちゃんには見えていないはずなのに、私の心の一番深いところが見えているかのように、彼女は呟く。
 
「だけど私は許さない……! あなたのせいなんだから……どうしたって、あんな無茶をしたのはあなたのせいだから……!」
 心に突き刺さるように響いたその言葉は、誰よりも私自身がそう感じていたことだった。
 
(私のせいで無理をさせた! 私がいなければ、海君はあんな無茶をすることはなかった!)
 
 この一ヶ月の間。
 寝ても覚めてもその思いは私の頭から消えなかった。
 
 どうしたらいいんだろう。
 これでもし、海君にもしものことがあったりしたら、私はいったいどうすればいいのだろう。
 
 海君の周りの人たちに対して。
 彼自身に対して。
 そして何よりも彼が大切だと感じていた自分自身に対して。
 
 ――いったいどうしたらいいんだろうといつも考えていた。
 
 許してなどほしくない。
 感謝なんてしてほしくない。
 
 私の罪をちゃんと糾弾してほしい。
 逃げも隠れもできないように、私の罪をキチンと責めてほしい。
 
 ――私の心の奥底にあった望みに、私を一番嫌っているであろうひとみちゃんが応えてくれた。
 
「ごめんなさい……」
 本当は誰かにずっと伝えたかった言葉が、涙と一緒に零れ落ちた。
 
「許さない」
 私と同じように、涙声で答えてくれる彼女の否定の言葉が嬉しかった。
 
「ごめんなさい……」
 何度謝っても、どうか私を許さないでほしかった。
 
 自分で自分に課すことのできない罰を、この上なくひどい言葉で与えてほしかった。
 これから一生忘れないように、私の心に刻みつけてほしい。
 
 そんな自分勝手な願いを、決してふり向くことのない彼女の頑なな背中に、私はかけていた。
 ――これ以上なくわがままに。


 
 車が着いた場所は、どこかで予想していたとおり海だった。
 私と海君が初めて一緒に行ったあの海だった。
 
 車から降りて、睨むように私の顔を見つめるひとみちゃんの視線に促されて、私も砂浜へと視線を移す。
 こちらに背を向けて、波打ち際に座るその人の姿を見つけた。
 
 眩しい太陽の光を反射して、淡い色に輝く少しクセがかった髪。
 伸ばしたまま投げだされた長い足。
 
 袖を捲り上げたTシャツの上にはおった長袖のシャツは、肩の上に乗っているだけで、袖は通されていない。
 だから彼の白い腕が、体重を支えて体の少し後方につかれている様子がよくわかる。
 
 放り投げられたように、近くに転がった赤いキャップ。
 風に洗われる髪が、躍るように揺れている。
 
 バタンという車のドアが閉まる音に、ゆっくりとふり向いて、笑ってくれたことが遠目にもわかった。
 
「真実さん!」
 あの、私が何度も何度も恋せずにいられない、最初の夜の笑顔が、私の名前を呼んだ。
 
 嗚咽をこらえたような声を出して、私の横で俯いたひとみちゃんに深く頭を下げてから、私は駆けだした。
 
 私に向かって両手を広げてくれているような、一番大好きな笑顔に向かって、全速力で駆けた。
 
 ――いつだって『待った』なんてかけられなかった心、そのままに。
「ねえ真実さん……『天使の梯子』って知ってる?」
 
 駆け寄った私を、まるで当たり前のように腕の中に抱きこんで、海君は突然そんな質問をする。
 いつもよりずっと小さな途切れ途切れの声に胸が痛んだけれど、そんなことはおくびにも出さずに私は笑った。
 
「突然、何? 『天使の梯子』……? ううん、知らないよ……?」
 
 海君はそんな私に負けないくらいの笑顔で、海の上の空を指差す。
「そっか。あれだよ。あれ!」
 
 彼の指した先には、厚く何層もの雲に隠れた太陽があった。
 いや、あるはずだった。
 太陽の姿は目には見えない。
 雲の隙間から薄く見える光だけがそこに太陽があるらしいということを教えてくれている。
 
 雲のすき間から何本もの光の筋が海に向かって伸びている様子は、確かに『梯子』と言えなくもなかった。
 濃く薄く。
 じっと見ている間にも、細かに動きながら形を変えていくその光の筋は、ゆらゆらと海の上を漂い、なんだか神秘的なほどに綺麗だった。
 
