キミの秘密も愛してる

 懐かしい友達と会ったり。
 小さい頃から慣れ親しんだ景色を見てまわったり。
 私の故郷での日々は、飛ぶように過ぎていった。
 
 どんなに距離的に離れていても、時間が経っても、そこに帰ってくるだけで、スーッと元いた場所に帰っていける。
 故郷というのは、本当に不思議なところだ。
 
「今日は私の秘密の場所に行ってくるね……」
 朝からいそいそと準備に励み、まだ午前中の早い時間にわざわざ大袈裟に宣言して出かけようとした私に、日曜日で家にいた兄が、
「なんだよそれ! 秘密でもなんでもないじゃないか……!」
 と意地悪く叫ぶ。
 私は最高のしかめっ面をしてみせた。
 
「お昼には帰って来るんだろう?」
 台所に立ったまま、背中で話しかけてきた母は、昼食にも私の好きなものを出そうと、今日も朝から頭を捻ってくれている。
 
 そんな生活もいよいよ明日で終わりだ。
 だから今日のお昼も夕食も、心置きなく味わって帰らなければ。
「もちろん! 帰ってくるよ!」
 
 何年も前に買ったつばの広い白い帽子と、白いワンピース。
 お気に入りの服に身を包んだ私は、
「行ってきます」
 と、新聞に目を落としたままの父にもう一度声をかけた。
 
 小さく頷いてくれる様子を確認して、玄関を出る。
 
 明日には、大学のある街に帰るとはとても思えない。
 まるで何年も続くなんでもない日常のごく当たり前のひとコマのような、日曜日の朝だった。


 
 小さな漁船がぎっしりと並ぶ港を通り抜けて、私は海岸沿いの堤防をずっと歩いた。
 もともとが漁業のためだけの港だから、堤防はとても高くて、水面は遥かに低い。
 
 釣りをするにはもってこいだけれど、子供が水遊びをするような浜はどこまで歩いてもまったくなくて、小さな頃、港に遊びにきた私は、
「海で泳ぎたいのに!」
 と駄々をこねては母を困らせた。
 
 そんな私の手を引いて、長い長い時間歩いて父が連れていってくれたのが、私の『秘密の場所』だった。
 
 父に教えてもらったのだし、兄も一緒に行っていたんだから、私だけが知っている場所ではないのだが、いくつになってもそこはやっぱり気持ち的には『私の秘密の場所』だった。
 
 普通の道路からは行けない。
 堤防をずっとずっと歩いて行くしかたどり着く方法がない。
 岩に囲まれた小さな小さな砂浜。
 
 だから、私以外の人はきっと知らないと思う。
 もし万が一知っていても、わざわざ行かないと思う。
 
 兄だって子供の頃に一回行ったっきり、
「あんな遠いところに……誰が行くか!」
 と私の誘いを断り続けている。
 
(だからやっぱり……私の秘密の場所なんだもん)
 
 港からも、町からも、確実に遮断されたその小さな砂浜を私はひさしぶりに訪れ、あまり広くはない空間のちょうどど真ん中に膝を抱えて座った。
 
 大好きな海が、手を伸ばせば届くくらいの距離に広がっている。
 
 あまり広い砂浜ではないのに、不思議なことにこの場所は潮の満ち引きによって、なくなることがない。
 大きな岩に囲われているからだろうか。
 それとも、実際には沖のほうの海とは繋がっていないのだろうか。
 
 どちらにしろ、まるで世界から切り離されているかのように、静かで、いつも変わらずここに存在している。
 
 目の前には海。
 見上げれば大岩に切り取られたような青い空。
 背後には数メートルも高い位置に、私の降りてきた堤防からの階段の降り口。
 
 完全な周りからの孤立は、いつもここに来るたび、私に自分の心を見つめ直す時間を与えてくれ、、落ちこんだ心にもう一度立ち上がる勇気を蓄えさせてくれた。
 
(私は今……本当に幸せだよ……?)
 自分に確認するように、心の中だけで呟く。
 
(大学にまた通えるようになって……友だちも家族もいてくれて……夢に向かって確実に前向きに歩いてる……)
 
 確かにそうだ。
 少し前の私が望めるはずもなかったものを全て、今の私は手にしている。
 
(これ以上……何を望むっていうの?)
 
 それは傲慢だ。
 どうしようもないわがままだ。
 
 両手で顔を覆って、私はそのままうしろにゴロンと砂浜に仰向けに倒れた。
 頭から落ちた帽子が、風に煽られて、少しだけコロコロと転がっていく。
 
 ちょうど私が転がった位置からは、太陽が大岩の陰に隠れて、海よりも青い空だけが、箱庭のような形に切り取られて見えるだけだった。
 
 真っ白な雲が一つ、じいっと見つめていると、かなりのスピードでその小さな空を通り抜けていく。
 
 時間はこんなにも駆け足だ。
 過ぎ去った雲のあとには、次々と色も形も違う雲が続いていくように、私の時間も、この先ずっと止まることなく流れていく。
 
(その中には、きっと新しい出会いだってあるはずだ……)
 
 それは素晴らしいことじゃないだろうか。
 素敵なことじゃないだろうか。
 これまで何度も何度も私の心を救ってくれた、未来への希望や夢なのに、どうして今はこんなに用を成さないんだろう。
 どうしてこんなに色褪せて見えるんだろう。
 
(他の誰かなんていらない! ……いらないのに!)
 私の心は、どうしてこんなに頑ななんだろう。
 
(ここに来れば、少しは割りきれると思ってた……)
 なのにどうして、涙は次から次へと頬を流れ落ちていくんだろう。
 
 砂に吸いこまれていく涙と一緒に、叶わない願いも、苦しい想いも、いっそなくなってしまえばいいと思った。
 ここに全て置いて帰らなければ、本当に自分の心が壊れてしまうように思えた。
 
 だから両手を空にさし伸べて、私はなりふりかまわずに泣くことにした。
 
 空っぽになるくらい泣いて泣いて泣いて。
 海君へのどうしようもない想いを、全部この場所に置いていこうと心に誓った。


 
 それからどれぐらいの時間が経ったのかはわからない。
 ただ泣き疲れてしまって、いつの間にか砂浜に寝転んだまま眠ってしまっていたことだけは確かだった。
 
 太陽の位置が少し移動して、私の顔に直接当たるようになっていたから、目が醒めてもすぐに目を開くことはできない。
 代わりにゆっくりと思考を巡らす。
 
 体中に照りつける日光の熱さから考えると、太陽はきっとまだ高い。
 お昼に帰る約束の時間を過ぎて、兄が怒りながら迎えに来ていないところを見ると、そんなに長い時間眠りこんでいたわけでもないようだ。
 
(よかった……)
 胸を撫で下ろして、ひとまず太陽の当たらない位置に、目を瞑ったまま移動しようかと考えた時、真っ赤に燃えるようだった瞼の裏の色が、突然かげった。
 
(えっ? そんなはずない!)
 慌てて目を開けようとした私は、その時ふいにすぐ近くに人の気配を感じた。

(……誰? お兄ちゃん?)
 眩しさに耐えながら、やっとの思いで薄く目を開いた瞬間、そこに幻を見たと思った。
 あまりにも根を詰めて考えすぎて、遂に自分の頭が壊れてしまったかと思った。
 
 大好きな人の顔がそこにある。
 誰よりも何よりも大好きなあの笑顔が、優しく私を見下ろしている。
 
(……嘘……でしょ?)
 声も出せず、ただ目を見開くばかりの私に、綺麗な瞳が近づいてくる。
 
「真実さん……迎えに来たよ」
 まちがいないその声が耳に響いて、彼のてのひらが私の頬を包んだ瞬間、あんなに泣いて泣いて、全部捨てきったと思った感情が、あっという間に私の心を埋め尽くしてしまった。
 
(海君!)
 どんなにダメだと思っても、彼に向かって腕を伸ばす自分の体を、自分で止めることができなかった。

 
 
「どう? 一日早く来てみました……」
 並んで砂浜に腰を下ろしながら、海君は笑ってそう言った。
 
 迎えに来てくれるという海君に、私は自分の実家の住所を教えていた。
 だから海君がこの町にいること自体はそんなに不思議ではないが、いったいどうして私の秘密の場所に来れたんだろう。
 それも今このタイミングで。
 
 あまりにも驚き過ぎて、なんだか上手く言葉が見つからない。
 
 じっと砂浜を見つめたまま、(どうして? どうして?)と必死に考え続けている私の顔を、海君はのぞきこんだ。
「びっくりした?」
 
 今の私の心を一言で言ってしまうと、つまりそういうことだったので、私は素直に頷いた。
 海君はとても満足そうに微笑んで、悪戯っ子みたいな顔でもう一度笑った。
 
「愛梨さんが……どうせ帰省するんだからって一緒に連れてきてくれたんだ。真実さんのとっておきの場所だからって、ここを教えてくれた……!」
 そう聞いて、私はやっと全てのことに納得がいった。
 
(そっか! 愛梨……!)
 ようやく目の前の海君が幻なんかではないと、確認できた気分だった。
 
 愛梨は私と同じこの県の出身だから、よく一緒に帰省したし、お互いの家に遊びに行ったこともある。
 この場所にも、愛梨だったら以前連れて来たことがあった。
 
「そうか……愛梨か……」
 納得したようにうんうんと頷きながらも、私は内心、心の中で、(困ったな)と思っていた。
 
 海君がこの町に来たら、この場所に連れてこようとは思っていた。
 そしてこれまで聞きたくても聞けなかったことを、勇気を出して尋ねてみようと思っていた。
 
 でもそれらは全部、私の心の中で、明日の予定だったのだ。
 
 今日のうちに、自分の気持ちに区切りをつけて、明日はどんな話でも大きく受け止められるような私になっているつもりだった。
 
 実際にそうなれていたかどうかはわからない。
 だけど少なくとも自分ではそのつもりだった。
 
 それなのに海君は来てしまった。
 予定よりも一日早く、私の前に現われてしまった。
 
 それが嬉しくてたまらないことは事実だけど、困っていることも事実だ。
 
 今の私じゃきっと受け止めきれない。
 きっと海君を困らせることになる。
 だけどゆっくり心の準備をしている時間が――私たちにはもうない。
 
「海君……」
 震える声で呼びかけた私に、彼はいつものように、首を傾げて瞳だけで返事する。
 
(何?)
 
 本当のことを教えてもらったら、その時私たちの関係はどうなるんだろう。
 
 海君は自分のことを話したがらない。
 それを無理に聞き出すということは、こんなに好きで、傍にいたいと思う人を、失ってしまうことに繋がったりはしないんだろうか。
 
(恐い……)
 
 思いあぐねて勇気が出せない私は、その時ふと、あることに思い当たった。
 そしてまるで逃げるように、そのことのほうを口にした。
「私ね、明日帰るつもりだったんだけど……」
 
 海君は、「ああ」というように破願する。
 
 目の前で私を見つめてくれるのは、私の大好きな笑顔。
 この笑顔をもう見れなくなるなんて――やっぱり私には耐えられない。
 
「真実さん、何で帰るつもりだった?」
 
 どんな表情も心に焼きつけておこうとするかのように、ただただ海君の顔をじっと見つめるばかりの私に、突然頭を使うようなことを問いかけたって、咄嗟に答えが出てくるはずがない。
 
「えっと……たぶん新幹線かな……?」
 しばらく考えた末に、苦しい答えをようやく搾り出せた私に、彼は見惚れるくらいに笑って、一枚のチケットを胸ポケットから出した。
 
「真実さんを迎えに行くんなら、これで帰ってきなって、貴子さんがくれたんだけど……」
 そう言って、海君が見せてくれたのは、この町の隣の町から出ているフェリーの予約券だった。
 夜中にその町を出て、明け方早くに、大学のある街に到着するかなり大きな旅客船。
 
「すっごい貴子……! どうしてこんな情報まで知ってるんだろ……」
 感心するばかりの私に、海君がニッコリと問いかける。
 
「真実さん、乗ったことあるの?」
 私は首を横に振った。
 
 フェリーは寝ている間に移動ができるし、とても便利だけれど、一人ではなんだか寂しいような気がして、私は今まで利用したことがなかった。
 それに大部屋に見ず知らずの人たちと一緒に眠るというのも、なんだか気が引ける。
 
(周りに気兼ねしなくてもいいように個室もあるけど、一人では贅沢だし……)
 そこまで頭を巡らして、
(まさか!)
 と息をのんだ。
 
 海君の手から奪い取るようにそのチケットを取って、印字されている文字に改めて目を凝らす。
(やっぱり!)
 
 そこにははっきりと「一等洋室」と書かれていた。
 
(やっぱり個室だ! 海君と二人で……? もうっ、貴子ったら……いったいどういうつもりなんだろう……!)
 
 貴子の例の『世の中全部、自分の思いどおり』というような顔が頭に浮かんで、思わずチケットを握りつぶしそうになった私の手から、海君が間一髪それを取り戻した。
 
「今夜、夜中に出発だよ……真実さん、準備まにあいそう?」
「海君! 乗るつもりなの!」
 叫んだ私に、海君はハハハハッとお腹を抱えて笑いだす。
 
「もちろんそうだよ。何? 真実さん嫌なの?」
 当たり前のように聞き返されると、なんと答えていいのかわからない。
 
「い、嫌じゃないけど……でも……だって……!」
 言いよどむ私の髪を海君はクシャッとかき混ぜて、鮮やかに笑った。
 
「心配しなくても大丈夫だよ……何もしやしないから!」
「そうじゃなくって!」
 
 思わず真っ赤になって、こぶしを握りしめて叫ぶ私に、海君が真顔で問いかける。
「じゃあ何?」
 
 改めて聞き返されても、なんとも答えることができない。
 海君と二人きりになることを、私が意識して意識して、意識し過ぎてるだけだから――。
 
「いいよ……それで帰る……」
 俯いて呟いた私を、海君はまたおかしそうに笑った。
 
(もう好きに笑って……! どうぞ気の済むように笑って……!)
 悔しくって俯く私の頭を、海君がまたポンと優しく叩く。
 
「じゃあ、準備しておいでよ……出発は夜の十一時だから、その前に待ちあわせればいいでしょ? 一日早く連れて帰りますって……真実さんの家に俺も挨拶しに行けたらいいんだけど……ゴメンね」
 悪戯っぽい顔をして、わざとそんなことを言ってみせる海君に、私は慌てて何度も首を横に振る。
 
「そ、そんなことしたら、大騒ぎになっちゃって帰るどころじゃなくなっちゃうよ!」
「そうだろうね」
 おかしそうに笑った海君の瞳は、笑っていなかった。
 
 見ているこっちの胸が痛くなるくらいに、悲しい色をしていた。
 
『いつまでも二人で一緒にいるのなら、そんな日も来るかもしれないけれど……』
 
 いつか、胸が痛いくらいにそう思ったことがあったのを思い出す。
 海君もそう思ったんじゃないだろうか。
 ひょっとしたら私たちは、同じ、叶うことのない願いを抱えているのじゃないだろうか。
 
(ダメだ……今そんなことに気がついたら、きっと海君の前で泣いてしまう……私にはもう……いろんなことが限界すぎる……)
 
 だから私は目を逸らした。
 いつだって見つめられたらそれだけで幸せで、ずっと見ていたいと思っていた海君の綺麗な瞳から、そっと目を逸らした。
 
 なんて簡単なことなんだろう。
 なんて微かな動きだけで、私たちの世界は完全に隔てられてしまうんだろう。
 
 もうわからない。
 彼の考えていることも、彼の抱えている痛みも、目を逸らしてしまった私には何も伝わってこない。
 
 それはなんて寂しいんだろう。
 なんて悲しいんだろう。
 こんなにすぐ傍にいるのに、何もわからない関係なんて――そんなの絶対に、私が望んだ愛じゃない。
 
 見えない何かに抗うかのように、私はもう一度海君の瞳を見つめた。
 私が目を逸らしていた間も、きっと一瞬も揺るがなかったであろう真っ直ぐなその目を見つめ返した。
 
(失くしたくない! 失くしたくないよ……! 他にはなんにも要らないから……海君だけ傍にいて欲しいのに……!私の願いは、本当にただそれだけなのに……!)
 
