「俺は生まれつき心臓が悪いんだ……だからずっと入退院をくり返してる。学校にもほとんど行ってない……」
降るような星空の下。
私の耳元で囁かれる声は確かに海君のものなのに、その内容は、まるで違う世界の知らない人のことを語っているかのようだ。
何も言えずにただ彼の肩に額を押し当てる。
繋いだ手に思わず入る力を、隠すこともできない。
「どれぐらい悪いかと言えば……今こうして生きているのが不思議なくらい……正直、いつ死んでもおかしくないって、医者に言われてるくらい……」
申し訳ないほどに手に力が入る。
「海君。ゴメン……もういいよ。もういい……」
嗚咽まじりの私の制止にも、海君は絶望したような声で話し続けることを止めない。
「ダメだってわかってるのに、真実さんに声をかけちゃったんだよな……結局こんなふうに泣かすことになるって、最初からわかってたのに……」
私の頭を右手で支えて、海君は首を傾げるようにキスした。
抗うこともできないくらいの力に私はギュッと目を瞑って、必死で平静を保とうとしていた心も、大きく大きく傾いてしまった。
「ごめんなさい。ゴメンね、海君……」
冷たい頬に自分の頬を押し当てる。
もうすっかり枯れ果てたと思っていたはずの涙が止まらなかった。
彼が重大な秘密を抱えているんだろうってことは、もうずっと前からわかってた。
きっとどこか体の調子が悪いんだともわかってて、でも、そうじゃないかと思いつつも、そうでだけはあってほしくないと、願い続けていた。
他の理由ならばいい。
――私と一緒に未来の夢が見れないのは、他のどんな理由でもいい。
それがたとえ私にとってひどい裏切りであっても。
残酷な結果であっても。
私が傷ついて済むのならば、それはもうどうでもいい。
たとえこの先一緒にいられなくても、二度と会えなくても、それはもうかまわない。
海君が生きていてくれるのなら。
私の手の届かないような遥か遠くででも、この同じ世界のどこかに生きていてくれるのなら、私自身はどんな不幸に落ちてもかまわないのに――。
代わりに投げ出せるんだったら、何度だってこんな命投げ出すのに――。
(なのにどうして海君が……『死』なんて言葉を口にしないといけないんだろう……!)
これ以上ないくらいに、彼の体を抱きしめながら、私は悔しくて悲しくてどうしようもなかった。
「俺の抱えてるものは重過ぎる……それは自分でもよくわかってる。だから、誰とも深く関わりあわないようにして生きてきた。いつ俺が死んでしまっても、誰の心も必要以上には痛まないように、生きてきたつもりなんだ……」
砂浜にもう一度座り直して、真っ暗な海を見つめながら、砂を右手ですくっては、風に流し、またすくい、流し、そんな行動をくり返しながら、海君はまるで他人事のように自分のことを話す。
「なのに、真実さんに声をかけちゃったんだよな……俺じゃどうしようもないってわかってたのに、声をかけずにいられなかった。そんな想いって本当にあるんだね……」
こんな時でさえ、茶目っ気を忘れない綺麗な瞳は、私の大好きなものだ。
これ以上ない、大切なものだ。
心からそう思うのに、今は見つめ返すことさえ苦しい。
明るい海君の声に反して、私の気持ちはちっとも上向きになれない。
「俺のことは何も知らせずに、真実さんを守りたかった。ただ傍にいたかった。ゴメン。俺の身勝手に巻きこんで、結局傷つけることになってゴメン……」
私は慌てて首を振る。
彼の言葉のニュアンスに、自分だけが悪いという海君の思いを感じて、ずっと閉じていた口を急いで開く。
「違う! 傍にいて欲しかったのは私だよ。海君が体調がよくないってなんとなくわかっていても……それでも無理をさせてたのは私のほうだよ……!」
私の顔をすぐ目の前からじいっと見つめて、海君が小さく微笑んだ。
何度も何度も私が恋せずにいられない、あの最初の夜の笑顔が、二人きりの砂浜で、また私に向かって微笑んでいる。
「でも不安だったよね……? 本当はいろんなこと、ずっと聞きたくてたまらなかったよね……?」
そっと私を引き寄せて、胸の中に抱きしめる海君の声はいつもと変わらない。
優しくて、温かい大好きな声だ。
だけど――。
「俺も不安だったよ……俺には自分がいつ死んでしまうかの予想もできないから、ひょっとしたら真実さんをもっと傷つけるようなことになるかもって……本当はずっと不安だった……その前に、いなくなったほうがいいのに……早くこの手を放さなきゃって、ずっと焦ってた……なかなか踏んぎりがつかなくて、結局真実さんに辛い役目を任せちゃって……ゴメン」
その言葉の内容は、私が即座に理解できる範疇をとうに超えていた。
嫌な予感に、ドキリと胸が鳴る。
(……海君?)
