優が五つ、良が八つ、可が三つ、そして不可が三つ。
 三ヶ月近く大学を休んだにしては、かなり良かったのではないだろうか。
 来年、他のみんなが就職活動にがんばっている頃に、下級生と一緒に受けなければならない講義があるにしろ、思ったよりは私の三年前期の成績は落ちこまなかった。
 
 いつものカフェテリア。
 今期最後の営業日に、私たちはアイスコーヒーで祝杯を上げた。
 
「ひとえに……愛梨と貴子と花菜のおかげであります……!」
 うやうやしく頭を下げた私に、
「そうだろう、そうだろう」
 と腕組みして頷く貴子を、軽く肘でつつきながら花菜は笑った。
 
「良かったね……なんとか追試もなしで済みそうだね」
 そのことには本当にホッとして、私だって思わず笑いが零れる。
「そうなの……! みんなと一緒に夏休みに入れて、本当に良かった……!」
 
「……だったら、こんなにさっさと実家に帰らなきゃいいのに……」
 不満そうに呟いた愛梨は、ちょっと膨れっつらだ。
「お盆前になったらどうせ私だって帰るんだからさ……前みたいに一緒に帰れば良かったのに……」
「ごめん……」
 
 同じ県出身の愛梨とは、確かに彼女の言うとおり、以前はよく一緒に帰省していた。
 長い道中、手持ち無沙汰で一人で新幹線に乗っているよりは、隣に愛梨がいてくれるほうが断然いいことは私だってわかっていたが、今回だけは愛梨と予定をあわせることはしなかった。
 
「まっ、そう言うなよ。やっと、彼氏とお泊り旅行なんだから」
 ニヤリと笑った貴子に、
「貴子!」
 と叫びながら私がふり上げたこぶしは、あっさりとかわされてしまう。
 
 けれどその代わりに、花菜がちょっと真面目な顔で、貴子を諌めてくれた。
「貴ちゃん……真実ちゃんが故郷に帰るんで寂しいのはわかるけど、いい加減にしないとそろそろ本気で嫌われるよ……?」
 
 ほんの少し眉をひそめて私のほうを見た貴子に、私は今がチャンスとばかり何度も何度も頷いてみせた。
 フッとため息をつきながら肩をすくめ、貴子は私から視線を逸らした。
 
(やった! 勝った!)
 心の中で拍手をする私に、愛梨がカラカラとグラスの氷をストローでかき混ぜながら聞いてくる。
「ねぇ……でも、海君を実家に連れて行くの? ……本当に?」
 
 私は大慌てて両手を顔の前でぶんぶん振った。
「違う。違う。そういうことじゃないの!」
 
 もちろんあの秘密だらけの海君が、そんな自分の存在を主張するようなことをわざわざするはずがない。
 私だって別にそんなことがしたいわけじゃない。
「ただ、帰りに迎えに来てくれるの! それだけなの!」
 
 そう――ただ束の間、あの懐かしい場所に一緒にいてほしいだけ。
 一緒に見てほしいものがあるだけ。
 理由は単純に、いつもとまったく変わらないのだ。
 
 でもそんなこととは知らない三人は、それぞれに顔を見あわせながら、懸命に私にフォローの言葉をかけてくれる。
「大丈夫だよ。海君落ち着いてるから、あんまり年の差は感じさせないよ?」
「そうそう、真実がなんとも頼りないから……尚更な」
「うん。お似あいだよ。とっても」
 
(そんなことじゃないんだけど……)
 と思いつつも、みんなの言葉は温かくて、なんだか心に染みた。
 思わず小さく笑みが零れる。
 
(なんでみんなそんなに一生懸命なの? これじゃまるで、親に交際を反対された二人を励ましてるみたいだよ……?)
 
 これからもずっと海君と一緒にいれるのならば、ひょっとするといつかは、本当にそんな日が来るのかもしれない。
 でも私にはそんなことは想像もできなかった。
 
 なぜだろう。
 私は最初から知っていた。
 そんな日は決して来ないってことを、心でも頭でもなく、本能で理解していた。
 
(海君はきっと……私とずっと一緒にいるつもりはないよ……だから私には名前だって教えてくれない……どんなに私が「好きだ」と言ったって、彼自身もそう思ってくれてたって、何度キスしたって……それだけは絶対に、これから先も変わらない……!)
 