 我慢できずに、私は彼に向かって手を伸ばした。
 その手を待ち構えていたように、海君がしっかりと掴む。
 
「真実さん……ゴメンね……」
 いつものように謝って、私のことを抱きすくめるから、それに負けないくらいの強さで私も彼を抱きしめ返す。
 
「謝らないでいいよ……海君……お願い! 謝らないでよ……!」
 
 何を口に出して、何を黙っていたらいいのか。
 言葉の境界線さえ、私の中ではもう危うかった。
「私……明日の新幹線じゃなくって、今夜のフェリーで帰ることにしたから……」
 家に帰るなり父と母にそう伝えると、待ちきれなくて先に昼食をほおばっていた兄が、
「フェ、フェリー!?」
 ふり向きざまに、なんともすっとんきょうな声を上げた。
 思わず吹き出さずにはいられない。
 
 港町に生まれて、海の近くで育ったのに、兄はあまり泳ぎが得意ではない。
 だから海もあまり好きではなくて、極力近寄らないようにしている。
 そんな兄にしてみたら、たとえ船がどんなに便利な交通手段であっても、陸から遠く離れた海の上を移動するだけで、無謀とも言えるくらいの、危険なルートなのだろう。
 
「真実……お前、よくそんなの乗る気になるなあ……!」
 非難しているような、感心しているような、微妙なため息に、正直に返答する。
「うん。だって私泳げるもん……」
 兄はあからさまにムッとした。
「どうせ! どうせ俺は、泳げないよっ!!」
 プンとむくれて、私から目を反らす。
 
「それで……? いったい何時に出港なんだい?」
 とてもお昼ご飯とは思えないほどの品数の料理を、どんどん私の席の前に並べながら母が尋ねる。
 
「十一時かな……でも、早目に出ようと思ってる……」
 さりげなく答えながら自分の席に着いた。
 でも内心は、海君と待ちあわせていることを思ってドキドキしてたまらなかった。
 家族の誰も、私のそんな思いに気がつくはずはないのだけど――。
 
「……夜に港に行くんだったら、気をつけるんだぞ」
 珍しく父が口を開いて、港町生まれの人特有の苦言を呈す。
 
『夜の海は、人ならざるものの世界だ。近寄ったらいけない』
 
 小さな頃から、祖母や父に何度も聞かされた戒めの言葉が、私の心に甦った。
「うん」
「そんなこと言ったって……どうせ、真実はまたあそこに行って、星を見てから出発するんだろ……?」
 兄に図星を指されてしまって、思わず笑みが零れた。
 
(まったく……私の考えてることなんて、全部お見とおしなんだもん……)
 兄に言い当てられたとおり、私はあの浜に行って、それからフェリーの出る隣の町に向かうことに決めていた。
 
 でもそれは、あの降るような星空を見るためだけではない。
 ――海君に本当のことを尋ねるため。
 
 そう思うだけで、胸が苦しくなる。
 涙が浮かびそうになる。
 でもそんなそぶりを見せただけで――。
 
「べ、別にそれを悪いなんて言ってないだろ! 泣くなよ真実!」
 私の涙にからっきし弱い兄が勘違いして、慌てて私の機嫌を取り始めるから、今はまだ泣けない。
 
 普段は意地悪ばっかり言ってるくせに、結局私に弱い兄の姿を見ていると、辛い気持ちをしばし忘れ、笑うことができた。
 
「ありがとう、お兄ちゃん……」
「な、なんだよ急に……気持ち悪いな……!」
 
 私の感謝の本当の意味は、兄にはきっとわからない。
 けれどそれでも、言わずにはいられなかった。
 悲しい気持ちに負けて、思わず決心がくじけそうになった私の心を、励ましてくれたことには違いないのだから――。
 
 私たち兄妹のやり取りを笑いながら聞いている母も、何も言わない父も、いつだって私の背中をそっと押してくれる。
 だからそんな家族全員に、「ありがとう」と頭を下げて、私は自分にとって一番辛い選択を、選び取る勇気をもらった。


 
 夜九時。
 ほんの少しの荷物を持って、実家の玄関を出る。
 
「本当に港まで送らなくていいの?」
 心配そうに聞いてくる母に、ニッコリと笑って頷く。
「うんいいよ。お父さんもお兄ちゃんも明日仕事で早いんだし、タクシーで行くから……」
 少々とまどいながらも、母も笑顔で頷いてくれた。
 
 あっという間の一週間だった。
 でも以前のように、家族と離れることに猛烈に心が痛んだりはしない。
 
「また、帰っておいでよ……?」
 母の言葉に、
「うん。すぐにまた帰ってくる」
 と頷くことができる。
 心からそう思うことができる。
 そのことが嬉しかった。
 
(帰りたくなったら、いつでも帰ってこれる……)
 そう思える今の私の状態が、この上なくありがたかった。
 
(これって全部、海君のおかげなんだよね……本当にありがとう……!)
 もういったいどれくらい、何度も何度もその言葉を胸に思い浮かべただろう。
 
 彼と出会ってから、私の人生は変わった。
 良いほうに良いほうにとどんどん変わっていった。
 
 ――そう思えば、もうじゅうぶんなのかもしれない。
 今日までずっと傍にいてくれただけでも、感謝しないといけないのかもしれない。
 
 私は自分の心に言い聞かせながら、彼との待ちあせ場所のあの砂浜に向かう決心を、必死に繋いでいる。
「じゃあ……行ってきます……!」
 
 見送ってくれる家族に明るく手を振って、背を向けた。
 あんまり話していると、やっぱり泣いてしまいそうだったから。
 甘えてしまいそうだったから。
 
「行ってらっしゃい」
 父と母と兄の声が揃って背中を押してくれたから、私は歩きだすことができた。
 
 海君のところへと。
 ――彼の秘密を確かめに。


 
 彼は、まるで昼間の私と同じような格好で、無防備にゴロリと砂浜に寝転んでいた。
 
 月のない夜。
 星の明かりだけでは暗すぎて、海君が本当に眠っているのかどうかさえ私にはわからない。
 
 静かに隣に腰を降ろして、顔をのぞきこむと、
(大丈夫だったのかな……?)
 と思わずにはいられなかった。
 
 顔色がよくない気がする。
 
 海君の体調にとって、何がよくて何がよくないことなのか。
 それすら私にはわからない。
 けれど少なくとも、夜風に当たってこんなところでうたた寝するのは、決してよいことではないだろう――。
 
(ゴメンね……)
 肩から羽織っていた薄い上着を脱いで、横たわるその体に掛けて、そっと頬に手を触れた。
 ゆっくりと冷たい頬を撫でる。
 
 するとどこかで予想していたとおり、すぐに私の手を、砂浜から持ち上がった海君の手が、掴んだ。
 
「やっぱり起きてたの……?」
 私の問いかけに、海君は返事せず、目も開けずに、ただつかんだ私の手を引き寄せる。
 彼の体の上に倒れこむように横になって、私は彼の鼓動を聞いた。
 
「すっごい星空なんだね……」
 震える声で呟かれた言葉に、胸が鳴った。
 私が彼に見せたいと思っていたものを、教えるより先に見つけてくれていたんだと嬉しくなった。
 
 ゆっくりと海君の上から身を起こして、私も彼の隣にゴロンと寝転んで、一緒に満天の星空を見上げる。
「うん」
「俺……本当にこんな星空……今まで見たことなかったよ」
 
 海君の声が、直に体に響いてくるようにすぐ隣で聞こえる。
 手探りで彼の左手が私の右手を見つけ出し、いつものように指を絡める。
 
「私も……すごくひさしぶりに見たよ……」
 思ったよりも穏やかな声で答えることができて、自分でもホッとした。
 
「この星空も、ぜひ海君に見せたかったんだ……だから一緒に見れて良かった……」
 心からの安堵のため息をつくと 
「うん」
 海君がそっと自分の頭を、私の頭にくっつけた。
 
 寄せては返す波の音だけを聞きながらそうしていると、まるで世界には彼と私の二人だけのようだった。
 
 その世界では、どんな願いも叶わないことはないし、二人の間を隔てるどんな出来事も事実も存在しない。
 ――そんな夢のような世界に迷いこんでしまったかのようだった。
 
 でも現実は違う。
 時間は確実に明日へと進み続ける。
 それは私には、どうすることもできないから、私はゆっくりと起き上がって、砂浜の上に座り直した。
 
 海君も、それに倣うように起き上がり、すぐ隣に座り直す。
 
 体勢を変えても、繋いだ手だけは絶対に放そうとしない私たちは、まるでそれを解く瞬間に怯え、頑なに拒んでいるかのようだった。
 
(繋いだこの手をどちらかが放したら……その瞬間に私たちの関係は終わる……)
 いつも心に漠然と思っていたことが、いつの間にか現実となって私のすぐ近くに迫りつつある。
 
「海君……」
 私の呼びかけにいつものように、
(何?)
 と瞳だけで答えるこの人が愛しい。
 
 この想いはどんなにごまかそうとしても、どんなに心に押しこめようとしても、私の心からすぐに溢れてしまう。
 きっと一生、消えることはないだろう。
 
 私の心は変わらない。
 ――だとしたら、これからも私たちの関係は何も変わらない。
 
 何も知らずに、何も教えてもらえずに、ただいつ終わるのかわからない不安に怯えて、私はこれからも海君の隣に居続けるんだ。
 
 でも知らないことは怖い。
 その裏で彼がどんな思いをしているのか。
 そんなことさえ私にはわからないから、不安で不安でたまらなくなる。
 
 漠然とした不安に怯えているぐらいなら、尋ねたほうがいい。
 どんな答えが返ってこようと、聞いたほうがいい。
 
 だから今、尋ねよう。
 何気なく。
 ごく自然に。
 
 決心をする時間も、それをやっぱり翻す時間も、自分に与えちゃいけない。
 もうこれ以上引き伸ばしたら、きっとダメだ。
 
 必死の思いで、私は勇気をふり絞った。
 
「海君……ひょっとして、どこか体の調子が悪いの?」
 私の突然の問いかけに、彼は少し驚いて目を見開く。
 けれどすぐにいつもの曖昧な笑いを浮かべて、そのままごまかしてしまおうとした。
 
 私は静かに首を横に振った。
「お願い。教えて……」
 
 すぐ近くで私を見つめる海君の綺麗な瞳に、どうしようもない悲しみの色が浮かぶ。
 その瞬間。
 もう取り返しのつかない領域に自分が足を踏みこんだんだと、私の苦しくて苦しくて張り裂けそうな心にも理解できた。
 
「真実さん……」
 海君のひどく沈んだ声が、私の心に刺さる。
 
「本当のことを話したら、今までと同じではいられないって、俺は最初から決めている。それでも……? それでも聞きたい……?」
 
 半ば答えを言ってしまっているような状態でも、海君がなんとか私を踏み止めようとしてくれているのがわかる。
 今の私たちの関係を守ろうとしてくれているのがわかる。
 
 私に負けないくらいに、この恋に執着してくれていることが、嬉しかった。
 
(嬉しい……嬉しいよ! どうしよう……失くしたくない……海君を失いたくない!)
 わき上がって来るみっともないくらいの想いに、それでも私は必死で首を振る。
 
 今、本当のことを聞かなければ、取り返しのつかないことになるかもしれない。
 
 繋いだ海君の冷たい指は、夜の闇の中でもはっきりとわかるくらい青ざめた顔色は、きっと私の突然の言葉に驚いているからばかりではないはずだ。
 
 感情だけで無理をするなんて、きっと許されないわけが彼にはある。
 これ以上そのことを無視するなんて、私にはもうできない。
 
(それでもし海君に何かが起こったら……私のせいで無理をさせるようなことになったら……私は自分を、恨んでも恨みきれない!)
 
 だから聞かなければ。
 心がどんなに張り裂けそうに痛くても、本当のことを聞かなければ。
 
「海君……いつも無理してたんだよね? 本当はいつだって、無理して私に会いに来てくれてたんだよね……?」
 
 海君と繋いだ右手ではなく、左手を彼の首にまわして、体を反転するようにして抱きついた私を、海君も右手で抱きしめ返した。
 
 止めていた息を吐き出すように、何かを諦めて絶望する気持ちを隠しもせずに、
「うん。そうだよ」
 絞りだすような声で、私の耳元で本当の答えをくれた。
 
(やっぱりそうだったんだ……!)
 
 辛くて悲しくてどうしようもない気持ちの中に、納得して安堵するような感情が入り混じって、そんな自分がどうしようもなく嫌いになる。
 
 自分が未知の恐怖から逃れるためだけに、彼を問い詰めた。
 ――なんて身勝手な思い。
 
 自分だけが何も知らずに、これまで当たり前のように彼に守られてきた。
 ――そのことへの憤り。
 
(ゴメンね、海君……。鈍感な私で、自分勝手な私でゴメンね……)
 懺悔するような気持ちで、私は海君の体を抱きしめた。
 
 一言、言ったっきり、何も言わない海君が、繋いだ手に力をこめたのがわかる。
 ――離したくないという意思表示のように。
 失いたくないという思いをこめるように。
  
 だから私も負けないくらいの強さで、その手を握り返す。
 その体を抱きしめる。
 
(私だって放したくないよ……! ずっとずっと一緒にいたいよ……!)
 
 ――その意思表示のために。
 
「俺は生まれつき心臓が悪いんだ……だからずっと入退院をくり返してる。学校にもほとんど行ってない……」
 
 降るような星空の下。
 私の耳元で囁かれる声は確かに海君のものなのに、その内容は、まるで違う世界の知らない人のことを語っているかのようだ。
 
 何も言えずにただ彼の肩に額を押し当てる。
 繋いだ手に思わず入る力を、隠すこともできない。
 
「どれぐらい悪いかと言えば……今こうして生きているのが不思議なくらい……正直、いつ死んでもおかしくないって、医者に言われてるくらい……」
 申し訳ないほどに手に力が入る。
 
「海君。ゴメン……もういいよ。もういい……」
 嗚咽まじりの私の制止にも、海君は絶望したような声で話し続けることを止めない。
 
「ダメだってわかってるのに、真実さんに声をかけちゃったんだよな……結局こんなふうに泣かすことになるって、最初からわかってたのに……」
 
 私の頭を右手で支えて、海君は首を傾げるようにキスした。
 
 抗うこともできないくらいの力に私はギュッと目を瞑って、必死で平静を保とうとしていた心も、大きく大きく傾いてしまった。
 
「ごめんなさい。ゴメンね、海君……」
 冷たい頬に自分の頬を押し当てる。
 
 もうすっかり枯れ果てたと思っていたはずの涙が止まらなかった。
 
 彼が重大な秘密を抱えているんだろうってことは、もうずっと前からわかってた。
 
 きっとどこか体の調子が悪いんだともわかってて、でも、そうじゃないかと思いつつも、そうでだけはあってほしくないと、願い続けていた。
 
 他の理由ならばいい。
 ――私と一緒に未来の夢が見れないのは、他のどんな理由でもいい。
 
 それがたとえ私にとってひどい裏切りであっても。
 残酷な結果であっても。
 私が傷ついて済むのならば、それはもうどうでもいい。
 
 たとえこの先一緒にいられなくても、二度と会えなくても、それはもうかまわない。
 
 海君が生きていてくれるのなら。
 私の手の届かないような遥か遠くででも、この同じ世界のどこかに生きていてくれるのなら、私自身はどんな不幸に落ちてもかまわないのに――。
 代わりに投げ出せるんだったら、何度だってこんな命投げ出すのに――。
 
(なのにどうして海君が……『死』なんて言葉を口にしないといけないんだろう……!)
 
