「いったいどうしたんだよ! 何があった!?」
 フェリーターミナル中に響き渡るような大声で叫びながら、貴子が私の体をユラユラと揺さぶる。

 すっかり取り乱した貴子を制止するために、花菜が間に割って入った。
「貴ちゃん! 貴ちゃん落ち着いて! ……ね?」
 
 貴子はハッとして私の両肩にかけていた手を放した。
 
 私は両手に提げていた荷物を地面に置いて、てのひらでぐいっと自分の顔を拭う。
「ただいま」
 
 息をのんだように私を見つめる二人に、微笑みかける。
 なんとか笑顔が作れたらしいことが、ホッとしたような二人の表情からわかった。
 
「真実ちゃん……」
 私につられたように、目に涙を浮かべていた花菜が、優しく微笑んで私を抱きしめた。
 
 難しい顔をして私の様子をうかがっていた貴子も、それ以上はもう何も言わず、私の頭の上にそっと手を乗せてくれる。
 
 だから無理やりにじゃなく本当に涙が止まった。
 もう泣かずにすんだ。
 悲しい別れも辛い思いも含めて、海君とのことを泣かずに話せるような気がした。


 
「別れたぁ!?」
 らしくもなく素っ頓狂な声を上げて、貴子は私の顔を心底驚いたようにのぞきこむ。
 
 ためらいもなく頷いた私に、フーッとため息を吹きかけると、乗り出していた体の重心をうしろに移して、椅子の背もたれにドカッと大きな音を立てて勢いよくもたれ掛かった。
 
 フェリーターミナルを出てすぐの喫茶店。
 窓際のテーブルの席に着いても私に何も尋ねてこない貴子と花菜に、私は自分から話を切り出した。
 
 ――海君とサヨナラしたこと。
 
 一瞬沈黙した後に、二人は目を見開いて驚く。
 当然といえば当然の反応だった。
 
「なんでそうなるんだよ!」
 貴子の怒鳴り声は別に私を責めているわけではない。
 ただあまりにも予想外の出来事に、やり場のない憤りを感じているだけだ。
 
「まさか……?」
 その怒りの中に、一瞬自分のやったことに対する後悔の念が見て取れて、私は慌てて口を開いた。
 
「違うよ! 別に、貴子のお膳立てが気に入らなかったとかそんなんじゃないから……」
 
 貴子は頭を抱えようとしていた手でサラサラの長い髪をかき上げると、眼鏡の奥の鋭い目を私に向けた。
「じゃあなんなんだよ?」
 
 尋ねられると言葉に詰まってしまう。
 だって、なんと言ったらいいんだろう。
 
(最初から海君がそう決めてたから? ずっと一緒にいるつもりはなかったから? 私が海君に秘密を問い正したから?)
 
 何を言っても、貴子にわかってもらえそうな気がしなかった。
 
「ええっとね……」
 それだけ言って俯いたままの私の肩を、花菜がフォローするようにそっと叩く。
 
「今はいいじゃない……真実ちゃんがもっと落ち着いたら、きっと話してくれるわよ……ね?」
 心のままを代弁されたような気がして、私は急いで顔を上げた。
 
「うん。いつかきっと話す。話せると思う……!」
 私の言葉に、貴子はもう一度フーッと息をついて、頭を軽く横に振りながら、腕組みした。
 
「わかった。真実にはもう何も言わないよ。私の計画を台なしににしてくれたツケは、いつか絶対、あいつに払ってもらうから!」
 強い口調で宣言された言葉に、私はため息混じりの声が出た。
 
「海君は……もう私のところには来ないよ……」
 
 あんなにキッパリと彼は言い切った。
 一度も私をふり返りもしなかった。
 それらは全て海君の意志の強さを表しているし、決意の固さを示している。
 
 今までもずっとそうだったように彼の決心は揺らぎはしない。
 どんなことがあっても変わりはしない。
 
 だけど、貴子はどこか遠いところを見るように、視線を窓の外の空に向けた。
 
「そんなことはないよ」
 彼女独特のあの覇気のある声ではなく、静かな確信をこめて呟くような声に、私は思わず貴子の顔を見つめた。
 
「貴子?」
 訝しく呼びかけても、貴子は反応しなかった。
 
「そんなはずは絶対ない」
 まるで自分だけが知っている何かに目を向けるかのように、空を見上げたままもう一度呟くから、
(ひょっとして、何かあるの……?)
 という思いが頭をかすめる。
 