「……真実、大丈夫?」
 自分では笑っているつもりだったのに、いつの間にか涙が溢れてしまっていたことに、愛梨の呼びかけで私はやっと気がついた。
 
「気にするな。誰がなんて言ったって、真実がどんなにあいつのことが好きで、あいつがどんなに真実のことを大切に思っているのかは、私がちゃんと保証してやるから……!」
 普段では考えられないほどに、貴子の言葉が心強く優しい。
 
 的を外しているようで、私の本当の気持ちにちゃんと励ましを与えてくれている。
 でも――。
 
(苦しいよ……ちゃんと未来を夢見れる恋じゃないのに、こんなに好きになって……もう苦しくてたまらない……!)
 一度溢れだしてしまった涙はなかなか止めることができなかった。
 
 隣に座っていた花菜が、そっと腕を伸ばしてきて私を抱きしめる。
「大丈夫。きっと海君も、真実ちゃんの気持ちわかってくれてるから」
 優しく髪を撫でながら囁いてもらった言葉に、私はうんうんと頷いた。
 
 本当にそうならどんなにいいだろう。
 でも本当にそうなら、私はどんなに彼にとって重荷になっているだろう。
 
 そんなことは嫌なのに。
 困らせたくなんかないのに。
 これじゃあどんどん海君にとって、迷惑な存在になっていくばかりだ。
 
「……ゴメンね。ありがとう」
 今ここで私を心配してくれているみんなに。
 そして長いことずっと苦しめていたかもしれない大好きな人に。
 謝って感謝することしか、私にできることはもうなかった。
 
(ゴメン……ゴメンね。海君)
 幸せと申し訳なさの間で傾きかけた心の均衡は、もう二度と同じ位置に戻ることはないように思われた。


 
『飛行機だったら一時間。新幹線で三時間。高速バスだったら五時間』
 大学のある街から、私の故郷までの距離をそう表現したら、海君にお腹を抱えて笑われた。
 
「もうっ! どうせ私は田舎ものですっ!」
 いつものように怒って歩きだした私を、海君もいつものように言葉だけで追いかけてくる。
「それで……? どれぐらいで帰ってくるの?」
 その言葉が、余裕たっぷりの普段の彼と比べたら、ずいぶんと急いでいるように聞こえた。
 だから――。
 
『行く前から帰る話をするなんて……そんなに私と離れるのが寂しい?』
 なんてからかってみようと思ったのに、ふり返って海君の顔を見たら、なんだか言葉に詰まってしまった。
 
(夏の太陽を背に受けて、私に向かって眩しいくらいに笑っているこの人と、離れたくないのは私だ……他の誰でもない、私のほうなんだ……!)
 痛いくらいにそう自覚してしまったから、身動きさえできなくなった。
 
 海君がいつも私をからかう時に言う、『俺と会えないと真実さんが寂しがるから』――それは確かに本当のことだったんだと、思い知った。
 
(ずっと一緒にいたい……本当はいつも傍にいたい……)
 そんな本心なんて、とても口に出して言えるはずがない。
 
 俯いてしまった私に、
「そんな顔しないで……」
 ゆっくりと歩み寄ってきた海君は、そっと手を差し伸べてくれる。
「すぐに迎えに行くよ。俺と会えないと、真実さんは寂しいでしょ?」
 優しく頭を撫でられながら、わざとそんなふうに言って挑発されても、もう
「そんなことない!」
 とこれまでのように負けん気を起こせない。
「うんそうだよ」
 なんて素直に認めて、その胸に顔を埋めてしまいたくなる。
 
 まるで、海君がこれまでくり返し言っていた
『真実さんは俺が好きだから』
『俺と会えないと寂しがるから』
 という言葉に、魔法をかけられてしまったみたいだった。
 
(意地を張るのは馬鹿らしいって……そんな時間はもったいないんだって……私気づいてしまったよ……海君!)
 