 これ以上ないくらいに、彼の体を抱きしめながら、私は悔しくて悲しくてどうしようもなかった。
 
 

「俺の抱えてるものは重過ぎる……それは自分でもよくわかってる。だから、誰とも深く関わりあわないようにして生きてきた。いつ俺が死んでしまっても、誰の心も必要以上には痛まないように、生きてきたつもりなんだ……」
 
 砂浜にもう一度座り直して、真っ暗な海を見つめながら、砂を右手ですくっては、風に流し、またすくい、流し、そんな行動をくり返しながら、海君はまるで他人事のように自分のことを話す。
 
「なのに、真実さんに声をかけちゃったんだよな……俺じゃどうしようもないってわかってたのに、声をかけずにいられなかった。そんな想いって本当にあるんだね……」
 
 こんな時でさえ、茶目っ気を忘れない綺麗な瞳は、私の大好きなものだ。
 これ以上ない、大切なものだ。
 
 心からそう思うのに、今は見つめ返すことさえ苦しい。
 明るい海君の声に反して、私の気持ちはちっとも上向きになれない。
 
「俺のことは何も知らせずに、真実さんを守りたかった。ただ傍にいたかった。ゴメン。俺の身勝手に巻きこんで、結局傷つけることになってゴメン……」
 
 私は慌てて首を振る。
 彼の言葉のニュアンスに、自分だけが悪いという海君の思いを感じて、ずっと閉じていた口を急いで開く。
「違う! 傍にいて欲しかったのは私だよ。海君が体調がよくないってなんとなくわかっていても……それでも無理をさせてたのは私のほうだよ……!」
 
 私の顔をすぐ目の前からじいっと見つめて、海君が小さく微笑んだ。
 何度も何度も私が恋せずにいられない、あの最初の夜の笑顔が、二人きりの砂浜で、また私に向かって微笑んでいる。
 
「でも不安だったよね……? 本当はいろんなこと、ずっと聞きたくてたまらなかったよね……?」
 そっと私を引き寄せて、胸の中に抱きしめる海君の声はいつもと変わらない。
 優しくて、温かい大好きな声だ。
 だけど――。
 
「俺も不安だったよ……俺には自分がいつ死んでしまうかの予想もできないから、ひょっとしたら真実さんをもっと傷つけるようなことになるかもって……本当はずっと不安だった……その前に、いなくなったほうがいいのに……早くこの手を放さなきゃって、ずっと焦ってた……なかなか踏んぎりがつかなくて、結局真実さんに辛い役目を任せちゃって……ゴメン」
 
 その言葉の内容は、私が即座に理解できる範疇をとうに超えていた。
 嫌な予感に、ドキリと胸が鳴る。
 
(……海君?)
 
 なんだか妙に気持ちが焦って、彼の表情を確認したくて、私は顔を上げようとする。
 ところが、まるでそうさせまいとするかのように、海君は私を抱きしめる腕に力をこめて、胸から放そうとしない。
 そしてそのまま――。
 
「俺に未来はないよ……真実さんに約束できるような未来は持ってないんだ……だから、さよなら……今まで俺のわがままにつきあわせて……ゴメン」
 
 心に刺さるような声で、海君は小さく囁いた。
 そしてその言葉にこめた想いを裏づけるかのように、ずっとずっと繋いでいた私の手を、彼は自分の意志で放した。
 
 何も言葉を返すことができない。
 
 寄せては返す波の音と、遠くから聞こえる漁船の汽笛だけが、ぼんやりとした私の意識の底で低く遠く響いている。
 
 長い長い沈黙。
 呼吸を整えるように、何度も何度も大きく息をついて、海君はやっと私を抱きしめていた腕の力を抜いた。
 
 腕から開放されて自由になっても、私は身動きすることさえできない。
 まるで全身が心臓になったかのように、ドキンドキンという心音が私の頭の中央で鳴り響いている。
 
 ちぎれそうな胸の痛みに耐えきれず、私は海君の顔を見上げた。
 震える声で、今私が彼から受け取ったと感じた内容を確かめた。
 
「それは……私とはもう一緒にいれないってこと……?」
 
 海君は、真っ直ぐに私の顔を見ている。
 決して嘘は吐かないその瞳で私を見据えている。
 その瞳を見ていたら、それは逃れようもない事実なんだとわかってしまう。
 
「……もう私に会いに来ないの?」
 
 消え入りそうな私の声に、彼は真剣な顔でしっかりと頷いた。
 肯定でも否定でもないあの曖昧な微笑みさえ、もう私に見せてはくれなかった。
 
 胸が痛い。
 痛い。
 痛い。
 握りしめた右手を、力強く押し当てずにはいられない。
 
「俺と会えないと真実さんが寂しがるからって……もう言ってくれないの?」
 
 涙まじりの私の問いかけに、鮮烈なほどの悲しみの感情が、海君の綺麗な瞳を斜めに横切った。
 
「……ゴメン」
 
 俯く白い顔。
 悔しさともどかしさが入り混じったような、なんとも言えないその表情。
 
 決して涙を見せはしない海君の綺麗な瞳は、私なんか比べものにもならないほどの、悲しみに満ちている。
 これまで海君がどれほどのことを諦めて、どれほど傷ついて生きてきたのかをまざまざと物語っている。
 
「傍にいても、私には何もできない……? 海君の力にはなれない……?」
 
 願いをこめて問いかけても、今はその瞳をいっそう悲しませるだけだ。
 わかっているのに言わずにはいられない。
 
「それは……! でもゴメン……俺は真美さんにだけは、最悪の場合を見せたくないんだ……」
 
 本当はわかってる。
 どうすれば彼を一番苦しめなくて済むのか。
 私にはもうわかっている。
 
(海君の言うとおり……ここでサヨナラすればいい……)
 
 なのに私の心は、自分でもどうしようもないほどに、彼との別れを拒んでいる。
 頑なに首を横に振り続けている。
 
(できることなら、海君を楽にさせてあげるために、私のほうからだって、手を放してあげたい……なのに……!)
 
 いつも海君と繋いでいた自分の右手を見下ろした瞬間、涙が一筋、私の目から零れ落ちた。
 
 失った瞬間に、自分がどんなに海君を好きだったか、大切だったか、思い知った。
 
 今まで、
「真実さんが! 真実さんが!」
 って私のことばかり気遣ってくれていた海君の言葉は、きっと照れ隠しもあっただろうけれど、いつだって彼の本気だったはずだ。
 
 だからこんな時に泣くなんて、絶対にしたくはなかったのに。
 苦しめたくなかったのに。
 
 ――ダメだ。
 涙はとめどなく私の目から溢れ、頬を伝って、落ちていく。
 
「泣かないで真実さん……」
 
 きっともう私には指一本さえ触れるつもりのない海君の、それが心からの願いだとわかるのに、私の涙は私のいうことをきいてくれない。
 
 海君は私を見つめる。
 ただそれだけしか許されていないかのように、せいいっぱいの想いをその瞳にこめて、私を見つめ続ける。
 
「ゴメン……真美さんゴメン……」
 
 ほんのついさっきまで迷うことなく抱きしめていた相手を、そうできないことが、どれぐらいもどかしいものなのか、苦しいものなのか、私にはわからない。
 
 それでも海君は決断した。
 自分の意思でしっかりと私と離れることを選び取った。
 
 その気持ちを大切にしてあげたいのに。
 尊重してあげたいのに。
 
 私はなんてわがままな女なんだろう。
 残酷な女なんだろう。
 
 ――手を伸ばしてしまう。
 好きで好きでどうしようもない存在にすがるように、手をさし伸べてしまう。
 
「ごめんなさい、海君……」
 
 その瞬間、海君の瞳の中で何かが弾けた。
「謝るのは俺のほうだ……!」
 
 全てをふり払うかのように頭を振って、彼はもう一度左手で、私の右手を掴んだ。
 
 いつも繋いでいたその手と指を絡めた瞬間、私は体中の力が抜けて、全身全霊で安堵した。
 
(ありがとう海君……私の最後のわがままを叶えてくれて……ありがとう……)
 
 言葉にできない想いに俯く私の濡れた頬に頬を寄せ、海君は長い指先で、冷たい唇で、私の涙をすくい取るようになぞっていく。
 
 彼の指が、頬が、唇が、私に触れるたび、涙が溢れて止まらない。
 
 熱に浮かされたように、何度も何度も私にくちづけて、海君は呻くように呟いた。
 
「ゴメン真美さん……本心を告げずにかっこよくいなくなるなんて……やっぱり俺にはできそうにない……!」
 
 その言葉が終わらないうちに、宙をかくようにもの凄い力で、海君の腕が私を胸の中に抱きこんだ。
 
「一度だけ! 一度だけでいいから本当のことを言わせて……! 忘れてしまってかまわない。聞かなかったことにして、すぐに違う誰かを好きになってもいいから……!」
 
 彼の腕の中で私は必死に首を横に振る。
「誰かを好きになんてならない! 私が好きなのは海君だもの! ずっとずっと、海君だけだもの……!」
 
 瞬間、息もできないくらい強く抱きすくめられた。
 私の大好きな真剣な嘘のない瞳が、すぐ近くから私の目を真っ直ぐにしっかりと見つめている。
 
「放したくない。俺だって他の誰にも渡したくなんかない……! ずっと隣にいて、俺が真実さんを守りたい! こんなふうに泣かせるんじゃなくって……本当はずっと……ずっと俺が……!」
 
 耳元で響く、今まで聞いたこともないような彼の叫び。
 
 涙が溢れる。
 胸が熱くなる。
 頭のどこかが痺れる。
 
 考えるより、思うより先に、私の口が勝手に動きだす。
 
「好きだよ海君……大好きだよ……!」
 
 だけどそれでも私たちは終わりなんだと、やっとわかった。
 苦しくて苦しくてたまらない胸で理解した。


 
 まるでそこだけ世界から切り離されたようなあの砂浜を出て、私達たちは海沿いの堤防を歩いた。
 フェリーが出る隣町に向かうため、漁船がたくさん停泊している港へと帰る。
 
「あれが夏の大三角形……それからあれがさそり座でしょう……」
 夜空を見上げたまま、指差しながら歩き続ける私を、
「真実さん、堤防から落ちちゃうよ?」
 海君は笑いながら、いつものように手を引いてくれる。
 
(全ての想いはこの砂浜に置いて行く)
 
 私が最初から決意していたことを彼に伝えたわけでもないのに、砂浜を出た途端、いつもの調子に戻った私と同じように、海君もいつもの彼に戻ってくれた。
 
(そうだね……海君はいつでも何も言わなくても、私の考えてることがわかるんだものね……)
 
 それはどんなに心地良いことだったんだろう。
 奇跡みたいな幸せだったんだろう。
 失うことが決まってしまった今、心からそう思う。
 
 いつものように手を繋いで、いつものように二人で歩くこの夜が、 
(二人で過ごす最後の時間だね……)
 お互いに口に出して確認はしなくてもわかっている。
 
 だから顔を見あわせて笑った。
 指を絡めて歩いた。
 一緒に、降るような満天の星空を見上げて、目を閉じて海鳴りを聞いた。
 
 躍るように軽い足取りで、私の半歩前を歩く背中が大好きだ。
 ふり返って、甘く輝くその瞳が大好きだ。
 いつだって、誰よりも何よりも大切だった。
 だから――。
 
(サヨナラしよう)
 私はやっとその決心を固めることができた。


 
 降るほどの星空の下で知った、あなたの痛みを忘れない。
 砂浜の上で堅く繋ぎあった、その指の感触を忘れない。
 波の音を聞きながら、狂おしいほどに重ねた唇を忘れない。
 
 真っ直ぐな瞳を、眩しいくらいの笑顔を絶対に忘れないから、――私は歩きだす。
 
 
 ――サヨナラに向かって、歩きだす。
 漁船が最も多く集まる港まで堤防を真っ直ぐに歩いて、それから私たちは隣町のフェリーターミナルに向かうためにタクシーに乗った。
 手を繋いで港までの道を歩いている間も、タクシーに乗ってからも、海君はずっとなんだか嬉しそうだ。
 
「ねぇ……もし誰か知ってる人に会ったらどうするの?」
 悪戯っぽく問いかけてくるから、内心ドキリとしながらも、私は平気な顔を作る。
 
「別にどうもしないよ……? この人が私の大好きな人ですって、誰にだって紹介するよ……」
 かなりやけっぱちな返答に、海君は喉の奥でクククッと笑った。
 
「いいなーそれ……やっぱり俺、真実さんの家にも行っとこうかな……?」
 愉快そうに呟く彼に、私は小さく息をのむ。
 
「……さすがにそれはちょっと……!」
 本当に困った顔で海君の顔を見上げたら、途端に彼は満面の笑顔になった。
 
「冗談だよ……!」
 わかってはいたつもりだけど、やっぱり腹が立つ。
 
「ほんとにもう! 海君は、いつもいつも……!」
 これまで心の中でだけくり返してきたセリフを、思わず口に出す私に、海君は悪戯っぽくニッコリと笑う。
 
「珍しく強気だなー」
 そのまま顔を近づけて、あっという間に私にキスしてしまった。
 
「海君!」
 狭いタクシーの中での突然のキスに、私は飛び上がりそうにビックリする。
 
 両手でハンドルを握りながら、ついさっきまで私とローカルな話題に盛り上がっていた運転手さんだって、きっと驚いているに違いない。
 
 海君はそんな私たちの様子なんかまるでお構いなしで、悪びれもせずまだニコニコ笑っている。
(何?)と瞳だけで問いかけられて、
(何じゃないでしょう!)と視線だけで言い返した私に、
 それでもまだ笑いながら顔を近づけてくる。
 
「海君!」
 必死にその体を押し戻しながら叫ぶと、ついに海君はお腹を抱えて笑い出した。
 
 車の中にこだまするハハハハッという笑い声に、彼が私をからかって面白がっていたんだと気がつく。
(もう、許さない! 絶対に許さない!)
 
 体ごと海君に背中を向けて窓の外に目を移した私を、彼はそれでも笑いながら見つめ続けている。
 一瞬も目を逸らさず、優しい瞳で見守っている。
 
 窓の外が真っ暗だから、窓がまるで鏡のような役目を果たして、背中を向けているにもかかわらず、私には海君の顔がよく見えた。
 
 表情は確かに笑っているけれど、その瞳は追いつめられたように切ない色をしていることがわかる。
 だから私の胸まで苦しくなる。
 揺らぐことのない真っ直ぐな海君の視線が、私の心に突き刺さる。
 
(もうすぐ終わりだなんて信じられない……! このままずっと二人で、一緒にいられるとしか思えないのに……!)
 
