そんな私に奇跡が舞い降りる。
 
 泣きながら見上げた近くの教室の壁に展示された絵の中に、私の良く知っている色を見つけた。
 立ち上がって教室の中をのぞきこんでみると、いくつかの絵が展示されている美術室だった。
 
「どうぞ、ご覧になってください……」
 私に気がついて声をかけてくれた女の子の制服が、襟に二本ラインの入ったセーラー服だったから、一瞬ドキリとする。
 
(そっか……ひとみちゃんの制服を手がかりに探すこともできたんだ……!)
 今頃ようやくそのことに思い当たって、思わず苦笑する。
 
(ひょっとしたら海君は、最初からそのつもりだったのかも……)
 だから私に、それほど難しい問題を出したつもりではなかったのかもしれない。
 
(貴子に言ったら怒られるだろうな……!)
 
「そんな重要な手がかりを持ってたくせに、忘れてただぁ?」
 と呆れた顔が目に浮かぶ。
 
 一人でそんなことを考えながら、笑っていた私に、その女の子がもう一度声をかけてきた。
 
「……あのう?」
 困ったように首を傾げているから、私は慌てて頭を下げた。
 
「ごめんなさい。見せてもらいます……」

 高鳴る胸を押さえながら部屋の中央に飾られたその大きな絵の前に立った。
 岩に囲まれた小さな砂浜に、海に向かって座っている二つの人影。
 白いワンピースの女の子と、Tシャツ姿の男の子。
 二人が手を繋いで見つめているのは、いろんな色が混じりあった私の大好きな彼の瞳のようなあの海だ。
 
 私が一番の宝物として部屋に大切に飾っているあの絵と、よく似たこの絵を描いた人が、海君じゃないはずはない。
 
「この絵を描いた人って……?」
 
 こみ上げて来る涙を懸命にこらえながら、震える声で問いかけた私に、その女の子は少し眉を曇らせた。
 
「『一生君』……一年生の『ひとうみ』君です……夏休みまで美術部に在籍していました……だけど彼はもう……」
 
 そこまで答えてくれて、なんて言っていいのかわからないというふうに口を噤んでしまったから、私はそんな彼女に微笑み返す。
 
「うん……知ってる……わかってるからゴメンなさい……」
 
 心から微笑み返す。
 自分の予想はやっぱり当たっていたんだと確認して。
 それでも、こうして彼のいた場所までたどり着けたんだと安堵して。
 
「ひとうみ……『一生』何君?」
 
 絵を見つめたまま尋ねる私に、違う方角から、返事があった。
 
「『かいり』よ。『一生海里』。だからあなたが呼んでいた名前もあながち外れじゃない……そう言っていつも笑ってたわ……」
 
 聞き覚えのあるその声に驚いてふり返ると、心まで射抜くような目を私に向けて、彼女が立っていた。
 
「ひとみちゃん……」
 
 驚く私に、思いがけないことにその目をちょっと優しくして、彼女は呟いた。
 
「本当にここまで来たんだ……」
 
 その言葉に、彼女が半信半疑ながらもおそらくは海君のお願いで、私を待っていてくれたんだろうと知る。
 
「ずいぶん遅かったじゃない……」
 
 内容的には容赦ないながらも、その口調には以前よりはずっと友好的なものを感じる。
 私は少し嬉しくなった。
 
「ごめんなさい……私って本当に、何をやっても時間がかかるから……」
 笑いながら言った言葉に、彼女も小さく笑ってくれた。
 
「だけど……『遅くなっても真実さんは絶対来るから、だから待っててくれ』って……海里はそう言ったわ……!」
 
 じんと胸の奥が熱くなった。
「ありがとう……」
 
 心からの感謝の言葉を告げながら、頭を下げた私と同時に、
「……ありがとう」
 ひとみちゃんもまったく同じ言葉を返して来たから、私たちは思わず顔を見あわせた。
 
 どちらからともなく、同時に苦笑する。
 
 いつの間にか他の子は気を利かせていなくなってしまって、広い教室には私たちだけがたった二人で取り残されていた。
 
 数ヶ月前は同じ痛みを抱えていても、決してわかりあえることなどあるはずがないと思っていた。
 
 だけど同じ辛い別れを経験して、それでも自分は前を向いて生きていかなければならなくて、苦しくて、もがいて、やっとのことで大切なことを思い出した今、彼女はなんて私の心のすぐ近くにいるんだろう。
 
 同じ人を同じ懐かしい気持ちで語りあえる存在は、なんて優しいんだろう。
 心からそう思う。
 
 願わくば彼女もまた、私のことをそんなふうに感じていて欲しい。
 そうすればきっと私たちはもっともっといろんな話ができるはずだ。
 
 同じ人を愛した。
 きっと誰にも負けないくらいに想ったんだもの。
 
(海君はきっとわかってたね……だからひとみちゃんともう一度話をしてほしいと、私に願ったんだね……)
 
 それはきっと私のために。
 それと同時に彼女のために。
 
(やっぱり海君にはかなわない……! どんなにがんばったって、一生かかったって、かないっこないよ……!)
 
