どうしようもなく気分が悪かった。
横になってジッとしているだけなのに、世界がグルグル廻っているように感じる。
私の周りには人の気配があって、何かを話しているようなのに、それが誰なのか、なんの話をしているのかもわからない。
(ここはどこだろう……私、どうしたんだっけ……?)
考えようとすることさえなんだかだるくて、今はできそうにない。
どこからか吹いてくる心地いい風だけを頬に感じて、そのままもう一度眠りに落ちていこうかと思った。
その時――。
「真実……目が覚めたのかい?」
思いがけない声が聞こえた。
それで一気に、意識が現実へと引き戻された。
母の声だった。
そう思って重たい瞼をなんとか持ち上げてみると、確かに母の顔が私を見下ろしていた。
見覚えのない天井。
シンプルな機能重視のカーテンに、むき出しのままの飾りっけのない蛍光灯。
(病院……かな……?)
頭をめぐらした時、ちょうど母の横に白衣を来た医者らしい人が顔を出して、私の予想が当たりだったことがわかる。
その医者らしい人に、優しい声音で、
「この人が誰だかわかりますか?」
母のことを指されるから、私はゆっくりと頷いた。
「はい、母です……」
喉のところに違和感があるのは以前と同じだったけれど、あの時よりは楽に声を出すことができた。
首に巻かれた包帯にそっと手を触れながら体を起こそうとすると、左の足首に鋭い痛みが走る。
「痛っ!」
うめいた私に、白衣を着た先生は小さく笑った。
「擦り傷、打ち身はいたるところにあるとはいえ、とりあえず怪我と言えるのはその足首の捻挫くらいかな……? 車に当たったわけじゃなかったんだね……」
頭の中に、幸哉の車が自分に向かってきたあの時の光景が甦って、どきりとしながらも、私はしっかりと頷いた。
「はい……」
先生も頷き返してくれて、母へと向き直る。
「怪我のほうはしばらく安静にしていれば大丈夫でしょう。あとは……」
何かを言いかけて、じっと見ている私の視線を気にしたかのように、そこで言葉を区切る。
母もなんだか不自然に、
「わかりました。ありがとうございました」
頭を下げて、先生を部屋から送り出した。
何かを隠されているような、そんな雰囲気に少し不安を感じた。
私の枕元へやって来て、そこにあったパイプ椅子を引き寄せ、母は腰かける。
「まったくもう! びっくりさせないでちょうだい!」
笑いながら言った顔は、いつもどおりだった。
「愛梨ちゃんから電話がかかってきて、あんたが車に跳ねられたっていうから、取るものもとりあえず飛んできたんだよ……?」
額に浮かんだ汗を拭きながら、非難をこめて言われた言葉に、私は小さく笑った。
「ごめん……」
母はそんな私を見下ろしながら、ぼやく。
「たいしたことなかったからよかったけど……そう思ったらなんだか新幹線代が惜しくなってきて……」
本当に残念そうにそんな事を言うから、思わず笑い出さずにはいられなかった。
「もう……お母さんたら……!」
いつもどおりの母の言葉が嬉しくもあり、おかしくもあった。
けれど、ふと私の目を見ながら、
「運転してたのは、岩瀬君だったんだろ?」
問いかけられた言葉に息が詰まった。
母は、私が幸哉とつきあっていたことを知っている。
まだ二人でいて楽しかった頃、「こんなことがあった」「あんなことがあった」と、いちいち報告していたのだから当たり前だ。
いつの間にかそんな話もすることがなくなって、私たちの関係がどうなってしまったのか、母は知る由もなかっただろうけど、今回のことで多かれ少なかれわかっただろう。
「向こうの両親が来られてねえ……何度も謝っていかれたんだけど、正直、私にはわけがわからなくて……警察の人の話もねえ……私には初耳のことばっかりで……愛梨ちゃんに説明してもらうまでは、何がなんだかだったよ……」
ため息を吐きながら母が漏らした言葉に、私は申し訳なくて、胸に掛けられていた掛け布団を、そっと鼻の上まで引き上げた。
「ごめんなさい……」
「別に謝らなくていいよ。だいたいの事情は愛梨ちゃんたちから聞いた……あんたは初めのうちあの子たちにも相談できずに、一人でずっとがんばってたんだって、そう教えてくれた……」
「うん……」
正確には、一人じゃなくなったからこそ戦う勇気が出たのだったが、それを敢えて今、口にする必要はないと思った。
海君に出会うまで、一人で長いこと苦しんでいたのは事実だったから――。
「言ってくれればよかったのに……」
愛梨や貴子や花菜と同じような顔をして、母もやっぱり私のことを少し咎めるように見つめる。
(言ってくれれば、私はいつだってあんたの味方だったのに)
言葉にしてもらわなくても伝わってくるその思いが、私を泣きそうな気分にさせる。
泣きたいくらい嬉しくさせる。
「真実は本当に、馬鹿だねえ……」
愛情一杯の悪口が、今は心地良かった。
「いつだって一人で我慢できるまで我慢して……馬鹿な子だねえ……」
優しい目をちょっと涙で光らせながら、私の頭を撫でてくれる母の顔を見上げていると、自然と涙が零れた。
小さな子供の頃のように、涙が零れて、止まらなかった。
「今日はとりあえず様子見で、一日入院することになったよ。明日は帰れる予定だけどね……!」
私の部屋から着替えを持って来てくれた貴子に、母は豪快に笑いながらそう告げた。
貴子もこわばっていた表情を和らげて、ホッと息をついた。
「貴子ちゃんにはいつも、いろいろとお世話になってるんだろ? この子ったら、いつの間にか、部屋まで変わってるし……」
非難がましく私を見る母の視線に、ベッドの上で上半身だけ起こして座っていた私は、身を竦めるように小さくなる。
貴子は母の勢いにちょっと怯みながらも、言葉少なに答え、すぐさま俯いた。
「い、いいえ。とんでもない! そもそも引越しを勧めたのは私だし……」
そんな貴子の様子が面白くてたまらないらしく、一緒に来た愛梨は笑いっぱなしだ。
「大丈夫! 貴子は真実のことが大好きなんですよ! だから迷惑どころか、嬉しくってたまらないんです……!」
からかうような調子をこめて、余計な説明をつけたしてやっている。
愛梨はこれまでに何度も会ったことがあるから、豪快な私の母に慣れているだろうが、初対面の貴子は、母のパワーにかなり圧倒されているようで、私を見つめる視線が、
(本当に真実のお母さんなのか?)
と私を問い詰めてくる。
老若男女問わず、オールマイティーに受けがいい花菜が、
「愛梨ちゃん」
と軽く愛梨を諌めて、見事なまでの笑顔で母に向き直った。
「それじゃあ私たち、今日はもう帰ります。真実ちゃんの部屋のほうを片づけておきますね」
母は極々上機嫌で、笑った。
「本当にありがとうね。これからも真実と仲良くしてあげてね」
それぞれに手を振りながら帰っていく三人を見送りながら、
「まあ……これだけ良い友だちに囲まれてたんだったら、あんたもそんなに辛くはなかったのかもしれないね……安心したよ」
呟いた母の言葉が、心に染みた。
怪我をしたのがさすがに昨日の今日だから、左足首は動かせないくらいに腫れているけれども、それ以外はいたって元気だった。
私は母を相手にいろんな話をして盛り上がる余裕があった。
けれど――。
「夕食の時間ですよー」
看護師士さんが運んできてくれた美味しそうな食事には、まったく食欲がわかなかった。
いや、食欲がないというよりも、気分が悪くなったといったほうがより近い。
「うーん……食べたくないや……」
そう言って、トレーごと夕食を押しやった私に、母は何かを言いかけた。
けれど――
「お母さん食べていいよ。ほら、これなんか好きなんじゃない?」
笑いながら言った私に、つられたように笑って、言葉は飲みこんでしまう。
正直言うと、笑うのも苦しいくらい私は気分が悪かったが、
(ひょっとしたら頭をぶつけて、どこか悪いところでもあるんじゃ……?)