 だけど現実は現実だ。
 決して変わることはない。
 
(意地を張ってる時間なんて、本当はないんだよね……そんな時間はもったいないんだ……)
 
 ちょっと決まりの悪い思いをしながらも、意を決してまた彼のほうへと向き直る私に、海君は嬉しそうにニヤッと笑う。
「えっ? 真実さん、もう降参……?」
 
 少しムッとしながらも、必死に心を落ち着ける。
「いいでしょ……別に……」
 
「もちろんいいよ!」
 艶やかに笑って海君が私の手を取った。
 繋ぐことが当たり前になっている手。
 もう少しで、放さなければいけなくなる手。
 
 時間はどんなに私が祈っても、止まってはくれない。
 
 だから私は海君の肩に、そっと頭を乗せた。
 その上に、海君もそっと頭を重ねる。
 彼と触れている感触が、心には痛いけれど肌に気持ちいい。
 
(人の体温って温かいな……)
 エアコンが効き過ぎるくらいに効いている車の中だからそう思うのだろうか。
 
 それともこの温もりが、海君が確かに生きている証拠に他ならないから、こんなに心地いいのだろうか。
 目を閉じると眠くなる。
 
 きっと「真実さんはまた!」なんて海君に呆れられるだろうから、意識を保とうと必死に思うのに、ついつい眠りに落ちていこうとする自分を止められない。
 
(そっか……海君とくっついていると、幸せすぎて眠くなるんだよ……)
 言い訳のように、私はそんなことを思った。
 
(緊張するとか……ドキドキするとか……それはもちろんあるけど……そんなことよりずっとずっと幸せすぎて……安心するんだよ……!)
 
 もうすぐ失うって時になって、こんなことに気がつくなんて、もう笑うしかない。
 でもそれは、私が絶対に確信を持って言えることだったので、そっと海君の耳に口を寄せて、囁いてみた。
 
「ああ、そうだね……それはそうかもしれないね……」
 小さな声で返ってきた海君の答えは、私をとても満足させてくれた。
 だけど――。
 
「でもそれでも俺は、やっぱりドキドキのほうが大きいんだけどな……?」
 ため息を吐きながら、とっても意味深な瞳で真っ直ぐに見つめられると、私だってやっぱり赤くならずにはいられない。
 
「もう……! 一生懸命、意識しないようにしてるんだから、そんなふうに言わないでよ……!」
 今日これからのことを考えると、あまりにも緊張してしまうから、私が必死で目を逸らそうとしていることを、海君は堂々と蒸し返す。
 
「どうして? 意識していいよ……意識してよ……?」
 わざと耳元で囁かれる甘い声に、眩暈がおきそうになる。
 
「海君!」
 抗議するように彼の名前を呼ぶ私の唇に、海君がまたそっと唇を重ねた。
 もうすっかり怒る気も失せた。
 
「……海君どうしたの? なんだか変だよ……? どこか壊れちゃった……?」
 半ば呆れ気味にそう尋ねると、海君は私をそっと胸の中に抱きこむ。
 
「うん。そうかも……」
 私の髪に顔を埋めて、小さく呟く。
 
「もう手を繋ぐこともないって思ってたのに、真美さんが俺を望んでくれたから……俺が思ってたのと同じように、手をさし伸べてくれたから……もう制御不能になったかもしれない……ゴメン……こんなじゃダメ?」
 
 一気に体中の血液が逆流するかと思った。
 ドキンドキンと頭が割れそうなくらいに心音が鳴り響く。
 
(そんなこと言ったって! ……そんなふうに尋ねられたって! ……なんて答えたらいいのか、私にだってわからないよ!)
 
 真っ赤になって黙りこむ私を見て、海君はクスリと小さく笑う。
 
 私の耳元に唇を寄せて、とてもとても声を潜めて、
「責任取ってよね? 真実さん……」
 妙に艶やかに囁くから、もう焦りきって、どうしようもなくって、この場から逃げ出してしまいたくなる。
 
 だけど、狭いタクシーの中なのだ。
 そして行く先は、逃げ場などない船の上なのだ。
 
(ねぇ……いつもの冗談だよね? 私をからかって遊んでるんでしょ……?)
 そう問い質そうと思って見つめた海君の顔は、これ以上なく真剣だった。
 
 あまりに真顔で、じっと見つめられるから、私は余計にドキドキして、結局また、彼に背を向けるしかなくなる。
(……どうしよう!)
 
 本気で困って俯く私には、その瞬間、窓に映る海君の表情が悪戯っ子のような笑顔に変わったことなど、全然見えていなかった。


 
 フェリーのターミナルに着くとすぐに、私たちは窓口に行って乗船手続きをおこなった。
 貴子が渡してくれたチケットは予約券だから、実際に乗船する前に、ここで改めて色々な書類に記入しなければならない。
 いろんな項目が並んだその用紙を前にして、私は途方に暮れていた。
 
「ねえ海君……私に書かせたって、海君の欄にはなんにも書けないよ……?」
 
 自分で言ってても、おかしくなる。
 氏名。
 住所。
 年齢。
 電話番号。
 何を聞かれても見事なまでに、私は本当の彼のことを知らない。
 
 海君はニヤリと笑って言った。
「真実さんと一緒でいいよ……」
 
「そう……?」
 大きくため息を吐きながらも、彼が言ったとおりにする。
 
(海君の本当の情報なんて……いまさらだ。サヨナラを目の前にして、いまさら教えてもらっても……もうどうしようもない……!)
 自分に言い訳するように、心の中で何度もくり返す。
 
 私が海君のことを何も知らないからこそ、私たちのサヨナラには大きな意味があった。
 あとになってやっぱり会いたくなっても、追いかけていく術も、彼を探す術も私にはないのだ。
 
 彼が確かに私の隣にいたという証拠さえ、私には何一つ残らない。
 
(これって……もう本当に、もう二度と会えないサヨナラだね……)
 
 そう思うと、やっぱり心は切ないけれど、実に海君らしいと思った。
 何も教えてもらえず、それでもこんなに私が好きになった人らしいと思った。
 
 だから彼が言ったとおりに、乗船票には私と同じ連絡先を書いて、誕生日なんかも適当に記入した。
 
 けれど全部書き終わって、提出したところで、
(でも……海君の体調としては、船で旅なんてよかったのかな……?)
 と思わずにはいられなかった。
 
 よくいろんな施設や器具なんかで、『ご利用いただけないお客様』の但し書きを見ると、大抵『心臓の疾患』と書いてある。
 これまで、自分には関係ないと見逃してきたその項目が、急に大きな意味を持って目の前に立ち塞がる。
 
 できないこと。
 行けない場所。
 きっと海君には私が思っている以上にたくさんの制約があるはず――。
 
(海君はこれまでずっと、その限られた世界の中で生きき来た……そしてこれからもその中で生きていく……!)
 そう思うと、胸が締めつけられるように痛かった。
 
 考えこんだまま動かなくなってしまった私を、その海君が優しく見下ろす。
「……どうしたの?」
 
 心に湧いた疑問をどうすることもできなくて、そのまま彼に問いかけた。
「海君……船で移動なんてしてよかったのかな……?」
 
 私の言葉の意味がよくわからなかったらしくて、海君は少し首を傾げて私の顔をのぞきこむ。
 
 私は必死に問いかける。
「海君、大丈夫なの……? 本当にいいのかな?」
 
「ああ……」
 ようやく私の言わんとしていることをわかってくれたらしく、海君はニッコリと笑った。
 
「大丈夫だよ。それで直接どうこうってことはない。結局俺の場合は、どこにいても何をしてても……いい時はいいし……ダメな時はダメになるだけだからさ……」
 明るく元気な声は、まるでその内容の重さに伴っていない。
 
「いつ『もしも』ってことになっても、とっくの昔に俺の家族は覚悟してるし、俺だって納得してる……あっ! でもちゃんと真実さんには迷惑かけないようにするから……!」
 放って置くといつまでも続きそうな海君の話に、私はたまらず叫んだ。
 
「海君!」
 手を伸ばして彼を抱きしめる。
 心がどうしようもなくズキズキする。
 
 海君がどんな気持ちで笑いながらこんな話をするのか。
 私にはわかる。
 わかりすぎるくらいにわかるから、これ以上聞けない。
 ――言わせたくない。
 
「ゴメン。海君もういいよ。ゴメンね……」
 
 私の声に海君はふうっと小さく息をついて、私の体を抱きしめ返した。
「俺こそゴメン……」
 
 その声が――悲しいくらいに切ないその声が――海君の本物の声だと思った。
 
 だから私は、せいいっぱいの想いをこめて誓う。
「私が守る。海君のことは、私が守るから……」
 
 海君が大きく目を見開いて、いかにも面白そうに私の顔をのぞきこんだ。
「真実さんが?」
 
 私の上に降ってくるように聞こえる海君の声は、驚きに満ちている。
 と同時に、隠しきれない喜びに満ちているように聞こえる。
 
「そう……私が!」
 だから私は、抱きしめる腕に力をこめた。
 大好きな海君の全てを、これ以上はないほど愛しく感じた。
 
「守ってあげる……」
 笑みを漏らした私に、海君もニッコリと微笑んだ。
 
 この上なく魅力的なその笑顔を輝かせて、
「へえ……楽しみだな……」
 ゆっくりと首を傾げて、また私にキスをした。
 乗船案内のアナウンスが始まるとすぐに、私たちはフェリーに乗りこんだ。
 割り当てられた個室を探しだして、中に荷物を置く。
 船の中だなんて思わず忘れてしまいそうなその部屋には、ベットが二つと、小さな机が一つ、小型の冷蔵庫とテレビまで置いてあって、まるで小さなホテルの一室みたいだった。
 
 自分でそんなふうに考えておいて、ドキリとする。
 今夜一晩、この部屋に海君と二人きりなのかと思うと、どうしようもなく緊張した。
 
「私……甲板に出て外を見てくるね。町が遠くなっていく様子って、船から見たらどんなふうなのか……ずっと見てみたいって思ってたんだ……!」
 
 それは確かに事実だったので、私は急いで重いドアを開け、大慌てでその小さな個室から出ていこうとする。
 
 海君はそんな私をフッと笑って、腰かけていた椅子から立ち上がった。
「俺も行くよ」
 
 重たいドアに四苦八苦している私にあっという間に追いついて、一緒にドアを押し開けてくれる。
 背中いっぱいに感じる海君の気配なんて、これまでは全然平気だったのに、今日は妙に近すぎるように感じて、ドキドキが止まらない。
 
(意識しすぎだよ……!)
 ギュッと目を閉じて不自然な思いをふり払おうとしている私の右手を、いつものように海君が掴んだ。
 
「早く行かないと、あっという間に見えなくなっちゃうよ……?」
 悪戯っぽく笑った瞳に、繋いだ手に、胸が高鳴った。
 
 まだ、それらは私のものなんだと思えることが、どうしようもなく嬉しかった。


 
 
 出港時間が真夜中に近いということもあって、甲板に出ている人の数はそんなに多くなかった。
 まばらなその人たちも、吹きつける強い海風と、フェリーの思ったよりも大きなエンジン音に参ったように、一人また一人と船室に帰っていく。
 接岸していた港もどんどん小さくなって、ついに小さな一つの点になって視界から消えてしまっても、私はまだそこを動こうという気にはならなかった。
 
「一緒にいるよ」
 と言ってくれた海君は、
「こんなに強い風に、長い時間当たってたらだめだよ」
 と言い張って、私が船室に帰らせた。
 
 だから私はいろんな思いを噛みしめて、故郷の町が遠くなっていく様子を、思う存分一人きりで見送ることができた。
 
(明るい時だったらもっと良かったのに……)
 そんなことを思いながら、小さな小さな町の灯をいつまでも眺めていた。
 
「いいかげんにしないと……風邪ひいちゃうよ?」
 優しい声が私のすぐ近くで響いて、肩に薄手の上着が掛けられた。
 
 甲板の心もとない手すりに寄りかかるようにして、いったいどれぐらいの時間、私はボーッとしていたんだろう。
 いつまでたっても帰って来ない私を、海君がついに迎えに来てくれた。
 
 すぐ隣に肩をくっつけるようにして立って、私の顔をのぞきこむながら笑う。
「ずっとここに居るの?」
 
 狭い船室のことを思い出して、私は困りきって返事する。
「別にそれでもいいけど……」
 
「そんな寂しいこと、言わないでよ」
 本当に寂しそうな声に、思わず彼の顔を仰ぎ見た。
 甲板を照らすライトを背に受けて、海君の表情はよく見えない。
 だけど――。
 
「一緒にいようよ……せっかくなんだから……」
 恥ずかしい思いよりも、動揺する思いよりも、その言葉が私の心に大きく響いた。
 
(そうか……もう会えなくなるんだもんね……)
 
 なんて実感が湧かないんだろう。
 今でもまだ信じられない。
 もうすぐ私たち二人の時間は終わりを告げるなんて、まるで嘘みたいだ。
 
 当たり前のように私の手をそっと握った海君の肩に、私は自分から頭を寄せた。
 今は一センチでも一ミリでもできるだけ彼の近くにいたいと、その時初めて思った。


 
 なのに、船室に帰って二人っきりになったら、それだけでもう心臓が口から飛び出してしまいそうなくらいに緊張する。
 
「あー、疲れたね……」
「うん」
 
 ベッドに座りこんだ海君に、形ばかり笑いかけて返事して、私はすぐに背中を向ける。
 
 小さな机の上に置かれた説明書きなんかを手に取って、パラパラとめくりながら、
「思ったより揺れないんだね」
 とか、 
「海の上だなんて信じられないね」
 とか思いつくだけのことを全部口に出したら、あとは耐えられないくらいの沈黙の中に、二人だけで取り残されてしまった。
 
(海君が……何気なくいつものように接してくれたらいいのに……!)
 なんだか泣きそうなくらいの気持ちでそう思う。
 
 だけど、いつもは私の考えていることを口に出さなくても察してくれる海君が、今夜はなぜかわかってくれない。
 ううん。
 わかっていてわざと無視しているようにさえ感じる。
 
 部屋にたった一つだけある窓の前に立って、しがみつくようにして真っ暗な海を眺めながら、私は頑なに彼に背を向け続けていた。
 
 耳をすませば遠くに、波の音が聞こえるような気がする。
 実際にはフェリーのエンジン音が小さく響くばかりで、波の音など聞こえるはずもないのだけれど、丸い小さな窓から見える海は、不思議なくらい近くに感じた。
 
 小さな額に入った絵のように、窓枠で切り取られた景色は、ちょうど夜空と海との境界線を捕らえている。
 どこまでも明かりの見えない水平線の上に、眩しいくらいの月が影を落としている光景は、ため息が出るほどに美しかった。
 
 漆黒の夜空の月と、水面に映った月。
(どっちが本物かわからないくらいだ……)
 
 真剣にそんなことを思った時、ベッドから立ち上がった海君が、音も無く静かに隣にやってきた。
「何が見えるの?」
 
 ドキリと飛び上がった胸の音をごまかすように、私は窓から離れず答える。
「海と月。それだけだよ……」
 
「そっか……」
 短く答えるとすぐに、海君は沈黙した。
 
 決して広くはない部屋の中を充填していくかのような重苦しい沈黙。
 息が詰まりそうな状態に、いったいどうしたらいいのかわからず、さんざんさまよわせた視線を、私は結局最終的には、隣に立つ海君の横顔に向けた。
 