なんだか妙に気持ちが焦って、彼の表情を確認したくて、私は顔を上げようとする。
ところが、まるでそうさせまいとするかのように、海君は私を抱きしめる腕に力をこめて、胸から放そうとしない。
そしてそのまま――。
「俺に未来はないよ……真実さんに約束できるような未来は持ってないんだ……だから、さよなら……今まで俺のわがままにつきあわせて……ゴメン」
心に刺さるような声で、海君は小さく囁いた。
そしてその言葉にこめた想いを裏づけるかのように、ずっとずっと繋いでいた私の手を、彼は自分の意志で放した。
何も言葉を返すことができない。
寄せては返す波の音と、遠くから聞こえる漁船の汽笛だけが、ぼんやりとした私の意識の底で低く遠く響いている。
長い長い沈黙。
呼吸を整えるように、何度も何度も大きく息をついて、海君はやっと私を抱きしめていた腕の力を抜いた。
腕から開放されて自由になっても、私は身動きすることさえできない。
まるで全身が心臓になったかのように、ドキンドキンという心音が私の頭の中央で鳴り響いている。
ちぎれそうな胸の痛みに耐えきれず、私は海君の顔を見上げた。
震える声で、今私が彼から受け取ったと感じた内容を確かめた。
「それは……私とはもう一緒にいれないってこと……?」
海君は、真っ直ぐに私の顔を見ている。
決して嘘は吐かないその瞳で私を見据えている。
その瞳を見ていたら、それは逃れようもない事実なんだとわかってしまう。
「……もう私に会いに来ないの?」
消え入りそうな私の声に、彼は真剣な顔でしっかりと頷いた。
肯定でも否定でもないあの曖昧な微笑みさえ、もう私に見せてはくれなかった。
胸が痛い。
痛い。
痛い。
握りしめた右手を、力強く押し当てずにはいられない。
「俺と会えないと真実さんが寂しがるからって……もう言ってくれないの?」
涙まじりの私の問いかけに、鮮烈なほどの悲しみの感情が、海君の綺麗な瞳を斜めに横切った。
「……ゴメン」
俯く白い顔。
悔しさともどかしさが入り混じったような、なんとも言えないその表情。
決して涙を見せはしない海君の綺麗な瞳は、私なんか比べものにもならないほどの、悲しみに満ちている。
これまで海君がどれほどのことを諦めて、どれほど傷ついて生きてきたのかをまざまざと物語っている。
「傍にいても、私には何もできない……? 海君の力にはなれない……?」
願いをこめて問いかけても、今はその瞳をいっそう悲しませるだけだ。
わかっているのに言わずにはいられない。
「それは……! でもゴメン……俺は真美さんにだけは、最悪の場合を見せたくないんだ……」
本当はわかってる。
どうすれば彼を一番苦しめなくて済むのか。
私にはもうわかっている。
(海君の言うとおり……ここでサヨナラすればいい……)
なのに私の心は、自分でもどうしようもないほどに、彼との別れを拒んでいる。
頑なに首を横に振り続けている。
(できることなら、海君を楽にさせてあげるために、私のほうからだって、手を放してあげたい……なのに……!)