 悔しいどころか誇らしげな気持ちでそう思った私に、
「はい」
 ひとみちゃんは一冊のスケッチブックをさし出した。
 
「海里からあなたに……私だって中身は知らないわ……海里はこれだけは絶対に誰にも見せなかったの……」
 
 そう言ってひとみちゃんは、壁に飾られた海君の絵を見つめた。
 
「私、あなたがうらやましかったわ……それに妬ましかった……海里はあなたのためにあんな無茶をしたんだもん……絶対に許すもんかと思った……許さないと思った!」
 
 うんうんと頷きながら、私は彼女の横顔を静かに見つめる。
 
「でも海里がいなくなってから……思い出すのは楽しそうな顔ばっかり……あなたと出会って、どんどん活き活きとしていった顔ばっかり……! 私が小さな頃からよく知ってた海里じゃなくって、あなたのことを好きになった海里を私は好きだったんだって、……なんだか思い知らされた……!」
 
 自嘲するように笑いながら話すひとみちゃんの言葉は、私の心に深く染みこんだ。
 
 私自身だって胸の中に抱えていたどす黒い歪んだ感情。
 誰にも言うことなんてできやしないとひた隠しにしていたあの思いを、吐き出してしまうならきっと今だ。
 ――ひとみちゃんの前でしか、吐露することはできないだろうと気がついた。
 
「私も……私もひとみちゃんがうらやましかった……私の知らない海君の本当の名前を呼んで、いつだって彼の傍にいれるひとみちゃんがうらやましかった……彼の力になれるあなたが、妬ましくてたまらなかった……」
 
 そうしてまた、二人で顔を見あわせた。
 
「私たち二人って、呆れるくらいにまったく同じ気持ちを胸に抱えてたんだね……」
 照れ臭い気持ちで笑いあった。
 
「きっと彼にはバレバレだったろうね……」
 そこでため息を吐くところまで、まったく一緒になってしまったから、またもう一度笑った。

 
 
 ひとみちゃんと別れてその学校をあとにし、自分の部屋のある方角へと向かうバスに乗りこんでから、私は海君のスケッチブックをそっと開いてみた。
 
『俺の最後のプレゼント』
 
 海君がそう言ったくれたそのスケッチブックを、ドキドキしながらのぞきこんだ。
 その瞬間、自分の顔がいっぱいに描かれていたから、慌てて閉じてしまう。

(海君!)
 
 泣きそうな思いで閉じてしまう。
「愛情たっぷりに」という表現を、自分で自分に使うことを許してもらえるのなら、そこにはまさに愛情たっぷりに私の姿が描かれていた。
 
『真実さん笑って』
『いつも笑って』
 
 励ますように、願うように、彼の言葉と一緒に、いろんな場所で私が彼に向けた笑顔が描かれているから、なおさら泣きたくなる。
 
(ありがとう、海君……)
 
 紙面が涙で滲んでしまわないように気をつけながら、私は必死にページをめくった。
 
 二人で一緒に行った動物園の風景がある。
 手を繋いで歩いた川原の景色がある。
 並んで見た夕焼けも、はしゃぎまわったあの海も、毎日通ったなんでもない道路さえ、たった今その場所にいるかのように鮮明に思い出される。
 
(海君!)
 
 その時々に私が着ていた服さえ、こんなにハッキリと覚えていてくれたんだろうか。
 恥ずかしいくらいに大きな口を開けて笑った顔も、ちょっと拗ねたような上目遣いの顔も、照れたように彼を見つめる想いに溢れた顔も、こんなに。
 こんなに。
 こんなに――。
 
 彼の目に自分がどんなふうに映っていたのか。
 再確認させられるその絵の数々は、あまりに胸に痛かった。
 見ていると涙を溢れさせずにはいられない。
 だけど――。
 
『真実さん、元気? 笑ってる?』
『忘れてない? 俺はいつだってすぐ傍で見てるよ』
『ほら、笑って笑って。真実さんが笑ってくれるだけで俺は嬉しいんだから!』
『大好きだよ。いつまでもずっと大好き!』
 
