俯いたまま、いつまでも顔を上げない私に、海君が呼びかける。
「真美さん」
 泣きたいくらいに優しい声で、そっと呼びかける。
 
 だから胸に抱いた悲しい確信は自分だけの胸にしまって、私は顔を上げた。
 そこには優しい声に負けないくらいの優しい顔が、私をじっと見下ろしていた。
 
「真美さんが寂しがってるんじゃないかって思って会いにきたのに……余計に悩ませちゃったね……」
 申し訳なさそうに苦笑する海君に、私は涙の跡も乾かないままに笑いかけた。
 
「ううん……本当に会いたかったから嬉しかったよ」
 これ以上海君を困らせたりしないように、余計な心配させなくていいように、せいいっぱいの笑顔で微笑みかけた。
 
 私の言葉に心底ホッと安心したように、海君の瞳が輝きだす。
「うん。俺もだよ」
 いつもの笑顔へと、徐々にその表情が変化していく。
 
 その様子を、一瞬でも長く見ていたいと思った。
 いつかわからない未来に不安を感じるよりも、今は私を見つめる彼に、ただ見惚れていたいと思った。
 
 だから海君の笑顔につられるように、私ももう一度、今度は心から笑うことができた。
 
「みんなにお願いされたから……真実さんに元気をあげないと……」
 すぐ近くから私を見つめる海君の瞳に、いつものように悪戯っぽい光が宿る。
 でもそれにも増して今夜は、なんだか切ないような、熱に浮かされたような、熱い感情が渦巻いているように見える。
 
 そんな瞳で見つめられたら、たまらなくドキドキしてもうどうしようもない。
 逃げ出したいような、このまま捕まってしまいたいような、危うい感情。
 
「……と言うより、俺に元気をちょうだい」
 そう言って笑いながら大好きな瞳が近づいてくるから、私は目を閉じて、何もかもを彼に任せる。
 
 海君がいったいどんな秘密を抱えているのか。
 私たちの恋をいつ終わらせるつもりなのか。
 
 胸が痛むようなことは全部考えることを放棄して、ただ目を閉じた。
 そっと背中に手を廻して、ただその体を抱きしめる。
 
(こうしてたら急にいなくなったりできないよね……? 次に目を開けた時には消えてたなんて……そんなことにはならないよね?)
 
 思わず力が入ってしまう彼を抱きしめる両腕に、自分で言い訳しながら、私はぎゅっと固く目を閉じた。
 覆い被さるように私の上に降りてきた彼の唇と、私の唇が触れる瞬間、芽生えるのは胸を締めつけられるような感情。
 
(……愛してるよ)
 それは本当に、人の心に生まれる他のどんな感情よりも、傷つきやすくて脆くて、痛いものだと思った。
 
 

 好きだと思う気持ちだけで全てが選べるのなら、人生はどんなに簡単なものだろう。
 楽しいものだろう。 
 
 でもそれだけでは駄目だから、いろんなことを考えて、気にして、疑って、悩んで、そして気持ちはどんどん絡まっていく。
 
 でももう元には戻せないくらい絡んだものの中に、見つかるものもあるから。
 そこでしか生まれないものもあるから。
 ――きっと全てが余計なまわり道じゃない。
 
 私はそのことを知っている。
 狂おしいくらいにこの胸でわかっている。


 
「また会いに来るよ。真実さんが寂しくないように……」
 笑いながら夜の街に消えていく背中に、痛いくらいの切なさを感じながら見送っていたら、ふいにうしろから声をかけられた。
 
「真実。私の買いものは……?」
 私はふり返らずに、うしろ手で、海君と一緒に行ってきたコンビニの袋をそっと声の主に差し出す。
 
「サンキュ」
 短く言って受け取って、貴子はそのまま私と一緒に真夜中の舗道に立ち尽くした。
 
 角を曲がって見えなくなる最後の瞬間、海君が軽く頭を下げたのは、きっと貴子に対してだ。
 
「不思議な奴……」
 あまりにも的を得た貴子の表現に、私はクスリと苦笑した。
 
「ちょっと変わってる……ってぐらいじゃ済まされないぞ……?」
 私の顔色をうかがうようにチラリと向けられる視線から、逃げるように私は目を逸らす。
 
「携帯を使えばいつだって話ができる、連絡も取れるこのご時世に、出てくるまで外で待ってるか……ずいぶんアナログな恋だな……」
 
 薄く笑いながら、ポンと私の頭を軽く叩いた貴子は、海君が携帯を持っていることをしらない。
 だからこんな回りくどいことをやっている私たちを、ほほえましく笑っているけれど、そうじゃないとわかっている私には、その言葉は少し辛かった。
 
(本当は海君に携帯の番号を聞けば、いつだって声が聞けるんだよね……会いたくなったら、連絡できるんだよね……だけど……)
 
 それはしてはいけないことなんだと、私は思ってる。


 
 最初から納得しているつもりだった。
 何も聞かない。
 何も知らなくていい。
 ただ一緒にいるだけでいい。
 ――それがこの恋の条件。
 
 だから、私は彼にちゃんと名前も聞かなかったし、何も知らなくても平気なフリをずっと続けてきた。
 でも、一緒にいればいるほど、好きになればなるほど、私はどんどん欲ばりになってしまう。
 
 会えないと寂しい。
 苦しい。
 傍にいたい。
 ずっと一緒にいたい。
 
(こんな思いはきっと海君の邪魔になるだけなのに……海君を苦しめるだけなのに……)
 
 わかっているから言えない。
『あなたをもっと知りたい』
 なんて、私には絶対言えない。


 
「そんな寂しそうな顔するな」
 鋭い目をちょっと優しくして、貴子は私を見下ろして笑った。
 
 私も無理に笑い返した。
 心配させないように。本当の気持ちを気づかれたりしないように――。
 
「もうひとがんばりで、試験も終わり。そしたらどうせまた、毎日イチャつくんだろ?」
 わざと意地悪そうに唇の端をほんの少しだけ持ち上げて笑う貴子に、私は驚きの声を上げる。
 
「イ、イチャつくって……!」
 貴子はそんな私を置き去りに、スタスタと歩きだす。
 
「さっさと帰るぞ。愛梨と花菜が待ってる。話を聞かせてもらうんだって楽しみにしてるからな……どうせ面白い進展なんて、真実にはないに決まってるのにな……」
 笑い含みに早口で話しながら、大きな歩幅で歩くその背中を、私は必死で追いかけた。
 
「ど、どういう意味よ!」
「もちろん、言葉どおりの意味だよ? それともなんだ……? ついに中学生並みから、高校生並みに進展したのか?」
「貴子!」
 
 口では叫びながらも、故意にか偶然にか貴子が私の気持ちを引き上げてくれたことに、感謝していた。
 
 胸はまだズキズキと痛かったけれど、不意に現われて去っていった海君と同じように、頬を撫でる風が暖かくて心地よい、優しい夜だった。