「そっか……綺麗だね……」
 呟いた私に、海君がまた笑った。
 
「うん。あれはね、俺のための梯子なんだ……俺が空の上に行くための梯子……」
 
 突然胸を衝かれて、私は否定の言葉も肯定の言葉も出てこなかった。
 ただ黙って彼の顔を見つめた。
 
「なんだか、かっこいいでしょ?」
 悪戯っぽく輝いた海君の瞳は、とても私をからかっているようには見えなかった。
 心から彼がそう思っているように見えた。
 
 だから、震える手をギュッと握りこぶしに変えて、私は、
「うん、かっこいい」
 と笑った。
 
 ホッとしたように海君も、もう一度笑う。
 
「真実さんが笑ってると俺はそれだけで嬉しい……だから笑っててね」
 
 私から目を逸らして、空を仰ぐようにして、海君はゆっくりとゆっくりと話すから、私も同じように空を見上げる。
 
「俺がいなくなっても……笑っててね」
 
 胸が軋んだ。
 
 まるでそれがわかったかのように、ちょっと視線を私に向けて、表情をうかがうようにしながら、海君は念を押す。
 
「笑っててね。お願い。わかった?」
 
 涙が零れそうになったから、私はもっともっと顔を上に向けて、自分の真上の空を見上げた。

「うん。わかった」
 
 瞬間、涙が一筋零れ落ちたのぐらいは大目に見て欲しい。
 もう泣かないから。
 きっといつでも笑ってみせるから。
 
「……ひとみちゃんと何か話した?」
 突然の胸をえぐられるような質問に、ちょっと苦笑する。
 
「うん……私を許さないって……」
 ありのままに答えた私に、海君は声に出して笑い出す。
 
「ハハハッ、らしいや!」
 それからすぐに、私を抱きしめる腕に力をこめた。
 
「俺のせいでゴメンね……」
 
 私が自分で思っていたのと同じ言葉が彼の口から出てきたから、私はちょっと慌てる。
「どうして海君のせいなの! 私のせいで……!」
 
 言いかけた言葉は唇で塞がれてしまうから、その後に続く言葉は心の中だけで叫んだ。
(私のせいで海君が無茶したんじゃないの!)
 
 海君はゆっくりと唇を離すと、ごく至近距離から私の目を真っ直ぐに見つめる。
 
「なんのために自分は生まれてきたんだろうって考えたら……やっぱり誰かと出会うためにって、思いたいじゃない?」
 
 私の頬を両手で包みこむようにして、一言一言ゆっくりと、私の心に焼きつけるかのように、海君は囁く。
 
「真実さんを守るために俺は生まれてきたんだって……やっぱり胸を張って言いたいじゃない? ……だから俺は全部を投げ出したんだ……本当に大切な物以外、俺が自分で放棄した……それはやっぱり俺の自分勝手だから……だからゴメン」
 
 顔を少し斜めにして、私に返事もさせず口づけた海君は、そのまま私を抱きしめた。
 
「真実さんの気持ちも、これから一人にしてしまうことも、何もかも俺は無視した……だからゴメン」
 
 耳元でくり返された言葉に、私はそっと首を横に振った。

「一人じゃないから……」
 
 そしていつもそうしていたように、右手の指を彼の左手に絡める。
 
「うん、そうだね。これからもずっと、いつも繋いでるんだったよね……」

 本当に嬉しそうに海君が屈託なく笑うから、私は繋いだその手をそっと自分のお腹に当てた。
 
「二人でもないんだよ……?」
 
 瞬間、訝しげに曇った海君の瞳が、次の瞬間、即座に驚きの色に輝いた。
 私の伝えたかったことにすぐに気がついてくれて、本当に驚きのあまり、笑うと大きくなるその口が、無防備にポカンと開いた。