そんな話が出てくることが怖くて、せいいっぱい無理をして笑った。
でも現実は、私が思っていたよりももっと思いがけなく、厳しいものだった。
それをとっくにわかっていた母は、それでも私に騙されたフリをして笑ってくれていた。
何も知らずに、私が笑っていられたのは母の愛情のおかげ。
何よりも大きい、私を包みこむような愛のおかげだった。
次の日の朝。
ひととおりの検査を受けて特に異常はないということで、私は自分の部屋に帰れることになった。
けれど、検査のために立ち上がるたびに、思わず吐き気がするぐらいどうにも気分が悪かった。
病院で出された朝食も昼食も手をつけることができなくて、母に食べてもらう。
その状態は担当の先生にも伝えられているはずだし、こういう時はあきらかに頭を打っていることを懸念するんだろうけれど、
「検査の結果どこにも異常なし」
とばかり告げられるのが、私は不思議でならなかった。
退院の許可をくれた先生に、私は勇気を持って口を開く。
「でも……」
言いかけた言葉は、母と思わせぶりに視線をかわしあった先生の様子に、途中で引っこんだ。
困ったように首を横に振る母に頷いて、先生は私に向き直る。
そこにはきっと、私に隠されている何かがあるんだと気づいていた。
「最近、熱っぽくなかった……?」
急に尋ねられて、一瞬とまどう。
どうだろう。
特に意識してはいなかったけれど――。
「そう言われれば……」
呟いた私に、先生は得心したように頷く。
「体がだるかったり、急に気分が落ちこんだりしなかった?」
先生はいったい何が言いたいんだろう。
ここ一ヶ月、これでもかというぐらいバイトをしていたから、だるかったことは確かだし、海君とあんな別れ方をしたんだから、思い出すたび、切なくなって落ちこんだのは確かだ。
虚ろに頷きながら考える。
(でも……それと気分が悪いのと、なんの関係があるの?)
そう思った時、ある考えに思い当たった。
思わず母の顔を見て、しっかりと頷き返され、それは確信へと変わる。
「私……!」
私が両手で口を覆った途端、先生も私の目を見てしっかりと頷いた。
「妊娠してます。産婦人科の先生に診てもらったところじゃ、三ヶ月目に入ったところかな……あんな目にあったのに、よく無事だったとしか言いようがないけど……」
頭の中が真っ白になった。
それ以降先生がどんな話をしてくれたのか、全然耳に入ってこなかった。
ただドキドキと高鳴る自分の心音が、まるで自分のものではないかのように、耳の奥にこだまする。
私の中に新しく芽生えた小さな命が、確かにそこに存在することを主張するかのように。
私の体中の血液が、音を立てて一点に集約されていくかのように。
その音は、波の音にも似ていた。
あの夜、海君と二人で砂浜でじっと耳を済まして聞いたさざなみの音に聞こえた。
そう思った瞬間。
――私の目から涙が零れ落ちた。
恐れ。
不安。
驚き。
いろんな感情が入り混じった中に、どれよりも強く彼に対する想いがあった。
(海君!)
――彼が愛しいという、一番大きな想いがあった。
何も言葉を交わさないままに、母と一緒に病院をあとにして、私はタクシーで自分の部屋へ帰った。
約束どおり、私の部屋を片づけて待っていてくれた愛梨たちが出迎えてくれ、そんな彼女たちに、母はいつもの豪快な調子で笑った。
「ほんっとに、ありがとうね!」
まだ本調子ではないという理由で、私はベッドに寝かしつけられ、母は、
「真実がすっかりお世話になったから……」
と愛梨たちを連れて食事に出かけた。
食べ物の匂いで気分が悪くなる私を、気遣ってくれたが理由の一つ。
あとの一つは、「一人でゆっくりと考えてみなさい」と私に時間をくれたのだった。
母の大きな愛情に感謝して、私は布団に潜りこむ。
みんなが出て行く足音を聞きながら、また涙が零れた。
(きっとこういうのを、情緒不安定っていうんだろうな……)
苦笑まじりに見上げた視線の先には、誕生日に海君がくれた小さな花束があった。
花菜が、ドライフラワーになるようにと乾燥剤を入れて、吊るしてくれていた。
机の上に飾られているのは、海君の絵。
――大きな青い空と海と、小さな私たち。
その絵の中では私たちは永遠に一緒だ。
そう思うと少しだけ勇気が湧いた。
母は、「考えてみなさい」と言ってくれたが、私には最初っから考える余地などなかった。
その事実を聞かされた瞬間から、どうするのかの答えだったら、私の中で考えるまでもなく決まっている。
それがどんなにたいへんなことなのか。
私のこれからの人生を大きく左右することなのか。
苦言を呈す人はきっとこれからたくさん現われるだろうけれど、自分の答えはそれでも変わらないと思う。
(だって愛しい……海君が……彼がくれた命が……どんなにマイナスの要素を挙げ連ねてみたって、やっぱり私には嬉しいし、愛しい……)
零れる涙を指先で拭って、私は小さく笑った。
(お兄ちゃんは怒るだろうな……)
苦笑が漏れる。
(お父さんはどんな顔するかな……?)
いつも表情の変わらない父が、驚いた顔など想像がつかない。
きっといつもと同じ表情のまま、「そうか」と簡単な返事をするんだろう。
だけどその裏に隠されたいろんな思いを、私は忘れてはならない。
私がこれから出そうとしている結論は、幸せになって欲しいという願いをこめて私を育ててくれた両親にとっては、裏切りとも取れるかもしれないのだ。
(ごめんなさい……)
申し訳ないと思う気持ちがないわけじゃない。
だけど私の中では、他の答えは選びようがない。
――きっと両親が私の幸せを願うのと同じように。
(海君……ありがとう……)
彼がくれた私たちの絵を見上げながら、私は呟いた。
(また一つ、私に大切なプレゼントをくれて……ありがとう)
心から素直にそう思えた。
「やっぱりそうかい……」
愛梨たちと別れて部屋に帰ってきた母は、私が出した結論を聞くと、がっくりと肩を落としてそう呟いた。
(ごめんなさい……)
心の中では手をあわせて、それでも私は決してその言葉を口には出さなかった。
口に出すと、自分で自分が選んだ答えを否定してしまうことになるような気がしたから。
私が自分で出した答えを周りの人たちにも認めてもらうため。
そしてこれから先、自分と小さな命を、自分自身で守っていくために、私は堅い決意を表わすように、キッパリと言い切った。
「うん。私は産むから……そしてちゃんと一人で育てるから」
確かに口に出して、母に宣言した。
あとで取り消しなど効かないように。
弱音を吐いたりしないように。
「一人でって……父親は岩瀬君じゃ……?」
言いかけた母に、私は首を横に振る。
「ううん、違う。でも誰なのかは教えられない……ごめん。……それに、その人とこれから一緒に生きていくことも、絶対無理なの……だから一人。私一人……!」
秘密だらけのこの恋を否定されてしまわないように、一気に言い切った。
母はそんな私を苦笑交じりに見つめて、大きな大きなため息を吐く。
「はああ。なんで真実はこんなに強いんだろうねえ……」
「強い? 私が?」
あまりにも意外な言葉に、私は首を捻る。
「強いよ。いつもは優柔不断に誰かのあとをついてばかりだけど……ここぞという時には、もの凄く頑固で意志が強い。自分で決断した時には誰より強い!」
半ば呆れ気味に母が語ってくれた言葉は、思ってもいないものだった。
母は私の顔を見ながら、困りきったように笑う。
「そうじゃなきゃ、あんな坂道……途中で投げ出さないで、上りきることなんかできないだろ……? それも毎回毎回……!」
あまりにもわかりやすいその例に、私も思わず笑みが零れた。
「そうか……そうかもね……」
母は、最初から諦めていたかのようにくり返す。
「強情なんだよ、真実は……頑ななくらいに強い!」
その言葉は、母が私の気持ちをわかってくれたということだし、賛成とまではいかなくても認めてくれたということだった。
いや、ひょっとしたら認めざるえなかったということかもしれない。
その証拠のように、わざと私の顔を見ないで、窓の外の風景に目を向けて母は尋ねる。
「真実……もし反対されたら、いなくなるつもりだろ?」
それは私が考えてもみなかったことだったけれど、改めて自分の心に問いかけてみたら、答えは確かに母の推測どおりだった。
「そうだね……たぶんそうする……」
母はあからさまに、はあっと大きなため息を吐いた。
「そんなことにでもなったら……お父さん、倒れちゃうよ! いや。その前に隆志が怒り狂うか? きっと『母さんが認めなかったせいだ!』とかなんとか言って、私のせいにするんだよ……まったく、うちの男連中と来たら……揃いも揃って真実に甘い……!」
母が語った予想は、本当に目に浮かぶように想像できることだったので、思わず私も笑った。
「本当に……!」
母は窓に目を向けたまま、呟いた。
「だけど、今度こそ忘れないでほしい……私はいつだって真実の味方なんだから……どんな時だって、あんたのためにさし伸べる腕は、ここにあるんだから……!」