いつも海君と繋いでいた自分の右手を見下ろした瞬間、涙が一筋、私の目から零れ落ちた。
失った瞬間に、自分がどんなに海君を好きだったか、大切だったか、思い知った。
今まで、
「真実さんが! 真実さんが!」
って私のことばかり気遣ってくれていた海君の言葉は、きっと照れ隠しもあっただろうけれど、いつだって彼の本気だったはずだ。
だからこんな時に泣くなんて、絶対にしたくはなかったのに。
苦しめたくなかったのに。
――ダメだ。
涙はとめどなく私の目から溢れ、頬を伝って、落ちていく。
「泣かないで真実さん……」
きっともう私には指一本さえ触れるつもりのない海君の、それが心からの願いだとわかるのに、私の涙は私のいうことをきいてくれない。
海君は私を見つめる。
ただそれだけしか許されていないかのように、せいいっぱいの想いをその瞳にこめて、私を見つめ続ける。
「ゴメン……真美さんゴメン……」
ほんのついさっきまで迷うことなく抱きしめていた相手を、そうできないことが、どれぐらいもどかしいものなのか、苦しいものなのか、私にはわからない。
それでも海君は決断した。
自分の意思でしっかりと私と離れることを選び取った。
その気持ちを大切にしてあげたいのに。
尊重してあげたいのに。
私はなんてわがままな女なんだろう。
残酷な女なんだろう。
――手を伸ばしてしまう。
好きで好きでどうしようもない存在にすがるように、手をさし伸べてしまう。
「ごめんなさい、海君……」
その瞬間、海君の瞳の中で何かが弾けた。
「謝るのは俺のほうだ……!」
全てをふり払うかのように頭を振って、彼はもう一度左手で、私の右手を掴んだ。
いつも繋いでいたその手と指を絡めた瞬間、私は体中の力が抜けて、全身全霊で安堵した。
(ありがとう海君……私の最後のわがままを叶えてくれて……ありがとう……)
言葉にできない想いに俯く私の濡れた頬に頬を寄せ、海君は長い指先で、冷たい唇で、私の涙をすくい取るようになぞっていく。
彼の指が、頬が、唇が、私に触れるたび、涙が溢れて止まらない。
熱に浮かされたように、何度も何度も私にくちづけて、海君は呻くように呟いた。
「ゴメン真美さん……本心を告げずにかっこよくいなくなるなんて……やっぱり俺にはできそうにない……!」
その言葉が終わらないうちに、宙をかくようにもの凄い力で、海君の腕が私を胸の中に抱きこんだ。
「一度だけ! 一度だけでいいから本当のことを言わせて……! 忘れてしまってかまわない。聞かなかったことにして、すぐに違う誰かを好きになってもいいから……!」
彼の腕の中で私は必死に首を横に振る。
「誰かを好きになんてならない! 私が好きなのは海君だもの! ずっとずっと、海君だけだもの……!」
瞬間、息もできないくらい強く抱きすくめられた。
私の大好きな真剣な嘘のない瞳が、すぐ近くから私の目を真っ直ぐにしっかりと見つめている。
「放したくない。俺だって他の誰にも渡したくなんかない……! ずっと隣にいて、俺が真実さんを守りたい! こんなふうに泣かせるんじゃなくって……本当はずっと……ずっと俺が……!」
耳元で響く、今まで聞いたこともないような彼の叫び。
涙が溢れる。
胸が熱くなる。
頭のどこかが痺れる。
考えるより、思うより先に、私の口が勝手に動きだす。
「好きだよ海君……大好きだよ……!」
だけどそれでも私たちは終わりなんだと、やっとわかった。
苦しくて苦しくてたまらない胸で理解した。
まるでそこだけ世界から切り離されたようなあの砂浜を出て、私達たちは海沿いの堤防を歩いた。
フェリーが出る隣町に向かうため、漁船がたくさん停泊している港へと帰る。