「……驚いた?」
 
 予定どおりに彼を驚かすことができて、思わず飛びっきりの笑顔になってしまう。

「うん! ……うん!」

 首を縦に振るばかりでまだ何も言葉が出てこない海君が、これからの私の心配だとか、周りの反応とかを気にし出す前に、私は一気に言い切った。
 
「私も自分のわがままでもう決めたことだから! ……海君の意見なんかなんにも聞かないで、もう決めちゃってるから! ……だからゴメンね」
 
 決して長くはないであろう二人きりの時間が、無駄な言いあいで短くなってしまったりしないように、急いで先に宣言した。

「私から海君へのサプライズでした。……どう? びっくりしたでしょ?」

 ちょっと茶化すようにこの話を締め括ろうとした私を、ふいに海君がもの凄い力でかき抱いた。
 私の肩に額を押しつけるようにして、小さく呟く。
 
「ありがとう、真実さん」

 あまりにも真剣な声に、喉が詰まる。
 もう決して泣かないでいようと思っていたのに、自然と涙が溢れ出す。
 
「俺なんかの命を……繋いでくれてありがとう……!」
 
 それは私が今まで貰ったどんな感謝の言葉よりも、胸に痛くて誇らしい、最高の言葉だった。
 海で会ったあの日が、本当に私たちの最後のサヨナラの日になった。
 確認したわけでも、誰かが知らせてくれたわけでもないけれど、私にはなんとなくそのことがわかった。
 
 どんなに離れていても私を包みこむように守ってくれていた海君の気配が、近くに感じられなくなったから。
 だからもうきっと、彼はこの世界のどこにもいないんだと思う。
 ――胸が張り裂けそうな思いで、私はそれを事実として認めた。
 
 真剣な顔で貴子にその話をしたら、
「真実って、そっち系の人だったのか?」
 と疑いの眼を向けられた。
 
 特別に霊的なこととか超常現象とかを信じているわけではない。
 けれど本当にそうわかってしまったのだから仕方がない。
 
 それだけ私にとって海君は特別な存在だった。
 ――そういうことなのだと思う。
 
 でももう会えない。
 今度こそ本当に、二度と会うことはできない。
 
 愛梨にも花菜にも案外あっさりとそう伝えることができたわりには、私はかなりまいっていた。
 
 せいいっぱい詰めこんだ大学の講義に頭と時間をフルに使って。
 空いた時間はバイトにも行って。
 掃除も洗濯も食事の準備も、できることは自分でなんでもやって。
 
「真実……本当に妊婦なの?」
 愛梨に何度も確認されるくらい、元気にフル稼働して。
 
 それでもふと何かの拍子に時間が空いたりすると、とてもまともではない自分の精神状態に気がつく。
 
(おいていくほうとおいていかれるほう……どちらがどれぐらい辛いんだろう……?)
 
 夜、布団に入ってもなかなか眠れない時。
 ふいに心に浮かんだそんな考えが恐ろしくて、なおさら眠れなくなる。
 
 料理を作ることは全然苦ではないけれど、それを食べることがとてつもない苦痛だった。
 
「お腹の子供のためにもしっかりと食べないと……!」
 時代錯誤な母が忠告をしてくれて、一緒に食べてくれる愛梨や貴子や花菜がいてくれるおかげで、私はかろうじて食べるという行為を機械的にくり返している。
 
 でも何もかもが虚ろだ。
 心は全然自分の中にないまま、ただ日々だけがすぎていく。
 
「真実がそんな調子じゃ、きっと海君は悲しむよ?」
 愛梨の叱責は、確かにそのとおりだ。
 
 私だって頭ではわかっている。
 私のこんな状態を誰よりも彼が悲しむだろうということはわかっている。
 
 だけどどうしようもない。
 目を閉じることもできない夜と、喉を通らない食事は、自分でもどうしようもない。
 
 笑うこともできなかった。
 彼があんなに望んでくれた笑顔を作る術を、私はすっかり忘れてしまった。
 
「しっかりしな! 一人でもちゃんと産んで育ててみせるって、あんなにキッパリと宣言したのは真実だったろ?」
 
 叱るように貴子に励まされて、私が今まで自分の強さだと思っていたものは、海君に大きく守ってもらっていたからこその強さだったんだと思い知らされた。
 
 どこにいても、何をしてても、いつも安心していられた毎日。
 どれだけ自分にとって、大切な存在を失ったんだろうと今になって悲しく思う。
 
 辛いよりも、切ないよりも、今は悲しい。
 どうしようもなく悲しい。
 
 そう思い至って、私はようやく、今の自分に何が足りなかったのかに思い当たった。
 
(そういえば……泣いてない……?)
 
