ベッドに横になって目を閉じてはみても、眠ったんだか眠らなかったんだか、よくわからないような夜だった。
 初めてのフェリーはどうだったかと誰かに尋ねられても、上手く答えられる自信はない。
 もう一度、一人で乗る機会があったとしたら乗るのかと尋ねられても、答えはきっとノーだ。
 
(あまりにも印象が強すぎる……思い出が大きすぎるよ……)
 隣に眠る大好きな人の寝顔を見つめた。
 
(どうして海君が私と同じところで眠っているんだろう……?)
 改めてそんなことを考えてしまえば、またどうしようもなく鼓動が速くなる。
 顔から火が出そうなくらいに恥ずかしくなる。
 
 でもこれは夢じゃない。
 確かに現実だ。
 
 海君は枕を抱きしめるようにしてうつ伏せに、綺麗な顔を半ば隠してしまうような格好で寝入っている。
 隣にいる私にすっかり気を許して、熟睡してしまっている様子を見ていると、思わずまたその頬に触れてみたくなった。
 
 でもそんなことをしたら、敏感な猫のように聡い彼をきっと起こしてしまうだろう。
 
 何の気負いもない静かな寝顔を、
(できるならこのまま取っておきたい……)
 なんて思っている私は、迂闊に手を出したりはしなかった。
 
 大切な宝物のように見つめながらも、ただそのままにしておく。
 
 そうしながら、自分は下船の準備のために起き上がった。
 海君を起こしてしまわないように、そおっと立ち上がった。


 
 太陽が遥か前方の水平線から登り始めて、船内アナウンスで下船の案内が始まっても、海君はなかなか起き上がろうとはしなかった。
 あまりにも静かに眠っている様子を見ていると、思わず不安になる。
 
「海君……海君!」
 不安に耐え切れず呼びかけたその何度目かに、彼は目を閉じたまま答えた。
 
「起きてるよ」
 本当にホッとして胸を撫で下ろす。
 
(よかった……具合が悪くなったわけじゃないんだ……)
 
 それなのに、
「でも……目は開かない……」
 なんて言い出すから、心底ビックリする。
 
「どうしたの? ……調子が悪い?」
 本気で心配する私の声に海君はニヤッと笑って、だけどやっぱり目は開けず呟いた。
 
「真美さん……あれやってよ、あれ――おはようのキス」
 私は彼が横たわっているベッドに、思わず枕を投げつけてしまった。
 
「なに言ってるの! もう時間がないんだよ!?」
 いいように躍らされたことに腹が立って、ヘソを曲げた私に、海君はそれでも目は開けず、ニッコリと笑う。
 
「いいじゃない……! 最初で最後なんだからさ……お願い!」
 大好きなあの笑顔でそこまで言われたら、いくら私だって、もうそれ以上は否定の言葉が出てこない。
 
 仕方がない。
 ――実は口で言っているほど私自身も嫌がっているわけではないから。
 
 本当は触れていたい。
 一分でも一秒でも長く、この大好きな人に触れていたい。
 
 だからベッドで眠るお姫さまにキスをした童話の王子さまのようにひざまづいて、彼の顔の横に手をつき、冷たい唇に、自分の唇をそっと重ねた。
 
 その瞬間。海君の両腕が私の体を捕まえて、グッと自分の上に引き寄せた。
「海君!?」
 
 半ば予想はしていたけれども、そのあまりの腕の力に、私は自分を支えることができなくて、彼の上に思いっきり倒れこんでしまった。
 
 慌てて、
「大丈夫?」
 と言いかけた唇は、言葉半ばで塞がれる。
 
 私の頭を右手で押さえつけるようにして、海君は私に強引なキスをした。
 
 ギュッと目を閉じた瞬間、どうしようもない想いが胸に湧いてきた。
(いったい何度……海君とこんなふうにキスしただろう……?)
 
 心の中だけで、ぼんやりとそんなことを考える。
 ――大好きな、大切な人の腕の中で考える。
 
(でもそんなことぐらいじゃ……私たちのサヨナラは変わらない……!)
 
 それがまるで当たり前ように、私の心の中で許諾されていることは、他の誰に言っても、きっと理解してはもらえないだろう。
 
(でもいいんだ……私と海君さえわかっていればいいんだ……)
 
 だから私たちは声をかけあわなくても、自然と一緒にベッドから起き上がった。
 二人で手を繋いで歩ける最後の道を、歩き出すために立ち上がった。
 
「行こうか。真美さん……」
 さし出された海君の手を、この上ないくらい強く握り返して、私はその部屋をあとにした。
 
 私たちに一晩だけの夢を見せてくれた海の上の小さな部屋に、サヨナラを告げて歩き出した。


 
 船を下りる鉄製のテロップに一歩足を踏み出した瞬間、送迎デッキの向こうに、よく見慣れた二つの顔を見つけた。
 
 私と目があった途端に、二人ともそれぞれの笑い方で笑う。
(貴子……! 花菜……)
 
 正直言ってホッとした。
 秒刻みで近づいてくる海君との別れに、本当は私は全然平静などではない。
 
 なのに別れの時は、容赦なくやってくる。
 
 海君がそばにいる間は、強がってせいいっぱい笑っていられるだろうけれど、一人になったら自分はどうなってしまうのか――自分でも予想もつかなかった。
 
(でも、貴子と花菜がいてくれるんなら……)
 