 海君は目を閉じていた。
 自分で窓の向こうをのぞこうとはしないで、懸命に私の言葉だけで、外の風景を想像しようとしている。
 
 ピタリと閉じた長い睫毛に、目を奪われた。
 瞑想しているような、夢見ているかのような横顔。
 
 白い頬に触れたくて、思わず手を伸ばしたくなる。
 それはもう、恥ずかしいとか照れくさいとかの気持ちを越えた、私のありのままの感情だ。
 
「海君……」
 彼の名を呼んだその声が、今までで一番溢れるくらいの想いをこめた声になったと、自分でも思った。
 
 海君は閉じていた目を開けて、私を見つめた。
 その大好きな瞳に、私はまたどうしようもなく捕まってしまった。
 
「真実さん……」
 私の名を呼ぶ彼の声にも、泣きたいくらいに、ただ愛しさだけが募った。
 
「俺はもう、真実さんに会いに来ないよ……」
 私の目を見つめながら海君が静かに語る言葉は、悲しくてたまらない内容のものなのに、なぜか今は心に優しく響く。
 
「一緒に未来を歩くことはできない……」
 確認するかのように、諭すかのように続けられる言葉が、この小さな船室の光景と共に、私の心に刻みこまれていく。
 
「今日でサヨナラだ……」
 海君がどうしてそんなことをわざわざ口にするのか、その理由が私にはわかる。
 わかり過ぎるほどにわかるから、私はそっと頷き返す。
 何度も何度も頷き返す。
 
「それでも……」
 それ以上の言葉を彼はきっと口にはしない。
 私にはわかってる。
 
 だから私は彼に向かって手をさし伸べる。
 ずっと前に誓ったように、彼がそうできないのなら、私のほうから近づいていけばいいと、やっぱりそう思った。
 
「いいよ……それでもいいよ……」
 穏やかに笑いながら言った私に、海君が驚いたように目を見開いた。
 目の前にさし出された私の右手と、私の顔を交互に何度も見つめ、次第にホッとしたような笑顔になっていく。
 綺麗な瞳が、この上なく幸せそうに輝きだす。
 
 さし出された私の右手に、海君は掌をあわせるように自分の左手を重ねて、これまで何度も何度もそうしてきたように、指を絡めて力強く握りしめた。
 
「ねえ……真実さん覚えてる? 俺が、真実さんを呼び捨てで呼ぶ時はどんな時か、最初から決めてるって言ったこと……?」
 心に染み入るような声でそう聞かれて、心臓がドキンと跳ね上がった。
 
 私を見つめる海君の顔からそっと目を逸らして、わざと窓の向こうの海に目を向ける。
「うん、覚えてる」
 
 私は静かに答えた。
 
 繋いだ手をそっと引き寄せて、海君が私を抱きしめた。
 
 さっきまで頭の中を駆け巡っていた「どうしよう?」という思いは、不思議なほどに私の心から消えていた。
 それよりも何よりも、今はもう、私を抱きしめるこの腕が、胸が、私の上に斜めに首を傾げて近づいてくるその唇が、どうしようもないほどに愛しい。
 
「真実さんが悪いんだよ……俺は諦めることには慣れてるのに……本当はもっとかっこつけて……何にも言わず、何も望まないまま、真実さんの前からいなくなるはずだったのに……」
 
 私の頬に、首に、唇に、何度も何度もキスをしながら、海君はちょっと拗ねたようにそんなことを言う。
 だけど私を見つめる瞳はなんて優しいんだろう。
 なんて魅力的なんだろう。
 
「そうだね……私のせいだね……」
 小さく笑いながら呟いた私に、
 
「責任取ってくれるんでしょ?」
 わざと意地悪く囁かれる声は、なんて耳に心地良く響くんだろう。
 
(きっとまちがってる……こんなのよくないはずだ……)
 
 そんなことは百も万も承知で、私は海君の首に腕をまわした。


 
 ずっと前に、
「真実さんを俺のものにしたい。でも俺にはそんな資格ないんだ」
 と私に告げた時の、海君の切なそうな瞳を覚えている。
 
(そんなことないよ! 私がそんなふうに思ってほしい人は、海君以外にはいないんだから……!)
 
 あの時は口に出して返すことのできなかった私の本音が、今、頭の奥で鳴り響いている。
 
「海君……愛してる……」
 何度も何度も心の中では思いながらも、最後まで口に出すつもりはなかった言葉が、思わず口をついて出てしまった。
 
 ふっと甘いため息を吐いて私にキスした海君は、いつものように
「俺もだよ」
 と私の言葉に同意するのじゃなく、
「真実、俺も愛してるよ」
 と私の耳元で囁いた。
 
 切なさに、愛しさに、本当に胸が張り裂けると思った。


 
 愛しくてたまらないこの温もりにこのまま溺れてしまったら、私は本当に、このあと彼の手を放すことができるのだろうか。
 あんなに苦しんで、それでも決意した別れを貫くことができるのだろうか。
 
 ――わからないけれど、止められない。
 
 走り出した感情のままに、彼に手をさし伸べた瞬間から、よくばりな私の最後のわがままは、自分自身でも、たとえ神さまであっても、きっと止めることなんてできはしない。


 
 小さな窓から、月光が降り注いでいる。
 キラキラと煌めく水面と同じように、私たち二人の上にも小さな光の輪ができている。
 
 私はすぐ隣にある大好きな瞳に語りかけた。
「海君……ほら月が見てる……」
 
「そうだね……でもまあ……月しか見てないからいいっか……」
 どこかに後悔を残したような言葉に、不安が募る。
 
「ゴメンね……」
「どうして真実さんが謝るの?」
「だって……海君本当はこんなつもりじゃなかったでしょ……?」
「こんなつもりって……どんなつもり?」
 
 私が困って口ごもることをわかってて、海君はわざとそんな言い方をする。
 こうなったことを悔いているわけじゃないんだとホッとしながらも、ちょっと腹が立って、私は海君に背中を向けた。
「もういいよ」
 
 ふて腐れたセリフに、海君が漏らしたフフフッという笑いが微かに聞こえる。
 何も言わないまま、急に海君が手を伸ばして、私の体をうしろから抱きすくめるから、ドキリと心臓が跳ねる。
 背中いっぱいに彼の温もりを感じて、この状況が恥ずかしくてたまらなくなった。
 
「海君……」
 そっと呼んだら、 
「何?」
 この上なく優しい声が返ってくる。
 
 抗議の言葉をぶつけるつもりだったのに、その声音についついつられて、
「好きだよ」
 と本音が出てしまった。
 
「俺も好きだよ」
 やっぱり今だけは、海君がしっかりと言葉で自分の気持ちを伝えてくれる。
 私がずっと聞きたかった言葉をちゅうちょなく返してくれる。
 
 そのことがわかったから、なおさら言わずにはいられなくなった。
 ――心に浮かんだ感情を、一つ残さず伝えずにはいられない。
 
「大好き」
「うん。俺も……大好き」
 
 ギュッと目を瞑ってその声を心に抱きしめた。
 いつまでもいつまでも覚えていようと焼きつけた。
 
 海君の左手が、私の右手を見つけだして、指を絡める。
「真美さん……朝になってこの手を放す時が来ても、俺はやっぱり繋いでるから……」
 
 私の心に染み入るような声で彼は囁く。
「いつまでも……心の中でだけは繋いでるから……」
 
 海君にはいつも――いつでも私の望んでいることがわかる。
 私が心に秘めたままの小さな願いでさえ、気づいて、拾い上げてくれる。
 
 その優しさに感謝をこめて、私は頷いた。
「ありがとう、海君」
 
「俺のほうこそありがとう」
 私を抱きしめる腕に、海君はまたギュッと想いをこめた。


 
 彼がどんな声でどんなふうに私を呼んだのか。
 どんな顔でどんな瞳をして私のことを見つめたのか。
 その大きな手も、長い指も、私を抱きしめた腕の強さも、温かい胸の中も、優しい背中も、何もかも忘れない。
 
 だから彼と繋いだ右手は、これから先もずっと繋いでる。
 ずっとずっと心の中で、――いつも繋いでる。
 ベッドに横になって目を閉じてはみても、眠ったんだか眠らなかったんだか、よくわからないような夜だった。
 初めてのフェリーはどうだったかと誰かに尋ねられても、上手く答えられる自信はない。
 もう一度、一人で乗る機会があったとしたら乗るのかと尋ねられても、答えはきっとノーだ。
 
(あまりにも印象が強すぎる……思い出が大きすぎるよ……)
 隣に眠る大好きな人の寝顔を見つめた。
 
(どうして海君が私と同じところで眠っているんだろう……?)
 改めてそんなことを考えてしまえば、またどうしようもなく鼓動が速くなる。
 顔から火が出そうなくらいに恥ずかしくなる。
 
 でもこれは夢じゃない。
 確かに現実だ。
 
 海君は枕を抱きしめるようにしてうつ伏せに、綺麗な顔を半ば隠してしまうような格好で寝入っている。
 隣にいる私にすっかり気を許して、熟睡してしまっている様子を見ていると、思わずまたその頬に触れてみたくなった。
 
 でもそんなことをしたら、敏感な猫のように聡い彼をきっと起こしてしまうだろう。
 
 何の気負いもない静かな寝顔を、
(できるならこのまま取っておきたい……)
 なんて思っている私は、迂闊に手を出したりはしなかった。
 
 大切な宝物のように見つめながらも、ただそのままにしておく。
 
 そうしながら、自分は下船の準備のために起き上がった。
 海君を起こしてしまわないように、そおっと立ち上がった。


 
 太陽が遥か前方の水平線から登り始めて、船内アナウンスで下船の案内が始まっても、海君はなかなか起き上がろうとはしなかった。
 あまりにも静かに眠っている様子を見ていると、思わず不安になる。
 
「海君……海君!」
 不安に耐え切れず呼びかけたその何度目かに、彼は目を閉じたまま答えた。
 
「起きてるよ」
 本当にホッとして胸を撫で下ろす。
 
(よかった……具合が悪くなったわけじゃないんだ……)
 
 それなのに、
「でも……目は開かない……」
 なんて言い出すから、心底ビックリする。
 
「どうしたの? ……調子が悪い?」
 本気で心配する私の声に海君はニヤッと笑って、だけどやっぱり目は開けず呟いた。
 
「真美さん……あれやってよ、あれ――おはようのキス」
 私は彼が横たわっているベッドに、思わず枕を投げつけてしまった。
 
「なに言ってるの! もう時間がないんだよ!?」
 いいように躍らされたことに腹が立って、ヘソを曲げた私に、海君はそれでも目は開けず、ニッコリと笑う。
 
「いいじゃない……! 最初で最後なんだからさ……お願い!」
 大好きなあの笑顔でそこまで言われたら、いくら私だって、もうそれ以上は否定の言葉が出てこない。
 
 仕方がない。
 ――実は口で言っているほど私自身も嫌がっているわけではないから。
 
 本当は触れていたい。
 一分でも一秒でも長く、この大好きな人に触れていたい。
 
 だからベッドで眠るお姫さまにキスをした童話の王子さまのようにひざまづいて、彼の顔の横に手をつき、冷たい唇に、自分の唇をそっと重ねた。
 
 その瞬間。海君の両腕が私の体を捕まえて、グッと自分の上に引き寄せた。
「海君!?」
 
 半ば予想はしていたけれども、そのあまりの腕の力に、私は自分を支えることができなくて、彼の上に思いっきり倒れこんでしまった。
 
 慌てて、
「大丈夫?」
 と言いかけた唇は、言葉半ばで塞がれる。
 
 私の頭を右手で押さえつけるようにして、海君は私に強引なキスをした。
 
 ギュッと目を閉じた瞬間、どうしようもない想いが胸に湧いてきた。
(いったい何度……海君とこんなふうにキスしただろう……?)
 
 心の中だけで、ぼんやりとそんなことを考える。
 ――大好きな、大切な人の腕の中で考える。
 
(でもそんなことぐらいじゃ……私たちのサヨナラは変わらない……!)
 
 それがまるで当たり前ように、私の心の中で許諾されていることは、他の誰に言っても、きっと理解してはもらえないだろう。
 
(でもいいんだ……私と海君さえわかっていればいいんだ……)
 
 だから私たちは声をかけあわなくても、自然と一緒にベッドから起き上がった。
 二人で手を繋いで歩ける最後の道を、歩き出すために立ち上がった。
 
「行こうか。真美さん……」
 さし出された海君の手を、この上ないくらい強く握り返して、私はその部屋をあとにした。
 
 私たちに一晩だけの夢を見せてくれた海の上の小さな部屋に、サヨナラを告げて歩き出した。


 
 船を下りる鉄製のテロップに一歩足を踏み出した瞬間、送迎デッキの向こうに、よく見慣れた二つの顔を見つけた。
 
 私と目があった途端に、二人ともそれぞれの笑い方で笑う。
(貴子……! 花菜……)
 
 正直言ってホッとした。
 秒刻みで近づいてくる海君との別れに、本当は私は全然平静などではない。
 
 なのに別れの時は、容赦なくやってくる。
 
 海君がそばにいる間は、強がってせいいっぱい笑っていられるだろうけれど、一人になったら自分はどうなってしまうのか――自分でも予想もつかなかった。
 
(でも、貴子と花菜がいてくれるんなら……)
 
 どれだけ救われるだろう。
 たとえ本当のことは口に出せないとしても――。
 これまでがずっとそうだったように、友だちとのおしゃべりは私に元気を思い出させてくれるはずだ。
 
 感謝の想いをこめて、私は二人に手を振った。
 海君と繋いだ右手は離さず、左手を大きく振った。


 
 貴子と花菜が待っている出口へと向かう途中。
 海君が、
「真実さん」
 と私の名前を呼んだ。
 
 鋭い刃物で切りつけられたかのように胸が痛んだけれど、
「うん」
 と私はしっかりと返事をした。
 
 今度は私が自分から手を放す番だ。
 一度は海君が放した手。
 私が望んでもう一度繋いだ手。
 ――だから今度は私から放さなければならない。
 
『自分には真実さんを望む資格がない』と思っている海君が、二度と繋ぐことができないように、今度は私から――。
 
 それが彼の望みだから。
 私にはわかるから。
 どんなに自分の心に反したって、彼の本心にも反したって、そうすることしか私たちに残された道はない。
 
「海君……」
 
 呼びかけた私に、いつものように優しい瞳が、視線だけで、(何?)と問いかけた。
 いつもと何も変わらない。
 
「じゃあまた明日」と小さな約束だけを残して、私の家の前から帰っていった沢山の日々と何も変わらない。
 だけど――。
 
『また』なんて言葉は、決して嘘をつかない海君の口からは、もう二度と聞くことはないんだ。
 
「さよなら……」
 せいいっぱいの作り笑いでそう告げた私を、海君は笑わなかった。
 
 どうしようもなく悲しい瞳をして、何も言わず繋いだ手にギユッと力をこめた。
 
 初めて出会ったあの夜から、いつだって年下とは思えない余裕の微笑を浮かべていたくせに、最後の最後にそんな顔を見せるなんて、やっぱり海君はズルイ。
 
 私のほうから抱きしめて、
「好きだよ」
 と言わせてしまうその瞳はズルイ。
 
 貴子たちから見たら、
「真実ったら、あんなところでいちゃついて」
 って思われるじゃない。
 
「今の今まで一緒にいたくせに、そんなに離れるのが寂しいのか?」
 ってからかわれるじゃない。
 
 だけどそうせずにいられない。
 誰の目も、今後のことも考えずに、今、抱きしめずにはいられない。
 
「海君……大好きだよ」
「うん。俺も大好きだよ……」
 
 確かに確認しあって、私たちは離れた。
 大好きなその瞳をしっかりと見つめながら、私はずっと繋いでいた手を、自分から放した。
 
 それきり何も言わず、私の顔も見ず、貴子たちが待っているのとは別の出口に向かって、海君は歩き始める。
 何度も何度も夕焼けの中に見送ったその背中を、私はせいいっぱいの想いをこめて朝日の中に見送った。
 
 眩しいくらいの朝日が反射して、淡い色に輝く柔らかい髪が、
 華奢な輪郭の横顔が、
 小さなバッグを肩に載せるように持った大きな手が、
 足早に遠ざかっていく長い足が、
 一生消えない残像のように、自分の心に焼きついていくのを感じた。
 
 自分で決めたことは、どんなことでもやり通す彼の意志の強さを表すように、下りのエスカレーターに乗って、その姿が私の視界から完全に消えてしまうまで、とうとう海君は一度もふり返らなかった。
 
 絶対にそうだろうとあらかじめ思ってはいたけれど、確かに私のことをもう一度見つめようとはしなかった。
 
 だけど私は覚えている。
 私を見下ろす優しい瞳を。
 何度も恋せずにいられない鮮やかな笑顔を。
 
 だから自然に歩き出せた。
 もう一人では踏み出せないかもしれないと思っていた一歩を、私を待つ貴子たちに向かって、元気に踏み出せた。
 
 歩きながら、自分の右手を持ち上げて、そっと空に透かしてみる。
 
(心の中でずっと繋いでる……)
 
 海君とした最後の約束は、私たちの永遠だ。
 たった一つの真実だ。
 
 だから歩いていける。
 どんなに離れても、もう二度と会えなくても、私は歩いていける。
 
 興味津々に、私の話を待っているらしい貴子と花菜の顔が、どんどん近づいて来る。
 
(まいったなあ……結局貴子が計画した部分については、計画どおりってことになるんだよね……何を聞かれるんだろ……?)
 