 海君と本当にサヨナラして。
 もう二度と会えなくなって。
 だけどそれはあらかじめわかっていたことだからと、あんまり悲しむのは胎教にも良くないからと、私は泣かなかった。
 特に我慢したわけでもなく、自然と涙が出なかった。
 
(これって……ちょっとまずいんじゃないかな……?)
 背筋がヒヤリとする。
 
 元々が人より涙腺の弱い人間なのに、これ以上ないくらいの悲しみを前にして、泣くことができない。
 そんな自分の精神状態には、とうに赤信号が点っていたのだと気がついた。
 
(でも……どうしたらいいんだろう?)
 
 今さら海君のことを思ってふさぎこんでみたって、それで元の自分に戻れるとは思えない。
 だからと言って、彼がいない今、いったいどうしたらこれまでどおり生きていけるのかさえわからない。
 
 とりあえずは、
(やれることをやってみよう……)
 そう思った。


 
 あの最後の日。
 海君は確か私にこう言った。
 
「真実さん、本当の俺を探してくれる?」
 
 そう言って悪戯っぽく笑っていた。
 
 あまりの寂しさに、あまりの悲しみに、すっかり心の奥にしまいこんでいたその約束を、私は果たしてみることにした。
 
(うん……そうしてみよう!)
 自然とそう思えた。
 
 海君はいつだって、どうしようもない私のために先回り先回りでいろんなことを準備してくれていた。
 ふとした瞬簡に、私の心をふっと軽くしてくれる術を、彼は確かに知っていた。
 
 だからひょっとしたら、彼の最後の『お願い』は私が思っていた以上に意味があることなのかもしれない。
 
 私はやっぱり今でも、海君を信じていた。
 誰よりも何よりも、自分自身よりも信じていた。


 
 愛梨と花菜と貴子にも協力してもらって、とりあえずはこの街にある高校の生徒たちから情報を集めることにした。 
 
 高校と一口に言っても公立から私立までかなりの数がある。
 元々この街の出身でもない私たちには、その所在地を探すところから一苦労だ。
 
「なあ……そもそもあいつは高校生なのか? 全然そんなそぶりもなかったけれど、本当に高校に在籍していたのか?」
 貴子の疑問はもっともだった。
 
「それに名前もわからないんじゃ……なんて尋ねたらいいのか、難しいよね……」
 愛梨のため息も当然だ。
 
 とにかくこういう感じの男の子でと、いちいち説明することに時間を取られて、なかなか多くの人に話を聞くのは難しい。
 
 それにこのことばかりにかまけてもいられない。
 本来の学業だって、手を抜くことはできないところに来ているのだ。
 
 誰にとっても時間に余裕がない中、私は、
「一人で時間をかけてゆっくりと探すから……みんなはもう気にしないで……」
 と三人の手伝いを断った。


 
 季節はすでに秋から冬へと移り変わろうとしていた。
 少しずつお腹も目立ってきた中、無理せずちょっとした運動代わりに歩くことは、今の私にはピッタリで、私は焦らずにゆっくりと海君の足跡を探すことにした。
 自然とそう思えるようになれたことが嬉しかった。
 
 あんなに神経を張り詰めて、このままじゃどうにかなってしまうんじゃないかと思っていた自分の毎日が、いつの間にか彼がいないことに、少しずつ慣れてきている。
 
 それは胸が張り裂けそうなくらい悲しいことなのに、これから一人で生きていく上では、やっぱりどうしても必要なことなんだ。
 ――とうに納得している自分がいる。
 
 海君のことはどこかで区切りをつけて、もう思い出として大切に抱えていくしかない。
 私がこれからも前を向いて生きていくためには、きっとそうするしかない。
 
 だからその『区切り』が欲しくて、私は探している。
 
 私の記憶の中にしか存在しない『海君』という男の子が、確かにこの世界に存在していたという証拠が欲しくて、毎日少しずつ歩いている。
 
 見上げた空は薄い色で、風も頬に刺さるように冷たかった。
 自分自身というよりは、私の中の彼の分身を労わるように、そっとコートの前をあわす。
 
 二人で過ごした眩しいくらいの季節はこんなに遠くなってしまった。
 あの夏にはもう二度と戻れない。
 
 そんなことを思っても、胸が痛いばかりでやっぱり涙は浮かんでこない。
 だからきっと、嬉しいことがあっても笑顔にもなれないんだ。
 
 こわばった表情の自分を、変えれるものが本当に存在するのだろうか。
 ――彼以外に本当に変えれるものがあるのだろうか。
 
 苦しい思いを抱えながら、毎日少しずつ歩き続けた。


 
 バイトが休みだった日曜日。
 遅い学園祭がおこなわれている少し遠い高校にまで足を運んだ。
 
 お祭り気分に浮かれている高校生たちと、そこに参加している近所の住人たち。
 なんだかアットホームな温かい雰囲気に包まれて、私は本来の目的もそっちのけであちらこちらを見てまわった。
 