熱くなる目頭をごまかすように俯いて、私は
「うん」
と応えた。
母はそんな私にもう一度向き直って、俯いた頭をそっと撫でてくれた。
「あんたもよーく覚えておきな……それが『お母さん』ってものだよ……」
これから新米の『お母さん』になろうとしている私に、母がくれたアドバイスは、どんな励ましの言葉よりも嬉しかった。
数日間、私の身の回りで細々と世話をしてくれた母は、
「そろそろ私がいないと、家の中がめちゃくちゃになるからね!」
という理由で、早々に実家に帰っていった。
「見送りに行くよ」
という私の言葉は、
「あんたは今は体を大事にしてなさい!」
というセリフで却下される。
結局、なぜか愛梨と貴子と花菜に盛大に見送りされて、母は帰っていった。
母がいた数日間、私と話をしようにもなかなかチャンスがなかった三人は、母が帰った途端、グルリと私を取り囲んだ。
建て前上は「真実を看病しないといけないから」という理由。
でも実際には、私に問い質したくてたまらないことが、たまりにたまっていたのだろう。
「本当に! 本っ当に! 聞きたいことが山積みなんだからね!」
愛梨の叫びは、実にもっともだった。
あの日、幸哉がおそらく私を殺すつもりだったこと。
それを海君が助けてくれたこと。
話の流れから、海君の病気のことと、私たちがサヨナラした理由まで全てを、私は三人にうち明けた。
三人は、それぞれ真剣に話を聞いてくれたけれど、その反応は実にさまざまだった。
「少年のことは、そういう話なら納得がいった……命をかけて真実を守ったんだから上等だ! だけどいつまでもしつこい岩瀬のことは、警察がどうにかできないんだったら、私がどうにかしようか……?」
貴子は最大級の怒りを見せて、猛烈に幸哉を非難した。
「そうか……真実ちゃん辛かったね……海君とは本当にもう一緒にいれないの? どうしても駄目……? そんなの悲しすぎるよ……」
花菜はまるで自分のことのように、私たちの恋の結末に泣き出してしまった。
「真実……これからどうするの? 岩瀬はさすがにもう手出ししたりはできないと思うけど……ずっと海君のことを思って、一人で生きていくの? ……それが心配だよ」
眉根を寄せる愛梨に、今がチャンスだとばかり私は笑いかけた。
「うん。実は一人じゃないんだ……」
そっとお腹に両手を当てた私に、三人は揃いも揃ってあんぐりと口を開ける。
「ま、真実……? まさか……!」
「うん」
頷いた私に、三人が一斉に口を開いた。
「「「真実(ちゃん)がそう決めたんだったら、私は絶対に協力する!」」」
言葉は少しずつ違うながらも、異口同音に叫ばれて、思わず涙が浮かんだ。
嬉しかった。
非難されても、軽蔑されてもおかしくないことなのに、愛梨も花菜も貴子までもが、私が出した結論に温かく賛同してくれたことが嬉しかった。
「だって……前からずっと言ってるでしょ?」
まだ涙の浮かんだままの大きな瞳で、花菜がそれはそれは魅力的に笑う。
「私達はみんな、どんなに真実ちゃんが海君のことを好きか、ちゃんとわかってるって……」
何度も何度も言って貰ったその言葉は、やっぱり私にとってはこの上ない賛辞だった。
強く生きたいと願う私の、何よりもの元気の素だった。
「うん。私は海君が大好き!」
声高らかに宣言して、
「のろけてるんじゃないよ!」
なんて貴子に叱られるのが嬉しくてたまらなかった。
いつまでもいつまでもずっと、そんな自分でいたかった。
気持ちはかなり前向きだが、なかなか体調の悪さは直らなかった。
それは受話器の向こうの母の言葉を借りれば、
「つわりなんだから、当たり前!」
なのだが、長くバイトを休むことになってしまって、私は正直焦っていた。
生活のためと、社会勉強のため。
他にすることもなかったからと、これまでバイトに励んでいた理由はたくさんあるが、実は一番大きなものは、一人でいるとろくでもないことばかり考えてしまうから、という理由だった。
長く私の心を捉えていた
「もう一度海君に会いたい」
という思いは、彼が思いがけなく姿を現わしてくれたことで解消された。
けれど、それと入れ替わるようにして芽生えた、
「海君どうしただろう? 大丈夫だったんだろうか?」
という不安な思いが、私の心からなかなか消えてくれない。
一人ですることもなく、布団に横になっていると、しなくてもいい想像ばかりが頭の中で大きくなっていく。
海君に再会できた喜びと、その容態を心配する気持ちと、同時に抱いてしまった複雑な想い。
(やっぱり傍には……ひとみちゃんがいるのかな……?)
いくら忘れようとしても、そう思わずにはいられないからやるせなくなる。
私に向けられた彼女のキツイ視線と、海君を見つめていた切ないくらいの目。
その意味が、私にはわかり過ぎるくらいにわかってしまうから、どうしようもなく苦しくなる。
(私には何もできない……だけど彼女は海君の一番近くにいて、彼を助けてあげられる……)
それじゃあ私は、海君にとっていったい何なんだろうと、何もかもに背を向けてしまいたくなる。
投げ出してしまいたくなる。
だけど――。
「真実さんと約束したから」
という思いで海君ががんばっているんだとしたら、私は胸を張って待っていなければ。
「真実さんにまた会いに行くから」
その言葉を一分の隙もなく信じて、待っていなければ。
たとえその約束の時が、今度こそ二人の永遠の別れになったとしても。
それでもう本当に、海君に会えなくなるとしても――。
苦しいくらいの決意を胸に、私は待った。
彼を信じて待ち続けた。
よくテレビドラマなんかだと、妊娠するとご飯の匂いがするだけで気持ち悪くなったりする。
洗面所に走っていって、突然戻して、それで妊娠発覚なんてシーンもよく目にする。
正直言って、私もそういうのを想像していたけれど、現実はまったく違っていた。
私は別に、ご飯の匂いだけで気持ちが悪くなったりはしない。
そう母に話したら、
「そうかい? 私は辛かったけど……?」
と言われたので、個人差があるのかもしれない。
とりあえず私には「この匂いが駄目」という決定的なものはなかった。
我慢できずに戻してしまうということもほとんどない。
気持ちが悪いという感覚だったら、それはもう、朝、目が覚めた時から、夜眠りにつくまでひっきりなしに気持ち悪いのだけれど、だからといって、特に戻すということはなかった。
気持ち悪さのあまり、ほとんど食事ができていなかったのだから、戻すようなものも胃の中にはないのだけれど――。
母にそう言ったら、
「お腹の子供のためにも、無理してでも食べなさい!」
と叱られた。
けれど、病院の先生によると、
「まだ本当に小さくって、栄養状態なんてそんなに関係ないから、無理して食べることはない」
ということらしい。
それよりも最近は、
「食べ過ぎて太りすぎないことが一番大切」
らしいのだ。
母にその話をしたら、
「時代は変わったものだわ……」
としみじみと感心された。
その反応に電話のあちら側とこちら側で、同時に大笑いする。
思っていた以上に、自分が今置かれている状況を楽しめている自分が意外だった。
母から私の妊娠を聞かされた父は、
「そうか。真実が自分で決めたようにすればいい」
と母が想像していたより冷静だったらしい。
あまりにも落ち着いた様子だったから、
「真実……あんたお父さんにだけ先に話をしてたんじゃないの?」
と、私が母に疑われたほどだった。
他ならぬ私自身がつい最近知ったばかりなのに、そんなことはありえないのだけれど、家に帰った時に二人でお墓参りをして、その時かわした会話の中から、父なりに何か感じてくれたものがあったのかもしれない。
それに対して兄のほうは、
「相手の男を連れてこい! 俺がぶん殴ってやる!」
とそれはそれは凄い剣幕だったらしい。
「真実……今度帰ってきた時は、隆志にこってりと絞られるわよ。覚悟してなさい」
ため息混じりの母の助言に、私はまた笑みが零れた。
横になってじっとしているよりも体を動かしているほうが気分がいい、ということを発見してからは、私はバイトにも行くようになった。
以前のように重い物を持ったり、長時間立ちっぱなしというのは、事情を話して免除してもらったけれど、それ以外のことは、驚くほど今までどおりにこなすことができた。
「本当に大丈夫なのか?」
バイト先まで一緒に歩いて送ってくれる貴子は、心配して尋ねる。
「うん……だって、土手を転げ落ちても大丈夫だったんだよ? 私に似てたいした生命力だよね……」
笑いながら答えると、
「確かに」
と一緒に笑ってくれた。
気持ち的にも、見た目的にも、今はまだ何の変化もない。
下手すると自分自身でも、うっかりそのことを忘れてしまいそうになる。
けれど海君に貰った小さな命は、私の中で確実に少しずつ、少しずつ大きく育っていた。
それを海君に知らせて、それでどうこうなんてことは考えてもいなかったけれど、できるなら教えてあげることだけはできたらいいなと思っていた。
(だって……きっと喜んでくれるんじゃないかな?)
