あくる日。
仕事に出かける兄と、パートに行く母を見送った私は、父と二人で家に残ることになった。
『ひさしぶりに娘が帰ってくるから』という理由で、父は平日にもかかわらず、わざわざ休みを取ってくれたのらしい。
「なんだよ! ……こんな時ばっかり早く帰ってくるんだからって……昨夜お袋、俺のことはさんざん笑ったくせに……親父のほうがもっと凄いじゃないかよ……!」
朝早く、朝食も食べるか食べないかで出かけていった兄の悪態には眉一つ動かさず、父はいつものようにどっしりと食卓の自分の席に座り、静かに新聞に目を落としている。
私の前に朝食のおかずを次々と並べながら、母は、
「今日一日、お父さんのことをヨロシクね……」
となんだか嬉しそうに笑った。
父は少しきまり悪そうに、ゴホンとひとつ咳払いをした。
母がバタバタと出かけていってからすぐに、私は母に頼まれた洗濯や掃除に取りかかった。
やることがあるというのは嬉しいものだ。
体を動かしていると、いろんなことを忘れられる。
どこにいても、何をしてても、本当は私の心をつかんで放さないあの悪い想像から、ほんの少しの間だけでも逃れられる。
「ええっ? こんなに綺麗にしてくれたの!」
と母が喜んでくれる顔を見たくて、私は懸命にがんばった。
普段はそんなこと思いつきもしない縁側の雑巾がけを、ひととおりやり終えた時、ふと庭に目を向けると、そこ立つ父の背中が目に飛びこんで来た。
(そうだった……! お父さん私のためにわざわざ、仕事を休んでくれたんだったのに!)
そう思うと、大掃除まがいの念入りな掃除に一日を費やしてしまうのは、なんだか申し訳ない気がした。
「お父さん、どっか出かけようか?」
エプロンを外しながら声をかけると、庭木に水を撒いていた父が、ホース片手にゆっくりとふり返る。
「どこに行くんだ?」
最初からそのつもりだったわけではないのに、私の口は迷うことなく、
「お墓参り」
と答えた。
いつもあまり表情の変わらない父の目が、煌く水しぶきのすぐ横で、とても嬉しそうに輝いた気がした。
我が家のお墓は、家と同様、長い坂の上に建っている。
この町自体が海岸に沿って長く伸びるように拓けた町だから、繁華街から少し抜けた場所となると、自然と山の丘陵を段々重ねに無理やり開拓した場所になるのは、仕方がない。
家も畑もお墓も、全てが斜めに折り重なるように続いていて、山肌をビッシリと埋め尽くすような坂の町。
だけどこの風景が、私は大好きだった。
父の車の助手席に座って、お墓のある坂の上り口まで来たら、私はおずおずと父の横顔に声をかけた。
「お父さん……私ね……」
言いかけた言葉は、父の
「わかっている」
という短い返答に遮られる。
父はそのまま車を道路脇に停め、家から持ってきたお添えの花を片手に、車から降りた。
「ここからは歩いて行くから、私だけ降ろして」
と言うつもりだった私は、どうやら父も私につきあってくれるつもりらしいことに驚いた。
「お父さんも歩いて登るの?」
父は黙ったまま頷くと、黙々と坂を上り始めた。
私は慌てて、その広い背中を追いかけた。
家へと続く坂の何倍も長いお墓への坂は、角度も急な上に舗装もされていない、砂利道だ。
「あそこに行くと車が汚れんだよな……」
と兄がぼやくとおり、車に乗っていても体がガタガタと揺れるようなかなりの悪路で、つづら折りになった道を、何度も何度も右へ左へ折り返して進んでいかなければならない。
でもこの道も、家へと続く坂道同様、私には大好きな道だった。
「どうしても歩いて上りたいなんて……本当に変な子だよ……」
母に笑われ、兄に呆れられながらも、私は何度もこの道を歩いた。
車で登った時の何倍も何十倍も時間がかかってしまって、ようやくお墓にたどり着いた時には、車で来た他のみんなはとっくにお参りを済ませて、帰るところだったなんてこともしょっちゅうだった。
「お前さあ……いったい何しに来てんだよ……?」
兄の非難の声もまったく気にならないほど、坂を上りきったあとの私は、いつも上機嫌だった。
登ったことがない人には、きっといくら言ったってわからない。
クタクタに疲れながら、それでもがんばってがんばって、てっぺんまで上りきった時に、ふり返るとどんな景色が私の目の前に広がっているのか。
――そんな素敵なこと。
やったことがない人には、絶対教えられない。
「お兄ちゃんも歩いて登ってみてよ! そしたら、きっとわかるよ!」
意気揚揚と誘いをかける私に、兄はこれ以上はないほど嫌そうな顔を向ける。
「嫌だ。別にそんこと事……知らなくっていい……!」
「えー? そんな事言わずにー」
「やだったらやだ!」
兄だけじゃなく、父だって母だって、私の誘いを上手い具合にかわして、これまで私につきあって、この坂を歩いて登ってくれたことはなかった。
それなのに今日の父は、いったいどういう風の吹き回しだろう。
(いったいどうしたの……お父さん?)