 ベビーカーを押した若いお母さんが、小さな子供の手を引いて歩いているのが目に止まる。
 
「かっわいいー」
 高校生の女の子たちに囲まれて、頭を撫でてもらって、小さな男の子はとっても嬉しそうだ。
 
 ニッコリと花が咲くように笑って、それと同時に、風船の紐を握りしめていた大事な左手まで開いてしまった。
 
 あっという間に空へと吸い込まれていく風船に、みるみる表情が崩れていく男の子が泣き出す前に、お母さんがそっと男の子を抱きしめた。
 
 一言二言、何か声をかけられた男の子は、泣くことも忘れてコクコクと頷くと空っぽになってしまったその手をお母さんと繋いだ。
 
 ニッコリと、本当に嬉しそうに笑ってお母さんの顔を見上げている。
 
 立ち止まったままその光景を見ていた私は、隣を通り過ぎる母より少し年配の女性に声をかけられた。
「……大丈夫?」
 
 心配そうに顔をのぞきこんで、見ず知らずの私にハンカチまでさし出してくれたから、そこで初めて私は、自分が泣いていることに気がついた。
 
 その親切な女性に心配をかけないように、小さく笑い返す。
「大丈夫です」
 
 いつの間にか涙が零れていたことも、自然と笑えたことも、私にとっては驚きだった。


 
 近くのベンチに腰を下ろして、もううしろ姿が見えなくなったベビーカーの親子の行ってしまった方向を見ながら、コートのポケットから自分の右手を出して、空にかざした。
 
『ずっと繋いでることにしようか』
 
 まるですぐ隣にいてくれるかのように、彼の声が耳元で響いた。
 
(そうだった……この手はいつだって海君と繋がっているんだったのに……!)
 
 そう思った瞬間。
 これまで音のなかった私の世界にさまざまな音が甦り、色のなかった世界が色とりどりに染め上げられていくのを感じた。
 
(いつも繋いでる……その約束が永遠だってことを、いったいいつから忘れてしまってたんだろう……?)
 
 カラカラに乾いていた心に水が染みこむように、涙があとからあとから溢れ出た。
 
(いつも一緒だよ……だから私は笑える……! 悲しい時には思いっ切り泣ける……! いつだって一人じゃないもの……)
 
 彼がずっと以前に私にかけてくれた魔法をもう一度有効にするために、心の中で何度も何度もくり返す。
 
 その時、お腹の中の小さな命からポンと合図を貰った。
 
 まるで、
(自分もここにいるよ)
 ――そう言ってくれたみたいに。
 
(いつだって一緒だよ)
 ――そう知らせてくれたみたいに。
 
 だから嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかった。
 海君が『真実さんが笑ってると、それだけで俺は嬉しい』と言ってくれた笑顔のまま、涙が止まらなかった。
 そんな私に奇跡が舞い降りる。
 
 泣きながら見上げた近くの教室の壁に展示された絵の中に、私の良く知っている色を見つけた。
 立ち上がって教室の中をのぞきこんでみると、いくつかの絵が展示されている美術室だった。
 
「どうぞ、ご覧になってください……」
 私に気がついて声をかけてくれた女の子の制服が、襟に二本ラインの入ったセーラー服だったから、一瞬ドキリとする。
 
(そっか……ひとみちゃんの制服を手がかりに探すこともできたんだ……!)
 今頃ようやくそのことに思い当たって、思わず苦笑する。
 
(ひょっとしたら海君は、最初からそのつもりだったのかも……)
 だから私に、それほど難しい問題を出したつもりではなかったのかもしれない。
 
(貴子に言ったら怒られるだろうな……!)
 