私には確信がある。
(とってもびっくりするだろうけどね……)
いつもいつも私を驚かせてばかりだった彼の驚いた顔が目に浮かんだ。
それだけで、私自身が自然と笑顔になれる。
けれどあれっきり、まだ海君は私の前に現われない。
日づけだけが飛ぶように過ぎていく毎日の中、不安な心がじわじわと私の中で広がりつつある。
(ひょっとして……? もしかしたら……?)
最悪の想像が、頭をかすめずにはいられない。
それを打ち消すかのように、首を何度も横に振りながら、
(私が信じて待っていなくてどうするの!)
私は自分を叱咤して、何度も何度も心に言い聞かせた。
迷ったらいけない。
彼の強さを疑ったらいけない。
ほんの小さな疑惑でも、それはきっとどんどん大きくなって私の心を覆い尽くしてしまうから。
その恐ろしさ、怖さを私は嫌と言うほど、知っているから。
希望だけを集めて、楽しいことだけを想像して。
そうじゃないと、私の中の小さな命にだって、私のお腹の中がいい環境だとは、とても言えない。
いつの間にかすっかり澄んで、高くなった空が頭上には広がっていた。
もうじき、大学の後期の授業も始まる。
(今年のうちにがんばれるだけがんばって、単位を取っておかないと……!)
来年の今頃は、きっとそれどころではないだろう。
どんなふうに生活しているのか。
今はまだ想像もつかないけれど――。
(一人じゃない)
そう思えることはなんて楽しくて、くすぐったいくらいに嬉しいことなんだろう。
本当は一人より二人。
二人より三人がいいに決まっているのだけれど。
(傍にいてくれなくてもいい……! この同じ世界に生きていてさえくれればいい……!)
海君のことはもうそんなふうにしか想えない。
いつだってそれが、私にとって一番最小限な、だけど一番大切な願いだから。
いろんな驚きと喜びで彩られ、静かな願いを祈るようにくり返す――そんな私の誕生月は、もうすぐ終わろうとしていた。
月が変わり、大学では後期の授業が始まった。
前期から引き続きの講義に、新しい講義が加わり、そのうえ一年半後の卒業に向けた、より専門的なゼミも始まる。
自分で組む一週間の日程の中に、私は学年一の才媛である貴子も舌を巻くくらいの授業数を組みこんだ。
「ほんとに大丈夫なの?」
愛梨にも花菜にも念を押されたけれど、時間的・体力的な面からいうと大丈夫だ。
バイトは少し減らしてもらったし、今のところ、座って授業を聞いているだけなら辛いこともない。
それに、今期でがんばっておかないと来年はどうなるかわからないという思いも強い。
しかし学力的な面で大丈夫かと聞かれると、それはもう
「努力します……」
としか言いようがなかった。
それももちろん、貴子の助力あっての話だ。
「私に頼るな」
どんなに冷たい言葉を放っても、結局貴子は最後には私の面倒を見てくれる。
それに甘えてばかりではいけないとわかっているが、こればっかりはしょうがない。
「よろしくお願いします」
冗談まじりに頭を下げると、貴子はふうっと息を吐きながらも頷いてくれる。
「まあ……今やるしかないか……」
本当に私の周りにいる人たちは、私に優しい。
その優しさに対する感謝だけは、決して忘れてはならないと思う。
「ありがとう」
並んで歩きながら、貴子に最大の感謝をこめて頭を下げた時、大学の門の向こう、海君がいつも私を待ってそっと佇んでいたあたりに、思いがけない人物の姿を見た。
ハッキリした顔立ちの、意志の強そうな目をした綺麗な女の子。
白いラインが襟に二本入ったセーラー服を着て、黒い真っ直ぐな腰まである長い髪を、風になびかせている。
(ひとみちゃん!)
その瞬間、私の心は縮み上がって、みっともないくらいにドキドキと心臓が鳴り始めた。
とても待っていたけれど、内心来てほしくないとも思っていたその時が、ついに来たと思った。
(大丈夫……大丈夫だよ……)
懸命に自分自身に言い聞かせながら、大きく深呼吸をして、なんでもない顔を心がけながら彼女に声をかける。
「ひとみちゃん……だよね……?」
本当は確認するまでもなく、胸に深く刻みこまれているその名前を形ばかり尋ねる。
まちがいなく私のことを嫌っているであろう彼女は、ニコリともせずにただ頷いた。
(なんの用かな……? どうして彼女が来たの……?)
口に出して尋ねることはできなかった。
胸を過ぎる不安と必死に戦いながら、私はひとみちゃんが口を開いてくれるのを、じっと待つ。
「連れてくるように言われたから……」
永遠とも思える沈黙のあと。
彼女は少しかすれた声でそう告げた。
まるで何か不吉なことを暗示しているかのように、真っ赤に充血した彼女の瞳から目が離せない。
「……海君が?」
わかりきっていることを確認したら、少しムッとしたように頷き返された。
私が彼のことを呼ぶ名前は、彼の本当の名前ではない。
そんなことは百も承知で、出会ってからずっとそれで通してきたけれど、あからさまに嫌な顔をされると、自分がとても悪いことをしているように感じて困ってしまう。
重苦しい雰囲気の中、これ以上途切れ途切れの会話を続けていることが苦しくて、私は急いで問いかけた。
「どこに行ったらいいの?」
ひとみちゃんは、ますますムッとしたような顔で私を見てから、クルリと背を向けた。
「送るから一緒に来て……」
貴子が私の肩から、テキスト類が入った大きなバッグを取る。
「行ってこい。真実……」
優しく背中を押してくれたので、私は慌ててひとみちゃんのうしろ姿を追いかけた。
貴子に何か言おうかと口を開きかけたけれど、言葉が出てこなかった。
(ひょっとしたらこれが、海君との本当のサヨナラになるかもしれない……)
そう思うだけで、胸が締めつけられるように痛い。
涙が浮かんできそうになる。
そんな私を、背後から、
「真実! 泣くな、笑え!」
貴子の真剣な声が追いかけてきた。
(そうだ!……笑顔!)
他ならぬ海君が私に思い出させてくれた笑顔を、こんな時こそ彼に返さなければ。
(いつだって私は笑っていられる。あなたのおかげで……)
その証明のように、今こそ笑わなければ。
忘れそうになっていた大切なことを思い出させてくれた貴子を、私はふり返った。
「いってきます」
せいいっぱいの笑顔で笑った私に、負けないくらいの笑顔で貴子が手を振った。
だから私は、最大の勇気を発揮することができた。
「乗って」
短い言葉で指示された車の後部座席に乗りこんで、私はひとみちゃんと並んで座った。
話す言葉なんかまるで思いつかない。
私を拒絶するように、背中を向け気味に座った彼女の肩が、小刻みに震えているから――どうしようもなく胸が苦しくなる。
笑顔で海君に会おうと――たった今貴子のおかげでそう決意した心が、不安でいっぱいになってしまう。
(どこに行くの? ……海君の体調はいったいどうなんだろう……?)