声に出して問いかける間も与えず、どんどん遠去かっていくうしろ姿を、おいてきぼりにならないように、私は夢中で追いかけた。
「母さんが……昔はよく、こうやって歩いて上ってたなあ……」
私のほうをふり返りもせず、突然口を開いた父の言葉を一言だって聞き逃すまいと、私は急いで隣に並ぶ。
「お祖母ちゃんが?」
問い返してみると、父はやっぱり前を向いたまま、静かに頷いた。
「ああ。ここにお墓を建てようって決めたのは母さんだからな。年を取るとお墓参りも大変になるからって反対したのに、決局聞き入れてくれなかった……『私なら大丈夫』って……実際、足が不自由になる前までは、本当に毎日長い時間かけて、自分の足で歩いて上ってたからなぁ……凄いもんだと思った……」
普段はどちらというと寡黙な父が、いつになく饒舌に語ってくれることが嬉しくて、私は余計な口は挟まず、ただ静かに父の言葉に耳を傾けた。
懐かしい祖母のうしろ姿を追うようにして、父は今、この坂を上っているのかもしれない。
「真実もお祖母さんと一緒で、歩いて登るのが好きなんですよって報告したら……きっとどんなことよりも喜んでくれるんだろうな……」
その祖母も十年前に他界して、今はこの坂の上のお墓で、祖父と仲良く眠っている。
実は私は、祖母とのやり取りの中で、このお墓に関して、父も知らないあることを知っていた。
今日初めて、一緒に歩いて坂道を登ってくれたことへのお礼として、それを父にも教えてあげてもいいと思った。
「お祖母ちゃんがどうしてこの坂の上にお墓を建てたかったのか……私、その理由を知ってるよ」
長い坂道を歩き続けてすっかり息が上がってしまっていた私は、大きく肩で息をくり返しながら、父の背中を見つめてそう言った。
すると、これまでずっと前ばかりを向いていた父が、初めて私のほうをふり向いた。
「お祖母ちゃんが生きてる頃に、こっそり教えてもらったんだ……」
ちょっぴり自慢げに、私は胸を張った。
「お父さんにもあとで教えてあげるね……」
私と同じように額に汗をかいて大きく息を切らした父は、私の顔をしっかりと見つめながら、ひどく嬉しそうに頷いた。
坂を上りきって、遥か眼下に深い色の海を見下ろしながら、私は祖父と祖母が眠るお墓に手をあわせた。
さすがに夏の暑い時期に、これだけの距離を歩いて上るのは無謀だったようで、流れ落ちる汗はなかなか止まらない。
ちょっと痛くなったふくらはぎは、私の日頃の運動不足をものがたっていた。
長いこと、私の目の前で、立ち尽くしたまま手をあわせている父も、私と同じように汗だくで、まだ荒い息を吐いている。
でも妙な達成感というか。
高揚感というか。
いつものお墓参りとは違う何かを、感じてくれているらしいのは確かだった。
(よかった……)
まるで親と子が逆転したかのように、私はそんなことを思う。
祖母からの伝言を受けているから、ついついそんな気持ちで父のことを見てしまうのかもしれない。
ようやくお参りが終わって私のほうをふり返った父は、目線だけでうながして、私を墓地の外れの木製のベンチへと移動させた。
そこは墓地の中でも、景色を眺めるには一番の特等席だった。
大きな木の根元にあって、ちょうどその梢が木陰を作ってくれている。
座ったままで海が見下ろせるし、下から吹き上げてくる風の通り道で、他の場所より涼しかった。
「ああー……気持ちいいー」
両足を投げ出すようにしてベンチに腰掛けた私の隣に、父も座って、ハンカチで額や首筋の汗を拭う。