「そんな重要な手がかりを持ってたくせに、忘れてただぁ?」
 と呆れた顔が目に浮かぶ。
 
 一人でそんなことを考えながら、笑っていた私に、その女の子がもう一度声をかけてきた。
 
「……あのう?」
 困ったように首を傾げているから、私は慌てて頭を下げた。
 
「ごめんなさい。見せてもらいます……」

 高鳴る胸を押さえながら部屋の中央に飾られたその大きな絵の前に立った。
 岩に囲まれた小さな砂浜に、海に向かって座っている二つの人影。
 白いワンピースの女の子と、Tシャツ姿の男の子。
 二人が手を繋いで見つめているのは、いろんな色が混じりあった私の大好きな彼の瞳のようなあの海だ。
 
 私が一番の宝物として部屋に大切に飾っているあの絵と、よく似たこの絵を描いた人が、海君じゃないはずはない。
 
「この絵を描いた人って……?」
 
 こみ上げて来る涙を懸命にこらえながら、震える声で問いかけた私に、その女の子は少し眉を曇らせた。
 
「『一生君』……一年生の『ひとうみ』君です……夏休みまで美術部に在籍していました……だけど彼はもう……」
 
 そこまで答えてくれて、なんて言っていいのかわからないというふうに口を噤んでしまったから、私はそんな彼女に微笑み返す。
 
「うん……知ってる……わかってるからゴメンなさい……」
 
 心から微笑み返す。
 自分の予想はやっぱり当たっていたんだと確認して。
 それでも、こうして彼のいた場所までたどり着けたんだと安堵して。
 
「ひとうみ……『一生』何君?」
 
 絵を見つめたまま尋ねる私に、違う方角から、返事があった。
 
「『かいり』よ。『一生海里』。だからあなたが呼んでいた名前もあながち外れじゃない……そう言っていつも笑ってたわ……」
 
 聞き覚えのあるその声に驚いてふり返ると、心まで射抜くような目を私に向けて、彼女が立っていた。
 
「ひとみちゃん……」
 
 驚く私に、思いがけないことにその目をちょっと優しくして、彼女は呟いた。
 
「本当にここまで来たんだ……」
 
 その言葉に、彼女が半信半疑ながらもおそらくは海君のお願いで、私を待っていてくれたんだろうと知る。
 
「ずいぶん遅かったじゃない……」
 
 内容的には容赦ないながらも、その口調には以前よりはずっと友好的なものを感じる。
 私は少し嬉しくなった。
 
「ごめんなさい……私って本当に、何をやっても時間がかかるから……」
 笑いながら言った言葉に、彼女も小さく笑ってくれた。
 
「だけど……『遅くなっても真実さんは絶対来るから、だから待っててくれ』って……海里はそう言ったわ……!」
 
 じんと胸の奥が熱くなった。
「ありがとう……」
 
 心からの感謝の言葉を告げながら、頭を下げた私と同時に、
「……ありがとう」
 ひとみちゃんもまったく同じ言葉を返して来たから、私たちは思わず顔を見あわせた。
 
 どちらからともなく、同時に苦笑する。
 
 いつの間にか他の子は気を利かせていなくなってしまって、広い教室には私たちだけがたった二人で取り残されていた。
 
 数ヶ月前は同じ痛みを抱えていても、決してわかりあえることなどあるはずがないと思っていた。
 
 だけど同じ辛い別れを経験して、それでも自分は前を向いて生きていかなければならなくて、苦しくて、もがいて、やっとのことで大切なことを思い出した今、彼女はなんて私の心のすぐ近くにいるんだろう。
 
 同じ人を同じ懐かしい気持ちで語りあえる存在は、なんて優しいんだろう。
 心からそう思う。
 
 願わくば彼女もまた、私のことをそんなふうに感じていて欲しい。
 そうすればきっと私たちはもっともっといろんな話ができるはずだ。
 
 同じ人を愛した。
 きっと誰にも負けないくらいに想ったんだもの。
 
(海君はきっとわかってたね……だからひとみちゃんともう一度話をしてほしいと、私に願ったんだね……)
 
 それはきっと私のために。
 それと同時に彼女のために。
 
(やっぱり海君にはかなわない……! どんなにがんばったって、一生かかったって、かないっこないよ……!)
 