訊きたいことはたくさんあるのに、彼女の様子があまりに痛々しくて、つられるように私の心も不安になって、尋ねることもできない。
押し黙ったまま俯いていると、うしろ姿のまま、ひとみちゃんがポツリと呟いた。
「あなたと会ってから彼は変わった……」
ドキリと跳ねた胸を懸命に落ち着かせながら顔を上げる。
ひとみちゃんは私に向き直ろうとはしなかったが、ポツリポツリと続けて言葉を紡ぎ始めた。
「どこかに出歩くことなんて全然興味なかったはずなのに、いろんな場所に出かけるようになった……たくさん笑うようになった……ずっと描いてなかった絵をまた描くようになった……」
彼というのは、もちろん海君のことだ。
私が決して知ることができなかった、彼が本来いる場所での彼の話を、私は初めて耳にする。
「みんな感謝してるって言ってる……もうだめだってお医者さまにも言われた状態から、あんなに幸せそうな彼を見れたのは、きっとあなたのおかげだって……」
胸が詰まる。
そんなふうに言ってもらえるどれだけのことを、私が海君のためにできたというのだろう。
実際はいつも助けてもらってばかりで、嬉しい気持ち、幸せな気持ちを与えてもらってばかりで、私が彼にしてあげられたことなんて何もない。
――本当に何もない。
静かに首を横に振る私の様子は、うしろ向きのひとみちゃんには見えていないはずなのに、私の心の一番深いところが見えているかのように、彼女は呟く。
「だけど私は許さない……! あなたのせいなんだから……どうしたって、あんな無茶をしたのはあなたのせいだから……!」
心に突き刺さるように響いたその言葉は、誰よりも私自身がそう感じていたことだった。
(私のせいで無理をさせた! 私がいなければ、海君はあんな無茶をすることはなかった!)
この一ヶ月の間。
寝ても覚めてもその思いは私の頭から消えなかった。
どうしたらいいんだろう。
これでもし、海君にもしものことがあったりしたら、私はいったいどうすればいいのだろう。
海君の周りの人たちに対して。
彼自身に対して。
そして何よりも彼が大切だと感じていた自分自身に対して。
――いったいどうしたらいいんだろうといつも考えていた。
許してなどほしくない。
感謝なんてしてほしくない。
私の罪をちゃんと糾弾してほしい。
逃げも隠れもできないように、私の罪をキチンと責めてほしい。
――私の心の奥底にあった望みに、私を一番嫌っているであろうひとみちゃんが応えてくれた。
「ごめんなさい……」
本当は誰かにずっと伝えたかった言葉が、涙と一緒に零れ落ちた。
「許さない」
私と同じように、涙声で答えてくれる彼女の否定の言葉が嬉しかった。
「ごめんなさい……」
何度謝っても、どうか私を許さないでほしかった。
自分で自分に課すことのできない罰を、この上なくひどい言葉で与えてほしかった。
これから一生忘れないように、私の心に刻みつけてほしい。
そんな自分勝手な願いを、決してふり向くことのない彼女の頑なな背中に、私はかけていた。
――これ以上なくわがままに。
車が着いた場所は、どこかで予想していたとおり海だった。
私と海君が初めて一緒に行ったあの海だった。
車から降りて、睨むように私の顔を見つめるひとみちゃんの視線に促されて、私も砂浜へと視線を移す。
こちらに背を向けて、波打ち際に座るその人の姿を見つけた。
眩しい太陽の光を反射して、淡い色に輝く少しクセがかった髪。
伸ばしたまま投げだされた長い足。
袖を捲り上げたTシャツの上にはおった長袖のシャツは、肩の上に乗っているだけで、袖は通されていない。
だから彼の白い腕が、体重を支えて体の少し後方につかれている様子がよくわかる。
放り投げられたように、近くに転がった赤いキャップ。
風に洗われる髪が、躍るように揺れている。
バタンという車のドアが閉まる音に、ゆっくりとふり向いて、笑ってくれたことが遠目にもわかった。
「真実さん!」
あの、私が何度も何度も恋せずにいられない、最初の夜の笑顔が、私の名前を呼んだ。
嗚咽をこらえたような声を出して、私の横で俯いたひとみちゃんに深く頭を下げてから、私は駆けだした。
私に向かって両手を広げてくれているような、一番大好きな笑顔に向かって、全速力で駆けた。
――いつだって『待った』なんてかけられなかった心、そのままに。
「ねえ真実さん……『天使の梯子』って知ってる?」
駆け寄った私を、まるで当たり前のように腕の中に抱きこんで、海君は突然そんな質問をする。
いつもよりずっと小さな途切れ途切れの声に胸が痛んだけれど、そんなことはおくびにも出さずに私は笑った。
「突然、何? 『天使の梯子』……? ううん、知らないよ……?」
海君はそんな私に負けないくらいの笑顔で、海の上の空を指差す。
「そっか。あれだよ。あれ!」
彼の指した先には、厚く何層もの雲に隠れた太陽があった。
いや、あるはずだった。
太陽の姿は目には見えない。
雲の隙間から薄く見える光だけがそこに太陽があるらしいということを教えてくれている。
雲のすき間から何本もの光の筋が海に向かって伸びている様子は、確かに『梯子』と言えなくもなかった。
濃く薄く。
じっと見ている間にも、細かに動きながら形を変えていくその光の筋は、ゆらゆらと海の上を漂い、なんだか神秘的なほどに綺麗だった。
「そっか……綺麗だね……」
呟いた私に、海君がまた笑った。
「うん。あれはね、俺のための梯子なんだ……俺が空の上に行くための梯子……」
突然胸を衝かれて、私は否定の言葉も肯定の言葉も出てこなかった。
ただ黙って彼の顔を見つめた。
「なんだか、かっこいいでしょ?」
悪戯っぽく輝いた海君の瞳は、とても私をからかっているようには見えなかった。
心から彼がそう思っているように見えた。
だから、震える手をギュッと握りこぶしに変えて、私は、
「うん、かっこいい」
と笑った。
ホッとしたように海君も、もう一度笑う。
「真実さんが笑ってると俺はそれだけで嬉しい……だから笑っててね」
私から目を逸らして、空を仰ぐようにして、海君はゆっくりとゆっくりと話すから、私も同じように空を見上げる。
「俺がいなくなっても……笑っててね」
胸が軋んだ。
まるでそれがわかったかのように、ちょっと視線を私に向けて、表情をうかがうようにしながら、海君は念を押す。
「笑っててね。お願い。わかった?」
涙が零れそうになったから、私はもっともっと顔を上に向けて、自分の真上の空を見上げた。
「うん。わかった」
瞬間、涙が一筋零れ落ちたのぐらいは大目に見て欲しい。
もう泣かないから。
きっといつでも笑ってみせるから。
「……ひとみちゃんと何か話した?」
突然の胸をえぐられるような質問に、ちょっと苦笑する。
「うん……私を許さないって……」
ありのままに答えた私に、海君は声に出して笑い出す。
「ハハハッ、らしいや!」
それからすぐに、私を抱きしめる腕に力をこめた。
「俺のせいでゴメンね……」
私が自分で思っていたのと同じ言葉が彼の口から出てきたから、私はちょっと慌てる。
「どうして海君のせいなの! 私のせいで……!」
言いかけた言葉は唇で塞がれてしまうから、その後に続く言葉は心の中だけで叫んだ。
(私のせいで海君が無茶したんじゃないの!)