その後も無言のまま、長い時間ただ海を見下ろしている横顔に、私のほうから話しだすのを静かに待ってくれているんだと感じた。
私は祖母から聞いた話を、父に伝え始めた。
「ここってね……お祖父ちゃんが戦争に行く時に、お祖母ちゃんがお祖父ちゃんの乗った船を見送った丘なんだって……無事に帰ってくることを祈って、その後も願掛けみたいに毎日登った丘なんだって……そして、お祖父ちゃんが帰ってくるっていう日には、一番に船が見つけられるように……ドキドキしながら待った丘なんだって……すっごく嬉しそうに笑いながら、大事そうに教えてくれたなぁ……」
小さな頃に何度か、くり返し聞かせてもらった祖母の思い出話を、私は真っ直ぐに海を見つめたまま、父に語った。
できるだけ祖母の言葉そのままに――。
父は短く「そうか」と言ったきり、私と同じように、ただ真っ直ぐ海を見ている。
まるで小さなミニチュア模型のように、遥か眼下に広がっている港町が、私の――そして父の生まれ育った町だった。
我が家は海に直接関係のある仕事ではないけれど、港町に住んでいる以上、海とは密接な関係にある。
食卓に上る新鮮な海の幸。
車のエンジン音よりも聞きなれた漁船の汽笛。
賑やかな浜の声。
私の日常にとって、海は切っても切れないものだ。
だから海を見ているだけで、自然と心が落ち着いていく。
穏やかな目で海を見下ろす父も、ひょっとしたら私と同じ気持ちなのかもしれない。
「目を閉じるとね。なんだか……お祖母ちゃんが見てた風景が、目に浮かぶような気がするんだ……大好きな人がもうすぐ帰ってくる。そのドキドキワクワクする気持ちだって、わかる気がするんだ……ここで待ってたら、私にもいつかそんな人が現われるんじゃないかなんて、夢みたいな話……昔はよく考えたなぁ……」
懐かしいばかりの思い出を、目を閉じて思い浮かべていた私に、それまで口をつぐんでいた父が、唐突に尋ねた。
「それで……? 現われたのか? お前がそんなふうに思える人は……」
胸がズキリと痛んで、その瞬間私は、「うん」とも「ううん」とも言えなかった。
仕方がなく、父に向かってただ曖昧に微笑む。
そうしておいて初めて、いつも海君がどんな気持ちで、私にそんな対応をくり返していたのかが、わかった気がした。
(そっか……言いたくても言えない言葉をのみこんでいたんだね……)
それはなんて辛いことだろう。
苦しいことだろう。
彼は私と出会ったほんの最初の時から、ずっとこんな気持ちを抱えていたんだ。
――それなのにいつだって優しく、私のことを見つめてくれていた。
考えれば考えるほど、胸が痛くて、涙が浮かんできそうだった。
眉根をギュッと寄せて、必死に泣くのを我慢する私に、父が語りかける。
「お前が……卒業してもあの街に残りたいんだったら……別にそれでも構わないんだぞ……?」
静かな声だった。
父の言葉は言外に、『もし一緒にいたい人があの街にいるんだったら、そのまま留まってもかまわない』と私に許しを与えてくれている。
そのことはよくわかる。
でも私は、すぐに首を横に振った。
「ううん。やっぱり私はここに帰ってくるよ。私には……やっぱりこの風景が一番大事だもん……」
それは確かに私の本当の心だった。
でもそれと同時に、どんなに望んでも叶いそうにない願いに、自分から背中を向けようとする行為でもあった。
(私の好きな人とは、このまま一緒にいることなんてできないんだよ……どんなに好きでも……大切でも……この恋はきっといつか手放さないといけない……!)