「あれが夏の大三角形……それからあれがさそり座でしょう……」
夜空を見上げたまま、指差しながら歩き続ける私を、
「真実さん、堤防から落ちちゃうよ?」
海君は笑いながら、いつものように手を引いてくれる。
(全ての想いはこの砂浜に置いて行く)
私が最初から決意していたことを彼に伝えたわけでもないのに、砂浜を出た途端、いつもの調子に戻った私と同じように、海君もいつもの彼に戻ってくれた。
(そうだね……海君はいつでも何も言わなくても、私の考えてることがわかるんだものね……)
それはどんなに心地良いことだったんだろう。
奇跡みたいな幸せだったんだろう。
失うことが決まってしまった今、心からそう思う。
いつものように手を繋いで、いつものように二人で歩くこの夜が、
(二人で過ごす最後の時間だね……)
お互いに口に出して確認はしなくてもわかっている。
だから顔を見あわせて笑った。
指を絡めて歩いた。
一緒に、降るような満天の星空を見上げて、目を閉じて海鳴りを聞いた。
躍るように軽い足取りで、私の半歩前を歩く背中が大好きだ。
ふり返って、甘く輝くその瞳が大好きだ。
いつだって、誰よりも何よりも大切だった。
だから――。
(サヨナラしよう)
私はやっとその決心を固めることができた。
降るほどの星空の下で知った、あなたの痛みを忘れない。
砂浜の上で堅く繋ぎあった、その指の感触を忘れない。
波の音を聞きながら、狂おしいほどに重ねた唇を忘れない。
真っ直ぐな瞳を、眩しいくらいの笑顔を絶対に忘れないから、――私は歩きだす。
――サヨナラに向かって、歩きだす。
降るような星空の下。
私の耳元で囁かれる声は確かに海君のものなのに、その内容は、まるで違う世界の知らない人のことを語っているかのようだ。
何も言えずにただ彼の肩に額を押し当てる。
繋いだ手に思わず入る力を、隠すこともできない。
「どれぐらい悪いかと言えば……今こうして生きているのが不思議なくらい……正直、いつ死んでもおかしくないって、医者に言われてるくらい……」
申し訳ないほどに手に力が入る。
「海君。ゴメン……もういいよ。もういい……」
嗚咽まじりの私の制止にも、海君は絶望したような声で話し続けることを止めない。
「ダメだってわかってるのに、真実さんに声をかけちゃったんだよな……結局こんなふうに泣かすことになるって、最初からわかってたのに……」
私の頭を右手で支えて、海君は首を傾げるようにキスした。
抗うこともできないくらいの力に私はギュッと目を瞑って、必死で平静を保とうとしていた心も、大きく大きく傾いてしまった。
「ごめんなさい。ゴメンね、海君……」
冷たい頬に自分の頬を押し当てる。
もうすっかり枯れ果てたと思っていたはずの涙が止まらなかった。
彼が重大な秘密を抱えているんだろうってことは、もうずっと前からわかってた。
きっとどこか体の調子が悪いんだともわかってて、でも、そうじゃないかと思いつつも、そうでだけはあってほしくないと、願い続けていた。
他の理由ならばいい。
――私と一緒に未来の夢が見れないのは、他のどんな理由でもいい。
それがたとえ私にとってひどい裏切りであっても。
残酷な結果であっても。
私が傷ついて済むのならば、それはもうどうでもいい。
たとえこの先一緒にいられなくても、二度と会えなくても、それはもうかまわない。
海君が生きていてくれるのなら。
私の手の届かないような遥か遠くででも、この同じ世界のどこかに生きていてくれるのなら、私自身はどんな不幸に落ちてもかまわないのに――。
代わりに投げ出せるんだったら、何度だってこんな命投げ出すのに――。
(なのにどうして海君が……『死』なんて言葉を口にしないといけないんだろう……!)