 胸が張り裂けそうだった。
 
 海君が自分のことを何も教えてくれないこと。
 それが二人で過ごす時間が永遠ではないことを意味しているんなら、残された時間はいったいあとどれぐらいなんだろう。
 
 私にはわからない。
 いつどこで、海君がこの恋を終わりにするつもりなのか、私にはまったくわからない。
 当たり前のようにこうして二人で一緒に過ごす時間は、ひょっとしたらもういくらも残っていないのかもしれない。
 ――そう思ったら、居ても立ってもいられなかった。
 
(今だけの幸せにひたっていてもいいのかな……? こうしてただ、海君の優しさに甘えていてもいいのかな……?)
 不安に押しつぶされそうになりながらも、私に今できることは、想いに身を任せることしかない。
 
 私は黙ったまま、海君の胸に頬を押し当てた。
 Tシャツ一枚越しの体温。
 温かい。
 そう意識すると、急に恥ずかしくなって、慌てて体を離そうとする。
 
 でも海君はそんな私にクスリと笑って、わざと胸に抱きしめてしまった。
 やっぱりかすかに彼からは――病院の匂いがした。
 
(ゴメンね……きっと無理ばっかりさせてるね……)
 ズキリと胸が痛みながらも、私は自分の腕をそっと海君の背中にまわす。
(本当に大好きだよ。離れたくないよ。でもこの温かさも、優しさも、永遠に私のものにはならないんだね。悲しいけれど、それは無理なんだね……それは……どうして?)
 
 知りたいけれど知りたくない。
 その答えを聞いてしまったら、本当にこの瞬間が永遠ではなくなってしまう。
 だから――。
 
(お願い。もう少しだけ……ほんのもう少しだけでいいから、こうしていてね……私の傍にいてね……)
 私は彼を抱きしめる腕に、せいいっぱいのわがままと想いをこめた。


 
 もしも今、何か一つだけ願いが叶うと言われたならば、私はまちがいなく海君との未来を願うだろう。
 傍にいたいと願うだろう。
 
 でもその願いだけは、決して叶えられることはない。
 
 だっていくら私が望んでも、――海君はそれを望まない。
 
 どうしてだろう。
 なぜなんだろう。
 
 尋ねることすらできない私は、ただひたすらに刹那の幸せだけを繋ぎあわせる。
 ――そう、まるで何かに急かされるかのように。


 
「じゃあ一週間後……! 必ず迎えに行くから!」
 笑顔で手を振る海君に見送られて、夏休み三日目の朝、私は故郷へと向かう新幹線に乗った。
 
「ひさしぶりにに、帰ろうと思うんだけど……」
 と母に連絡を取ったら、有無を言わさずに送られてきた切符だった。
 
「何かあったんじゃないかって心配してたけど……元気なら良かった」
 電話の向こうで心からホッとしたような母の声には、心が痛んだけれど、積もる話は故郷に帰ってからすればいいと思った。
 
 叱ってもらって、励ましてもらって、またこの街に送りだしてもらおう。
 いつでも私のことを心配してくれている人が、そこにいるということを、私はきっと二度と忘れないと思う。
 ――海君があの夜見つけ出して、すくい上げてくれた、私の本当の気持ちと一緒に。
 
 だから私はそれらを全部心に抱えて、これからも夢に向かって歩いていく。
(それがきっと海君への、一番の『ありがとう』になる……!)
 
 あっという間に見えなくなるホームで、大きく手を振っている彼の姿を、それでもずっと見つめながら、私はそんなことを思っていた。
 どんどん遠くなって、小さな点になって、終いには見えなくなっても、いつまでもいつまでもふり返って見ていたかった。
 
(大丈夫。またすぐに会える……今はまだ会える……!)
 必死になって自分で自分に言い聞かせないと、前を向く勇気も出ないくらいの切なさだった。
 
 飛ぶように過ぎていく窓の外の景色に視線を移して、やっとのことで前を向いて座り直す。
 まるで心の一部を、あの駅のホームに置いてきたようだ。
 虚無感と脱力感で、放心したように、どさっとシートにもたれかかる。
(こんなことじゃ、駄目だな……)
 
 情けない。
 みっともない。
 ギュッと目をつむって何度も頭を振った。
 
(大好きな故郷に帰るんだから……あの海をまた見れるんだから……私を待ってくれている人がいるんだから……!)
 楽しみをいくつもあげ連ねて、なんとかして寂しい気持ちを紛らそうと、私はかなり必死だった。
 
(うん。帰ったら絶対にあの丘に行こう! 大好きだった服を着て、大好きだった帽子を被って……私の秘密の場所にも行こう! そしたら海君と一緒じゃなくっても、楽しかった頃のことを、少しは思い出せるかもしれない……!)
 なんだか愚かしいくらいの小さな抵抗だった。
 
 たとえ彼がいなくても、幸せな気持ちになれることを証明しようという私のその行為は、まるで海君がいなくなったあとの準備を、今から必死になっておこなっているかのようだった。