 小さくため息を吐いた。
 
 そんな私に
「お帰り」
 と、貴子がニヤッと人の悪い笑みを浮かべて笑う。
 
 その顔に重なる大好きな面影を、実際に目にすることはもうないかもしれないけれど、
「ただいま……」
 笑い返すことができた自分にホッとした。
 
「……真実ちゃん?」
 優しい花菜がビックリして呼びかけてしまうくらい、とめどなく涙が私の頬を伝って落ちていたけれど、とりあえず表情だけは笑顔が保てていたはずだ。
 
(だってこれが海君が私にくれた一番のプレゼントなんだもの……)
 
 だから忘れない。
 決してもう二度と忘れない。
 笑顔の作り方は忘れない。
 
(いつだって笑えるよ……?)
 
 その証明のように、きっと人生の中で一番辛いこの瞬間を、私は笑顔で通した。
 涙をポロポロ零しながらも、意地になって笑い続けた。
「いったいどうしたんだよ! 何があった!?」
 フェリーターミナル中に響き渡るような大声で叫びながら、貴子が私の体をユラユラと揺さぶる。

 すっかり取り乱した貴子を制止するために、花菜が間に割って入った。
「貴ちゃん! 貴ちゃん落ち着いて! ……ね?」
 
 貴子はハッとして私の両肩にかけていた手を放した。
 
 私は両手に提げていた荷物を地面に置いて、てのひらでぐいっと自分の顔を拭う。
「ただいま」
 
 息をのんだように私を見つめる二人に、微笑みかける。
 なんとか笑顔が作れたらしいことが、ホッとしたような二人の表情からわかった。
 
「真実ちゃん……」
 私につられたように、目に涙を浮かべていた花菜が、優しく微笑んで私を抱きしめた。
 
 難しい顔をして私の様子をうかがっていた貴子も、それ以上はもう何も言わず、私の頭の上にそっと手を乗せてくれる。
 
 だから無理やりにじゃなく本当に涙が止まった。
 もう泣かずにすんだ。
 悲しい別れも辛い思いも含めて、海君とのことを泣かずに話せるような気がした。


 
「別れたぁ!?」
 らしくもなく素っ頓狂な声を上げて、貴子は私の顔を心底驚いたようにのぞきこむ。
 
 ためらいもなく頷いた私に、フーッとため息を吹きかけると、乗り出していた体の重心をうしろに移して、椅子の背もたれにドカッと大きな音を立てて勢いよくもたれ掛かった。
 
 フェリーターミナルを出てすぐの喫茶店。
 窓際のテーブルの席に着いても私に何も尋ねてこない貴子と花菜に、私は自分から話を切り出した。
 
 ――海君とサヨナラしたこと。
 
 一瞬沈黙した後に、二人は目を見開いて驚く。
 当然といえば当然の反応だった。
 
「なんでそうなるんだよ!」
 貴子の怒鳴り声は別に私を責めているわけではない。
 ただあまりにも予想外の出来事に、やり場のない憤りを感じているだけだ。
 
「まさか……?」
 その怒りの中に、一瞬自分のやったことに対する後悔の念が見て取れて、私は慌てて口を開いた。
 
「違うよ! 別に、貴子のお膳立てが気に入らなかったとかそんなんじゃないから……」
 
 貴子は頭を抱えようとしていた手でサラサラの長い髪をかき上げると、眼鏡の奥の鋭い目を私に向けた。
「じゃあなんなんだよ?」
 
 尋ねられると言葉に詰まってしまう。
 だって、なんと言ったらいいんだろう。
 
(最初から海君がそう決めてたから? ずっと一緒にいるつもりはなかったから? 私が海君に秘密を問い正したから?)
 
 何を言っても、貴子にわかってもらえそうな気がしなかった。
 
「ええっとね……」
 それだけ言って俯いたままの私の肩を、花菜がフォローするようにそっと叩く。
 
「今はいいじゃない……真実ちゃんがもっと落ち着いたら、きっと話してくれるわよ……ね?」
 心のままを代弁されたような気がして、私は急いで顔を上げた。
 
「うん。いつかきっと話す。話せると思う……!」
 私の言葉に、貴子はもう一度フーッと息をついて、頭を軽く横に振りながら、腕組みした。
 
「わかった。真実にはもう何も言わないよ。私の計画を台なしににしてくれたツケは、いつか絶対、あいつに払ってもらうから!」
 強い口調で宣言された言葉に、私はため息混じりの声が出た。
 
「海君は……もう私のところには来ないよ……」
 
 あんなにキッパリと彼は言い切った。
 一度も私をふり返りもしなかった。
 それらは全て海君の意志の強さを表しているし、決意の固さを示している。
 
 今までもずっとそうだったように彼の決心は揺らぎはしない。
 どんなことがあっても変わりはしない。
 
 だけど、貴子はどこか遠いところを見るように、視線を窓の外の空に向けた。
 
「そんなことはないよ」
 彼女独特のあの覇気のある声ではなく、静かな確信をこめて呟くような声に、私は思わず貴子の顔を見つめた。
 
「貴子?」
 訝しく呼びかけても、貴子は反応しなかった。
 
「そんなはずは絶対ない」
 まるで自分だけが知っている何かに目を向けるかのように、空を見上げたままもう一度呟くから、
(ひょっとして、何かあるの……?)
 という思いが頭をかすめる。
 
 小さな望みなんか見出してしまうと、もう大丈夫と思った胸の痛みがまたぶり返してきて、ズキズキと痛かった。


 
 貴子と花菜と一緒に自分のアパートの前まで帰ったら、またひどく胸が痛んだ。
 
 毎朝海君が私を待っていた場所。
 夕方にはいつも「また明日」と小さな約束を残して帰って行った場所。
 
 ここにはもう、彼のいた形跡なんてなにもない。
 目を閉じれば今でも瞼の裏には焼きついているけれど、その面影だって、きっと時の流れと共に薄れていく。
 どんどん薄くなって、ついには消えてしまう。
 ――それはなんて、悲しいことなんだろう。
 
「真実?」
 立ち止まって考えこんでしまった私を、貴子がふり返って呼んだ。
 
「大丈夫か?」
 優しい問いかけに、私は笑顔で答える。
 
 少なくとも、貴子が尋ねた意味では大丈夫だった。
 あまりにも思い出が密集しているこの場所は、私にとって決して辛い場所ではない。
 むしろ大切な場所だ。
 
 どこにいても何をしていても結局は海君を思い出すんだろうけど、それは私にとってはむしろ嬉しいことだった。
 
 思い出だらけの通学路も。
 私の部屋も。
 この街も――何もかもが今はただ愛しかった。
 
 まったく辛くないと言ったら、それは嘘だ。
 でも私は実際、自分の記憶の中の思い出以外には、海君に関するものを何も持っていない。
 
 だからもともと、その小さな記憶の欠片を拾い集めて、宝物のように大切にするしかない。
 彼が本当に私の隣にいたんだということは、私の記憶でしか証明できない。
 
 ふと自分の右手を見つめてみた。
 海君が、「心の中でずっと繋いでいよう」と言ってくれた手。
 
 絶対に嘘は吐かない海君とした約束だから、心の中で繋いでいるこの手を放すことは、決してない。
 そう確かに信じていられることが、これから先私にとってどれだけ救いになってくれるだろう。
 
 きっと海君はわかってた。
 私の弱さも、彼とサヨナラしたあとのどうしようもない寂しさも、最初から全部わかってて、だからあんな約束をしたんだ。
 
 私のこれからの時間も丸ごと全部彼に繋がっていると思えるように、どんな時でも一人になったんじゃないと思えるように、最後の約束をくれたんだ。   
 
 
 優しい人。
 誰よりも私のことをわかってくれた人。
 
 もう二度と会えなくてもいい。
 無理をしなければ、私と離れたどこかの場所でこれからもきっと生きていてくれる。
 
 それだけでいい。
 
 この同じ世界にいてくれる、それだけでいい。

 
「真実?」
 もう一度呼びかけた貴子に、私は心から笑って答えることができた。
 
「大丈夫だよ。私は大丈夫……」
 いつもより一際優しい目をした花菜が黙って頷いてくれる。
 
 つられたように貴子も頷いた。
 だから私は――。
 
「じゃあ、また明日」
 いつも海君がそうしていたように、にっこり笑って手を振ることができた。
 
 彼が思い出させてくれた笑顔が、今もまだ私の中にちゃんと残っていることに感謝しながら――。


 
 海君が隣にいない夏休み。
 私はたくさんのアルバイトをして、学校の図書室にも毎日通った。
 
 いつでも何かをしていたかった。
 誰かと一緒にいて、やることがあって忙しくて、それが何より嬉しかった。
 
 海君と手を繋いでゆっくりと歩いた街を、一人きりで歩くことが辛くて、私は自転車を買った。
 車ほどは速くなく、気が向いた時には好きな場所で停まることもできる。
 そんな自転車は、今の私の気分にピッタリだった。
 
 思い出すとふと立ち止まりたくなるから。
 
 川沿いの土手の道を。
 歩道橋のある交差点を。
 よく行ったコンビニを。
 目にすると大好きな背中を探したくなるから。
 
 決してそこには、彼がもう現われることはないと、頭ではわかっていても、確かめずにいられないから。
 
 未練がましくて、ほんの少しの希望も捨てられない、そんなどうしようもない自分は決して嫌いではなかった。
 うしろ向きにめそめそ泣いてばかりいるよりは、とっても自然に前を向いて歩いている気がした。
 
 今は無理はいらない。
 海君は私にとって、そんなに小さな存在ではなかった。
 失って生きていけるのかと思ったくらい、大きな存在だった。
 だから――。
 
(もう一度会いたい!)
 そう願ってしまうのは、どうしたって当然なんだ。
 
 青空の下を微笑み混じりに自転車をこぎながら、自分のことを自分でそんなふうに分析できる私は、ちっとも悲劇のヒロインなんかじゃなかった。
 かえって以前よりも、ずっと現実的だと思った。
 
(もしも偶然にバッタリ会ったりしたら……海君はどんな顔するのかな?)
 懸命に自転車のペダルをこぎながら、そんなことを考る。
 
 笑いながら想像できるのは、やっぱりそれが現実にはなりえないと、自分でわかっているからだ。
 
(だけど忘れない。いつだって想ってる……)
 想いの強さを表現するかのように、どんどん自転車のスピードをあげて、風を切って走るのが気持ち良かった。


 
「真実……なんだか前より元気になった?」
 愛梨に問いかけられて、思わず笑みが零れる。
 
 彼女と同じコンビニでバイトをするようになって、お昼休みは二人で屋外でお弁当を広げるようになった。
 作っていくのはもちろん私。
 
 だけど、一人でいるよりは二人でいるほうが断然嬉しくて、私は毎朝の二人ぶんのお弁当作りも全然嫌じゃなかった。
 
 朝と夜は同じアパートに住む貴子と。
 昼はバイト先で愛梨と。
 それか学校で一緒になった誰かと。
 いつも誰かが私の傍にいてくれた。
 
 労わるように私を見つめるたくさんの視線に、
(気を使わせてしまってるな)
 とちょっぴり申し訳なく思う。
 
 あのフェリーで帰ってきた日以来、貴子と花菜は、海君の名前を口にしない。
 それは、私よりちょっと遅れて帰省先の実家からこの街に戻ってきた愛梨も同じだった。
 
 愛梨はいつの間にか、私と海君がサヨナラしたことを知っていた。
 きっと貴子か花菜から先に聞いたんだろうけど、ひさしぶりに会った時も、ただ黙って私を抱きしめただけだった。
 それ以降も改めて何かを尋ねるようなことはない。
 
(ありがとう……)
 三人の優しさに私は甘えるばかりで、何も返せてなどいない。
 だけどそんなことはおかまいなしに、みんなは私を優しく包みこんでくれる。
 
 だから私は笑えるのかもしれない。
 優しい人たちに囲まれているおかげで、今日も笑っていられるのかもしれない。
 
 そう思うと、
(笑うことが出来るってことは、とてもとても幸せなことだったんだね)
 改めてそう感じた。
 
 眩しいくらいの青空を見上げて、大好きな人の面影に向かって、また笑いかけた。
(そうなんだね……海君)
 
 そんな私を、隣に座る愛梨も負けないくらいの笑顔で見つめていた。
「なんなら、新しい出会いを私が作ってあげようか?」
 
 その余計なお節介には、ちょっと咎めるような視線で返事する。
 
「冗談よー、冗談!」
 愛梨は大きな声で笑いながら、私の背中を叩いた。
 
「そんなことしたら怒られちゃう……」
 意味深な発言に私は首を傾げた。
 すると愛梨は、パチリと片目を瞑ってみせる。
 
「なんでもない……気にしないで!」
 言葉とは裏腹になんだか嬉しそうな、自分だけが知っている事実に一人満足しているような、思わせぶりなその笑顔が気になった。
 
 口に出して尋ねる代わりに、私は心の中でいろんな可能性を考えてみる。
 
 けれどどんなに前向きに考えてみても、愛梨の喜びそうな展開を想像してみても、私が本当に望んでいる結論には、とうていたどり着きそうにない。
 
(それだけは……きっと無理だもんな……『海君にもう一度会いたい』なんて……)
 
 腰かけていたベンチの厚めの座面を、指が痛くなるほどにギュッと握りしめて、瞬間、揺らいでいきそうな気持ちを私は必死に保った。
 
(いつかは……思い出しても心から笑えるようになる)
 