これ以上ないくらいに、彼の体を抱きしめながら、私は悔しくて悲しくてどうしようもなかった。
「俺の抱えてるものは重過ぎる……それは自分でもよくわかってる。だから、誰とも深く関わりあわないようにして生きてきた。いつ俺が死んでしまっても、誰の心も必要以上には痛まないように、生きてきたつもりなんだ……」
砂浜にもう一度座り直して、真っ暗な海を見つめながら、砂を右手ですくっては、風に流し、またすくい、流し、そんな行動をくり返しながら、海君はまるで他人事のように自分のことを話す。
「なのに、真実さんに声をかけちゃったんだよな……俺じゃどうしようもないってわかってたのに、声をかけずにいられなかった。そんな想いって本当にあるんだね……」
こんな時でさえ、茶目っ気を忘れない綺麗な瞳は、私の大好きなものだ。
これ以上ない、大切なものだ。
心からそう思うのに、今は見つめ返すことさえ苦しい。
明るい海君の声に反して、私の気持ちはちっとも上向きになれない。
「俺のことは何も知らせずに、真実さんを守りたかった。ただ傍にいたかった。ゴメン。俺の身勝手に巻きこんで、結局傷つけることになってゴメン……」
私は慌てて首を振る。
彼の言葉のニュアンスに、自分だけが悪いという海君の思いを感じて、ずっと閉じていた口を急いで開く。
「違う! 傍にいて欲しかったのは私だよ。海君が体調がよくないってなんとなくわかっていても……それでも無理をさせてたのは私のほうだよ……!」
私の顔をすぐ目の前からじいっと見つめて、海君が小さく微笑んだ。
何度も何度も私が恋せずにいられない、あの最初の夜の笑顔が、二人きりの砂浜で、また私に向かって微笑んでいる。
「でも不安だったよね……? 本当はいろんなこと、ずっと聞きたくてたまらなかったよね……?」
そっと私を引き寄せて、胸の中に抱きしめる海君の声はいつもと変わらない。
優しくて、温かい大好きな声だ。
だけど――。
「俺も不安だったよ……俺には自分がいつ死んでしまうかの予想もできないから、ひょっとしたら真実さんをもっと傷つけるようなことになるかもって……本当はずっと不安だった……その前に、いなくなったほうがいいのに……早くこの手を放さなきゃって、ずっと焦ってた……なかなか踏んぎりがつかなくて、結局真実さんに辛い役目を任せちゃって……ゴメン」
その言葉の内容は、私が即座に理解できる範疇をとうに超えていた。
嫌な予感に、ドキリと胸が鳴る。
(……海君?)
