その夜は、いろんな人からお祝いの電話がかかってきた。
 
「おめでとう。お祝いのご馳走は、今度帰って来た時に作ってあげるからねー!」
 母の笑い声はあいかわらず豪快だ。
 
「今の電話……お母さんからだったでしょ?」
 近くにいた花菜にまで、大きな声が聞こえてしまっている。
 
「あー真実? ……おめでとう。愛梨ちゃんに電話代わってくれ……」
 まるで私へのお祝いの言葉はおまけだと言わんばかりの態度で、電話してきた兄だって、本当は照れているだけなのはわかってる。
 
「じゃなけりゃ、残業の途中にわざわざ会社から電話してくるわけがない……」
 貴子の冷静な分析によれば、そういうことだった。
 
 無口な父からも、ゼミの教授からも、故郷の幼馴染たちからも、お祝いのメッセージが届いた。
 
「ね? どれだけ真実ちゃんがみんなに愛されてるか……わかるでしょ?」
 嬉しそうな花菜に向かって、私は素直に頷く。
 
 その瞬間、またコールが鳴った。
 
 たくさんの電話を受けることに慣れになっていて、番号を確認もせずにその電話を取った私は、
「もしもし?」
 と呼びかけてから、それが公衆電話からだったことに気がついた。
 
 何も返事がこず、ただざわめきだけが聞こえる不思議な電話に、
「もしもし?」
 もう一度呼びかける。
 
 やっぱり返事はない。
 
 それが公衆電話なことに一縷の望みをかけて、私は、
「海君?」
 と尋ねた。
 
 その途端、電話はガチャンと大きな音を立てて切れた。
 
 期待していたわけではないが、少し落胆する。
 
(やっぱり……いくらなんでもそれはないか……)
 苦笑するようにそう思いながら、首を捻る。
 
(それじゃあ、いったい誰だったんだろう……?)
 わざわざ公衆電話からかけてくるぐらいなんだから、私に用事だったはずなのに、何も言わず切れてしまった。
 
(まちがいだったのかな?)
 だとしたら、思わず海君の名前を呼んでしまったことは少し恥ずかしい。
 けれど、
(何か用事があるんだったら……きっとまたかかってくるよね?)
 予想外な海君からのプレゼントも含めた、その日のあまりの幸せさに、私はすっかり失念してしまっていた。
 
 ――払っても払っても拭い去れなかったほどの、真っ暗な絶望の気持ち。
 夏が来る前までは、確かに自分をスッポリ包みこんでしまっていたはずの辛い苦しい思い。
 
 それが、本当に忘れることができた今頃になって、私を追いかけてくるとはまったく思ってもいなかった。
 
 

 祭りのあと――とでも表現していいような状態で、みんなは私の狭い部屋に折り重なるようにして眠りこんでいた。
 こっそりと一人だけ身を起こした私は、それぞれのポーズで眠ているみんなを、笑って見下ろす。
 
「それじゃ……バイトに行ってきまーす」
 起こしてしまわないように小さな声で言ってから、音をたてないように気をつけてドアを開けた。
 
 昨日一日かけて、私のために誕生パーティーの準備をしてくれた三人は、今日はそれぞれにバイトの休みを取っている。
 
 私と同じコンビニの愛梨。
 ファーストフード店の花菜。
 家庭教師の貴子。
 
 だからいつもと変わらずバイトの予定を入れていた私だけが、今日は早起きをして出かければいい。
 
 みんなを起こしてしまわないようにそっと部屋を出て、夜更かしした目に染みるほどの、いい天気の空を見上げた。
 
「さあ、今日もがんばるぞ!」
 
 たくさんの人の優しい気持ちと、海君の絵が、私に新しいやる気を与えてくれた。
 
(いつもどこかで見守ってくれてるんなら……余計に情けない姿なんて見せられない!)
 
 笑いながら大きく深呼吸した。
 今なら海君と一緒に歩いていた日々と同じように、なんでもできる気がした。
 
(行くぞ!)
 
 新しい自転車を元気にこぎ出す。
 楽しいことが待っているはずの、新しい一日に向かってこぎ出す。
 
 ――その思いがまさか数分後。
 無残にも踏みにじられることになるとは思ってもいなかった。


 
 川沿いの土手の道を走っている時、前から見慣れた車が来たと思った。
 
(幸哉と同じ車だ……!)
 そう思ってちょっとドキリとする。
 
 けれど、大学を退学した幸哉は郷里の町へ帰ったと大学側から聞かされていたし、もうあのアパートだって引き払っていた。
 だから――。
 
(そんなはずないか……)
 ホッと息をつく。
 
 けれど、一台通るのがやっとなぐらいの狭い道幅の道路を進むのに、私は自転車の速度を落として、なるべく道の端に避けようと努力しているのに、その車は道の真ん中から進路を変えることもせずに、スピードを上げてこちらに向かってくる。
 
(なんだか危ないな……)
 運転席の人物が見えるくらいの距離まで近づいた時、何気なくその車の中を見て、私は全身から血の気が引く思いがした。
 
(幸哉!)
 