海君はゆっくりと唇を離すと、ごく至近距離から私の目を真っ直ぐに見つめる。
「なんのために自分は生まれてきたんだろうって考えたら……やっぱり誰かと出会うためにって、思いたいじゃない?」
私の頬を両手で包みこむようにして、一言一言ゆっくりと、私の心に焼きつけるかのように、海君は囁く。
「真実さんを守るために俺は生まれてきたんだって……やっぱり胸を張って言いたいじゃない? ……だから俺は全部を投げ出したんだ……本当に大切な物以外、俺が自分で放棄した……それはやっぱり俺の自分勝手だから……だからゴメン」
顔を少し斜めにして、私に返事もさせず口づけた海君は、そのまま私を抱きしめた。
「真実さんの気持ちも、これから一人にしてしまうことも、何もかも俺は無視した……だからゴメン」
耳元でくり返された言葉に、私はそっと首を横に振った。
「一人じゃないから……」
そしていつもそうしていたように、右手の指を彼の左手に絡める。
「うん、そうだね。これからもずっと、いつも繋いでるんだったよね……」
本当に嬉しそうに海君が屈託なく笑うから、私は繋いだその手をそっと自分のお腹に当てた。
「二人でもないんだよ……?」
瞬間、訝しげに曇った海君の瞳が、次の瞬間、即座に驚きの色に輝いた。
私の伝えたかったことにすぐに気がついてくれて、本当に驚きのあまり、笑うと大きくなるその口が、無防備にポカンと開いた。
「……驚いた?」
予定どおりに彼を驚かすことができて、思わず飛びっきりの笑顔になってしまう。
「うん! ……うん!」
首を縦に振るばかりでまだ何も言葉が出てこない海君が、これからの私の心配だとか、周りの反応とかを気にし出す前に、私は一気に言い切った。
「私も自分のわがままでもう決めたことだから! ……海君の意見なんかなんにも聞かないで、もう決めちゃってるから! ……だからゴメンね」
決して長くはないであろう二人きりの時間が、無駄な言いあいで短くなってしまったりしないように、急いで先に宣言した。
「私から海君へのサプライズでした。……どう? びっくりしたでしょ?」
ちょっと茶化すようにこの話を締め括ろうとした私を、ふいに海君がもの凄い力でかき抱いた。
私の肩に額を押しつけるようにして、小さく呟く。
「ありがとう、真実さん」
あまりにも真剣な声に、喉が詰まる。
もう決して泣かないでいようと思っていたのに、自然と涙が溢れ出す。
「俺なんかの命を……繋いでくれてありがとう……!」
それは私が今まで貰ったどんな感謝の言葉よりも、胸に痛くて誇らしい、最高の言葉だった。
海で会ったあの日が、本当に私たちの最後のサヨナラの日になった。
確認したわけでも、誰かが知らせてくれたわけでもないけれど、私にはなんとなくそのことがわかった。
どんなに離れていても私を包みこむように守ってくれていた海君の気配が、近くに感じられなくなったから。
だからもうきっと、彼はこの世界のどこにもいないんだと思う。
――胸が張り裂けそうな思いで、私はそれを事実として認めた。
真剣な顔で貴子にその話をしたら、
「真実って、そっち系の人だったのか?」
と疑いの眼を向けられた。
特別に霊的なこととか超常現象とかを信じているわけではない。
けれど本当にそうわかってしまったのだから仕方がない。
それだけ私にとって海君は特別な存在だった。
――そういうことなのだと思う。
でももう会えない。
今度こそ本当に、二度と会うことはできない。
愛梨にも花菜にも案外あっさりとそう伝えることができたわりには、私はかなりまいっていた。
せいいっぱい詰めこんだ大学の講義に頭と時間をフルに使って。
空いた時間はバイトにも行って。
掃除も洗濯も食事の準備も、できることは自分でなんでもやって。
「真実……本当に妊婦なの?」
愛梨に何度も確認されるくらい、元気にフル稼働して。
それでもふと何かの拍子に時間が空いたりすると、とてもまともではない自分の精神状態に気がつく。
(おいていくほうとおいていかれるほう……どちらがどれぐらい辛いんだろう……?)
夜、布団に入ってもなかなか眠れない時。
ふいに心に浮かんだそんな考えが恐ろしくて、なおさら眠れなくなる。
料理を作ることは全然苦ではないけれど、それを食べることがとてつもない苦痛だった。
「お腹の子供のためにもしっかりと食べないと……!」
時代錯誤な母が忠告をしてくれて、一緒に食べてくれる愛梨や貴子や花菜がいてくれるおかげで、私はかろうじて食べるという行為を機械的にくり返している。
でも何もかもが虚ろだ。
心は全然自分の中にないまま、ただ日々だけがすぎていく。
「真実がそんな調子じゃ、きっと海君は悲しむよ?」
愛梨の叱責は、確かにそのとおりだ。
私だって頭ではわかっている。
私のこんな状態を誰よりも彼が悲しむだろうということはわかっている。
だけどどうしようもない。
目を閉じることもできない夜と、喉を通らない食事は、自分でもどうしようもない。
笑うこともできなかった。
彼があんなに望んでくれた笑顔を作る術を、私はすっかり忘れてしまった。
「しっかりしな! 一人でもちゃんと産んで育ててみせるって、あんなにキッパリと宣言したのは真実だったろ?」
叱るように貴子に励まされて、私が今まで自分の強さだと思っていたものは、海君に大きく守ってもらっていたからこその強さだったんだと思い知らされた。
どこにいても、何をしてても、いつも安心していられた毎日。
どれだけ自分にとって、大切な存在を失ったんだろうと今になって悲しく思う。
辛いよりも、切ないよりも、今は悲しい。
どうしようもなく悲しい。
そう思い至って、私はようやく、今の自分に何が足りなかったのかに思い当たった。
(そういえば……泣いてない……?)
海君と本当にサヨナラして。
もう二度と会えなくなって。
だけどそれはあらかじめわかっていたことだからと、あんまり悲しむのは胎教にも良くないからと、私は泣かなかった。
特に我慢したわけでもなく、自然と涙が出なかった。
(これって……ちょっとまずいんじゃないかな……?)
背筋がヒヤリとする。
元々が人より涙腺の弱い人間なのに、これ以上ないくらいの悲しみを前にして、泣くことができない。
そんな自分の精神状態には、とうに赤信号が点っていたのだと気がついた。
(でも……どうしたらいいんだろう?)
今さら海君のことを思ってふさぎこんでみたって、それで元の自分に戻れるとは思えない。
だからと言って、彼がいない今、いったいどうしたらこれまでどおり生きていけるのかさえわからない。
とりあえずは、
(やれることをやってみよう……)
そう思った。
あの最後の日。
海君は確か私にこう言った。
「真実さん、本当の俺を探してくれる?」
そう言って悪戯っぽく笑っていた。
あまりの寂しさに、あまりの悲しみに、すっかり心の奥にしまいこんでいたその約束を、私は果たしてみることにした。
(うん……そうしてみよう!)