なんだか妙に気持ちが焦って、彼の表情を確認したくて、私は顔を上げようとする。
ところが、まるでそうさせまいとするかのように、海君は私を抱きしめる腕に力をこめて、胸から放そうとしない。
そしてそのまま――。
「俺に未来はないよ……真実さんに約束できるような未来は持ってないんだ……だから、さよなら……今まで俺のわがままにつきあわせて……ゴメン」
心に刺さるような声で、海君は小さく囁いた。
そしてその言葉にこめた想いを裏づけるかのように、ずっとずっと繋いでいた私の手を、彼は自分の意志で放した。
何も言葉を返すことができない。
寄せては返す波の音と、遠くから聞こえる漁船の汽笛だけが、ぼんやりとした私の意識の底で低く遠く響いている。
長い長い沈黙。
呼吸を整えるように、何度も何度も大きく息をついて、海君はやっと私を抱きしめていた腕の力を抜いた。
腕から開放されて自由になっても、私は身動きすることさえできない。
まるで全身が心臓になったかのように、ドキンドキンという心音が私の頭の中央で鳴り響いている。
ちぎれそうな胸の痛みに耐えきれず、私は海君の顔を見上げた。
震える声で、今私が彼から受け取ったと感じた内容を確かめた。
「それは……私とはもう一緒にいれないってこと……?」
海君は、真っ直ぐに私の顔を見ている。
決して嘘は吐かないその瞳で私を見据えている。
その瞳を見ていたら、それは逃れようもない事実なんだとわかってしまう。
「……もう私に会いに来ないの?」
消え入りそうな私の声に、彼は真剣な顔でしっかりと頷いた。
肯定でも否定でもないあの曖昧な微笑みさえ、もう私に見せてはくれなかった。
胸が痛い。
痛い。
痛い。
握りしめた右手を、力強く押し当てずにはいられない。
「俺と会えないと真実さんが寂しがるからって……もう言ってくれないの?」
涙まじりの私の問いかけに、鮮烈なほどの悲しみの感情が、海君の綺麗な瞳を斜めに横切った。
「……ゴメン」
俯く白い顔。
悔しさともどかしさが入り混じったような、なんとも言えないその表情。
決して涙を見せはしない海君の綺麗な瞳は、私なんか比べものにもならないほどの、悲しみに満ちている。
これまで海君がどれほどのことを諦めて、どれほど傷ついて生きてきたのかをまざまざと物語っている。
「傍にいても、私には何もできない……? 海君の力にはなれない……?」
願いをこめて問いかけても、今はその瞳をいっそう悲しませるだけだ。
わかっているのに言わずにはいられない。
「それは……! でもゴメン……俺は真美さんにだけは、最悪の場合を見せたくないんだ……」
本当はわかってる。
どうすれば彼を一番苦しめなくて済むのか。
私にはもうわかっている。
(海君の言うとおり……ここでサヨナラすればいい……)
なのに私の心は、自分でもどうしようもないほどに、彼との別れを拒んでいる。
頑なに首を横に振り続けている。
(できることなら、海君を楽にさせてあげるために、私のほうからだって、手を放してあげたい……なのに……!)
いつも海君と繋いでいた自分の右手を見下ろした瞬間、涙が一筋、私の目から零れ落ちた。
失った瞬間に、自分がどんなに海君を好きだったか、大切だったか、思い知った。
今まで、
「真実さんが! 真実さんが!」
って私のことばかり気遣ってくれていた海君の言葉は、きっと照れ隠しもあっただろうけれど、いつだって彼の本気だったはずだ。
だからこんな時に泣くなんて、絶対にしたくはなかったのに。
苦しめたくなかったのに。
――ダメだ。
涙はとめどなく私の目から溢れ、頬を伝って、落ちていく。
「泣かないで真実さん……」
きっともう私には指一本さえ触れるつもりのない海君の、それが心からの願いだとわかるのに、私の涙は私のいうことをきいてくれない。
海君は私を見つめる。
ただそれだけしか許されていないかのように、せいいっぱいの想いをその瞳にこめて、私を見つめ続ける。
「ゴメン……真美さんゴメン……」
ほんのついさっきまで迷うことなく抱きしめていた相手を、そうできないことが、どれぐらいもどかしいものなのか、苦しいものなのか、私にはわからない。