しかもそれは、そう遠い未来じゃないだろうということに、私は確信を持っている。
私の苦悩に満ちた表情を、父がどんなふうに解釈したのかはわからない。
けれど――。
「だったら……ここに帰ってくればいい……!」
当然のように私の頭を撫でてくれた大きな手が、小さな子供の頃と同じように、とても温かく、とても頼もしく感じて、泣きたいくらいに嬉しかった。
仕事に出かける兄と、パートに行く母を見送った私は、父と二人で家に残ることになった。
『ひさしぶりに娘が帰ってくるから』という理由で、父は平日にもかかわらず、わざわざ休みを取ってくれたのらしい。
「なんだよ! ……こんな時ばっかり早く帰ってくるんだからって……昨夜お袋、俺のことはさんざん笑ったくせに……親父のほうがもっと凄いじゃないかよ……!」
朝早く、朝食も食べるか食べないかで出かけていった兄の悪態には眉一つ動かさず、父はいつものようにどっしりと食卓の自分の席に座り、静かに新聞に目を落としている。
私の前に朝食のおかずを次々と並べながら、母は、
「今日一日、お父さんのことをヨロシクね……」
となんだか嬉しそうに笑った。
父は少しきまり悪そうに、ゴホンとひとつ咳払いをした。
母がバタバタと出かけていってからすぐに、私は母に頼まれた洗濯や掃除に取りかかった。
やることがあるというのは嬉しいものだ。
体を動かしていると、いろんなことを忘れられる。
どこにいても、何をしてても、本当は私の心をつかんで放さないあの悪い想像から、ほんの少しの間だけでも逃れられる。
「ええっ? こんなに綺麗にしてくれたの!」
と母が喜んでくれる顔を見たくて、私は懸命にがんばった。
普段はそんなこと思いつきもしない縁側の雑巾がけを、ひととおりやり終えた時、ふと庭に目を向けると、そこ立つ父の背中が目に飛びこんで来た。
(そうだった……! お父さん私のためにわざわざ、仕事を休んでくれたんだったのに!)
そう思うと、大掃除まがいの念入りな掃除に一日を費やしてしまうのは、なんだか申し訳ない気がした。
「お父さん、どっか出かけようか?」
エプロンを外しながら声をかけると、庭木に水を撒いていた父が、ホース片手にゆっくりとふり返る。
「どこに行くんだ?」
最初からそのつもりだったわけではないのに、私の口は迷うことなく、
「お墓参り」
と答えた。
いつもあまり表情の変わらない父の目が、煌く水しぶきのすぐ横で、とても嬉しそうに輝いた気がした。
我が家のお墓は、家と同様、長い坂の上に建っている。
この町自体が海岸に沿って長く伸びるように拓けた町だから、繁華街から少し抜けた場所となると、自然と山の丘陵を段々重ねに無理やり開拓した場所になるのは、仕方がない。
家も畑もお墓も、全てが斜めに折り重なるように続いていて、山肌をビッシリと埋め尽くすような坂の町。
だけどこの風景が、私は大好きだった。
父の車の助手席に座って、お墓のある坂の上り口まで来たら、私はおずおずと父の横顔に声をかけた。
「お父さん……私ね……」
言いかけた言葉は、父の
「わかっている」
という短い返答に遮られる。
父はそのまま車を道路脇に停め、家から持ってきたお添えの花を片手に、車から降りた。
「ここからは歩いて行くから、私だけ降ろして」
と言うつもりだった私は、どうやら父も私につきあってくれるつもりらしいことに驚いた。
「お父さんも歩いて登るの?」
父は黙ったまま頷くと、黙々と坂を上り始めた。
私は慌てて、その広い背中を追いかけた。
家へと続く坂の何倍も長いお墓への坂は、角度も急な上に舗装もされていない、砂利道だ。
「あそこに行くと車が汚れんだよな……」
と兄がぼやくとおり、車に乗っていても体がガタガタと揺れるようなかなりの悪路で、つづら折りになった道を、何度も何度も右へ左へ折り返して進んでいかなければならない。
でもこの道も、家へと続く坂道同様、私には大好きな道だった。
「どうしても歩いて上りたいなんて……本当に変な子だよ……」
母に笑われ、兄に呆れられながらも、私は何度もこの道を歩いた。
車で登った時の何倍も何十倍も時間がかかってしまって、ようやくお墓にたどり着いた時には、車で来た他のみんなはとっくにお参りを済ませて、帰るところだったなんてこともしょっちゅうだった。
「お前さあ……いったい何しに来てんだよ……?」
兄の非難の声もまったく気にならないほど、坂を上りきったあとの私は、いつも上機嫌だった。
登ったことがない人には、きっといくら言ったってわからない。
クタクタに疲れながら、それでもがんばってがんばって、てっぺんまで上りきった時に、ふり返るとどんな景色が私の目の前に広がっているのか。
――そんな素敵なこと。
やったことがない人には、絶対教えられない。
「お兄ちゃんも歩いて登ってみてよ! そしたら、きっとわかるよ!」
意気揚揚と誘いをかける私に、兄はこれ以上はないほど嫌そうな顔を向ける。
「嫌だ。別にそんこと事……知らなくっていい……!」
「えー? そんな事言わずにー」
「やだったらやだ!」
兄だけじゃなく、父だって母だって、私の誘いを上手い具合にかわして、これまで私につきあって、この坂を歩いて登ってくれたことはなかった。
それなのに今日の父は、いったいどういう風の吹き回しだろう。
(いったいどうしたの……お父さん?)