 もう二度と会うことはないだろうと思っていたその人が、私に向かって走ってくる車を運転していた。
 
 私のことが見えているのか。
 いないのか。
 幸哉がハンドルを握るその車は、いっそうスピードを上げて私に向かってくる。
 
(危ない! 跳ねられる!)
 
 そう思った瞬間、私は自転車のハンドルを切って、自分から土手を転げ落ちた。
 
 自転車から投げ出されて、そのまま地面に叩きつけられて、体は土手を転がり落ちていく。
 とても痛いし、多分自転車だって私だってただでは済まないだろう。
 そうわかっていながらも、幸哉の車に跳ねられるよりはましだと思った。
 
 水辺のすぐ近くの川原まで転がり落ちて、私は泥だらけになった。
 
「いたたた……!」
 ぶつけてしまったいろんな箇所を確認しながら、ゆっくりと起き上がろうとした時、車の急ブレーキの音が聞こえた。
 
 幸哉が土手に車を停めて、バンと乱暴に扉を閉めて、川原に駆け下りてくる。
 
(どうしよう!)
 慌てて立ち上がろうとして、私は自分がそうできないことに気がついた。
 どうやら足を捻ったらしい。
 左足に力が入らない。
 どんなにもがいても立ち上がれない。
 
(どうしよう! どうしよう!)
 必死に足をひきずり、這いずってでも前に進もうとする私に、幸哉がどんどん近づいてくる。
 
 何度も殴られたこと。
 傷つけられたこと。
 その力に屈服していうことを聞かされて、何度も何度も苦しい思いをしたことが、走馬灯のように私の脳裏を駆け巡った。
 
(嫌だ! 助けて! 誰か助けて!)
 
 救いを求めるように地面を必死にかいて、少しでもその場から逃げ出そうとする私を見下ろして、大きく息を切らした幸哉が背後に立った気配がした。
 
「真実……」
 背筋が凍るようなその声に、恐る恐るふり向いた瞬間、幸哉の大きな両手が私の喉を締め上げた。
 
(幸哉?)
 またもう一度幸哉に捕まって、あの日々がくり返すことだけに怯えていた私には、瞬間何が起こったのかわからなかった。
 
 ギリギリと本気の力を込めて締められる首に、あっという間に息が詰まる。
(幸哉! 幸哉!)
 
 私を見つめる尋常じゃない目の色に、(殺される!)という恐怖を、私は初めて体感した。
 
(どうして……? なんで……?)
 
 それは愚問だ。
 幸哉は口の中でブツブツと、ずっとうめくように呟いている。
 
「お前は俺のものだ! お前は俺のものだ! お前は俺のものだ! 誰にも渡さない! 他の男になんか渡さない!」
 
 頭の中が真っ白になっていく息苦しさの中で、私は昨日の無言電話の主は幸哉だったんだと思い当たった。
 
(そっか……私が海君の名前を呼んだから……だから私を殺しに来たんだね……)
 
 妙に納得いって、だけどそれを受け入れてしまうことなんてとうていできなくて、必死に首を振った。
 
 その時。
 私に覆い被さるようにして体重をかけてくる幸哉の肩越し、土手の上から駆け下りてくる人影を見た。
 
 一目見た瞬間に、顔が見えないくらい遠い距離でも、その人が誰だか私にはわかってしまった。
 
(海君!)
 
 もう二度と、本当にもう二度と会えないと思っていたその人が、真っ直ぐに私に向かって走ってくる。
 
 幸哉に首を絞められている苦しさよりも、やっと会えた切なさよりも、今まで見たこともないような全速力でこっちに向かって走ってくる彼の姿に、胸が締めつけられた。
 
(やめて! 海君やだ! やめて!)
 
 声が出せるはずもないのに、必死で言葉を搾り出そうと私はもがく。
 
 このまま幸哉に殺されてしまうのかと諦めかけて、抵抗する力もなくしていた両腕にせいいっぱいの力をこめて、私は幸哉の体を押し戻そうとした。
 
(誰か、お願い! 海君を止めて! ねえ……止めてよ!)
 
 私たち以外誰の人影もない川原で、私は必死に叫んだ。
 声にならない声で叫び続けた。
 
 あんなに好きで大好きで傍にいたいと思った人と、私がどうして離れることにしたのか――それは、彼に元気でいてもらいたかったからだ。
 
 傍にいることができなくても、この世界にずっとずっと元気で生きていてほしかったからだ。
 
 それなのにその彼が、絶対に彼には許されない速さで駆けてくる。
 
 そんなことをしたら、どんなことになってしまうのか。
 想像するのも怖いくらいの勢いで駆けてくる。
 ――ただ私のためだけに。
 
(私のためになんか来ないで! 走ったりしないで!)
 
 私の願いは、きっと海君には届かない。
 たとえ届いたとしても、「俺は俺のしたいようにする。誰の指図も受けない」と真っ直ぐな瞳で言い切ることができる海君は、きっと私の願いを受け入れたりなどしないだろう。
 
 絶対に立ち止まったりしない。
 私にはわかっている。
 だけど――。
 だけど――!。
 
(お願い! 誰か海君を止めて!)
 
 どんどん薄れていく意識の中で、私は最後の願いのように、首を振り続けずにはいられなかった。