それでも海君は決断した。
自分の意思でしっかりと私と離れることを選び取った。
その気持ちを大切にしてあげたいのに。
尊重してあげたいのに。
私はなんてわがままな女なんだろう。
残酷な女なんだろう。
――手を伸ばしてしまう。
好きで好きでどうしようもない存在にすがるように、手をさし伸べてしまう。
「ごめんなさい、海君……」
その瞬間、海君の瞳の中で何かが弾けた。
「謝るのは俺のほうだ……!」
全てをふり払うかのように頭を振って、彼はもう一度左手で、私の右手を掴んだ。
いつも繋いでいたその手と指を絡めた瞬間、私は体中の力が抜けて、全身全霊で安堵した。
(ありがとう海君……私の最後のわがままを叶えてくれて……ありがとう……)
言葉にできない想いに俯く私の濡れた頬に頬を寄せ、海君は長い指先で、冷たい唇で、私の涙をすくい取るようになぞっていく。
彼の指が、頬が、唇が、私に触れるたび、涙が溢れて止まらない。
熱に浮かされたように、何度も何度も私にくちづけて、海君は呻くように呟いた。
「ゴメン真美さん……本心を告げずにかっこよくいなくなるなんて……やっぱり俺にはできそうにない……!」
その言葉が終わらないうちに、宙をかくようにもの凄い力で、海君の腕が私を胸の中に抱きこんだ。
「一度だけ! 一度だけでいいから本当のことを言わせて……! 忘れてしまってかまわない。聞かなかったことにして、すぐに違う誰かを好きになってもいいから……!」
彼の腕の中で私は必死に首を横に振る。
「誰かを好きになんてならない! 私が好きなのは海君だもの! ずっとずっと、海君だけだもの……!」
瞬間、息もできないくらい強く抱きすくめられた。
私の大好きな真剣な嘘のない瞳が、すぐ近くから私の目を真っ直ぐにしっかりと見つめている。
「放したくない。俺だって他の誰にも渡したくなんかない……! ずっと隣にいて、俺が真実さんを守りたい! こんなふうに泣かせるんじゃなくって……本当はずっと……ずっと俺が……!」
耳元で響く、今まで聞いたこともないような彼の叫び。
涙が溢れる。
胸が熱くなる。
頭のどこかが痺れる。
考えるより、思うより先に、私の口が勝手に動きだす。
「好きだよ海君……大好きだよ……!」
だけどそれでも私たちは終わりなんだと、やっとわかった。
苦しくて苦しくてたまらない胸で理解した。
まるでそこだけ世界から切り離されたようなあの砂浜を出て、私達たちは海沿いの堤防を歩いた。
フェリーが出る隣町に向かうため、漁船がたくさん停泊している港へと帰る。
「あれが夏の大三角形……それからあれがさそり座でしょう……」
夜空を見上げたまま、指差しながら歩き続ける私を、
「真実さん、堤防から落ちちゃうよ?」
海君は笑いながら、いつものように手を引いてくれる。
(全ての想いはこの砂浜に置いて行く)
私が最初から決意していたことを彼に伝えたわけでもないのに、砂浜を出た途端、いつもの調子に戻った私と同じように、海君もいつもの彼に戻ってくれた。
(そうだね……海君はいつでも何も言わなくても、私の考えてることがわかるんだものね……)
それはどんなに心地良いことだったんだろう。
奇跡みたいな幸せだったんだろう。
失うことが決まってしまった今、心からそう思う。
いつものように手を繋いで、いつものように二人で歩くこの夜が、
(二人で過ごす最後の時間だね……)
お互いに口に出して確認はしなくてもわかっている。
だから顔を見あわせて笑った。
指を絡めて歩いた。
一緒に、降るような満天の星空を見上げて、目を閉じて海鳴りを聞いた。
躍るように軽い足取りで、私の半歩前を歩く背中が大好きだ。
ふり返って、甘く輝くその瞳が大好きだ。
いつだって、誰よりも何よりも大切だった。
だから――。
(サヨナラしよう)
私はやっとその決心を固めることができた。
降るほどの星空の下で知った、あなたの痛みを忘れない。
砂浜の上で堅く繋ぎあった、その指の感触を忘れない。
波の音を聞きながら、狂おしいほどに重ねた唇を忘れない。
真っ直ぐな瞳を、眩しいくらいの笑顔を絶対に忘れないから、――私は歩きだす。
――サヨナラに向かって、歩きだす。