 どれだけ救われるだろう。
 たとえ本当のことは口に出せないとしても――。
 これまでがずっとそうだったように、友だちとのおしゃべりは私に元気を思い出させてくれるはずだ。
 
 感謝の想いをこめて、私は二人に手を振った。
 海君と繋いだ右手は離さず、左手を大きく振った。


 
 貴子と花菜が待っている出口へと向かう途中。
 海君が、
「真実さん」
 と私の名前を呼んだ。
 
 鋭い刃物で切りつけられたかのように胸が痛んだけれど、
「うん」
 と私はしっかりと返事をした。
 
 今度は私が自分から手を放す番だ。
 一度は海君が放した手。
 私が望んでもう一度繋いだ手。
 ――だから今度は私から放さなければならない。
 
『自分には真実さんを望む資格がない』と思っている海君が、二度と繋ぐことができないように、今度は私から――。
 
 それが彼の望みだから。
 私にはわかるから。
 どんなに自分の心に反したって、彼の本心にも反したって、そうすることしか私たちに残された道はない。
 
「海君……」
 
 呼びかけた私に、いつものように優しい瞳が、視線だけで、(何?)と問いかけた。
 いつもと何も変わらない。
 
「じゃあまた明日」と小さな約束だけを残して、私の家の前から帰っていった沢山の日々と何も変わらない。
 だけど――。
 
『また』なんて言葉は、決して嘘をつかない海君の口からは、もう二度と聞くことはないんだ。
 
「さよなら……」
 せいいっぱいの作り笑いでそう告げた私を、海君は笑わなかった。
 
 どうしようもなく悲しい瞳をして、何も言わず繋いだ手にギユッと力をこめた。
 
 初めて出会ったあの夜から、いつだって年下とは思えない余裕の微笑を浮かべていたくせに、最後の最後にそんな顔を見せるなんて、やっぱり海君はズルイ。
 
 私のほうから抱きしめて、
「好きだよ」
 と言わせてしまうその瞳はズルイ。
 
 貴子たちから見たら、
「真実ったら、あんなところでいちゃついて」
 って思われるじゃない。
 
「今の今まで一緒にいたくせに、そんなに離れるのが寂しいのか?」
 ってからかわれるじゃない。
 
 だけどそうせずにいられない。
 誰の目も、今後のことも考えずに、今、抱きしめずにはいられない。
 
「海君……大好きだよ」
「うん。俺も大好きだよ……」
 
 確かに確認しあって、私たちは離れた。
 大好きなその瞳をしっかりと見つめながら、私はずっと繋いでいた手を、自分から放した。
 
 それきり何も言わず、私の顔も見ず、貴子たちが待っているのとは別の出口に向かって、海君は歩き始める。
 何度も何度も夕焼けの中に見送ったその背中を、私はせいいっぱいの想いをこめて朝日の中に見送った。
 
 眩しいくらいの朝日が反射して、淡い色に輝く柔らかい髪が、
 華奢な輪郭の横顔が、
 小さなバッグを肩に載せるように持った大きな手が、
 足早に遠ざかっていく長い足が、
 一生消えない残像のように、自分の心に焼きついていくのを感じた。
 
 自分で決めたことは、どんなことでもやり通す彼の意志の強さを表すように、下りのエスカレーターに乗って、その姿が私の視界から完全に消えてしまうまで、とうとう海君は一度もふり返らなかった。
 
 絶対にそうだろうとあらかじめ思ってはいたけれど、確かに私のことをもう一度見つめようとはしなかった。
 
 だけど私は覚えている。
 私を見下ろす優しい瞳を。
 何度も恋せずにいられない鮮やかな笑顔を。
 
 だから自然に歩き出せた。
 もう一人では踏み出せないかもしれないと思っていた一歩を、私を待つ貴子たちに向かって、元気に踏み出せた。
 
 歩きながら、自分の右手を持ち上げて、そっと空に透かしてみる。
 
(心の中でずっと繋いでる……)
 
 海君とした最後の約束は、私たちの永遠だ。
 たった一つの真実だ。
 
 だから歩いていける。
 どんなに離れても、もう二度と会えなくても、私は歩いていける。
 
 興味津々に、私の話を待っているらしい貴子と花菜の顔が、どんどん近づいて来る。
 
(まいったなあ……結局貴子が計画した部分については、計画どおりってことになるんだよね……何を聞かれるんだろ……?)
 
 小さくため息を吐いた。
 
 そんな私に
「お帰り」
 と、貴子がニヤッと人の悪い笑みを浮かべて笑う。
 
 その顔に重なる大好きな面影を、実際に目にすることはもうないかもしれないけれど、
「ただいま……」
 笑い返すことができた自分にホッとした。
 
「……真実ちゃん?」
 優しい花菜がビックリして呼びかけてしまうくらい、とめどなく涙が私の頬を伝って落ちていたけれど、とりあえず表情だけは笑顔が保てていたはずだ。
 
(だってこれが海君が私にくれた一番のプレゼントなんだもの……)
 
 だから忘れない。
 決してもう二度と忘れない。
 笑顔の作り方は忘れない。
 
(いつだって笑えるよ……?)
 
 その証明のように、きっと人生の中で一番辛いこの瞬間を、私は笑顔で通した。
 涙をポロポロ零しながらも、意地になって笑い続けた。