 小さな望みなんか見出してしまうと、もう大丈夫と思った胸の痛みがまたぶり返してきて、ズキズキと痛かった。


 
 貴子と花菜と一緒に自分のアパートの前まで帰ったら、またひどく胸が痛んだ。
 
 毎朝海君が私を待っていた場所。
 夕方にはいつも「また明日」と小さな約束を残して帰って行った場所。
 
 ここにはもう、彼のいた形跡なんてなにもない。
 目を閉じれば今でも瞼の裏には焼きついているけれど、その面影だって、きっと時の流れと共に薄れていく。
 どんどん薄くなって、ついには消えてしまう。
 ――それはなんて、悲しいことなんだろう。
 
「真実?」
 立ち止まって考えこんでしまった私を、貴子がふり返って呼んだ。
 
「大丈夫か?」
 優しい問いかけに、私は笑顔で答える。
 
 少なくとも、貴子が尋ねた意味では大丈夫だった。
 あまりにも思い出が密集しているこの場所は、私にとって決して辛い場所ではない。
 むしろ大切な場所だ。
 
 どこにいても何をしていても結局は海君を思い出すんだろうけど、それは私にとってはむしろ嬉しいことだった。
 
 思い出だらけの通学路も。
 私の部屋も。
 この街も――何もかもが今はただ愛しかった。
 
 まったく辛くないと言ったら、それは嘘だ。
 でも私は実際、自分の記憶の中の思い出以外には、海君に関するものを何も持っていない。
 
 だからもともと、その小さな記憶の欠片を拾い集めて、宝物のように大切にするしかない。
 彼が本当に私の隣にいたんだということは、私の記憶でしか証明できない。
 
 ふと自分の右手を見つめてみた。
 海君が、「心の中でずっと繋いでいよう」と言ってくれた手。
 
 絶対に嘘は吐かない海君とした約束だから、心の中で繋いでいるこの手を放すことは、決してない。
 そう確かに信じていられることが、これから先私にとってどれだけ救いになってくれるだろう。
 
 きっと海君はわかってた。
 私の弱さも、彼とサヨナラしたあとのどうしようもない寂しさも、最初から全部わかってて、だからあんな約束をしたんだ。
 
 私のこれからの時間も丸ごと全部彼に繋がっていると思えるように、どんな時でも一人になったんじゃないと思えるように、最後の約束をくれたんだ。   
 
 
 優しい人。
 誰よりも私のことをわかってくれた人。
 
 もう二度と会えなくてもいい。
 無理をしなければ、私と離れたどこかの場所でこれからもきっと生きていてくれる。
 
 それだけでいい。
 
 この同じ世界にいてくれる、それだけでいい。

 
「真実?」
 もう一度呼びかけた貴子に、私は心から笑って答えることができた。
 
「大丈夫だよ。私は大丈夫……」
 いつもより一際優しい目をした花菜が黙って頷いてくれる。
 
 つられたように貴子も頷いた。
 だから私は――。
 
「じゃあ、また明日」
 いつも海君がそうしていたように、にっこり笑って手を振ることができた。
 
 彼が思い出させてくれた笑顔が、今もまだ私の中にちゃんと残っていることに感謝しながら――。


 
 海君が隣にいない夏休み。
 私はたくさんのアルバイトをして、学校の図書室にも毎日通った。
 
 いつでも何かをしていたかった。
 誰かと一緒にいて、やることがあって忙しくて、それが何より嬉しかった。
 
 海君と手を繋いでゆっくりと歩いた街を、一人きりで歩くことが辛くて、私は自転車を買った。
 車ほどは速くなく、気が向いた時には好きな場所で停まることもできる。
 そんな自転車は、今の私の気分にピッタリだった。
 
 思い出すとふと立ち止まりたくなるから。
 
 川沿いの土手の道を。
 歩道橋のある交差点を。
 よく行ったコンビニを。
 目にすると大好きな背中を探したくなるから。
 
 決してそこには、彼がもう現われることはないと、頭ではわかっていても、確かめずにいられないから。
 
 未練がましくて、ほんの少しの希望も捨てられない、そんなどうしようもない自分は決して嫌いではなかった。
 うしろ向きにめそめそ泣いてばかりいるよりは、とっても自然に前を向いて歩いている気がした。
 