自然とそう思えた。
海君はいつだって、どうしようもない私のために先回り先回りでいろんなことを準備してくれていた。
ふとした瞬簡に、私の心をふっと軽くしてくれる術を、彼は確かに知っていた。
だからひょっとしたら、彼の最後の『お願い』は私が思っていた以上に意味があることなのかもしれない。
私はやっぱり今でも、海君を信じていた。
誰よりも何よりも、自分自身よりも信じていた。
愛梨と花菜と貴子にも協力してもらって、とりあえずはこの街にある高校の生徒たちから情報を集めることにした。
高校と一口に言っても公立から私立までかなりの数がある。
元々この街の出身でもない私たちには、その所在地を探すところから一苦労だ。
「なあ……そもそもあいつは高校生なのか? 全然そんなそぶりもなかったけれど、本当に高校に在籍していたのか?」
貴子の疑問はもっともだった。
「それに名前もわからないんじゃ……なんて尋ねたらいいのか、難しいよね……」
愛梨のため息も当然だ。
とにかくこういう感じの男の子でと、いちいち説明することに時間を取られて、なかなか多くの人に話を聞くのは難しい。
それにこのことばかりにかまけてもいられない。
本来の学業だって、手を抜くことはできないところに来ているのだ。
誰にとっても時間に余裕がない中、私は、
「一人で時間をかけてゆっくりと探すから……みんなはもう気にしないで……」
と三人の手伝いを断った。
季節はすでに秋から冬へと移り変わろうとしていた。
少しずつお腹も目立ってきた中、無理せずちょっとした運動代わりに歩くことは、今の私にはピッタリで、私は焦らずにゆっくりと海君の足跡を探すことにした。
自然とそう思えるようになれたことが嬉しかった。
あんなに神経を張り詰めて、このままじゃどうにかなってしまうんじゃないかと思っていた自分の毎日が、いつの間にか彼がいないことに、少しずつ慣れてきている。
それは胸が張り裂けそうなくらい悲しいことなのに、これから一人で生きていく上では、やっぱりどうしても必要なことなんだ。
――とうに納得している自分がいる。
海君のことはどこかで区切りをつけて、もう思い出として大切に抱えていくしかない。
私がこれからも前を向いて生きていくためには、きっとそうするしかない。
だからその『区切り』が欲しくて、私は探している。
私の記憶の中にしか存在しない『海君』という男の子が、確かにこの世界に存在していたという証拠が欲しくて、毎日少しずつ歩いている。
見上げた空は薄い色で、風も頬に刺さるように冷たかった。
自分自身というよりは、私の中の彼の分身を労わるように、そっとコートの前をあわす。
二人で過ごした眩しいくらいの季節はこんなに遠くなってしまった。
あの夏にはもう二度と戻れない。
そんなことを思っても、胸が痛いばかりでやっぱり涙は浮かんでこない。
だからきっと、嬉しいことがあっても笑顔にもなれないんだ。
こわばった表情の自分を、変えれるものが本当に存在するのだろうか。
――彼以外に本当に変えれるものがあるのだろうか。
苦しい思いを抱えながら、毎日少しずつ歩き続けた。
バイトが休みだった日曜日。
遅い学園祭がおこなわれている少し遠い高校にまで足を運んだ。
お祭り気分に浮かれている高校生たちと、そこに参加している近所の住人たち。
なんだかアットホームな温かい雰囲気に包まれて、私は本来の目的もそっちのけであちらこちらを見てまわった。
ベビーカーを押した若いお母さんが、小さな子供の手を引いて歩いているのが目に止まる。
「かっわいいー」
高校生の女の子たちに囲まれて、頭を撫でてもらって、小さな男の子はとっても嬉しそうだ。
ニッコリと花が咲くように笑って、それと同時に、風船の紐を握りしめていた大事な左手まで開いてしまった。
あっという間に空へと吸い込まれていく風船に、みるみる表情が崩れていく男の子が泣き出す前に、お母さんがそっと男の子を抱きしめた。
一言二言、何か声をかけられた男の子は、泣くことも忘れてコクコクと頷くと空っぽになってしまったその手をお母さんと繋いだ。
ニッコリと、本当に嬉しそうに笑ってお母さんの顔を見上げている。
立ち止まったままその光景を見ていた私は、隣を通り過ぎる母より少し年配の女性に声をかけられた。
「……大丈夫?」
心配そうに顔をのぞきこんで、見ず知らずの私にハンカチまでさし出してくれたから、そこで初めて私は、自分が泣いていることに気がついた。
その親切な女性に心配をかけないように、小さく笑い返す。
「大丈夫です」
いつの間にか涙が零れていたことも、自然と笑えたことも、私にとっては驚きだった。
近くのベンチに腰を下ろして、もううしろ姿が見えなくなったベビーカーの親子の行ってしまった方向を見ながら、コートのポケットから自分の右手を出して、空にかざした。
『ずっと繋いでることにしようか』
まるですぐ隣にいてくれるかのように、彼の声が耳元で響いた。
(そうだった……この手はいつだって海君と繋がっているんだったのに……!)
そう思った瞬間。
これまで音のなかった私の世界にさまざまな音が甦り、色のなかった世界が色とりどりに染め上げられていくのを感じた。
(いつも繋いでる……その約束が永遠だってことを、いったいいつから忘れてしまってたんだろう……?)
カラカラに乾いていた心に水が染みこむように、涙があとからあとから溢れ出た。
(いつも一緒だよ……だから私は笑える……! 悲しい時には思いっ切り泣ける……! いつだって一人じゃないもの……)
彼がずっと以前に私にかけてくれた魔法をもう一度有効にするために、心の中で何度も何度もくり返す。
その時、お腹の中の小さな命からポンと合図を貰った。
まるで、
(自分もここにいるよ)
――そう言ってくれたみたいに。
(いつだって一緒だよ)
――そう知らせてくれたみたいに。
だから嬉しくて嬉しくて涙が止まらなかった。
海君が『真実さんが笑ってると、それだけで俺は嬉しい』と言ってくれた笑顔のまま、涙が止まらなかった。
そんな私に奇跡が舞い降りる。
泣きながら見上げた近くの教室の壁に展示された絵の中に、私の良く知っている色を見つけた。
立ち上がって教室の中をのぞきこんでみると、いくつかの絵が展示されている美術室だった。
「どうぞ、ご覧になってください……」
私に気がついて声をかけてくれた女の子の制服が、襟に二本ラインの入ったセーラー服だったから、一瞬ドキリとする。
(そっか……ひとみちゃんの制服を手がかりに探すこともできたんだ……!)
今頃ようやくそのことに思い当たって、思わず苦笑する。
(ひょっとしたら海君は、最初からそのつもりだったのかも……)
だから私に、それほど難しい問題を出したつもりではなかったのかもしれない。
(貴子に言ったら怒られるだろうな……!)
「そんな重要な手がかりを持ってたくせに、忘れてただぁ?」
と呆れた顔が目に浮かぶ。
一人でそんなことを考えながら、笑っていた私に、その女の子がもう一度声をかけてきた。
「……あのう?」
困ったように首を傾げているから、私は慌てて頭を下げた。
「ごめんなさい。見せてもらいます……」
高鳴る胸を押さえながら部屋の中央に飾られたその大きな絵の前に立った。
岩に囲まれた小さな砂浜に、海に向かって座っている二つの人影。
白いワンピースの女の子と、Tシャツ姿の男の子。
二人が手を繋いで見つめているのは、いろんな色が混じりあった私の大好きな彼の瞳のようなあの海だ。
私が一番の宝物として部屋に大切に飾っているあの絵と、よく似たこの絵を描いた人が、海君じゃないはずはない。
「この絵を描いた人って……?」
こみ上げて来る涙を懸命にこらえながら、震える声で問いかけた私に、その女の子は少し眉を曇らせた。
「『一生君』……一年生の『ひとうみ』君です……夏休みまで美術部に在籍していました……だけど彼はもう……」
そこまで答えてくれて、なんて言っていいのかわからないというふうに口を噤んでしまったから、私はそんな彼女に微笑み返す。
「うん……知ってる……わかってるからゴメンなさい……」
心から微笑み返す。
自分の予想はやっぱり当たっていたんだと確認して。
それでも、こうして彼のいた場所までたどり着けたんだと安堵して。
「ひとうみ……『一生』何君?」
絵を見つめたまま尋ねる私に、違う方角から、返事があった。
「『かいり』よ。『一生海里』。だからあなたが呼んでいた名前もあながち外れじゃない……そう言っていつも笑ってたわ……」
聞き覚えのあるその声に驚いてふり返ると、心まで射抜くような目を私に向けて、彼女が立っていた。
「ひとみちゃん……」
驚く私に、思いがけないことにその目をちょっと優しくして、彼女は呟いた。
「本当にここまで来たんだ……」
その言葉に、彼女が半信半疑ながらもおそらくは海君のお願いで、私を待っていてくれたんだろうと知る。
「ずいぶん遅かったじゃない……」
内容的には容赦ないながらも、その口調には以前よりはずっと友好的なものを感じる。
私は少し嬉しくなった。
「ごめんなさい……私って本当に、何をやっても時間がかかるから……」
笑いながら言った言葉に、彼女も小さく笑ってくれた。
「だけど……『遅くなっても真実さんは絶対来るから、だから待っててくれ』って……海里はそう言ったわ……!」
じんと胸の奥が熱くなった。
「ありがとう……」
心からの感謝の言葉を告げながら、頭を下げた私と同時に、
「……ありがとう」
ひとみちゃんもまったく同じ言葉を返して来たから、私たちは思わず顔を見あわせた。
どちらからともなく、同時に苦笑する。
いつの間にか他の子は気を利かせていなくなってしまって、広い教室には私たちだけがたった二人で取り残されていた。
数ヶ月前は同じ痛みを抱えていても、決してわかりあえることなどあるはずがないと思っていた。
だけど同じ辛い別れを経験して、それでも自分は前を向いて生きていかなければならなくて、苦しくて、もがいて、やっとのことで大切なことを思い出した今、彼女はなんて私の心のすぐ近くにいるんだろう。
同じ人を同じ懐かしい気持ちで語りあえる存在は、なんて優しいんだろう。
心からそう思う。
願わくば彼女もまた、私のことをそんなふうに感じていて欲しい。
そうすればきっと私たちはもっともっといろんな話ができるはずだ。
同じ人を愛した。
きっと誰にも負けないくらいに想ったんだもの。
(海君はきっとわかってたね……だからひとみちゃんともう一度話をしてほしいと、私に願ったんだね……)
それはきっと私のために。
それと同時に彼女のために。
(やっぱり海君にはかなわない……! どんなにがんばったって、一生かかったって、かないっこないよ……!)