 一枚一枚に記された小さなメッセージが、私を笑顔にしてくれる。
 
『負けるながんばれ! 俺がついてる!』
『寂しくなったら空を見上げて、俺はいつも見てるから』
 
 きっと落ちこみそうになった時も、私を励ましてくれるはずだ。
 
 海君からの『最後のプレゼント』を、私は胸にぎゅっと抱きしめた。
 
(きっともう二度と笑顔は忘れない……だってこれがあればそれだけで、私は笑顔になれるもの……)
 
 感謝するように愛しむように、スケッチブックの固い表紙に私は頬を寄せた。
 
 その時また、お腹の中の彼の分身から、
(自分もここにいるよ)
 とばかりにポンと合図をもらう。
 
 私はその声に応えるように、そっと自分のお腹に手を添えた。

(うんそうだね……ありがとう)
 
 その気持ちをこめて、服の上からその愛しい存在をそっと撫でた。


 
 冬が来て、春が来て、芽吹いた新緑に早くも夏の訪れを感じる頃。
 私は無事に男の子を出産した。
 
 海君にそっくりな柔らかな髪をした綺麗な瞳のその子を、私は彼を呼んでいた名前そのままに『海』と名づけた。
 
「なんて芸のない……」
 貴子はわざわざ頭を抱えてしゃがんでみせたけれど、
 
「だってそれ以外には考えられないじゃない……ねえ真実ちゃん……」
 取り成すような花菜の言葉に、私は心から微笑み返した。
 
「うん……」
 
「別にあんたの子供じゃないんだから、とやかく言う権利なんてもともとないでしょ?」
 愛梨の冷たい言い草に、貴子は長い髪を耳にかけながら、くいっと顎を上に向けてみせる。
 
「確かに実父にはなれないが、育ての親にだったらなってもよかったのに、真実が実家に帰るって言うんだから仕方ないじゃないか……!」
 
 私は思わず驚きの声を上げた。
「えっ? 貴子、あれ本気で言ってたの?」
 
「いや。もちろん冗談だ」
 がくっと肩を落とした私に、貴子がニヤリと笑ってみせる。
 
 そのちょっと意地悪な笑い方はやっぱり海君に似ていて、今でもちょっぴり私を切ない気分にさせた。


 
 三年の後期にがんばったおかげで、私もなんとかみんなと一緒に、四年で大学を卒業できる見通しが立っていた。
 
 卒業後には実家に帰ってくるようにと言ってくれた母の言葉に甘えて、母子共々、あの小さな港町に帰ることに決めている。
 
 半年後にはみんなとも、この街とも、もうお別れだ。
 
 海君と出会って一緒に過ごした街。
 ――そう思うと離れ難いような気持ちもあったが、貴子が私をあと押ししてくれた。
 
「私はまだまだここに住むんだから……いつだって遊びに来ればいい」
 ぶっきらぼうに言ってくれた優しい言葉が、嬉しかった。
 
 窓から吹きこんでくる心地良い風に、スヤスヤと眠る小さな『海君』の柔らかい髪を、私は右手でそっと撫でる。
「一緒に帰ろうね……あの海をあなたにも見せてあげる」
 
 そこで、私が覚えている大好きな人の話をしてあげる。
 たくさんたくさんしてあげる。
 
「いつも一緒だよ……」
 自分の手に重なる大きな左手の感触を、今でもありありと感じながら小さな声で囁く。
 
「ずっと一緒だよ……」
 彼と約束した右手を、窓から入ってくる初夏の日射しにそっと透かしてみた。
 
 思わず目を閉じてしまいそうなほどに眩しい太陽が、いつの間にかまた、夏空の下に帰ってきている。
 
 頬を撫でる暖かい風に、
(また夏が来る……)
 そう思うだけで、なんでもできそうなくらい元気になれる気がした。


 
 目で見える所に、手で触れる事が出来る場所に、私が愛した人はもういない。
 
 けれど、いつでも目を閉じればその笑顔が浮かんでくるように、耳を澄ませば私を呼ぶ声が聞こえるように、いつも傍にいてくれる。
 
 誰よりもなによりも私の近くに感じることができる。
 
「だって……いつも繋いでる……」
 
 私はもう一度、窓越しに自分の右手を高い空に向かってさし伸べた。
 青い空に向かって伸ばした。
 
 彼とした約束を、また永遠にするために。
 いつだって有効にするために。
 
 眩しい太陽に彼の笑顔が重なる。
 だから私も懸命に笑顔を返した。
 ――彼が私に教えてくれた、とびっきりの笑顔を。
 
(海君……大好きだよ!)
 
 ――変わらない想いと共に。