 悔しいどころか誇らしげな気持ちでそう思った私に、
「はい」
 ひとみちゃんは一冊のスケッチブックをさし出した。
 
「海里からあなたに……私だって中身は知らないわ……海里はこれだけは絶対に誰にも見せなかったの……」
 
 そう言ってひとみちゃんは、壁に飾られた海君の絵を見つめた。
 
「私、あなたがうらやましかったわ……それに妬ましかった……海里はあなたのためにあんな無茶をしたんだもん……絶対に許すもんかと思った……許さないと思った!」
 
 うんうんと頷きながら、私は彼女の横顔を静かに見つめる。
 
「でも海里がいなくなってから……思い出すのは楽しそうな顔ばっかり……あなたと出会って、どんどん活き活きとしていった顔ばっかり……! 私が小さな頃からよく知ってた海里じゃなくって、あなたのことを好きになった海里を私は好きだったんだって、……なんだか思い知らされた……!」
 
 自嘲するように笑いながら話すひとみちゃんの言葉は、私の心に深く染みこんだ。
 
 私自身だって胸の中に抱えていたどす黒い歪んだ感情。
 誰にも言うことなんてできやしないとひた隠しにしていたあの思いを、吐き出してしまうならきっと今だ。
 ――ひとみちゃんの前でしか、吐露することはできないだろうと気がついた。
 
「私も……私もひとみちゃんがうらやましかった……私の知らない海君の本当の名前を呼んで、いつだって彼の傍にいれるひとみちゃんがうらやましかった……彼の力になれるあなたが、妬ましくてたまらなかった……」
 
 そうしてまた、二人で顔を見あわせた。
 
「私たち二人って、呆れるくらいにまったく同じ気持ちを胸に抱えてたんだね……」
 照れ臭い気持ちで笑いあった。
 
「きっと彼にはバレバレだったろうね……」
 そこでため息を吐くところまで、まったく一緒になってしまったから、またもう一度笑った。

 
 
 ひとみちゃんと別れてその学校をあとにし、自分の部屋のある方角へと向かうバスに乗りこんでから、私は海君のスケッチブックをそっと開いてみた。
 
『俺の最後のプレゼント』
 
 海君がそう言ったくれたそのスケッチブックを、ドキドキしながらのぞきこんだ。
 その瞬間、自分の顔がいっぱいに描かれていたから、慌てて閉じてしまう。

(海君!)
 
 泣きそうな思いで閉じてしまう。
「愛情たっぷりに」という表現を、自分で自分に使うことを許してもらえるのなら、そこにはまさに愛情たっぷりに私の姿が描かれていた。
 
『真実さん笑って』
『いつも笑って』
 
 励ますように、願うように、彼の言葉と一緒に、いろんな場所で私が彼に向けた笑顔が描かれているから、なおさら泣きたくなる。
 
(ありがとう、海君……)
 
 紙面が涙で滲んでしまわないように気をつけながら、私は必死にページをめくった。
 
 二人で一緒に行った動物園の風景がある。
 手を繋いで歩いた川原の景色がある。
 並んで見た夕焼けも、はしゃぎまわったあの海も、毎日通ったなんでもない道路さえ、たった今その場所にいるかのように鮮明に思い出される。
 
(海君!)
 
 その時々に私が着ていた服さえ、こんなにハッキリと覚えていてくれたんだろうか。
 恥ずかしいくらいに大きな口を開けて笑った顔も、ちょっと拗ねたような上目遣いの顔も、照れたように彼を見つめる想いに溢れた顔も、こんなに。
 こんなに。
 こんなに――。
 
 彼の目に自分がどんなふうに映っていたのか。
 再確認させられるその絵の数々は、あまりに胸に痛かった。
 見ていると涙を溢れさせずにはいられない。
 だけど――。
 
『真実さん、元気? 笑ってる?』
『忘れてない? 俺はいつだってすぐ傍で見てるよ』
『ほら、笑って笑って。真実さんが笑ってくれるだけで俺は嬉しいんだから!』
『大好きだよ。いつまでもずっと大好き!』
 
 一枚一枚に記された小さなメッセージが、私を笑顔にしてくれる。
 
『負けるながんばれ! 俺がついてる!』
『寂しくなったら空を見上げて、俺はいつも見てるから』
 
 きっと落ちこみそうになった時も、私を励ましてくれるはずだ。
 
 海君からの『最後のプレゼント』を、私は胸にぎゅっと抱きしめた。
 
(きっともう二度と笑顔は忘れない……だってこれがあればそれだけで、私は笑顔になれるもの……)
 