悔しいどころか誇らしげな気持ちでそう思った私に、
「はい」
ひとみちゃんは一冊のスケッチブックをさし出した。
「海里からあなたに……私だって中身は知らないわ……海里はこれだけは絶対に誰にも見せなかったの……」
そう言ってひとみちゃんは、壁に飾られた海君の絵を見つめた。
「私、あなたがうらやましかったわ……それに妬ましかった……海里はあなたのためにあんな無茶をしたんだもん……絶対に許すもんかと思った……許さないと思った!」
うんうんと頷きながら、私は彼女の横顔を静かに見つめる。
「でも海里がいなくなってから……思い出すのは楽しそうな顔ばっかり……あなたと出会って、どんどん活き活きとしていった顔ばっかり……! 私が小さな頃からよく知ってた海里じゃなくって、あなたのことを好きになった海里を私は好きだったんだって、……なんだか思い知らされた……!」
自嘲するように笑いながら話すひとみちゃんの言葉は、私の心に深く染みこんだ。
私自身だって胸の中に抱えていたどす黒い歪んだ感情。
誰にも言うことなんてできやしないとひた隠しにしていたあの思いを、吐き出してしまうならきっと今だ。
――ひとみちゃんの前でしか、吐露することはできないだろうと気がついた。
「私も……私もひとみちゃんがうらやましかった……私の知らない海君の本当の名前を呼んで、いつだって彼の傍にいれるひとみちゃんがうらやましかった……彼の力になれるあなたが、妬ましくてたまらなかった……」
そうしてまた、二人で顔を見あわせた。
「私たち二人って、呆れるくらいにまったく同じ気持ちを胸に抱えてたんだね……」
照れ臭い気持ちで笑いあった。
「きっと彼にはバレバレだったろうね……」
そこでため息を吐くところまで、まったく一緒になってしまったから、またもう一度笑った。
ひとみちゃんと別れてその学校をあとにし、自分の部屋のある方角へと向かうバスに乗りこんでから、私は海君のスケッチブックをそっと開いてみた。
『俺の最後のプレゼント』
海君がそう言ったくれたそのスケッチブックを、ドキドキしながらのぞきこんだ。
その瞬間、自分の顔がいっぱいに描かれていたから、慌てて閉じてしまう。
(海君!)
泣きそうな思いで閉じてしまう。
「愛情たっぷりに」という表現を、自分で自分に使うことを許してもらえるのなら、そこにはまさに愛情たっぷりに私の姿が描かれていた。
『真実さん笑って』
『いつも笑って』
励ますように、願うように、彼の言葉と一緒に、いろんな場所で私が彼に向けた笑顔が描かれているから、なおさら泣きたくなる。
(ありがとう、海君……)
紙面が涙で滲んでしまわないように気をつけながら、私は必死にページをめくった。
二人で一緒に行った動物園の風景がある。
手を繋いで歩いた川原の景色がある。
並んで見た夕焼けも、はしゃぎまわったあの海も、毎日通ったなんでもない道路さえ、たった今その場所にいるかのように鮮明に思い出される。
(海君!)
その時々に私が着ていた服さえ、こんなにハッキリと覚えていてくれたんだろうか。
恥ずかしいくらいに大きな口を開けて笑った顔も、ちょっと拗ねたような上目遣いの顔も、照れたように彼を見つめる想いに溢れた顔も、こんなに。
こんなに。
こんなに――。
彼の目に自分がどんなふうに映っていたのか。
再確認させられるその絵の数々は、あまりに胸に痛かった。
見ていると涙を溢れさせずにはいられない。
だけど――。
『真実さん、元気? 笑ってる?』
『忘れてない? 俺はいつだってすぐ傍で見てるよ』
『ほら、笑って笑って。真実さんが笑ってくれるだけで俺は嬉しいんだから!』
『大好きだよ。いつまでもずっと大好き!』
一枚一枚に記された小さなメッセージが、私を笑顔にしてくれる。
『負けるながんばれ! 俺がついてる!』
『寂しくなったら空を見上げて、俺はいつも見てるから』
きっと落ちこみそうになった時も、私を励ましてくれるはずだ。
海君からの『最後のプレゼント』を、私は胸にぎゅっと抱きしめた。
(きっともう二度と笑顔は忘れない……だってこれがあればそれだけで、私は笑顔になれるもの……)
感謝するように愛しむように、スケッチブックの固い表紙に私は頬を寄せた。
その時また、お腹の中の彼の分身から、
(自分もここにいるよ)
とばかりにポンと合図をもらう。
私はその声に応えるように、そっと自分のお腹に手を添えた。
(うんそうだね……ありがとう)
その気持ちをこめて、服の上からその愛しい存在をそっと撫でた。
冬が来て、春が来て、芽吹いた新緑に早くも夏の訪れを感じる頃。
私は無事に男の子を出産した。
海君にそっくりな柔らかな髪をした綺麗な瞳のその子を、私は彼を呼んでいた名前そのままに『海』と名づけた。
「なんて芸のない……」
貴子はわざわざ頭を抱えてしゃがんでみせたけれど、
「だってそれ以外には考えられないじゃない……ねえ真実ちゃん……」
取り成すような花菜の言葉に、私は心から微笑み返した。
「うん……」
「別にあんたの子供じゃないんだから、とやかく言う権利なんてもともとないでしょ?」
愛梨の冷たい言い草に、貴子は長い髪を耳にかけながら、くいっと顎を上に向けてみせる。
「確かに実父にはなれないが、育ての親にだったらなってもよかったのに、真実が実家に帰るって言うんだから仕方ないじゃないか……!」
私は思わず驚きの声を上げた。
「えっ? 貴子、あれ本気で言ってたの?」
「いや。もちろん冗談だ」
がくっと肩を落とした私に、貴子がニヤリと笑ってみせる。
そのちょっと意地悪な笑い方はやっぱり海君に似ていて、今でもちょっぴり私を切ない気分にさせた。
三年の後期にがんばったおかげで、私もなんとかみんなと一緒に、四年で大学を卒業できる見通しが立っていた。
卒業後には実家に帰ってくるようにと言ってくれた母の言葉に甘えて、母子共々、あの小さな港町に帰ることに決めている。
半年後にはみんなとも、この街とも、もうお別れだ。
海君と出会って一緒に過ごした街。
――そう思うと離れ難いような気持ちもあったが、貴子が私をあと押ししてくれた。
「私はまだまだここに住むんだから……いつだって遊びに来ればいい」
ぶっきらぼうに言ってくれた優しい言葉が、嬉しかった。
窓から吹きこんでくる心地良い風に、スヤスヤと眠る小さな『海君』の柔らかい髪を、私は右手でそっと撫でる。
「一緒に帰ろうね……あの海をあなたにも見せてあげる」
そこで、私が覚えている大好きな人の話をしてあげる。
たくさんたくさんしてあげる。
「いつも一緒だよ……」
自分の手に重なる大きな左手の感触を、今でもありありと感じながら小さな声で囁く。
「ずっと一緒だよ……」
彼と約束した右手を、窓から入ってくる初夏の日射しにそっと透かしてみた。
思わず目を閉じてしまいそうなほどに眩しい太陽が、いつの間にかまた、夏空の下に帰ってきている。
頬を撫でる暖かい風に、
(また夏が来る……)
そう思うだけで、なんでもできそうなくらい元気になれる気がした。
目で見える所に、手で触れる事が出来る場所に、私が愛した人はもういない。
けれど、いつでも目を閉じればその笑顔が浮かんでくるように、耳を澄ませば私を呼ぶ声が聞こえるように、いつも傍にいてくれる。
誰よりもなによりも私の近くに感じることができる。
「だって……いつも繋いでる……」
私はもう一度、窓越しに自分の右手を高い空に向かってさし伸べた。
青い空に向かって伸ばした。
彼とした約束を、また永遠にするために。
いつだって有効にするために。
眩しい太陽に彼の笑顔が重なる。
だから私も懸命に笑顔を返した。
――彼が私に教えてくれた、とびっきりの笑顔を。
(海君……大好きだよ!)
――変わらない想いと共に。