 呪文のように、自分を勇気づけるように、何度もくり返す。
 大好きな夏の空を見上げながら、何度も何度もくり返してみる。
 
(大丈夫。いつだって繋いでる。この手は彼と繋いでる)
 海君が最後にかけてくれた魔法を有効にするように――。
「なにもこんな日にまで、いっぱいいっぱいにバイトの予定を入れることはないじゃないか……」
 咎めるような貴子の言葉に、私は悪戯を見つかった子供のように小さくなって、肩を竦める。
 
「だって……休みの人が多くて困ってるみたいだったから……」
 俯きながらの私の返事に、貴子は大袈裟にため息を吐いてみせた。

「まあいいさ。準備の時間がそれだけ長くとれるってことだからな」
 思わずほころぶ頬を我慢できずに、私は顔を上げた。
 
「それって……貴子が料理するの?」 
 勢いこんで放った言葉に、貴子はあからさまに不愉快そうな顔をした。
 
「どうしても真実がそうして欲しいって言うんなら、今日ばかりは従わないわけにはいかないが……」
 私は大慌てて手を振る。
 
「違う違う。そうじゃないんだけど……!」
 そのあまりの必死さに、貴子はますます不機嫌そうな顔になる。
 
「そう正直に嫌がらなくても……! 料理だったらちゃんと愛梨と花菜がする! 私はその他の担当だ!」
 なんだか申し訳ないような気持ちになって、私は貴子の顔を上目遣いにそっと見上げた。
 
「ゴメン、貴子……嫌がってるわけじゃないんだよ?」
 貴子は横目で私の顔を見て、もう一度大きなため息を吐いた。
 
「私は嫌だ」
 心からそう思っているような呟きに、私は神妙な気持ちも忘れて、大きな声を出して笑わずにはいられなかった。
 
「アハハハハ」
 その声につられたように貴子も笑顔になる。
 
「ほら! さっさとバイトに行ってこい、勤労学生。誕生日だってことは忘れずに、残業だけはしっかり断るんだぞ。みんな待ってるからな!」
 
「うん!」
 私の背中を押し出しながら、かけてくれた言葉が嬉しかった。


 
 今日は私の誕生日。
 三人がお祝いをしてくれるんだと、ずっと楽しみにしていた。
 
 うだるような暑さの中。
 アパートの一階に設けられた駐輪場から真新しい自転車を引っ張り出して、暑さに負けないように、
(よし、今日もがんばるそ!)
 と自分で自分に気あいを入れる。
 
 勢いよくこぎ出した私の背中を、貴子の声が追いかけてくる。
「まちがっても、遅くなんか帰ってくるんじゃないぞ!」
 
 ふり返らずうしろ手に手を振って、私は大きな声で返事した。
「わかってるー」
 
 目の前に広がる青い青い空と、大きな入道雲はまだ夏の面影を色濃く残しているのに、とっくに月は変わって九月になってしまった。
 ――私の誕生月。
 
 ついこの間まで盛んに響き渡っていた蝉の大合唱と入れ替わるように、いつの間にか聞こえ始めた鈴虫の声に、
(夏も終わりだな……)
 と感じる。
 
 頬を撫でる暖かい風も、これから日一日と涼しい風へと変わっていくんだろう。
 夏の眩しいくらいの太陽も、また来年までお預けの秋が、もうすぐやって来る。
 
(私にとっての太陽は……やっぱり海君だな……)
 
 そんなふうに感じるから、今年の夏の終わりは、ことさらに切ない。
 
 これから起こるであろう楽しいことをたくさんたくさん思い浮かべて、必死に肩肘はってないと、その切なさに飲みこまれてしまいそうになる。
 
(二人で過ごしたたった一つの季節……夏はもう終わるんだね……)
 
 涙が浮かばないように。
 せいいっぱいなんでもないように。
 弾むようなリズムで、私は心の中、何度もくり返す。
 
(だけど大丈夫。この手は繋いでる。ずっとずっと繋いでる)
 何度も何度もくり返す。
 
 そんないっぱいいっぱいの二十一歳の誕生日だった。

 
 
「誕生日おめでとう!」
 三人の笑顔に囲まれて、本当に幸せな気持ちで微笑む。
 
 私の狭い部屋の小さなテーブルに並べられたたくさんの料理は、みんな愛梨と花菜の手作りで、たっぷりの愛情がこもっている。
 
 色とりどりのその豪華さにうっとりと目を楽しませて、
「いただきまーす」
 と箸を出す。
 
 今度はその美味しさにも、とっても幸せな気持ちになった。
 
「自分のために誰かが作ってくれた料理って……どうしてこんなに美味しいんだろう……!」
 思わず呟いたら、隣に座っていた花菜に押し倒されそうな勢いで抱きつかれた。
 
「いつも真実ちゃんに作らせてばっかりだもんね。ゴメンね。今日はぜひ食べるほうに専念してね!」
 冗談とは思えないほど真剣な口調で、そんなことを言われるから、
 
「い、いいんだよ……! いつも作るほうってのも……私が好きでやってるんだから!」
 慌てて言い訳するように言葉をつけたさなければならなくなる。
 
 花菜が気にしているんじゃないかと顔をのぞきこむと、彼女は口調のわりにはいつもと同じ穏やかな笑顔で、私のことをじいっと見つめていた。
 
「あのな真実……別に花菜は、これからはそこを改めるとか……そんな話をしてるんじゃない思うぞ……?」
 まるで今日の主賓のようにふんぞり返って座って、偉そうな態度の貴子が横ヤリを入れてくる。
 
「そうなの?」
 尋ねた私に、花菜はニッコリ微笑んで頷いた。
 
「なあーんだ……焦ったー」
 口に出して言ってしまってから、自分でも可笑しくなって、ハハハハッと声に出して笑いだす。
 愛梨も花菜も、貴子さえも笑いだして美味しい料理がなおさら美味しく感じられた。
 
「あっ真実! これこれ! これが私の自信作なんだ」
 愛梨に促されるままに、私は箸を伸ばす。
 
「真実ちゃんこっちも! ちょっと変わった味つけなんだよ……?」
 花菜にさし出されて、それも口の中へ。
 
 二人に薦められるままに次から次へと食べていたら、いつの間にかすっかりお腹がいっぱいになった。
 貴子はとっくにギブアップして、部屋の隅でクッションを枕にひと休みしている。
 
「真実の作ったものだったら、いつももっとたくさん食べるくせに……!」
 愛梨の非難の声にも、貴子はちょっと体を起こして首だけこっちを向いて、意地悪く言い返す。
 
「真実はそんなに凄いスピードで、私の胃袋に全部の料理を詰めこもうなんてしないだろ!」
 愛梨は肩を竦めて、私に向き直った。
 
「いいもん別に……今日の主役は真実なんだし……真実のために作ったんだし……!」
 そして花菜と二人して、
「ねー」
 と頷きあう。
 
 乾杯のために開けたシャンパンでほろ酔い気分の二人は、ニコニコと笑いながら、
「はい真実、次はこれ!」
「こっちもこっちも」
 となかなか私を放してはくれなかった。
 
『私のために』という気持ちがわかるからこそ、断ることもなかなかできない。
 
 だけどさすがにお腹も限界に近くて、ちょっと困った気持ちで、
「ちょっと待って、ちょっと待って」
 と苦笑いしていると、貴子が助け舟を出してくれた。
 
「真実……飲み物がなくなったから、ちょっと買ってきて」
 
(貴子! ありがとう!)
 心の中で手をあわせて立ち上がる。
 
「うん、何がいい?」
 ところがそれを聞いた愛梨と花菜がいきり立った。
 
「今日の主役に行かせるなんてできないわよ!」
「そうよそうよ! 私が行ってくる!」
 さっきまでのほろ酔い気分はどこへやら、勢いこんで立ち上がりかけた二人に、貴子が首を振った。
 
「いや。真実が行ってきて」
 よく通る落ち着いた声と、私に向かって財布を放り投げるその瞳に、思わず私の胸はドキリと跳ねた。
 
 あの時に似ていた。
 
 ――前期試験の間会わないと約束した海君がある日ふらっと会いに来てくれて、それでも私を呼び出すなんてことはせず、アパートの前で私が出て来るまで待っててくれた夜。
 
 それに一番に気がついたのは貴子だった。
 私に買い物を頼んで無理に外に出してくれて、私は無事に海君に会うことができた。
 ――あの時になんだかよく似ている。
 
(まさか……まさかそんなことはないよね?)
 
 確かめるように見つめても、貴子の賢そうな瞳は何を考えてるんだか、私なんかではとうてい考えも及ばない。
 肯定も否定も見えないその瞳に、見つめ返された瞬間、私は貴子の財布を掴んで、立ち上がっていた。
 
 自分の中の不思議な感覚と、私よりもなんだか海君の何かをわかっているふうだった貴子のここ数週間の様子に、小さな希望をかき集めながら――。
 
(そんなことは絶対にない! ないってわかってる! でももしかして、もしかしたら……?)
 
 相反する二つの思いに、どうしようもなく心を乱されながら私はドアに向かって走り出した。


 
 玄関のドアに手をかけて開こうとする前に、呼吸を整えた。
 
 もしも道路の向こうに海君の姿を見つけても、動転し過ぎないように。
 そしてもし見つけなかった時も、必要以上に落胆し過ぎないように。
 
 力をこめて開いたドアから、滑り出すように夜の町に一歩を踏み出した。
 
(やっぱり……そんなことはないね……)
 
 アパートの前の道路を渡った先、彼が毎朝私を待って寄りかかるように立っていた少し高いブロック塀を、私は切ない気持ちで見つめた。
 
 そこには誰の人影もなかった。
 
 私がもう一度見たかったあの笑顔も、懐かしいばかりの眼差しも、やっぱり私を待っていてはくれなかった。
 
 軽く首を振って、ガクンと落ちた肩を無理に引き上げる。
(それはそうだよ……だってそんなはずないじゃない……!)
 
 わかりきっていたことを確認しただけのように、なんでもないように呟きながら、それでもみんながいる部屋のドアは、うしろ手で急いで閉めた。
 
(海君がもう一度現われることなんて……やっぱり絶対にないんだ!)
 
 何十回、何百回となくその事実を確認して、自分ではとっくに納得していると思っていても、自然と涙が零れる。
 零れてしまう。
 だから――。
 
(こんな姿はみんなには見せられない……私を心配して……今日だって必死に盛り上げようとしてくれているみんなには……まだ全然大丈夫じゃないなんて気づかれちゃいけない……!)
 
 私は逃げるようにアパートの前から走り出した。


 
 夜の町を俯きながら歩いていると、胸の痛みがどんどん大きくなっていくような気がする。
 
 初めて海君と出会ったのは、こんな雑踏の中だったから。
 その中から彼は私を見つけ出してくれたんだったから。
 
(どれだけ、奇跡みたいな出会いだったんだろう……)
 
 瞬きする間に私の横をすり抜けて行ってしまう、数えきれないくらいの人たちをぼんやりと見送りながら、私はそんなことを感じていた。
 
(もう二度とこんな恋はできないと思う……こんなに好きになれる人なんて、海君以外には現われないと思う……)
 
 何度も何度も思ったことを今日もまた確認しただけで、私は貴子に頼まれた飲み物を買って、みんなが待つアパートの部屋へと帰った。
 
 薄暗い街灯に照らし出されているそのあまり新しくはない建物の、建てつけが悪くて時々は開かないこともある私の部屋のドアの前に、何かが置かれているのが目に止まった。
 
 右から三番目。
 左から二番目。
 まちがいなく私の部屋の前であることを確認する。
 
(なんだろう?)
 白い大きな袋の中をのぞきこんでみると、綺麗に包装された大きな薄い四角いものと、小さな花束が入っていた。
 
(私に……ってことかな?)
 何気なくその小さな花束を持ち上げて、ドキリと胸が鳴った。
 
 中に小さなカードが添えられていて、『誕生日おめでとう。真実さん』と書かれていた。
 
(真実……さん……?)
 
 私のことをそう呼んでくれていたたった一人の人の顔が浮かんで、私は我知らず声に出して叫んでいた。
「海君!」
 
 うしろをふり返って、右を見て、左を見て。
 あたりに人の気配がないことを感じて、それでも走り出す。
 どちらにとも考える間もなく、足が動き出したほうに走り出す。
 
 角を曲がってその先にも、大好きなあの背中が見えないことを確認すると、今度は反対の方向に向かって走った。
 
 その先にもやっぱり、あの明るい色の少し癖がかった髪は見えない。
 
 何度も何度も、思いつく限りの方向に、狭い裏道に、走り出さずにはいられなかった。
 
 決して姿を見ることなんてできはしないんだと、頭のどこかではわかっていても、体がいうことを聞いてくれなかった。
 心が理解してくれなかった。
 
 せっかくみんなの前では我慢しとおしていた涙だらけの顔で、疲れきってアパートの前に戻った私を、ドアの前でみんなが待っていた。
 
「真実……」
 
 何も聞かず、何も言わず。
 温かいその腕を三人で広げて待っていてくれたから、私はもう何もかもが頭から吹き飛んでしまった。
 
「わあああああ!」
 声を上げて泣き崩れた私に、三人が一斉に駆け寄った。
 
「海君が! 海君が……!」
 それだけしか言葉が出てこなくて、ただ泣きじゃくる私を愛梨が抱きとめた。
 
「うんうん、良かったね……」
 私の代わりに言葉を紡ぎ出してくれるから、必死に頷く。
 
 それがどんなに自分にとってビックリしたことだったか。
 有り得ないと思っていたことだったか。
 
 そんな思いは置いておいて、素直に「嬉しい!」と今は喜びたい。
 
 それを笑って許してくれるみんなの存在がありがたかった。
 傍にいてくれること。
 優しくしてくれること。
 
 感謝して止まないそれら全てのことよりも、何も言わなくても私の気持ちをわかってくれている――そのことが、今は何より嬉しかった。


 
 部屋に帰って、花菜の煎れてくれたお茶を飲んで、少し落ち着いたらなんだか照れくさい気持ちになった。
 
「だいたい真実は気を遣い過ぎなんだ……! 私たちに強がってみせてどうする!」
 射るような目で私のことを見つめる貴子は、心に思った不満をすぐに口に出す。
 
 その貴子を、
「あんたねえ……」
 と睨んだ愛梨も、
「無理しなくていいんだよ……いつまでも泣いてたって、誰も真美のことをダメだなんて思わないよ……?」
 諭すように、励ますように私の肩を叩いてくれた。
 
「私たちはみんな、真実ちゃんがどんなに海君のことを好きか、よくわかってるつもりなんだから……ね?」
 花菜にニッコリと微笑まれて、私はあまりの申し訳なさに俯いた。
 
 有難かった。
 情けない自分をこんなにも曝け出せる場所があるってことが嬉しかった。
 
 そんな気持ちを抱きしめて、改めてみんなに感謝していた時に、少し離れたところに座っていた貴子が、ふうっと大きなため息を吐いた。
 
「だけど……プレゼントだけ置いて行ったか……」
 
 ちょっぴり不満そうに呟くから、私は急いで顔を上げる。
「貴子……ひょっとして海君が来るって知ってたの?」
 
 わざと私を外に出してくれたこと。
 その時の意味深な表情。
 彼女の真意を確かめたくて、私は貴子に詰め寄る。
 
「えっ、そうなの?」
 驚きの声を上げた愛梨も花菜も、貴子をじっと見つめている。
 
 取り囲むように注がれる三つの視線を、煩わしく追い払うように手を振って、貴子は「いや」と短く応えた。
 
「じゃあ、どうして……?」
 
 言いかけた私の言葉を遮って、今度は貴子のほうから口を開く。
 少しの怒りをこめて――。
 
「約束してるんだよ。どうやったら真実が一番幸せになれるのか、いつだって考えてくれって……。まさかあいつが真実から離れるなんて思ってなかったけど……どうやら私との約束はまだ有効のようだ……もちろんこれからも有効だ。そうだろ?」
 
 確認するように見つめられて、私は間髪入れずに頷いた。
 
(海君は嘘をつかない!)
 それは私が一番よく知っている事実だ。
 
「私もしたよ、海君と『約束』。真実の秘密の場所を教えてあげてもいいけど、その代わりに、真実をよろしくねって言ったの……『はい』ってしっかり答えてくれた……だから……うん、大丈夫だよ……」
 愛梨もニッコリ笑いながら私を励ましてくれた。
 
 いったい何が「大丈夫」なのか――。
 その愛梨らしい解釈には、多少の苦笑は感じるけれども、嬉しいことには変わりない。
 
(だったら……私の毎日はまだ海君と繋がってる……?)
 