 感謝するように愛しむように、スケッチブックの固い表紙に私は頬を寄せた。
 
 その時また、お腹の中の彼の分身から、
(自分もここにいるよ)
 とばかりにポンと合図をもらう。
 
 私はその声に応えるように、そっと自分のお腹に手を添えた。

(うんそうだね……ありがとう)
 
 その気持ちをこめて、服の上からその愛しい存在をそっと撫でた。


 
 冬が来て、春が来て、芽吹いた新緑に早くも夏の訪れを感じる頃。
 私は無事に男の子を出産した。
 
 海君にそっくりな柔らかな髪をした綺麗な瞳のその子を、私は彼を呼んでいた名前そのままに『海』と名づけた。
 
「なんて芸のない……」
 貴子はわざわざ頭を抱えてしゃがんでみせたけれど、
 
「だってそれ以外には考えられないじゃない……ねえ真実ちゃん……」
 取り成すような花菜の言葉に、私は心から微笑み返した。
 
「うん……」
 
「別にあんたの子供じゃないんだから、とやかく言う権利なんてもともとないでしょ?」
 愛梨の冷たい言い草に、貴子は長い髪を耳にかけながら、くいっと顎を上に向けてみせる。
 
「確かに実父にはなれないが、育ての親にだったらなってもよかったのに、真実が実家に帰るって言うんだから仕方ないじゃないか……!」
 
 私は思わず驚きの声を上げた。
「えっ? 貴子、あれ本気で言ってたの?」
 
「いや。もちろん冗談だ」
 がくっと肩を落とした私に、貴子がニヤリと笑ってみせる。
 
 そのちょっと意地悪な笑い方はやっぱり海君に似ていて、今でもちょっぴり私を切ない気分にさせた。


 
 三年の後期にがんばったおかげで、私もなんとかみんなと一緒に、四年で大学を卒業できる見通しが立っていた。
 
 卒業後には実家に帰ってくるようにと言ってくれた母の言葉に甘えて、母子共々、あの小さな港町に帰ることに決めている。
 
 半年後にはみんなとも、この街とも、もうお別れだ。
 
 海君と出会って一緒に過ごした街。
 ――そう思うと離れ難いような気持ちもあったが、貴子が私をあと押ししてくれた。
 
「私はまだまだここに住むんだから……いつだって遊びに来ればいい」
 ぶっきらぼうに言ってくれた優しい言葉が、嬉しかった。
 
 窓から吹きこんでくる心地良い風に、スヤスヤと眠る小さな『海君』の柔らかい髪を、私は右手でそっと撫でる。
「一緒に帰ろうね……あの海をあなたにも見せてあげる」
 
 そこで、私が覚えている大好きな人の話をしてあげる。
 たくさんたくさんしてあげる。
 
「いつも一緒だよ……」
 自分の手に重なる大きな左手の感触を、今でもありありと感じながら小さな声で囁く。
 
「ずっと一緒だよ……」
 彼と約束した右手を、窓から入ってくる初夏の日射しにそっと透かしてみた。
 
 思わず目を閉じてしまいそうなほどに眩しい太陽が、いつの間にかまた、夏空の下に帰ってきている。
 
 頬を撫でる暖かい風に、
(また夏が来る……)
 そう思うだけで、なんでもできそうなくらい元気になれる気がした。


 
 目で見える所に、手で触れる事が出来る場所に、私が愛した人はもういない。
 
 けれど、いつでも目を閉じればその笑顔が浮かんでくるように、耳を澄ませば私を呼ぶ声が聞こえるように、いつも傍にいてくれる。
 
 誰よりもなによりも私の近くに感じることができる。
 
「だって……いつも繋いでる……」
 
 私はもう一度、窓越しに自分の右手を高い空に向かってさし伸べた。
 青い空に向かって伸ばした。
 
 彼とした約束を、また永遠にするために。
 いつだって有効にするために。
 
 眩しい太陽に彼の笑顔が重なる。
 だから私も懸命に笑顔を返した。
 ――彼が私に教えてくれた、とびっきりの笑顔を。
 
(海君……大好きだよ!)
 
 ――変わらない想いと共に。

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