声に出して問いかける間も与えず、どんどん遠去かっていくうしろ姿を、おいてきぼりにならないように、私は夢中で追いかけた。
「母さんが……昔はよく、こうやって歩いて上ってたなあ……」
私のほうをふり返りもせず、突然口を開いた父の言葉を一言だって聞き逃すまいと、私は急いで隣に並ぶ。
「お祖母ちゃんが?」
問い返してみると、父はやっぱり前を向いたまま、静かに頷いた。
「ああ。ここにお墓を建てようって決めたのは母さんだからな。年を取るとお墓参りも大変になるからって反対したのに、決局聞き入れてくれなかった……『私なら大丈夫』って……実際、足が不自由になる前までは、本当に毎日長い時間かけて、自分の足で歩いて上ってたからなぁ……凄いもんだと思った……」
普段はどちらというと寡黙な父が、いつになく饒舌に語ってくれることが嬉しくて、私は余計な口は挟まず、ただ静かに父の言葉に耳を傾けた。
懐かしい祖母のうしろ姿を追うようにして、父は今、この坂を上っているのかもしれない。
「真実もお祖母さんと一緒で、歩いて登るのが好きなんですよって報告したら……きっとどんなことよりも喜んでくれるんだろうな……」
その祖母も十年前に他界して、今はこの坂の上のお墓で、祖父と仲良く眠っている。
実は私は、祖母とのやり取りの中で、このお墓に関して、父も知らないあることを知っていた。
今日初めて、一緒に歩いて坂道を登ってくれたことへのお礼として、それを父にも教えてあげてもいいと思った。
「お祖母ちゃんがどうしてこの坂の上にお墓を建てたかったのか……私、その理由を知ってるよ」
長い坂道を歩き続けてすっかり息が上がってしまっていた私は、大きく肩で息をくり返しながら、父の背中を見つめてそう言った。
すると、これまでずっと前ばかりを向いていた父が、初めて私のほうをふり向いた。
「お祖母ちゃんが生きてる頃に、こっそり教えてもらったんだ……」
ちょっぴり自慢げに、私は胸を張った。
「お父さんにもあとで教えてあげるね……」
私と同じように額に汗をかいて大きく息を切らした父は、私の顔をしっかりと見つめながら、ひどく嬉しそうに頷いた。
坂を上りきって、遥か眼下に深い色の海を見下ろしながら、私は祖父と祖母が眠るお墓に手をあわせた。
さすがに夏の暑い時期に、これだけの距離を歩いて上るのは無謀だったようで、流れ落ちる汗はなかなか止まらない。
ちょっと痛くなったふくらはぎは、私の日頃の運動不足をものがたっていた。
長いこと、私の目の前で、立ち尽くしたまま手をあわせている父も、私と同じように汗だくで、まだ荒い息を吐いている。
でも妙な達成感というか。
高揚感というか。
いつものお墓参りとは違う何かを、感じてくれているらしいのは確かだった。
(よかった……)
まるで親と子が逆転したかのように、私はそんなことを思う。
祖母からの伝言を受けているから、ついついそんな気持ちで父のことを見てしまうのかもしれない。
ようやくお参りが終わって私のほうをふり返った父は、目線だけでうながして、私を墓地の外れの木製のベンチへと移動させた。
そこは墓地の中でも、景色を眺めるには一番の特等席だった。
大きな木の根元にあって、ちょうどその梢が木陰を作ってくれている。
座ったままで海が見下ろせるし、下から吹き上げてくる風の通り道で、他の場所より涼しかった。
「ああー……気持ちいいー」
両足を投げ出すようにしてベンチに腰掛けた私の隣に、父も座って、ハンカチで額や首筋の汗を拭う。
その後も無言のまま、長い時間ただ海を見下ろしている横顔に、私のほうから話しだすのを静かに待ってくれているんだと感じた。
私は祖母から聞いた話を、父に伝え始めた。