 今は無理はいらない。
 海君は私にとって、そんなに小さな存在ではなかった。
 失って生きていけるのかと思ったくらい、大きな存在だった。
 だから――。
 
(もう一度会いたい!)
 そう願ってしまうのは、どうしたって当然なんだ。
 
 青空の下を微笑み混じりに自転車をこぎながら、自分のことを自分でそんなふうに分析できる私は、ちっとも悲劇のヒロインなんかじゃなかった。
 かえって以前よりも、ずっと現実的だと思った。
 
(もしも偶然にバッタリ会ったりしたら……海君はどんな顔するのかな?)
 懸命に自転車のペダルをこぎながら、そんなことを考る。
 
 笑いながら想像できるのは、やっぱりそれが現実にはなりえないと、自分でわかっているからだ。
 
(だけど忘れない。いつだって想ってる……)
 想いの強さを表現するかのように、どんどん自転車のスピードをあげて、風を切って走るのが気持ち良かった。


 
「真実……なんだか前より元気になった?」
 愛梨に問いかけられて、思わず笑みが零れる。
 
 彼女と同じコンビニでバイトをするようになって、お昼休みは二人で屋外でお弁当を広げるようになった。
 作っていくのはもちろん私。
 
 だけど、一人でいるよりは二人でいるほうが断然嬉しくて、私は毎朝の二人ぶんのお弁当作りも全然嫌じゃなかった。
 
 朝と夜は同じアパートに住む貴子と。
 昼はバイト先で愛梨と。
 それか学校で一緒になった誰かと。
 いつも誰かが私の傍にいてくれた。
 
 労わるように私を見つめるたくさんの視線に、
(気を使わせてしまってるな)
 とちょっぴり申し訳なく思う。
 
 あのフェリーで帰ってきた日以来、貴子と花菜は、海君の名前を口にしない。
 それは、私よりちょっと遅れて帰省先の実家からこの街に戻ってきた愛梨も同じだった。
 
 愛梨はいつの間にか、私と海君がサヨナラしたことを知っていた。
 きっと貴子か花菜から先に聞いたんだろうけど、ひさしぶりに会った時も、ただ黙って私を抱きしめただけだった。
 それ以降も改めて何かを尋ねるようなことはない。
 
(ありがとう……)
 三人の優しさに私は甘えるばかりで、何も返せてなどいない。
 だけどそんなことはおかまいなしに、みんなは私を優しく包みこんでくれる。
 
 だから私は笑えるのかもしれない。
 優しい人たちに囲まれているおかげで、今日も笑っていられるのかもしれない。
 
 そう思うと、
(笑うことが出来るってことは、とてもとても幸せなことだったんだね)
 改めてそう感じた。
 
 眩しいくらいの青空を見上げて、大好きな人の面影に向かって、また笑いかけた。
(そうなんだね……海君)
 
 そんな私を、隣に座る愛梨も負けないくらいの笑顔で見つめていた。
「なんなら、新しい出会いを私が作ってあげようか?」
 
 その余計なお節介には、ちょっと咎めるような視線で返事する。
 
「冗談よー、冗談!」
 愛梨は大きな声で笑いながら、私の背中を叩いた。
 
「そんなことしたら怒られちゃう……」
 意味深な発言に私は首を傾げた。
 すると愛梨は、パチリと片目を瞑ってみせる。
 
「なんでもない……気にしないで!」
 言葉とは裏腹になんだか嬉しそうな、自分だけが知っている事実に一人満足しているような、思わせぶりなその笑顔が気になった。
 
 口に出して尋ねる代わりに、私は心の中でいろんな可能性を考えてみる。
 
 けれどどんなに前向きに考えてみても、愛梨の喜びそうな展開を想像してみても、私が本当に望んでいる結論には、とうていたどり着きそうにない。
 
(それだけは……きっと無理だもんな……『海君にもう一度会いたい』なんて……)
 
 腰かけていたベンチの厚めの座面を、指が痛くなるほどにギュッと握りしめて、瞬間、揺らいでいきそうな気持ちを私は必死に保った。
 
(いつかは……思い出しても心から笑えるようになる)
 
 呪文のように、自分を勇気づけるように、何度もくり返す。
 大好きな夏の空を見上げながら、何度も何度もくり返してみる。
 
(大丈夫。いつだって繋いでる。この手は彼と繋いでる)
 海君が最後にかけてくれた魔法を有効にするように――。