 そっと右手を持ち上げて見つめてみた。
 その手に誓った約束と同じ誓いが、ここにもあった。
 そう確認できたことが嬉しい。
 
(まだまだ幾重にも……私は海君の優しさに守られてる……?)
 
 姿は見れない。
 声は聞けない。
 だけど、確かに私のすぐ傍にいてくれる。
 
 それはなんて幸せなことなんだろう。
 胸が張り裂けそうな辛い別れなんて、掃いて捨てるほど存在する中で、私たちが交わしたのは、なんて優しくて温かいサヨナラだったんだろう――。
 
「ねえ真実……何を貰ったのか開けてみてよ」
 いつまでも幸せの余韻に浸っている私に、愛梨が待ちきれないというように提案した。
 
「お前なあ……!」
 それには今度は貴子のほうが非難の声を上げたけれど、私は笑って頷いた。
 
「うん」
 海君から貰った大きな袋に手を伸ばした。
 小さな小花をつけた可愛い花ばかりで作られた小さなブーケ。
 
「うん、真実ちゃんにピッタリだね」
 花菜が笑ってくれたから、私も微笑み返した。
 
 海君の優しい気持ちが伝わってくる。
 二人で手を繋いで歩いた街のあちこちで、『こんなところにも花が咲いていたんだ』と偶然見つけては、私が大喜びしたような、飾らない可愛い花たち。
 
 この花束には海君にしかわからない、海君だけにわかる二人だけの思い出がいっぱいいっぱい詰まってる。
 
「ずっと取って置けるように、ドライフラワーにしたらいいよ……」
 花菜の助言に、私は頷き返した。
 
「他には? 他には?」
 嬉しそうな愛梨を諌めることを、さすがの貴子ももう諦めたらしく、ただ大きなため息を吐いて私たちを見守っている。
 
「何よ! ほんとはあんただって気になってるんでしょ?」
 ふり向いて貴子に喧嘩を売ろうとする愛梨を慌てて引きとめながら、私はもう一つの大きな包みを袋から引っ張り出した。
 
 思ったより重量があった。
 かなり大きな絵本ぐらいの大きさ、厚さの四角いもの。
 思い当たるものが何もなくて、綺麗な包装紙を破かないように丁寧に剥がす。
 
 中から出てきたものがなんだかわかった瞬間に、私の目からブワッと涙が溢れ出した。
 
 額に入れられた絵だった。
 ――大きな写真かと見紛うくらいの綺麗な絵。
 
 岩に囲まれた小さな砂浜で、片隅に小さく膝を抱えて、海に向かって座っている白いワンピースの女の子。
 うしろ姿だけれど、今にも消えてしまいそうな不安げなあの時の私の心が、よく描かれていた。
 
 風に飛ばされて、少し後方に白い帽子が転がっている。
 その帽子を拾おうと細身の男の子が軽くかがんで腕を伸ばしている。
 
 やっぱりうしろ姿で、その表情は見えないけれど、まるでその景色ごと女の子の全てを包みこんでいるかのような優しげな雰囲気。  
 
 背中を向けている女の子は彼の存在に気づいていない。
 自分を慈しむように見つめる優しい視線に、まだ気づいていない――。
 
「真実ちゃんと海君……?」
 首を傾げる花菜に、私は涙を拭って笑いながら頷いた。
 
「うん」
 
 青い空に白い雲。
 私の大好きないろんな色が入り混じったあの海の色は、きっと見た人にしかわからない。
 一緒にあの場所にいてくれた彼にしかわからない。
 
「水彩画? パステル画? すっごい上手じゃない?」
 驚き興奮した愛梨の声に、自分のことのように私は嬉しくなる。
 
 海君が描いたんだろうか。
 それ以外には考えられないけど、すぐには信じられない。
 それぐらいに綺麗な上手な絵。
 
「画家でも目指してんのか、あいつは……?」
 貴子の声には、いつになく感嘆した調子も含まれていた。
 
「よかったね、真実ちゃん」
 花菜に微笑みながらそう言われて、私はその大きな絵を抱きしめた。
 
 大好きな人、その本人のように大切に抱きしめた。
 
(ありがとう、海君……)
 面影が心にしか残っていなくて、それがどんどん薄れて消えていくことに怯えるしかなかった私に、その面影をこうして形にして残してくれた。
 
(もう忘れない! 海君に言ったとおり……私は絶対に忘れない!)
 
 交わした約束を守れるということは、こんなに幸せことなんだ。
 
 彼がまた一つ、私に幸せを教えてくれたことに感謝しながら、私はその日、人生最高の誕生日を迎えることができた。
 その夜は、いろんな人からお祝いの電話がかかってきた。
 
「おめでとう。お祝いのご馳走は、今度帰って来た時に作ってあげるからねー!」
 母の笑い声はあいかわらず豪快だ。
 
「今の電話……お母さんからだったでしょ?」
 近くにいた花菜にまで、大きな声が聞こえてしまっている。
 
「あー真実? ……おめでとう。愛梨ちゃんに電話代わってくれ……」
 まるで私へのお祝いの言葉はおまけだと言わんばかりの態度で、電話してきた兄だって、本当は照れているだけなのはわかってる。
 
「じゃなけりゃ、残業の途中にわざわざ会社から電話してくるわけがない……」
 貴子の冷静な分析によれば、そういうことだった。
 
 無口な父からも、ゼミの教授からも、故郷の幼馴染たちからも、お祝いのメッセージが届いた。
 
「ね? どれだけ真実ちゃんがみんなに愛されてるか……わかるでしょ?」
 嬉しそうな花菜に向かって、私は素直に頷く。
 
 その瞬間、またコールが鳴った。
 
 たくさんの電話を受けることに慣れになっていて、番号を確認もせずにその電話を取った私は、
「もしもし?」
 と呼びかけてから、それが公衆電話からだったことに気がついた。
 
 何も返事がこず、ただざわめきだけが聞こえる不思議な電話に、
「もしもし?」
 もう一度呼びかける。
 
 やっぱり返事はない。
 
 それが公衆電話なことに一縷の望みをかけて、私は、
「海君?」
 と尋ねた。
 
 その途端、電話はガチャンと大きな音を立てて切れた。
 
 期待していたわけではないが、少し落胆する。
 
(やっぱり……いくらなんでもそれはないか……)
 苦笑するようにそう思いながら、首を捻る。
 
(それじゃあ、いったい誰だったんだろう……?)
 わざわざ公衆電話からかけてくるぐらいなんだから、私に用事だったはずなのに、何も言わず切れてしまった。
 
(まちがいだったのかな?)
 だとしたら、思わず海君の名前を呼んでしまったことは少し恥ずかしい。
 けれど、
(何か用事があるんだったら……きっとまたかかってくるよね?)
 予想外な海君からのプレゼントも含めた、その日のあまりの幸せさに、私はすっかり失念してしまっていた。
 
 ――払っても払っても拭い去れなかったほどの、真っ暗な絶望の気持ち。
 夏が来る前までは、確かに自分をスッポリ包みこんでしまっていたはずの辛い苦しい思い。
 
 それが、本当に忘れることができた今頃になって、私を追いかけてくるとはまったく思ってもいなかった。
 
 

 祭りのあと――とでも表現していいような状態で、みんなは私の狭い部屋に折り重なるようにして眠りこんでいた。
 こっそりと一人だけ身を起こした私は、それぞれのポーズで眠ているみんなを、笑って見下ろす。
 
「それじゃ……バイトに行ってきまーす」
 起こしてしまわないように小さな声で言ってから、音をたてないように気をつけてドアを開けた。
 
 昨日一日かけて、私のために誕生パーティーの準備をしてくれた三人は、今日はそれぞれにバイトの休みを取っている。
 
 私と同じコンビニの愛梨。
 ファーストフード店の花菜。
 家庭教師の貴子。
 
 だからいつもと変わらずバイトの予定を入れていた私だけが、今日は早起きをして出かければいい。
 
 みんなを起こしてしまわないようにそっと部屋を出て、夜更かしした目に染みるほどの、いい天気の空を見上げた。
 
「さあ、今日もがんばるぞ!」
 
 たくさんの人の優しい気持ちと、海君の絵が、私に新しいやる気を与えてくれた。
 
(いつもどこかで見守ってくれてるんなら……余計に情けない姿なんて見せられない!)
 
 笑いながら大きく深呼吸した。
 今なら海君と一緒に歩いていた日々と同じように、なんでもできる気がした。
 
(行くぞ!)
 
 新しい自転車を元気にこぎ出す。
 楽しいことが待っているはずの、新しい一日に向かってこぎ出す。
 
 ――その思いがまさか数分後。
 無残にも踏みにじられることになるとは思ってもいなかった。


 
 川沿いの土手の道を走っている時、前から見慣れた車が来たと思った。
 
(幸哉と同じ車だ……!)
 そう思ってちょっとドキリとする。
 
 けれど、大学を退学した幸哉は郷里の町へ帰ったと大学側から聞かされていたし、もうあのアパートだって引き払っていた。
 だから――。
 
(そんなはずないか……)
 ホッと息をつく。
 
 けれど、一台通るのがやっとなぐらいの狭い道幅の道路を進むのに、私は自転車の速度を落として、なるべく道の端に避けようと努力しているのに、その車は道の真ん中から進路を変えることもせずに、スピードを上げてこちらに向かってくる。
 
(なんだか危ないな……)
 運転席の人物が見えるくらいの距離まで近づいた時、何気なくその車の中を見て、私は全身から血の気が引く思いがした。
 
(幸哉!)
 
 もう二度と会うことはないだろうと思っていたその人が、私に向かって走ってくる車を運転していた。
 
 私のことが見えているのか。
 いないのか。
 幸哉がハンドルを握るその車は、いっそうスピードを上げて私に向かってくる。
 
(危ない! 跳ねられる!)
 
 そう思った瞬間、私は自転車のハンドルを切って、自分から土手を転げ落ちた。
 
 自転車から投げ出されて、そのまま地面に叩きつけられて、体は土手を転がり落ちていく。
 とても痛いし、多分自転車だって私だってただでは済まないだろう。
 そうわかっていながらも、幸哉の車に跳ねられるよりはましだと思った。
 
 水辺のすぐ近くの川原まで転がり落ちて、私は泥だらけになった。
 
「いたたた……!」
 ぶつけてしまったいろんな箇所を確認しながら、ゆっくりと起き上がろうとした時、車の急ブレーキの音が聞こえた。
 
 幸哉が土手に車を停めて、バンと乱暴に扉を閉めて、川原に駆け下りてくる。
 
(どうしよう!)
 慌てて立ち上がろうとして、私は自分がそうできないことに気がついた。
 どうやら足を捻ったらしい。
 左足に力が入らない。
 どんなにもがいても立ち上がれない。
 
(どうしよう! どうしよう!)
 必死に足をひきずり、這いずってでも前に進もうとする私に、幸哉がどんどん近づいてくる。
 
 何度も殴られたこと。
 傷つけられたこと。
 その力に屈服していうことを聞かされて、何度も何度も苦しい思いをしたことが、走馬灯のように私の脳裏を駆け巡った。
 
(嫌だ! 助けて! 誰か助けて!)
 
 救いを求めるように地面を必死にかいて、少しでもその場から逃げ出そうとする私を見下ろして、大きく息を切らした幸哉が背後に立った気配がした。
 
「真実……」
 背筋が凍るようなその声に、恐る恐るふり向いた瞬間、幸哉の大きな両手が私の喉を締め上げた。
 
(幸哉?)
 またもう一度幸哉に捕まって、あの日々がくり返すことだけに怯えていた私には、瞬間何が起こったのかわからなかった。
 
 ギリギリと本気の力を込めて締められる首に、あっという間に息が詰まる。
(幸哉! 幸哉!)
 
 私を見つめる尋常じゃない目の色に、(殺される!)という恐怖を、私は初めて体感した。
 
(どうして……? なんで……?)
 
 それは愚問だ。
 幸哉は口の中でブツブツと、ずっとうめくように呟いている。
 
「お前は俺のものだ! お前は俺のものだ! お前は俺のものだ! 誰にも渡さない! 他の男になんか渡さない!」
 
 頭の中が真っ白になっていく息苦しさの中で、私は昨日の無言電話の主は幸哉だったんだと思い当たった。
 
(そっか……私が海君の名前を呼んだから……だから私を殺しに来たんだね……)
 
 妙に納得いって、だけどそれを受け入れてしまうことなんてとうていできなくて、必死に首を振った。
 
 その時。
 私に覆い被さるようにして体重をかけてくる幸哉の肩越し、土手の上から駆け下りてくる人影を見た。
 
 一目見た瞬間に、顔が見えないくらい遠い距離でも、その人が誰だか私にはわかってしまった。
 
(海君!)
 
 もう二度と、本当にもう二度と会えないと思っていたその人が、真っ直ぐに私に向かって走ってくる。
 
 幸哉に首を絞められている苦しさよりも、やっと会えた切なさよりも、今まで見たこともないような全速力でこっちに向かって走ってくる彼の姿に、胸が締めつけられた。
 
(やめて! 海君やだ! やめて!)
 
 声が出せるはずもないのに、必死で言葉を搾り出そうと私はもがく。
 
 このまま幸哉に殺されてしまうのかと諦めかけて、抵抗する力もなくしていた両腕にせいいっぱいの力をこめて、私は幸哉の体を押し戻そうとした。
 
(誰か、お願い! 海君を止めて! ねえ……止めてよ!)
 
 私たち以外誰の人影もない川原で、私は必死に叫んだ。
 声にならない声で叫び続けた。
 
 あんなに好きで大好きで傍にいたいと思った人と、私がどうして離れることにしたのか――それは、彼に元気でいてもらいたかったからだ。
 
 傍にいることができなくても、この世界にずっとずっと元気で生きていてほしかったからだ。
 
 それなのにその彼が、絶対に彼には許されない速さで駆けてくる。
 
 そんなことをしたら、どんなことになってしまうのか。
 想像するのも怖いくらいの勢いで駆けてくる。
 ――ただ私のためだけに。
 
(私のためになんか来ないで! 走ったりしないで!)
 
 私の願いは、きっと海君には届かない。
 たとえ届いたとしても、「俺は俺のしたいようにする。誰の指図も受けない」と真っ直ぐな瞳で言い切ることができる海君は、きっと私の願いを受け入れたりなどしないだろう。
 
 絶対に立ち止まったりしない。
 私にはわかっている。
 だけど――。
 だけど――!。
 
(お願い! 誰か海君を止めて!)
 
 どんどん薄れていく意識の中で、私は最後の願いのように、首を振り続けずにはいられなかった。