「ここってね……お祖父ちゃんが戦争に行く時に、お祖母ちゃんがお祖父ちゃんの乗った船を見送った丘なんだって……無事に帰ってくることを祈って、その後も願掛けみたいに毎日登った丘なんだって……そして、お祖父ちゃんが帰ってくるっていう日には、一番に船が見つけられるように……ドキドキしながら待った丘なんだって……すっごく嬉しそうに笑いながら、大事そうに教えてくれたなぁ……」
小さな頃に何度か、くり返し聞かせてもらった祖母の思い出話を、私は真っ直ぐに海を見つめたまま、父に語った。
できるだけ祖母の言葉そのままに――。
父は短く「そうか」と言ったきり、私と同じように、ただ真っ直ぐ海を見ている。
まるで小さなミニチュア模型のように、遥か眼下に広がっている港町が、私の――そして父の生まれ育った町だった。
我が家は海に直接関係のある仕事ではないけれど、港町に住んでいる以上、海とは密接な関係にある。
食卓に上る新鮮な海の幸。
車のエンジン音よりも聞きなれた漁船の汽笛。
賑やかな浜の声。
私の日常にとって、海は切っても切れないものだ。
だから海を見ているだけで、自然と心が落ち着いていく。
穏やかな目で海を見下ろす父も、ひょっとしたら私と同じ気持ちなのかもしれない。
「目を閉じるとね。なんだか……お祖母ちゃんが見てた風景が、目に浮かぶような気がするんだ……大好きな人がもうすぐ帰ってくる。そのドキドキワクワクする気持ちだって、わかる気がするんだ……ここで待ってたら、私にもいつかそんな人が現われるんじゃないかなんて、夢みたいな話……昔はよく考えたなぁ……」
懐かしいばかりの思い出を、目を閉じて思い浮かべていた私に、それまで口をつぐんでいた父が、唐突に尋ねた。
「それで……? 現われたのか? お前がそんなふうに思える人は……」
胸がズキリと痛んで、その瞬間私は、「うん」とも「ううん」とも言えなかった。
仕方がなく、父に向かってただ曖昧に微笑む。
そうしておいて初めて、いつも海君がどんな気持ちで、私にそんな対応をくり返していたのかが、わかった気がした。
(そっか……言いたくても言えない言葉をのみこんでいたんだね……)
それはなんて辛いことだろう。
苦しいことだろう。
彼は私と出会ったほんの最初の時から、ずっとこんな気持ちを抱えていたんだ。
――それなのにいつだって優しく、私のことを見つめてくれていた。
考えれば考えるほど、胸が痛くて、涙が浮かんできそうだった。
眉根をギュッと寄せて、必死に泣くのを我慢する私に、父が語りかける。
「お前が……卒業してもあの街に残りたいんだったら……別にそれでも構わないんだぞ……?」
静かな声だった。
父の言葉は言外に、『もし一緒にいたい人があの街にいるんだったら、そのまま留まってもかまわない』と私に許しを与えてくれている。
そのことはよくわかる。
でも私は、すぐに首を横に振った。
「ううん。やっぱり私はここに帰ってくるよ。私には……やっぱりこの風景が一番大事だもん……」
それは確かに私の本当の心だった。
でもそれと同時に、どんなに望んでも叶いそうにない願いに、自分から背中を向けようとする行為でもあった。
(私の好きな人とは、このまま一緒にいることなんてできないんだよ……どんなに好きでも……大切でも……この恋はきっといつか手放さないといけない……!)
しかもそれは、そう遠い未来じゃないだろうということに、私は確信を持っている。
私の苦悩に満ちた表情を、父がどんなふうに解釈したのかはわからない。
けれど――。
「だったら……ここに帰ってくればいい……!」
当然のように私の頭を撫でてくれた大きな手が、小さな子供の頃と同じように、とても温かく、とても頼もしく感じて、泣きたいくらいに嬉しかった。